空の紅潮が達する頃。
蒼助は、宮下公園にいた。
千夜との出会いの場所。
闇雲に単車を走らせた果てに行き着いた先だった。
確証は無かった。
期待も無かった。
ただそこには、想像通りの光景があるだけという虚しさが待っていた。
蒼助は、虚無感を抱えたままそこに立ち尽くした。
もう、動くことはできなかった。
疲れや諦めではない。
動こうと思えば動ける。
諦める気は更々ない。
だが、走り出して気づいた。
ただ闇雲駆け続けていても、まったくと言っていいほど埒が明かないのだ。
気が付けば、日が暮れようとしている。
このままでは動いても動かずとも時間はただ無駄に過ぎていく。
走れば走るほど見当違いな方向へ走り、千夜との距離が開いていくような気さえした。
「………っくそ」
焦りだけが募る一方で、打開策は見えない。
前にも後ろにも引けない状況が、蒼助をその場に縛り付ける。
「―――――――こんばんは、おニイちゃん」
傍で聞こえた幼い声に、蒼助は我に返る。
「今日の夕焼けは綺麗だね」
「…………」
己の傍らを一瞥した先には、いつの間に現れたのか一人の子供がいた。
背中にはランドセル。両手には、サッカーボールが抱えられている。
顔には無邪気な笑顔が―――――――張り付いている。
「まるで血塗れだね……ふふっ」
「………おい」
子供らしからぬ含み笑いを零す子供に、蒼助は冷ややかな眼差しを放る。
それはとても幼子に向けるものではない―――――――殺意に近い敵意が宿っていた。
「……獲物にするなら、他を当たれ。俺じゃ、てめぇの腹は満たせねぇぞ」
「………ははっ、何だ。バレちゃったのか」
悪びれた様子もなく笑う様は、見たままどおりの「らしさ」だ。
だが、違う。
子供ではない―――――――魔性だ。
日が暮れだした。
魔性が出現し出す時間帯である。
活動時間に入り始めているのだから、外がまだ完全に暮れていない状態で現れてもおかしくはない。
「この【形】は、けっこう評判がいいんだけどね。……夜になって近づいても、迷子だと思って簡単にだまされてくれるし」
「そりゃまた脳みそ煮えた連中が多いことで。………で、俺をそういうのとくくって見たと?」
頷いたら、この場で頭を吹き飛ばしてやろうと思っていた。
だが、
「…………いやぁ、そういうんじゃないよ」
蒼助の予想とは裏腹に、魔性の反応は実に冷め切ったものだった。
思わず見た表情からは、憂いめいたものが滲んでいた。
軽く蒼助は目を見張った。
経験上、そして記憶の中には、魔性がそんな表情を浮かべているものなどありはしなかったからだ。
人間くささ。
本来の道から外れると同時に失ったはずのものを、目の前の魔性は感じさせる。
「……気分じゃなくてね。まぁ、おニイちゃんが普通の人でも退魔師でもどっちでもよかったんだ。その気ならここで滅ぼしてくれても構わないよ。そうじゃないなら、
一緒にこのまま見物しないかい? ……東京最後の日の夕陽を」
「―――――――は?」
「……不思議なものだね。もう何十年も前に【人間】を捨ててしまったはずなのに………いざ終末となるとこんな愁嘆とした気持ちになるなんて。それとも……【終わり】
に対して抱くものは、人間も魔性も同じってことなのかな?」
魔性の言葉は突飛なものだった。
終わり。終末。
東京最後の日。
何を言っているのか、さっぱり理解が追いつかない。
「おかげで食欲も沸かなくてね……。他の連中は、最後だからこそ食い意地はっているのもいるけど……僕は、満たしても意味の無い食欲をどうにかするよりも……最後
くらいは普段はしないことをしてみようと思ってね」
「おい、さっきから何を……」
「……何だ、おニイちゃんもなの?」
蒼助の様子で、自分の話をまったく理解していないことを汲み取ったと思しき魔性は、呆れたように半目を向けた。
「こんなんじゃ、やっぱり今度こそこの街はダメになんだね。……いよいよだなぁ」
