軽く地面を蹴り、渚の体は低く浮いて後ろに跳んだ。

 その瞬間、たった今までいた足場が陥没する。



 振り下ろされた鉄槌により大きく罅割れたコンクリートの地面を見たが、また一つ増えた、と認識して終わらせる。

 当然だ。
 何しろ、これと同じものが壁、床のそこら中に張り巡らされているのだから。


 最初の一撃で、喰らえば即死を確信した渚は最低限の動きで避けつつ、



「すごいね………それが君が手に入れた【力】ってやつ?」



 地面に着いたままの腕の、肩の付け根部分を深く斬り付ける。


 直後、渚の神が後ろへ流れ靡いた。



 それは前兆だ。

 目前で、たった今傷つけたものとは逆の腕が、後ろに引かれて突き出される瞬間の。



「はっ、それだけじゃねぇ!」



 突き出された拳が、空気の抵抗を引き裂いて渚の顔面に向かう。

 紙一重でそれを避け、バックステップを踏んで距離を取る。

 神崎が変わらず割れた地面に置かれたままだった拳をようやく離す。
 肩からは黒い液体がどくどく脈打つように流れていた。
 だが、やがてその勢いも見る見るうちに衰えて行く。

 やがて、血は動きを止めた。
 まるで蛇口がしめられた水のように。



「………もしかして、今傷塞がった?」



 見れば、初撃でつけたはずの首周りと顔の左半分の傷もこびりついた血を除けば、そこに目立つ物は無い。



「もう一つは、その自己治癒……というよりは再生力かな?」 

「そうだ。いくら攻撃されようが傷つかない肉体(からだ)、そしてこのパワー…………もう俺に恐れるものはねぇっ! どうだ氷室、さっきから飼い犬の後ろに隠れたまんまじゃねぇか……怖くてぶるってるのか?」



 渚の背後――――――渚よりも長く距離を保つ氷室は、そのあからさまな嘲りに反応はしなかった。

 それを己の思う通りととったのか、神崎は嘲笑を深める。



「ひゃははははははは。こりゃ愉快だ、傑作じゃねぇか。化けの皮引っぺ剥がしたら、一人じゃなんもできねぇ子羊ちゃんかよっ。はははははははは………」



 一目も憚らず高笑いする神崎に渚はぎり、と奥歯を噛み締めた。

 その首を斬り落としてやろうと、無意識に踏み込みそうになった時、



 ――――――待て、渚。



 耳ではなく、頭に響く制止の声。

 氷室のものだ。



 ………マサ。 



 ――――――落ち着け、くだらん挑発に乗るな…………それより、どうだ。



 問われた質問の意味を問い返す事も無く理解した渚は、思考に言葉を並べる。



 ……パワーは上々、スピードもそれより劣るけど速い方……けど、なにより厄介なのは再生能力かな。そこから見える? 俺がつけた傷全部塞がってるよ。  



 ――――――ああ、見ていた。確かに最も注視すべきところだな………。



 ……斬っても斬っても治られちゃキリがないよ………どうしようか、マサ。



 少しの沈黙。

 渚は何も言わず雅明の言葉を待った。

 どんな言葉が帰って来ようと、彼の意を実行する気でいた。



 ――――――………【十二神将】を使おう。



 思わず、背後の雅明を振り返ってしまった。

 十二神将。それは雅明が所持する最大の切り札とも言えるモノ。

 時を遡ること千年、人と化生(けしょう)との間に生まれた陰陽師が契約を結んだ十二柱の神属。

 長い時を経て、再び彼の者に仕える式神達。

 一柱一柱が強大な戦力であるそれらは、滅多な事では遣われない。 

  

 ……十二神将を? 確かに厄介ではあるけど、そこまでしなければならない相手じゃ……。



 ――――――………感じないか、渚。私から見れば、あれは今まで相手にしてきた魔性の中で最も厄介。………そして、"(いびつ)"だ。 



 言葉に目を細めて、神崎を凝視する。

 目に見える範囲で"歪"ととれるのは、彼の額に聳える角のような突起だった。 

 それに対して、感覚を鋭くし、働かせる。
 神巫の家系に生を受け、生まれながらにして授かった突出している【氣】を感じ取る力を。


 途端、軽い嘔吐感を覚えた。 

 角から発生し、神崎にまとわりつく汚れきった瘴気に。


 これでは魔性など赤子のように可愛いものだ。
 この汚れようは、黒を黒で塗りつぶし続けたように深く暗い。

 察する。
 これはこの世に在ってはならない存在だ。

 そこにいるだけで、辺りの正常な氣が乱され、犯され、穢される。

 こんな存在は初めてだ。
 こんな芯まで黒一色の存在は。



 ……で、どれを降ろしてくれるの?



