その瞬間は、久留美に不思議な気分を与えた。

 

 

 叩かれた―――――――否、殴られたのだ。

 不快。怒り。

 どういうわけか、そういった負の感情が沸いてこない。

 

 それらよりも必ず感じるべきである痛みが、その一撃にはなかった。

 

 かなり強く殴られたはずだった。

 

 本来なら、歯の一本も折れても仕方ない威力であったはずだ。

 だが、受けた衝撃は痛みとは何処か異なる類だった。

 

 思考を取り巻いていた靄が吹き飛び、心に重くのしかかっている何かの重みも砕けてしまった―――――――己を遮り阻む邪魔なものが、一切取り払われたような感覚だけ

が残っている。

 

 先程陥った呆然とはまた、今のそれは種を違えている。

 

 

 その原因となるものは、とりあえずのところ一つしか見当たらない。

 

「ったく………そこは打ったら響くもんでしょうがっ。なまじ家族に恵まれると、こうも根性なしになるなんて………。どんな時代になっても、世の中ってままならない

わねっ……もう」

 

 『女』は毒づいている。

 その様子に、先程までの掴みどころのない雰囲気はない。

 久留美の姿形に適合した気の強さとヅケヅケとものを言う口ぶりを発露している。まるで、自分を見ているような気分陥った。

 否、そう断言するには少々無理を含有していた。

 

 

 今の手の早さ考慮すると―――――――久留美よりも、上だ。

 

 

 ………なんなの、一体。

 

 

 久留美は、『女』の態度の急変振りに困惑していた。

 そして、これが呆然となる原因であった。

 

 「消えればいい」と先程まで言っていた者が、今度はそんな久留美に腹を立てて殴った。

 

 付いていけない展開に対する疑問。

 それが、呆然の正体であった。

 

「……もう、やめた! ……全部理解させて、納得させた上で送り返そうと思ってたけど……そんなまどるっこしいこと付き合い切れないっつーのっ!!」

 

 何か自分の中での大きな予定変更を決定した様子の『女』は、ギロリと久留美を見下ろして、

 

「聞け、この馬鹿オンナ」

 

 『女』は殴られた際によろけて、そのまま座り込んだ体勢にあった久留美の胸倉を引っ掴んで、ぐいっと立たせる。

 そして、腰を折って顔をグイッと近づけた。

 

「……とりあえず、今までの総まとめで説明して【帰す】わ。あとは自分で勝手に納得して、なんとかしなさい。生ぬるい時代をグダグダ好き放題生きて来れた甘ちゃん

に、親切に根気よく理解を促そうとするほど私は優しくは無いんだから」

 

 『女』はがさつさを滲ませた言い分を言うだけ言って、その本来の性分のなりを潜ませると真剣な眼差しで久留美を釘刺す。

 

「……時間が無い。私と接触していても、あんたは存在が危ぶまれる。本来、私らはこうして面と面を突き合わせることなんてあっていいわけじゃないからね。……正直の

ところ、あんたには消えてもらっちゃ困るのよ」

「……さっき」

「人間の根底が変わらないっていうなら、絶対に剥きになって歯向かってくると思ったからね………てんで、期待はずれだったけど」

 

 やれやれ、と『女』は言いたげに息を吐いた。

 わけがわからない。

 

「……一回しか言わない説明しないからね。あんたは、もう普通の人間じゃない。世界に【悲願】の【代償】としてあんたの【日常】を売っ払って、【非日常】で生きる

権利と力を手に入れた」

「……売り……日常?」

「正確には、あんたの中の日常性を象徴するモノよ」

 

 日常の象徴。

 思い、そして浮き出てくるのは己の家庭。



 ソレを構成する―――――――家族。

 

「……違う、私はあの人たちを売ってなんか」

「あんたは終夜千夜を選んだじゃない」

「違う、違うっ! 私は日常を選んだわっ!」

「嘘つけ。あんたは何も無くさずに全部を得ようっていう腹積もりだったでしょうが。……そうは問屋が卸さないっていうのよ。餌をケチって大物釣れるなんて甘い話が

転がってくるわけないでしょ。……ましてや、あいつが相手じゃ………餌箱ごと放り込んでも足らないわよ」

「……足ら、ない?」

 

