「喰う……って……」

 

 掠れた疑問めいた言葉に、

 




「そのままの意味だ。かえってわかりにくかったならもっと率直に言おう。……俺が、死なせたんだ」

 

 もはや誤魔化しのきかない直球が放たれた。

 だが、とそれでも蒼助は納得しなかった。

 

 千夜は言っていた。

 かつて死んだ連中は、千夜を守って死んだのだ、と。

 それがどうして「喰らう」という表現へと繋がるというのか。

 

 そんな疑念に囚われる蒼助を我に戻すのは、

 

「……俺は昔から、両極端な人間を引き寄せていた」

「…………?」

「出会いはいつも二つ。良い者と悪い者。好意と悪意。俺を拠り所に望むものと俺を支配することを望むもの。双対を為す二者が俺の前に現れる。……俺が選び、求め、

受け入れるのは……いつだって決まっていた。だが、そうして得る結末もいつも同じだった」

 

 ギュリ、と収縮する音が握り締められた千夜の掌の中から漏れる。

 

「……俺は好意を受け入れ、悪意を拒む。そうすると、悪意は好意を排除して俺を手中に収めようとする。それを知った好意はおさまるところを知らない悪意の欲望へと

立ち向かう。……それが勝ち目のない戦いだとわかっていても。そして、俺がそれを知った時には……いつも」

 

 言葉をつむいでいた唇がキュッと絞まる。

 苦いものを噛み締めるように。

 

「……理不尽だと思っていた。汚い世界で純粋さを保ち続ける奴は、弱いというだけで駆逐されなければならないのか、と。そんな理不尽な世界からどうして守ってやれ

なかった、と。やりきれなくて、俺は勝ち残ったつもりでいる悪意も屠った。そうして、俺だけが残る。俺だけが……いつも」

「千夜……」

 

 守って欲しくない、と叫んだ二日前の千夜の姿が、目の前の千夜に被ったように蒼助には見えた。

 守るという行為の向かう先を間違えたが故に起きた悲劇。それは千夜の心に濃く影を射す記憶となったというのは、蒼助にも既知のものとなっていた。

 

 しかし、

 

「……だが、俺は勘違いしていたんだよ」

 

 不意に呟かれた言葉に、蒼助は目を瞬いた。

 

「奪われた、と……今まで何故そんな風に考えられていたんだろうな。俺が、そうなるように促していたというのに……」

「………?」

「思えば俺と出会うまで、誰もが荒んでいても周囲とのバランスがとれていたと思う。たとえ行き着く先が破滅だとしても。……そう、俺が現れるまでは」

「……おまえ、何を」

「ある情報屋の女は、俺が持ちかけた依頼にかかわったせいで死んだ。ある娼婦は、俺と交友していることを飼い主の暴力団の頭に勘付かれて、俺を庇って殺された。

あるヤクザの舎弟は、所属する事務所の組長が俺を愛人にしようと目論んでいるのを知り、手を引かせようとして殺された。……全て、俺が彼らに関与したことで起きた

ことだ」

 

 最後の下りを聞いたところで、蒼助は嫌な予感というものを感じた。

 千夜が何を言おうとしているかわかった気がしたのだ。

 

 そして、あの言葉にどう繋がるのかも。

 

 食い入るように見つける蒼助の視線を受け止める千夜は、

 

「……言っただろう。喰らった、と」

「っ、ちょっと待て!」

 

 受け入れ難い事実を肯定する千夜を思わず制止した。

 

「そんなのただのこじ付けだ! お前がそうなることを計算してやったことじゃねぇだろうがっ! その時その時の奴らの思惑が絡んで生まれた結果だ! お前は何も悪く

なんかねぇっ!!」

「………嘘をつくなよ、蒼助」

「馬鹿野郎、嘘なんか……」

―――――――気遣うなら、思って感じたことを受け止めてくれ」

 

 不意をつくように微笑んでくる千夜に、蒼助は口を噤んだ。

 

 見透かされている。

 そう感じた蒼助は、反論はおろか何も言えなくなった。

 

「確かに俺自身は何も手を下していない。……だが、奴らの行動の原因にはなった。これだけは、言い逃れも言い訳もできない核心だ。食い合った餌のうち残った方を俺が

喰う。……一方を喰ったその餌は、肥えて上等に仕上がっているところをな。こんなところだろう」

 

 千夜の表情から笑みが消える。

 