 ――――――………………いいのか、あれはお前の身体に負担がかかる………。



 ……何を今更…………約束したじゃん、マサ。――――――何処までもついていくよ。



 この相棒と出会ってもう十年になるだろうか。

 彼に出会うまで、友人などという対等の存在は自分には無かった。


 巫女という女系の一族に生まれた稀に見る男児である渚は、いつも双子の姉の『オマケ』として腫れ物のように扱われ、時に蔑まれた。

 母、祖母、そして姉だけは自分を見てくれたが、それでも独りという孤独だけは拭えなかった。


 そんな時、古くから交流を持つ土御門に招かれて初めて土御門の屋敷を訪れた日。


 庭を歩き回っていた渚は誰かが啜り泣く声を聞いたのだ。
 聞いた、という言い方は少しおかしいかもしれない。正確には、直接頭に響いたのだ。


 響く声が大きくなって行く方へ向かえば、広い池でぽつんと立っている己と同じくらいの少年。  

 人知れず、泣き声すらあげず静かに涙を流していたその子こそ、氷室だった。


 彼も独りだった。
 ただし、自分とは違い親すら敵だった。

 一目見た瞬間、不思議な縁を感じた。
 それは一目惚れした時にも似ていたけれど、断じて異なる。

 誰も聞き取れなかった彼の本心を聞いた幼い渚は、ようやく探し物を見つけたような感覚に陥った。
 己の理解者を見つけた、と。


 それは孤独を共有する者同士の共感だっただけかもしれない。

 だが、いつからか自分は彼の側から離れられなくなっていた。

 それが当たり前のように思えた。


 そして、彼の決意の日に渚は誓った。
 一つの約束を自分と彼の間で糸で繋いだ。



「………この魂ある限り、幾度転じても君と同じ道を歩み続けるよ……」


 あの日の約束の言の葉。 

 氷室にしか聞こえないように口にする。

 後ろは振り返らなかったが、彼が僅かに笑んだのがわかった気がした。 



「………行け、渚」

「ラジャー。――――――いっきまーすっ!」


 彼の“策”を促す為に、渚は駆け出した。

 再び戦闘の幕を切った。







 ◆◆◆◆◆◆







 スパン、と切れのいい音が蒼助の背後で響いた。


 己の周囲の敵、最後の一体を切り伏せ、振り返るとかなり壮絶な図が描かれていた。

 床や壁に四散する首や手、足などの敵であったものの部品がぶちまけられ辺りが、どす黒い液体が充満している。

 その中に、物騒な長い刀を携えて、暗がりで見ると血にしか見えない黒い液体に塗れて立っている様は、相当な具合にグロい光景だ。



「うっわ……壮絶」



 それなりに修羅場をくぐり抜けてきた蒼助だったが、さすがにこんな光景を目にしても慣れることはできない。

 見る目明らかに引く蒼助に千夜は呑気に笑い、



「六体目ともなるとさすがにスプラッターだな、はははははっ」

「……う、負けた」



 三体しか倒していない蒼助は、同じ時間で倍の数を倒していた事実に軽く打ち拉がれた。

 千夜は、額から伝い落ちて来る黒い滴を乱暴に手の甲で拭い、



「さて、また復活される前にここを離れるとするか。上で、アレの相手をしているお前の仲間も気にかかる」



 またその話だ。


 千夜はさっきも言っていたが、今この校舎に巣食っている魔性は、とてつもなく強大な力を有しているらしい。

 今の現代に、先程のようなワケのわからない怪物を生み出して配下にするほどの強力な魔性がいた、ということは驚愕だった。
 けれども、あの氷室が太刀打ち出来ないというのは些か信じ難い心情だった。


 あれはかの有名な大陰陽師が発展させた退魔の一族・土御門の次期当主と謳われる人間だ。
 もちろん、本人の実力が名前負けなどしていないのは、かつて不本意ながらチームを組んでいた蒼助自身がよくわかっていた。 

 時折、都市から遠く離れた辺境に出没する高レベルの魔性を討伐しに行く事もあるほど、彼の周りもその力量に信頼を寄せている。 

 最悪に相性は悪いが、そこは蒼助も認めていた。

 それに氷室の側には、本人が絶対の信頼を置く相棒がいる。

 幾重もの精密な策を練る氷室と、それを言葉を交わす必要すら無く受け取り実行する渚。
 あの二人が揃えば、正直怖いモノ無しだ。



「……なぁ、終夜」

「何だ」

「さっきは、熱くなって悪かった。………けどよ、この際俺の事は置いておくがアイツらは………俺の仲間はマジで強いぞ。そこらの年期積んでも二流三流止まりよりは、ずっと。そんな退魔師でも、太刀打ち出来ないとお前が言うが………一体、何がお前にそう言いきらせるんだ」