 両親を失くしても、自分はまだ何か奪われなければならないというのか。

 久留美はその言葉に、戦々恐々とした。

 

「ええ、そうよ。もっとも、今のあんたには【あんた自身】しか残っていないけどね。でも、ここで渋ったら全部おじゃんよ。だから……早く帰りなさい。そうしないと、

手遅れになる。………あんた、本当に何もかも失うわよ」

 

 帰る、とは―――――――現実へ戻るということだろう。

 そこで待っているのは、逃れようの無い『喪失』した事実。



 そして、

 

「……いや、帰りたくない」

「…………」

「帰れるわけない……だって、私……」

 

 現実には、千夜がいる。

 

 自分の罵詈雑言を受けた後、千夜が静かにその場を立ち去っていった。

 あの後何処へ行ってしまったのだろう。

 

 まだ、月守学園にいるだろうか。

 そもそも東京にいるだろうか。

 いても見つけられるだろうか。

 

 

 否、それよりも―――――――

 

 

「今更、どんな顔して……あいつに会えば………。許して、なんて……くれるわけ」

―――――――そうじゃないでしょうが」

 

 決め付けるような否定が放たれた。

 あまりにも躊躇のない言葉に、久留美は思わず言葉を止めた。

 

「許されることが、あんたの望みだったの? ……あんたが、何もかも犠牲にしてまで欲しかったものは……そんなものだったわけ? 違うでしょうが。そうじゃないで

しょうが」

 

 突き詰めるようなキツイ口調だが、それでも何故か諭しているように聞こえる。

 矢継ぎ早にただ言いたいことを吐いているのではなく、久留美に理解を促すことを意識していると感じた。

 

「……あんたは、本当にもう何もないわけ? だったら、何でさっきから未練がましくぼやいているのよ」

 

 未練―――――――

 言葉の中に混じった言葉に、久留美は己を顧みた。

 

 帰りたくないのは、何故か。

 それは、千夜に会いたくないからだ。会えないからだ。

 

 今更、どんな顔をして会えばいいのだろうか。

 会ったらなんて言われるだろう。

 顔を合わせてくれなかったどうしよう。そうなったら、自分はどうなるだろう。

 

 きっと、絶対に壊れてしまう。

 そうしたら今度こそ本当に、何も―――――――

 

 

「………―――――――ぁ」

 

 

 突っかかりが取れたかのように、声がぽとりと落ちる。

 

 どうして、気づいてしまったのか。

 

 気づかなければ、きっと躓いたままでいられただろうに。

 真正面から気持ちを向き合わずに済んだだろうに。

 

「…………っ、でも、でも……もう、どうしようも」

「ないわけ、ない。あんたは、生きている。それだけで十分まだ余地はあるわよ。愚図のクセに、愚図なりに根性あるじゃない」

 

 『女』は意地悪そうに笑う。

 だが、嘲弄や見下すような雰囲気は無い。

 初めて『女』が、普通に笑っていた。

 

 それが自分の顔であるというのは、久留美には些か奇妙かつ複雑な気分だったが。

 

「……本当に、どうしようもないっていうのは……私みたいなのを言うのよ」

 

 不意に『女』が、それまでとは何処か異なる重い口調で言葉を漏らした。

 表情も翳りに帯びている。

 

「自分を失敗を棚に上げて……ツケも責任も全部押し付けた上、あんたに八つ当たりしてるんだからね」

 

 胸倉にかかっていた負荷がなくなる。『女』は手を離し、今度はちゃんと腕を掴んで久留美を立たせた。

 幼い容姿のままの久留美の背中に手を回して、ポンポンと撫でる。

 

「………あんたは、まだ大丈夫。だから、早く行きな。あんたは……まだ手が届く距離よ。走れば、間に合う」

 

 不意に、見上げて見ていたその眼が、ここではない遠くを見るように虚ろになった。

 