「これが、俺の正体なんだよ。俺は……俺こそが、人を喰って生きながらえる【鬼】だったんだよ。自分の生を繋ぐために他人を生餌していた。………何で気づかなかった

んだろうな。いつも、俺じゃない誰かが死んで、俺だけが無事だった。………今まで、どうして気付かなかったのかな」

 

 だが、と千夜が呟いた言葉に蒼助は戦慄した。

 次に何が飛び出るか、本能が予知したのだ。

 

「もう終わりだ。もう、たくさんだ。……他人の命を貪り食ってまで生き長らえるのは、もう………耐えられない」

 

 苦悩と哀愁に塗れた言葉が零れ出た瞬間、蒼助が考えるよりも早く両腕が動いた。

 距離をほぼゼロに詰め、揺さぶるように千夜の両肩を掴む。

 

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇっ! どうしちまったんだ……」

「どうも、しない」

「してるだろうがっ!!」

 

 声を荒げようとも、千夜は蒼助の顔を見ようとはしない。

 

「……久留美に言われた。お前が死ねばよかった……と」

「っ、―――――――

 

 蒼助は、頭の中で久留美を殴り飛ばすイメージを描いた。

 知らずのうちに千夜の肩を掴み指にも力が入る。

 

「あいつは正しいよ。そのとおりなんだ。……どうして、俺がいつも無事に生き残るのか。死ぬべきなのは、俺なのに……」

「違うっ! 誰かから好かれて想われる人間が、死ななきゃいけない人間なわけねぇだろ!!」

 

 過去の遺人たちに死を招いてしまったのは事実かもしれない。

 だが、その言葉だけは肯定も流すことも出来なかった。

 

 それだけは、断じて。

 

「死んだ方がいい人間を守ってわざわざ死にたがる人間なんかいるのかよっ! なぁっ!?」

「………だったら」

 

 頭と共にダラリと下を向いていた腕が、呟きと共に動作の兆候を見せた。

 次の瞬間、それは予想だにしない早さで動き、

 

「だったら―――――――俺は何処へ行けばいいっ!?」

 

 蒼助の胸倉を掴み、激情を煮えたぎらせた顔を迫らせる。

 服の下の皮膚に爪を引っ掛けることすら厭わない粗暴な千夜の暴挙に、蒼助は己の勢いを忘れて呆気にとられた。

 

「俺は俺の意志に関係なく、傍に誰かを置けば相手の人生を喰らい尽くす……っ。危機が迫れば盾にして、害となるなら殺す。どんなにその展開を拒んでもそうなるっ!! 

そんなふうに生きるのはもうたくさんで……そうなるぐらいなら独りでいた方が良かったのに………今更、もう独りで生きていくことなんかできないっ! 人の温もりに

慣れた心は、もうそんな孤独には耐え切れない! そこには俺の望むものは無いっ……」

 

 目にするのは、二度目の激昂だった。

 鬱憤を吐き散らすかのような様は、二日前も見た姿だった。だが、あの時よりも激しいように見える。縋りつくように自分の服を握り締めているせいだからだろうか、と

蒼助は思った。

 

 それとも―――――――

 

「誰かと共にある道を選んでも……結局は失ってまた独りになるっ! ……俺には、この二つの道しかないというのに……どちらも塞がっている。俺には、もう壊して道を

切り開く力すらない………これ以上、どうやって前へ進めというんだっ……!」

 

 己の衣服を握り締める手が震えていることに、蒼助は気付いた。

 目下の千夜が、まるで迷子のように思えた。

 

 何処へ行けばわからなくて、涙はなくとも泣いているようだ。

 

「お前を独りになんか……させるかよっ」

 

 そんな千夜を前にして傍観に甘んじることなど出来ず、自らの胸倉を掴む千夜の手首を逆に掴み、もう一方の腕はその背中に回し、

 

「もう忘れたのかよっ。……俺は、お前の為に死にたいから傍にいるんじゃねぇって言ったじゃねぇか! ……傍にいてほしいんならいくらでもいてやるっつっただろ」

 

 掻き抱いて、宥めるように耳元で言葉を注ぐ。

 前日とは比にならないほどのその弱りように、蒼助も焦りを感じずにいられなかった。

 

 今の千夜は、まるで陽炎のようだ。

 確かにそこにあるのに、近づけば揺らめいて霞む。

 蒼助の恐れを体現するかのように。

 