 背を向けて歩き出していた千夜が、ふとその足を止め振り返る。



「………一人の天才医師がいる。そいつはどんな難しい手術もこなしてきた超一流」

「は?」



 突然何の脈絡もない千夜の発言に、蒼助は目を瞬かせた。 

 千夜は構わず続ける。



「だが、ある手術で、誰も見た事も無い未発見未解明の病魔に遭遇した。玖珂、その医師はその病を治せたと思うか?」



 重なる突然に蒼助は躊躇したが、思った事口にした。



「そりゃ………無理だろ、治療法もどんな病気かもわかんねぇんじゃ、どうしようもねぇじゃねぇか。さすがにぶっつけ本番じゃ……」

「その通り。どうすることも出来ない。………それと同じだ、お前の疑問も。どんな手練も、聞いた事も見た事も無い……他と明らかな違いがある異質な魔性を倒すなど、困難だ。特に、アレはな」 



 千夜の言う『アレ』と比喩される魔性。

 具体的に何がまずいのだろうか。

 しかし、蒼助が問うよりも先に千夜が自ら答えを口にした。



「アレには弱点がある。だが、その弱点が何より奴の厄介なところなんだ」

「………どういうことだ?」

「行けばわか……」



 突然千夜の足がよろめく。

 安定を無くした膝はかくん、と折れた。



「お、おいっ」



 反射的に、前のめりに倒れそうになったその身体を受け止めて支える。

 ついさっきまでの、壮絶な光景を生み出した動きを繰り広げたとは思えないくらいの軽さに、驚きつつ顔色を伺う。

 既に付着していた黒い液体は元の残骸と共に消えていた。
 代わりに額にびっしり汗が浮かんでいる。おまけに顔色が若干青ざめていた。

 何事か、と不安が蒼助を襲ったその時だった。



 ぐ〜。



 音の発生源は腹からだった。

 千夜の。


 その本人は俯かせていた顔を上げ、はにかんで、 



「いや〜、腹が減っては戦は出来ないってこのことだな。思わず立ち眩みしてしまった」



 あっはっは、と一瞬感じたシリアスの予兆は粉々に砕いて笑う千夜。

 蒼助はどっと疲労を感じた。



「……お前なぁ〜」

「はははは」 



 蒼助は気付かなかった。

 笑う彼女の額に今だ汗が浮かんでいる事に。

 僅かに息が荒い事に。

 そして、それが間もなくして取り返しのつかない事を招く事に。







 ◆◆◆◆◆◆







 疾風を伴った拳が渚の頬を掠り、肌を浅く裂いた。

 渚は怯まない。それを安い代価と踏まえ、そのまま懐に入り込む。

 わき腹に突きたて、



「神火清明、神水清明、神風清明っ!」



 力強い声に乗せられた秘呪が放たれた瞬間、神崎のわき腹に突き立てられた短刀が白い輝きに帯びる。

 眩い発光と共に短刀の突き刺さるそこが弾け飛び、大きく穿たれた。



「っぐあっ!!」



 すかさず、渚はそこから跳躍して離れた。



「ヒット&アウェイってね………さすがにこれならどうよ……」



 頬を垂れる血を拭いつつ、大きく息を吐いた。

 さすがに今のは、代償を覚悟して入り込んだようだった。

 神崎はぽっかり半月のように開いた己の腹部に手を当て、噴水のように溢れ出る黒い血に慄いたように恐怖に顔を歪めた。



