紅く彩られた教室。
黄昏色に染まった千夜。
それらが視界を満たした瞬間、蒼助は既視感を受信した。
覚えがあるはずだった。
転入初日、千夜と『再会』したシチュエーションとまったく同じ状態なのだから。
しかし、思考回路の片隅で、「否」と応える自分がいた。
あの時と『まったく同じ』ではない、と。
その小さな蒼助は、嫌な予感を覚えていた。
どうしても受け入れたくない現実の接近を感じて、やかましく喚いている。
なんとかしろマズいぞ、と。
「……正直、来てくれるとは思っていなかったんだがな」
蒼助を我へと返したのは、千夜が呟いた言葉だった。
自我を取り戻した蒼助は千夜を見た。
改めて確認する相手は、ちょうど向かいの窓一枚の隔ての先にある夕陽と向かい合うように立ち、こちらとは背中が対面していた。
ただ、顔はこちらに傾けられていた。
しかし、夕陽の光が影を差してしまっていてよく見えない。
確かにわかるのは、服装くらいだろうか。
格好は至ってシンプルだった。
紺のタンクトップ。グレイのスラックス。その上に被せているのは、膝下まであるロングコートだ。
黒のコートは緋に染まることなく、己の意地は揺るがないことを見せ付けるかのようにそのままだった。
蒼助は、その風体から静かに感じとった。
まるで―――――――これから戦場に赴くようだ、と。
そんな縁起でもない予想を急いで思考の隅っこに寄せて、
「………何で、だよ」
いろいろ聞きたい事は頭の中にたくさんあったのに、全て候補から外されて出てきたのは別の質問を問う言葉だった。
すると、千夜は少し困ったように笑った―――――――ように見えた。
「だって………もう聞いているんだろう?」
肝心なところを全て省いたその確認の言葉が何を暗喩しているのか、少し考えて答えに行き着いた。
「………それは」
「まぁ、あいつらがしたことを責めてはやるなよ。付き合いのあるお前の身を案じてのこともあったのさ。……第一、俺は確かに怪しすぎる。やつらの言い分が正しい」
「無理だ。もう、殴っちまった」
「…………ま、いいんじゃないか。俺もプライド傷つけてしまったから、人のこと言えない立場だしな」
しょうがないよ、と後付けすると、
「あいつらから聞いたことは、本当だよ。……名前も経歴も全部嘘。【終夜千夜】なんて人間は、いない。ここに来る前に名乗っていた【御月千夜】も、な」
本人からの決定打。
事前に覚悟をしていても、現実は蒼助の思う以上にズシリとのしかかった。
しかし、
「………ただ、一つだけあいつらが言っていたことの中で不正解がある」
「なに……?」
「【千夜】という人間は、いた。それは確かに実在の人物―――――――だった」
過去形。
何を意味するかは、一つしかない。
「……三途や朱里と出会うよりも前に、僅かだが一緒に暮らした女がいた。家族として、な。その時に呼ばれていた名なんだ。【千夜】というのは、その女の死んだ子供の
名前だったんだと。気に入ったからそのままもらったんだ」
「…………」
「この流れからいくと、次は本当の名前を明かすところだが………ここも、まぁある意味お決まりな話でな。……ベタなことに【無い】んだよ。コードネームみたいなもの
はあったが、本名かと聞かれると答えにはならんだろうしな」
くるり、と千夜はようやく蒼助を向いた。
ようやく見えたその表情は穏やかな体を保ち、されどその奥に何か潜んでいるか全く悟らせない。
鉄壁の表情を貼り付けて、千夜は蒼助と真正面を切って相対する。
「他にもいろいろ聞いているんだろう? 俺が前に学校をいられなくなったのはこの体質のせいだけじゃないとか。神崎の生存も。俺はお前に大事なことをたくさん黙って
いた。……俺が、この件にもっと深いところで拘わって―――――――」
「―――――――もういいっ!」
蒼助の叫びにより、話を中断となる。
千夜は無理に続けようとはせず、会話のイニシアチブは蒼助に委ねられた。
蒼助は、一度渇いた唇を噛んで湿らせ、
「……お前が、何処の誰だって構わない。本当の名前が何だろうと、無かろうと別にいい。【本物の千夜】が死んでいようが……俺はどうだっていい」
「どうだってよくはないだろう……?」
振り払いきれない雑念を言葉にした千夜の声に絡めとられそうになるが、それを振り切るように声を強くし、