 抱きしめたのは千夜を落ち着かせるためではなく、自分が安堵を得るためだった。

 腕にその存在をしかと感じないと、不安でどうにかなりそうだった。

 

「力がないって言うなら、俺がお前の【力】になる。道がないっていうなら、俺が切り開いてやる。俺が……俺が」

 

 千夜を、そして自分を安心させられる言葉を探す。

 どんな言葉が、確固たる鎖と化して人を繋ぎとめられるか。

 

 そして、

 

「……俺が、守る。何があろうと、お前を……守るから」

 

 出会ってから、千夜が揺らめくたびに思っていた想いを出すに至った。

 募っていくばかりだった想いを凝縮させた言葉を。

 

 腕の中で、千夜の手の力が緩むのを感じた。

 力を抜いた意味を、蒼助が解釈しようとした時、

 

「………?」

 

 服を握り締める力は無くなった。

 しかし、代わりに訪れたのは、己の胸を押す手の平の力だった。

 

 強くは無い。

 されど、その軽い衝撃は蒼助の不意を付いた。

 

 抱擁は解かれ、しかし手首は蒼助の手中に収めさせたまま、

 

「……普通、そんなことを言われたら……身を委ねてキスでも強請るべきなんだろうけど……な」

 

 千夜は済まなそうに笑みを含めて言う。

 

 その次の瞬間。

 

 

―――――――っ、っっ!!」

 

 

 蒼助は、【二重】の衝撃に目を見開いた。

 肉体的に。

 精神的に。

 それは、同時に蒼助に襲い掛かった。

 

 千夜が左手を振り払ったと思った矢先、その手は振りかぶる体勢へと変えて今度は蒼助を襲ったのだ。

 顔の右側面を襲った硬く重い衝撃は、完膚なきまでに不意打ちとなった。

 対処の余地も入り込ませなかった一撃は蒼助の身体からバランスを奪う。

 大きく傾いた体を踏みとどまらせるべく、咄嗟に蒼助は左足で安定を取り戻そうとする。

 

 しかし、千夜の追撃の方が容赦なく上を行った。

 

「くっ、―――――――!?」

 

 受けたダメージで眩む右目で千夜を捉える。

 殴打の勢いのままに身体を向きを変えた千夜は今度は右脚を振りかぶっていた。

 

 蒼助の脳内にて警笛が鳴る。

 回避。防御。

 いずれの手段に出るべきだった。

 

 だが、蒼助の身体は竦んでしまう。

 

 千夜の目を見たのだ。

 真っ直ぐに己を見据える目を。

 冷たく透き通った眼光。

 氷。或いは、研ぎ澄まされた氷柱の反射光か。

 

 そして、そこには確かな殺気が込もっていた。

 見る者を射て貫く鋭い殺意が。

 

 思わず蒼助は思考をフリーズさせてしまった。

 最初の頃に見た威嚇なんて代物ではない。

 本気で自分を殺す気であるのだと、思い知らせる拒絶の眼差し。

 

 先程受けた打撃よりも遥かに痛烈に蒼助の精神を傷つける。

 

 一瞬して蒼助を呑み込み、戦意喪失に堕とした殺意の持ち主は止めることなく用意していた追撃を放った。

 乱れない曲線を描きながら迫った爪先は、鋭く蒼助の胸に突き刺さる。

 

―――――――っっ!!」

 

 直撃の瞬間、肺が外部から強烈に圧迫され、蒼助は呻きすら上げられなかった。

 無防備の身体は衝撃を受け止めることも受け流すこともできず、突き抜ける勢いのままに吹き飛んだ。

 

 衝撃に踊らされるしかない身体は、背後にある机の海に身を投じた。

 

 荒々しい倒壊音を耳に遠く感じながら、意識が一瞬だけ飛ぶ。

 しかし、背中や胸を中心に軋み上げる全身の痛みにすぐに引き戻された。

 

「っ、……つ……ぐ」

 

 器物に損壊はないものの、蒼助の負った負担は大きかった。

 背中を始めとして全身を強か打ちつけたため、起き上がることは困難だった。

 中心で感じる激痛は、蹴りを喰らった際に肋骨が一本イったのだろう。

 

 蒼助は体中から発される激痛に苛まれながらも立とうとする。

 背もたれとなっている倒れた机を支えにそれを成そうとするが、思うように腕に力は入らない。関節部分が熱い。損傷はそこにも来たしていた。

 

「…………弱い」

 

 朦朧とする蒼助の意識をはっきりと正気づけたのは、一つの呟きだった。

 千夜だ。

 