「……私は、もう駄目。……届かない。あいつは、もう……遠くに行っちゃったから」

「………?」

 

 『女』は、既に自分の世界から久留美を弾き出して、己のある部分に記憶浸っていた。

 

「……どうして、追いかけなかったんだろう。あの時………走っていれば、間に合ったかもしれないのに………どうして、どうして……」

 

 ブツブツとしきりに呟く『女』は一見すると、正気を失っているようだった。

 だが、久留美にはそれがつい先程までの自分自身に見えた。

 

 そして、気づく。

 

 この『女』こそが、本当に失ってしまっているのだと。

 

 だからこそ、『女』は自分に対してあれほど怒ったのだろう。

 だからこそ、『女』はこうして自分を奮起させているのだろう。

 

 諦めてしまった先に何が待つかを、『女』自身が誰よりも知っているから。

 

「……好き、だったのに」

 

 ポツリと漏れた言葉に、久留美は目を見張った。

 

「………すき、だった……のに」

 

 拭いきれない後悔。

 零しても尽きない懺悔。

 

 それは、『女』にとって全てとも感じられるような、哀しくも虚しい告白だった。

 

 

「………行きな」

「……ぇっ」

 

 

 突然、それまでとはガラリと変化を遂げた―――――――というよりは、変貌するまでのハキハキとした口調が命じた。

 

「あんたの一番の後悔を、返上してこい」

「……あんた、一体」

 

 何なの、と続いたところで、『女』は再び笑った。

 自嘲を滲ませた苦笑いだった。

 

「亡霊よ。……生きていた頃の後悔を死んだ後も引きずって…………あんたに遺した、傍迷惑な亡霊」

 

 亡霊。

 

 そのなんとも寂しい響きを含んだ言葉は、不思議と胸にしっくり馴染んだ。

 

 その時だった。

 『女』が一歩後ろに下がったと思った矢先、胸を軽く突くような力を感じたのは。

 

「あ……っ」

 

 僅かな力を受けただけのはず身体が、あっさりと重心を乱して後ろへ倒れていく。

 その最中、咄嗟に久留美は『女』を見た。

 

 

「元気でね。―――――――さよなら」

 

 

 傾いていく視界で、女は笑っていた。

 

 二度目の邂逅はない、と言わしめるばかりに。

 

 

 そして、まるでエールを送っているようだった。

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 一瞬の落ちる感覚。

 

 久留美は、跳ねるように覚醒した。

 

 

――――――――――――――っ、ぁは!」

 

 

 地面に叩きつけられるような錯覚と共に、久留美は目を見開いた。

 

 そのまま、暫し呆然と荒い呼吸を繰り返す。

 

「……はぁ、……あ……は……あ、ぁ……っ」

 

 額に汗がじわりと吹き出た。

 それを皮切りに、全身の毛穴から汗が潮噴く。

 

 じんわりとした不快感が、久留美に生の現実の実感を与える。

 

「…………」

 

 視界には、無機質な部屋の間取りと、窓から見える焼けた空。

 部屋を見回した印象として、ここは病院であるという推測が立った。

 そして、時刻は夕方。まもなく日が暮れるところだ。

 

 久留美は、ぼんやりと朱色に燃える空を見た。

 

「………、……っあ!」

 

 その瞬間、久留美の脳裏を映像が目まぐるしく駆け巡る。

 おさらいとでもいうのか、大量の場面が恐ろしい勢いで久留美の脳を走駆する。

 瞬く映像が混乱を招き、久留美は思わず頭を抱え込んだ。

 



「……あ、ぁ、ああああああああっ!」



 

 悶え苦しむ時間は、僅か三十秒にも満たなかった。

 あっという間に、置いてきた記憶が久留美に収納された。

 

 久留美は、放心したように目を見開いたまま天井を仰いで固まった。

 

「………ぁ」

 

 身体から、また何かが滲み出た。

 今度は毛穴からではなく、両目からだった。

 とぷり、と溜まり、伝う。

 