「っ、―――――――お前は終夜千夜だ」
「何を言って」
「終夜千夜だろうがっ! 少なくとも、俺が出会ったのも、俺が好きだ惚れたとのたまったのも。……この学園で、この教室で……当たり前のように学校生活を送っていた
のも………お前だろうが―――――――【終夜千夜】!」
「―――――――」
千夜の表情から笑みが消えた。
能面のような凝固した貌。
しかし、何らかの変化を投じることが出来たのは確かだと手応えを感じた。
「名前が嘘でも、過去が嘘でも……それだけは嘘じゃねぇだろう! 今が嘘だって嘘だって言うのなら、これから本物になればいい……この先、ずっと終夜千夜であり続け
ればいい。……嘘ってのは、事実がどうとかじゃねぇだろ。お前が、心からそうありたいかそうじゃないかだろう!」
「…………蒼助」
「嘘だって、ずっとつき続ければ………貫き通せばいつかは本当になる。お前だって、そうだ。ずっと、ずっと………【終夜千夜】でいればいいんだよ……っ!」
言い切った後、ここまでくるのに走りぬけた疲労も積んで襲い掛かってきた。
緊張は治まっていないが、それまで溜め込んでいたものも一緒に吐き出してしまったせいか、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
蒼助は呼吸と調子を整える中で、千夜を見た。
何かを考えるように千夜は目を閉じていた。
そして、沈黙が一分ほどに達しようとした時、
「―――――――ふっ」
微かな一笑。
苦笑いとも失笑ともとれない。
困惑する蒼助に理由を弁解することも無く、千夜は笑みを乗せたまま唇を動かす。
「……お前なら、そう言ってくれるんじゃないかと……思っていたよ」
「あ?」
「前に、お前と同じようなことを言った人がいた。………俺に、【千夜】という名を与えた女のことさ。俺が死人の名前などいらないと言ったら、今のお前が言った台詞
みたいなことを言ったよ。もっと偉そうだったけどな」
千夜は長い前髪を無造作に掻き上げ、
「……ちっとも似ていないのに………何故か、時々被る。だが、理由に関しては……わかった気がする」
くしゃり、と掻く手が髪を握ると同時にその答えが打ち明けられる。
「―――――――お前は……あの人と同じなんだな」
懐かしさと哀しさが入り交ざった声色だった。
「……今こうして考えてみれば、似てるところは結構多いんだよな。俺の【砦】をあっさり看破していくところとか。理解できやしないのに、受け入れるところとか。
わざわざ俺を選ぶ節穴っぷりとか。………俺に近づくたびに、お前があの人に近づいていって」
千夜は、蒼助を見た。
じっと見つめる。
しかし、その刹那、
「―――――――きっと、最後はぴったり重なるんだろうな」
その視線は、遠くを見つめる眼差しとなった。
ここではない場所を見つめ、ここではない時間を想う眼だ。
それを洞察した蒼助は、無性に胸を掻き毟りたくなった。
「あんな価値観が常人のそれから360度も反転した物好きは、人生で一人出会うのも稀なはずなんだが…………俺には、つくづく妙な類が寄って来るんだな」
お前もなんだな、と己への確認のように呟くと、視線がまっすぐに蒼助へと放たれ、
「……なら、俺から離れてくれ。あの人のようになる前に」
ついに直接口から出た拒絶に、蒼助はとうとう我慢できなくなる。
「―――――――っいい加減にしろよ!」
一刀両断せんとばかりに強い語調で千夜に咎めを示す。
前進を要請し続けていた両足は、願い叶ったりと進み出し、
「用件が一方的過ぎてちっともわけがわかんねぇんだよっ……大体だなぁ」
「……来るな」
「っ……その台詞も、言うなら言うで……」
ぐいっと伸ばした腕で、千夜の右肩を掴み、
「―――――――【俺】をちゃんと見て言えっ!!」
「………っ」
急激な接近が、千夜の目を見開かせる。
蒼助の言い分どおりとなった瞬間だったが、
「…………」
それも言葉どおり瞬間という僅かな時間にしか及ばず、再び目を伏せた。
その変化を見た蒼助は、やはり、と思う。
様子がおかしい。
ここに来るまでの言動も同様であり、先日の夜に見せた取り乱した姿ともまた違う。
あの時にはあった揺さぶりをかける場所が、今の千夜には無い。
何かを決め込んでいるようだが、その全貌が蒼助には全く掴めない。