「っ、お前ふざけてっと……」
「―――――――ふざけてなんていないさ、若造」
声色が微妙に低くなる。
だが、雰囲気はがらりと変わった。
子供の外見にはそぐわない老獪な臭いが漂うようになった。
「……これでも【この道】は長くてね。長生きの秘訣は、過ぎた野望を持ちすぎないことさ。おかげで大した力も勢力も持っていないが、ひっそりと長く生きながえて
きたよ」
「………それでその格好か」
「これは、割と最近だよ。習慣として、半年に一度は姿を取り替えるようにしているんだ、”おニイちゃん”」
わざらしく強調が効いた呼び名に、うんざりとした気分が沸く―――――――が、
「……終わりって、何だよ」
「………言葉どおりさ。この街は、もうすぐ終わる。もうすぐ……そう、今夜だね」
何かを悟りきった様子で、魔性は呟くように告げた。
「……まぁ、おかしなことではないんだよ。”二十年”生きながらえた……実際のところはそれぐらいのことなんだよ」
「―――――――二十年………!?」
「……二十年前に死に絶えるはずだった街がなんとか延命され続け……十七年持ちこたえたところ、いよいよかと思ったらまたなんとか三年……そして、今度こそもうどう
しようもないと来ている。来るべき時が、来たのさヒトの子」
「来るべき時……だぁ?」
「この東京が喰われる時だよ。……人間も、魔性も。あらゆるものが、今宵【孵るモノ】に蝕まれ、侵され、奪われ、呑まれ―――――――朽ちる」
魔性は、絶望を映す眼で謳う。
「可愛そうに。きっと、知らない奴は知らないまま死ぬ」
魔性は、希望を見つけられない眼で嘯く。
「可愛そうに。きっと、知っている奴は恐怖に怯えて死ぬ」
知っている者も知らない者も、みんな死ぬ。
そう紡いだところで、
「……でも、一番可哀相なのは……たった一人だけ死なせてもらえない【お姫様】だ」
溜息と共に、誰と知れない者たちにではなく、ただ一人の特定の者へ言葉を吐き出し始めた。
「彼女は死なせてもらえない。奴の暴走する欲望と支配欲を満たすためにずっと生かされる。犯される。暴かれる。貪られる。……この世界そのものが、終わる時まで」
「……おひめ、さま?」
「僕らの間で広まっている噂の、さ。……奴は―――――――【かぐや姫】と言っている」
不確定を明確とさせたその言葉を耳にして、蒼助は硬直した。
「毎夜、奴は何処かで飽きもせず卑猥なポエムを発していた。だが、昨夜はちょっと違った。奴の妄想は、どうやら今夜現実となるらしい。………穢れたカミが生まれ、
気高き神姫は犯され…………東京は、一夜にして穢れで滅ぶ」
予言者めいた口ぶりで魔性が蒼助に語った。
そこへ、
「―――――――っ!」
蒼助は、ズボンのポケットの奥で携帯電話が震えるのを感じた。
今日初めての着信だ。
その瞬間、蒼助は魔性を己の世界から排除し、ポケットの中の震えにのみ全意識を捧げた。
自分でも驚くほど素早くそれを取り出す。
そして―――――――
「今度こそ、東京はダメだ。なにせ、もう窮地を救える人間がここにはいない」
既に聞こえていない蒼助に、魔性はそう零した。
◆◆◆◆◆◆
緋の色染まる廊下。
まるで、血染めの道のように思えた。
だが、まだ気が早い。
それの上を歩むのは、もう少し先であり、それはまだここにはないのだから。
「………失礼します」
到着として立ち止まったのは、職員室前の扉だった。
手荷物を持つ左手とは対を成す方で、それを引き開けた。
一見して、無人―――――――かと思われたが、
「はい、どうぞ……って、何だお前か」
姿を捕らえるよりも先に、声がした。
ガラリと気配が希薄な空間に、それでも人がいることを知った千夜はその相手を探した。
その人物は、己の死角―――――――真横の右の方向にいた。
「……蔵間、先生」
「よう、終夜千夜。遅刻にしても随分遅過ぎるんじゃないか? ちなみに、今日は離任式なので、午前で授業は終わりでーす」