 理解が終了したことによる出来事だった。

 

 今の久留美には、拒絶して隔離しておいた記憶が全て収められている。



 惨劇の中で何を失ったのか。

 惨劇を中で何を間違えたのか。

 惨劇の中で何を得たのか。

 

 そして、加えてあの深層世界での出来事。

 

「………帰って、きたの……ね」

 

 流れる涙をそのままに、久留美は己の現状を口にした。

 逃れようの無い己の確かな現実。

 

 帰ってきた時点で、逃避は終わった。

 動かなければならない。動かざる得ないのだ。

 

 意思とは裏腹に身体は酷く重くだるい。腕も、足も。

 それでもなんとか首だけは動かす。

 

「…………っ」

 

 室内の間取りを確かめる中で、ふと眼に入った棚で視線の移動は止まった。

 

 棚の上に、何かある。

 意識が、視界からのその情報を処理する。

 

 この空間にて興味対象として最優先となったそれに近づくべく、久留美はだるさを無視して半ば無理に体を起こした。

 

 足を地に付ける感覚に、久しいという妙な気分を覚えた。

 

 それを踏み越え、久留美は寝ていたベッドの傍ら設置されている棚へと近づいた。

 花が挿された花瓶と共に置かれた『何か』は、久留美の覚えのある形をとっていた。

 

「……これは」

 

 羽根を模ったバレッタ。

 母親のモノだ。

 そして、今は―――――――形見となった遺品。

 

「どうして、こんなところに……」

 

 疑問を思った矢先、

 

―――――――っ」

 

 割り込むように展開する記憶があった。

 それが―――――最後に、これを身に着けていた人物に関する情報だった。

 

「千夜っ……」

 

 バレッタを思わず手に取り、胸に抱く。

 

 彼女がここにきた。

 そして、これをここに置いていった。

 

 それが意味すること―――――――

 

「……何で、よぉ」

 

 声にまで涙が滲む。

 ずるり、と久留美は崩れ落ちるように膝を床に着いた。

 

「……何か一言くらい、言ってから……いなくなりなさいよぉ……」

 

 手の中にあるものは、久留美と千夜の最後の繋がりだった。

 だが、それは千夜の手中にあるうちならばの話だ。

 

 今、ここにある。

 久留美の元へ戻ってきた。

 ソレが意味することは、たった一つだ。

 

 千夜は―――――――久留美との別れを済ませた。

 そして、おそらくはもう二度と―――――――

 

「何でよっ……恨み言の一つや二つ……書き残していけばいいじゃないっ! 一発でも殴っていけば……いいじゃないのよっ!」

 

 あの時と同じだ。

 違うのは、何か残したか否かだ。

 

 だが、そんなことはどうでもいい。

 別れが逃れようが無くとも、それでも欲しかったものがあった。

 

「……何で、皆……"さよなら"も言わないままいなくなるのよぉ……っ」

 

 

 さよなら。

 

 せめて、その一言だけでも残してくれたら―――――――きっと、別れを受け入れることが出来たのに。

 

 わぁ、と久留美は泣いた。

 何処へ行けばいいかわからなくなった迷子のように。

 

 追いかけるべきだった背中は、今は何処を見てもありはしない。

 置いていかれてしまった。

 

 もう、どうすればいいかわからない。

 

「もう……いやぁ……!」

 

 全てを受け入れて立ち上がるには厳しすぎる条件に、久留美は叫ぶように音をあげた。

 

 そのまま、叩きつけるように何もない左の拳を床に振り下ろし、そのまま泣き伏せる。

 

 荒れ狂う感情に任せ、吼えるように泣き声をあげようとした。

 

 

 

 

 

 

―――――――なんだぁ……おいていかれちまったのかお前」

 

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 寒気のする声が、ねっとりと流れ込んできた。

 

 扉の開く音に、久留美は顔を上げた。

 

 

―――――――連れて行ってやろうかぁ?」

 

 

 

 

 

 徐々に開いていく、その扉の向こうには―――――――

 

 

 

 

 

 

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