蒼助の言葉も、千夜に反応を起こさせてもその胸のうちにあるであろう『何か』にまでは届いていないのだろう。
「………六年」
俯いた顔から不意を打つように零れた言葉は、年月の数えだった。
「……何だ?」
「―――――――俺が、俺を探し続けて。俺が、俺を考え続けて。………俺が生きてみて……六年が経ち、六年分の記憶が出来上がった」
それが、ただごとではない年月であるということは理解出来た。
記憶の無い彼女には、今それだけの記憶がある。
六年。
今、この瞬間までの彼女の持ち合わせている時間。
「………昔、俺に決定的な死が訪れる瞬間があった。そして、俺はそれを待つばかりだった」
語り出した千夜の言葉に、いつも力はない。
ただ淡々と語る。
あの夜の感情的なものとはまったく対極の形で、己のことを。
「……それに対して抵抗はなかった。理由も必要も意志も意味もなかった。生きているという実感はなかったし、死ぬという実感もなかった。まるで他人事のようにしか
受け取れなかった俺には両者の判別などつかなかった。想像もできなかった。………当たり前のことかもしれない。自分の過去のこともわからない人間に、現在はわから
ない。そんな奴に未来なんて想像できるわけがなかったんだから」
過去も現在もない人間に、未来を想像する―――――――創造する力は無い。
そう言っているのだろうか。
「……だから、俺は本当ならもっと早く死んでいるはずだった。過去も現在も未来も……何もわからないまま死ぬ……はずだった。死んでいたはずなんだ。……けれど」
過去を語る口は、そこで方向転換を見せた。
「……通りすがったお節介が、そこに介入してきた。俺の死は、そこで歪曲することになった」
「わいきょ……?」
「歪められたのさ。そいつは、俺にこう言った。今夜は月が綺麗ね、と……」
「…………」
「言葉どおり、その夜は月が綺麗だった。真っ白な月。銀にさえ見える白銀。俺が初めて見て知った………月という存在だった。……だから、かもしれない」
千夜は、ふと呟いた。
当時ではなく後になって気づいたような口ぶりで。
「………俺は、満足していたんだ。何も知らない俺が、たった一つ知ったものが………あまりに美しく、尊くて………こんなにも素晴らしいものはきっと他に無いだろう。
だから、もう終わりでいいんじゃないか、と……思ったんだ」
だが、と続き、
「通りすがりは言った。俺の満足に余計な延長を促す言葉を。……そんなに気に入ったなら、ここで終わるべきではないのではないか、と。もっと見たくはないか……と。
その時だった。俺が、俺の持つ記憶において初めて何かを望んだのは。欲を覚えたのは。………そして、一緒に来ないかという言葉に……俺は乗っかったんだ」
千夜は、そこで突然笑みを零した。
それが自嘲であると蒼助に感知させたのは、すぐ後に出た台詞だった。
「……思えば、既にそこで俺は取り返しのつかない大きな間違いを犯していたんだ。あの時、差し伸べられた手をとるべきではなかった。手をとった先にある【生】へ興味
を持つべきではなかった。………あそこで、朽ち果てるべきだったんだ」
「っ、オイ!」
「だってそうじゃないか、蒼助。もし、そうしていれば……俺は俺の【正体】を知ることなく死ねていれたかもしれないんだから」
「……しょう、たい……だと?」
まさか記憶が戻ったのか。
驚愕と仄かな期待に、蒼助は目を見開いた。
しかし、千夜の語る事実は予想をあっさりと裏切る。
「理解するのに、六年かかった。俺は……俺を知るのに記憶なんて必要なかったんだ。……ただ生きてみて………自分に触れる時間を得てみて……あの時はわからなかった
ことが昨日やっとわかったんだ」
不意を付くように千夜が後ろへと身を引く。
無意識のうちに力を緩めていた手は肩からあっさり外れてしまう。
「……わかってしまえば簡単だった。俺の前から人がいなくなるのは……当然のことだったんだよ。奪われていたんじゃない。失っていたんじゃない。……本当は」
距離を取ったことで、千夜の顔が見える。
そこには、歪んだ笑みがあった。
苦いものを口に含みながら、無理に笑っているような―――――――。
「俺が、喰らっていたんだ」
笑みから零れた言葉に、蒼助は一瞬耳から通じて入ってきた情報を理解しかねた。