「………なるほど」
今日が木曜日の休日の振り替えとして授業が開かれるのは知っていたが、そんな催しがあるのは知らなかった。というより、興味が無かった。
「教員もみんな帰ったようですね。それで、蔵間先生は……」
「この休み入る前に提出させた課題を確認中」
「自宅に持ち帰ればよろしかったのでは」
「狭い自分の家でやるよりも、誰もいない広々とした職員室を貸し切ってやった方が、気分がいい」
「……そうですか」
今度は蔵間が問い番であるという空気の変化を、千夜は察した。
「で、お前は?」
「机の上に置いていこうと思っていました。けれど、本人がいたのなら話は別です。今、渡します」
手に持っていたものを、差し出す。
それは、薄っぺらい紙を三度ほど折りたたんだものだった。
「……退学届、ねぇ」
「本日をもって、この学園を退学させてもらいます」
「一昨日の件は、解決したと言ったはずなんだが」
「あれとは異なる個人的な理由と諸事情による希望です」
一方的に理由を押し付けると、その退学届けの用紙も同様に渡した。
「……はいよ、そんじゃ預かっときますかね」
「お願いします」
失礼します、と千夜は背を向けた。
室内と同様の緋色に染まるその背に、
「新條久留美が、病院から消えたそうだ」
「―――――――」
ピタリ、と動きが止まる。
蔵間がその間に連続的に言葉を投げつける。
「……結界が汚染されていたってよ。犯人は確定だな。奴としては、まだ駒として使えると見ていたらしい」
「…………生きて返すから、その後は頼む」
「奴の居所は見当が付いているのかよ?」
「……白々しい質問だな。他はともかく、あんたは知っているだろうが」
「教えたところで、うちじゃどうにもならん。奴の先手必勝だよ。……場所が、悪過ぎる」
「……確かに、な。そう思って放置していたのは、俺も一緒だから……文句は言わない」
「それでも、行くのか?」
「誰かがやらねばならない。でなきゃ、今夜東京が終わる」
「何度も終わりかけては助かってるけどな。……また、救ってくれるか?」
「これで最後だがな。それに、あの時のやつは俺だけの手柄じゃない。……十三課の連中は元気か?」
蔵間の言葉によって引き出された記憶が、無意識のうちに千夜に言わせた問いだった。
「元気だよ。……下手するとそれも今日までかもしれないけどな」
「見くびるなよ。………霊力を失い落ちぶれようと番外だろうと、俺は真神の戦鬼だ。喰うと決めた獲物は喰い残さないし、喰い逃がしもしない。そして、明日は来る。
今日で俺が終わろうとも、必ずな」
「………ナリが変わっても、相変わらずだな。いや、むしろ磨きがかかったか?」
「あんたも相変わらず性悪だ。……あいつと付き合っていると悪化していく一方だぞ」
「その分長生きできるもんだ。人がいいことはイコールで早死にする。お前みたいにな」
「短く終わるが、たくさん得るものがあった。問題はない。むしろ、良い結果だ」
向けられた背中から動く気配を感じた蔵間は、
「……このまま行くのか?」
「別れを告げる相手がまだ二人残っている。それを済ませてからだ。………ここで、一人終わらせる」
「……よりにもよって、俺の大事な弟分をなぁ。ったく、やるなら徹底的にやってから行けよ……?」
「……………ああ」
蔵間には見えない角度で唇を噛み締めた後、
「後は追わせない。死人になる人間への未練も引きずらせない。……あいつとは、ここで一切終わりだ」
断つように強く言い切ると同時―――――――千夜と蔵間は、カタンと閉じた一枚の扉に隔たれた。
◆◆◆◆◆◆
蒼助はバイクを駆り、疾走していた。
周りなどほとんど見えていなかった。
ただ、目指す場所だけがその視野の限りとなった。
少し前に携帯電話に届いた―――――――メールによって。
目指すは、月守学園。