「ひぃっ………い、いてぇよぉ。………俺の身体に、身体に、…………………………なぁんてな」



 瞬く間に、汚らしい笑みに表情が塗り変わる。

 理由はすぐそこにあった。

 たった今、渚が開けた穴が塞がり始めていた。

 共に破損したであろう骨もまるで時間を巻き戻すかのように再生し、吹き飛び消滅した肉は断面から幾数本の細い触手が互いに絡み合い融合していく。

 そうして瞬く間に、穿いたばかりの穴は跡形もなく塞がった。 



「ちょっと……それ、反則じゃない?」



 げんなりしたように呟く渚に、神崎は勝ち誇ったように哂う。



「どうした、もう終わりか………もっと、足掻けよ。そして、絶望しろ………無様に命乞いしやがれ………」



 俺のように、と付け足す神崎に渚は微かに口元に笑みを刻む。

 似ている、と不覚にも目の前の敵に大切な相棒が被ったと、渚は感じた。



 彼には、親の愛がなかった。それどころか、忌み嫌い、憎まれてすらいる。

 この世に生を受ければ、与えられて当然であるはずの最低限のことすら彼にはなかった。

 自分と出会うまで彼には友がいなかった。
 いるのは、敬い、内心では恐れ、それで尚『次期当主』の目にかかろうとする、腹の底の腐った軽薄な連中のみ。

 誰一人、彼を見てくれるものはいなかった。
 フィルターなしで、彼自身を相手にするものは、誰一人と。



 この男、神崎もきっとそうだったのだろう。

 見せ掛けの愛。背後にある権力を宛にした低俗な連中。
 神崎を取り巻くのはそんなものばかりだったのだろう。


 冷静に考えてみれば、彼と神崎は似た境遇を持っていた。

 恵まれているようで、実際はどちらもそうではなかった。

 渇いた心を癒してくれるものは、何一つなくて。

 一歩間違っていたら、彼もこの男のように闇に身を委ねていたかもしれない。



 ……でもね、神崎………お前とマサはやっぱり違うよ。だって――――――



 彼は堕ちなかった。
 絶望に取り囲まれながらも、もがいて、もがいて、今も出口を探し続けている。


 彼は諦めなかった。
 己の境遇に嘆いたままではなく、ずっと希望を探し求めている。



「………ねぇ、今一瞬……君とマサは似ていると思った。…………けど、やっぱり違ったみたいだ」

「……………あ?」



 神崎は笑いを強張らせ、渚を見た。



「自分だけに絶望が訪れたなんて思うな。絶望を見た人間なんて、この世に腐るほどいるよ。だって、この世は希望よりも、絶望の方が多いんだから。………何か途方もない絶望をして自殺する人間と、思い留まる人間………何によって分かれるか解る? それはね………絶望に立ち向かう"強さ"だ。俺のマサは強い。お前のように絶望に甘えて、苦痛を恐れて楽を選ばなかった。その力はお前にぴったりだな………本当に強くなろうとせず、他人からの力で得た………虚像に縋るしか無いお前に」



 力の否定。己の否定。

 今持つ全てを罵られた神崎の怒りはあっという間に沸点を迎えた。



「てめぇっっ」

「同情はするよ。………けど、悪いが俺はお前のような弱い人間に何か思えるほど優しい奴じゃないんだ。さぁ、そろそろ遊びは終わりにしようか。生憎、君の相手もこの無意味な繰り返しにも、厭きてきたところだ」