 進行の障害となる机を乱暴に足で蹴飛ばしながら、蒼助の元へ歩み寄ってくる。

 眼差しは以前と冷ややかなまま、

 

「その程度で……守るなんて、どうして言えたんだ」

 

 クスリ、と笑う。

 それは嘲りであるに違いないが、そこに込もるものはそれだけではないような気がした。

 

 千夜は、蒼助を目下に見下ろせる距離まで近づいて、

 

「言っておくが………今の俺は、本来の五分の一程度も力を出していないぞ。自分自身の霊力は欠損している。だから三途の霊薬を摂取することで、ギリギリ戦える状態を

保ち続けている。それに比べ、お前は俺の比にはならない力を今は持っている。ハンディキャップは十分すぎるほどにあるというのに………何だそのザマは」

 

 振り上げた足は、蒼助の背もたれとなる机を蹴った。

 

「……っ」

「……俺如きにもそんな有様になるような奴に命なんて預けられるか」

 

 冷たく突き放す言葉が、否応(いやおう)なく蒼助に現実を噛み締めさせる。

 手も足も出なかった。

 それどころか相手の殺気に怖気づいた。

 あれほど上弦相手に殺し合いじみた鍛錬をしていたにも関わらず、だ。

 

 蒼助の中で築き上げてきていたと思っていたものが、崩れていく。

 

「……弱いな。本当に……弱い」

 

 千夜の唇で繰り返されるその言葉。

 傷に塩を塗りこむように、蒼助を侵食する。

 

「………弱いくせに、俺を助けようなんて思うな」

 

 叱責が、まるで懇願に聞こえる。

 思わず顔をあげる。

 

 見上げた先には、言葉とは裏腹の泣きそうな笑顔があった。

 

 自分が千夜にそんな顔をさせている。

 自分の弱さが。無力が。

 

 動かない体が、そして己自身が、この上なく恨めしい。

 口の中で滲む血をたまらなく苦く感じながら呑みこむ。

 

「蒼助……俺の人生は、思い返せば後悔ばかりだったよ。これまで喰ってきた誰かの魂と後悔で出来ている」

 

 顔の横から足が退けられる。

 千夜は膝を折って、蒼助の胸へと身を寄せ、

 

「……せめて……たった一つくらいは……後悔せずにすませたいことがあるんだ」

 

 両肩にそれぞれ手を添えるように置いて、浅い抱擁を成す。

 そして、右肩に顔を埋め、

 

―――――――お前を失いたくない」

 

 己の死角から漏れた言葉に、蒼助は眼を見開いた。

 そんな蒼助の反応を知ってか知らずか、千夜の言葉は続く。

 

「失わずに、終わりたい。……頼む、俺を解放(はな)してくれ。この後悔に塗れた……【俺の世界】から」

 

 その哀しい訴えは、蒼助を【夢】から醒まさせた。

 己が強くなったという幻覚から。

 己が変わり始めていたという幻想から。

 

 自分という存在は、この女の安寧にはなれない。

 喪失の恐れから守ることも出来ない。その強さも無い。

 

「っ……」

 

 事実を拒否する心が、跳ね除けたいという己が、寄り添う千夜の身体を抱きしめてしまいたいと叫ぶ。千夜の訴えなど無視して、このままきつく抱きしめて閉じ込めて

しまえばいい、と。

 しかし、腕は動かない。無事である方の腕も、動かせなくは無いはずの方も。

 焦る心とは裏腹に、ピクリとも―――――――動かないのだ。

 

 まるで、心よりも先に身体が理解してしまったかのように。

 

「……さっきは、ありがとう。……説得力はなかったが…………嬉しかった」

 

 肉体と精神の葛藤の合間に、千夜が動き出した。

 温もりが遠ざかる。

 向けられる背中が歩みと共に小さくなる。

 

 動け、とダメージから立ち直っていない身体に命令を下す。

 身体は所有者の意志など関係なくストライキを決め込んでいた。

 心と身体がバラバラだった。

 

「っ、かず……や!」

「……………」

 

 呼びかけに応じたのか、千夜は一度蒼助を振り向いた。

 けれど、それも一瞬の停止だった。

 すぐに歩行は再開し、千夜は出入り口付近まで来ると、

 

 



「今日はきっと………死ぬには、良い日なんだろう」



 

 

 微かに笑い、蒼助を緋色の教室に一人残して―――――――消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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