千夜を探す為に去った場所に、今また戻ろうとしている。
何故なら―――――――
『月守学園にいます。
2−Dで待っています。
終夜千夜 』
内容にはそうあったからだ。
居場所。そして、意図。
全てが短く簡潔な文章の中に記されていた。
何か考える余地や躊躇は無かった。
至る場所への最短の近道を見つけた蒼助は、余計な思考や詮索は捨ててただ「走る」という選択をとった。
他にも交通手段はあるはずだった。
単車を駆るよりも早く着ける方法が。
しかし、単一化した蒼助の思考回路は既にろくに動かない。
まるで支配されたように、一つのことだけを追い、叩き出す。
―――――――急げ、と。
途中で人を撥ねたりしなかったのは奇跡だった。
それほどに今の蒼助は無茶苦茶の状態であった。
一人の人物に、元の状態を僅かとも留めないほどに内側をかき回されている。
もはや治めようの無い焦燥と昂ぶり。
止まってしまえば、その瞬間に中から爆発してしまいそうだった。
「―――――――っ」
学園の校門は閉まっている。
当然といえば、当然のことだった。
授業は午前のみであり、午後も一、二時間を特別行事に使用する程度のことで今日という開校日が特別に設けられたのだ。
「……ちっ、こんな時に」
ここで蒼助の思考は一旦冷静さを取り戻し始めた。
生ぬるく冷めた思考が思ったのは、疑問だった。
千夜は本当にここにいるのか、と。
そもそもあのメールは千夜が送ったものなのだろうか。
誰かが彼女を語って何らかの目的で自分を誘き出すために―――――――
疑惑が拍車がかかりそうになったところで、蒼助はソレを振り払うように頭を振った。
疑ったところで仕方ない。
どの道、今の自分にはこれ以外に手がかりがないのだから。
蒼助はそうして己の疑心に区切りをつけて、閉ざされた学園内へ入ることを決めた。
「……裏口は……っつっても、どうせ閉まってるだろうしな」
完全に日が暮れる―――――――六時を回る前ならば学園警備システムの動き出しさないはずだ。
蒼助は、目の前の門を睨むように見据え、
「……いっちょやるか」
ちょうど今は人通りが少ない。
やるなら、今だった。
「学校の校門を飛び越えるなんて、ドラマぐらいだと思ってたけどな」
苦笑い。
それでも、本気の目で次の瞬間には行動した。
◆◆◆◆◆◆
霊力による身体強化。
戦士型や術士型問わず、退魔師の基礎的な術式だった。
それすら出来ずに馬鹿にされ悔しく歯噛みした過去の日々が嘘のように、蒼助は今はそれを易々とこなしていた。
背丈の二倍はある門を、十三ある階段も、あっさり一っ跳び出来てしまう。
一週間前の自分は目を丸くして、夢だと思うだろう。
だが、夢ではない。
自分は変わった。
目的を見失ったままおちこぼれのレッテルを甘んじていた怠惰なロクデナシは、もういない。今あるのは、目的を見定めそこへと馳せ参じようとする男だけだ。
たった一度の跳躍で一つ階段を跳び越え、二度目で廊下へと出た。
二手に分かれた道の右の方を見遣れば、緋色の染まる回廊が続いている。
右から数えて左の方へ2−Dの教室がある。
すぐさま向き直り、蒼助は駆け出した。
息切れはない。だが、心臓の動きは激しい。
待ちに待った瞬間が近いからだ。
彼女はいるだろうか。
いたとして、何を話せばいい。何から聞けばいいだろうか。
駆ける中でいろいろ考え、最終的に行き着いた結論は、彼女の存在をしかと目で確かめることだった。他はそれからだ。
走っているはずなのに、己と周囲の動きは酷くゆっくりに見えた。感じた。
しかし、それも蒼助の麻痺した感覚に振り回されない現実には関係ないことだった。
終わりはすぐだった。
「―――――――かずやっ!」
ガッとドアの取っ手に五指を差し入れて、掴むように引く。
同時に求める相手の名も叫んだ。
そして、
「―――――――何だ。本当に来たのか」
酷く明るい声がそれに答え、出迎えた。