 その言葉に、神崎は渚の発言を捉え違えた。



「まさか………今までのが手加減していたとでもいうのかよ。ハッタリを……っ!」

「手加減はしていない。俺なりに必死だったよ………――――――体力を使いすぎないように、セーブしながらの時間稼ぎにね」 



 渚はもう、神崎のことは感覚から外した。

 "まもなく来る者"の余波を感じ取りつつ、彼の者を受け入れる為に全身の力を抜き、衝撃に備える。


 その前に、渚は背後で“別行動”をしていた氷室に声をかけた。



「準備はいい? 頼んだよ、相棒」



 言葉に対し、氷室はただ一言。 




――――――万全だ」




 不敵な笑みで答えた。







 ◆◆◆◆◆◆







 神崎はそこでようやく気付いた。

 今まで渚が氷室がしようとしている事の為に注意を逸らすのと時間を稼いでいたことに。



「くそっ………舐めた真似しやがって」

「鈍感で助かったよ。見たまんま単細胞なんだねぇ……」



 なにっ、と食って掛かる神崎を無視して、渚は目を閉じた。

 構えも解き、武器を下ろして完全な無防備な状態に入った渚を、神崎は怪訝な目で見た。


 その後ろで、



「我、真名を土御門雅明………」



 下準備である精神統一による霊力の活性を終えた氷室は、詠唱を始めた。

 それを察し、渚は一度だけ深呼吸をした。
 身体の中の余計なものを吐き出すが如く。


 視界を閉ざし、呼吸を整え、心と頭からは全てを追い出し空洞に。

 それは渚にとって、これから身に降りる『存在を受け入れる為の準備体操のようなものだった。



「な、何だ?」



 今までに無い二人の行動に、神崎は戸惑った。


 無理も無い。
 陰陽の理すら知らない彼には、未知の領域のもの。

 これから起こるか、予想する事も出来ない。

 困惑する敵には目もくれず、氷室と渚はお互いが"策"を実らせる為にそれぞれ役目に没頭する。



「古き盟約の元、我が名にその名を連ねし十二の式神の将よ。そこに捧げられしこの依り代に、その神威を降ろすことを命ずる」



 渚を囲むように風が巻き起こり、黒髪と服が踊る。

 それは、何かが来る前兆のようにも見れる光景だった。

 ただならない様子を目の当たりにし、神崎はようやく自分にとって拙い事が行われ、起ころうとしていることに気付いた。 



「てめぇらっ! 何をしようとしてやがる……っ!!」



 神崎は内で脈動する不安と危機感に駆られた。
 目の前で起きている何かの予兆を、前触れであるうちに阻止すべく、身じろぎ一つしない渚に鋭く尖った爪を備えた腕が振り下ろされるが、



「っ……ぐあ!」



 まるで何者も拒むかのように、見えない何かに弾かれた。

 強い拒絶に、神崎が一メートルほど吹き飛ぶ。 

 もはや誰にもこの儀式を邪魔することは出来ないことは、明白となった。

 そして、その儀式自体もそろそろ仕上げへととりかかっていた。



「十二神将之伍、凶将『勾陣』っ! ――――――此処に顕現せよ!!」



 氷室が叫びに近い声を上げ、印を組んだ両手を前へ突き出した。


 瞬間、目が眩むほどの光が空間を包んだ。


 激しい発光に視界が遮られる刹那の間、神崎は渚の上に降りる"何か"を見た。
 しかし、すぐに耐え切れなくなり、自ら反射的に目を閉じた。


 すぐに光は急激に収まり、神崎も多少の目の眩みは残っていたが再び渚を見た。

 そこに、先程光の中で見たそれはいなかった。

 いるのは、微かに何事かの余波によって、全身がパチパチ放電する俯いた渚だけだった。


 動かない渚。

 神崎はごくり、と息を呑みそれを見つめた。動かないことを何故か願いながら。

 願いは虚しくも叶わなかった。


 ぴくり、と渚の指先が動き、そして――――――

 顔が上げられた。



――――――っ!!!」



 渚に見据えられた神崎は、凍りついた。

 そこにあったのは、確かに渚自身の顔。
 しかし、そこに先程まで浮べていた"表情"というものが抜け落ちている。

 代わりに置かれているのは、無の中に存在を主張する威圧感。  

 虚ろな瞳だが、自分が創り出す屍鬼とは次元違いだった。

 人であるはずの渚から今伝わるのは、威厳と畏怖を伴った神々しさ。

 別人のようだ、と考えて即座に考えを塗り替えた。

 別人なのだ、と。


 先程までの"渚"に対してであるなら、神崎自身怯む事は無かった。

 ましてや、立ちすくむことなど。



「神崎。………貴様は先程言ったな、自分に恐れるものはない、と」



 その背後の、渚を別人にした原因であろう張本人が口を開いた。

 そこでようやく、微塵も揺らがなかった氷室の表情が、変化を成した。

 浮かぶ表情は、勝利を確信した笑み。



「今一度、それが言えるか? 己が頂点だと、まだ言えるのか?」



 この正真正銘の一柱の『カミ』を前にして。







 ◆◆◆◆◆◆







 カミ。

 かみ。

 神。



 神崎は頭の中でその言葉を反響させた結果、その意味を理解した。



「ふざけやがって……馬鹿にしてやがんのかっ!!」

「わからないか、なら貴様はその程度ということだ……」



 ぐ、と言葉が詰まる。 

 正直わからないわけではない。だが、認めたくない。

 それが今の神崎の心情だった。 

 しかし、そんなことなど知る由も知ろうとも思わない氷室は、



「…………命じるぞ。勾陣、我が敵を討ち滅ぼせ」

「御意に」



 声色までが違っていた。

 直後、渚――――――勾陣の姿が神崎の目の前から――――――視線の先から消えた。



「なにっ、何処に……」



 途中、襲った前触れなしの顔面に叩き込まれた衝撃に、言葉は紡ぎ終えられることはなかった。

 ボキリ、と顔の中心を突き出る部品(パーツ)が砕ける音を発した。 


 勢いに押され思い切り仰け反った顔が元あった所には、突き出した短刀を握りしめた拳。 


 どぷり、と鼻の奥で切れた血管から大量の血が溢れ出す。 

 陥没した鼻を抑え呆然とする神崎に、氷室が告げる。


「舐めてかかると瞬殺を免れないぞ。今、貴様が相対しているのは朝倉渚という【神降ろしの器】に召喚された式神【勾陣(こうじん)】。十二神将の中でも、最強の戦闘力を有する【(とう)()】に次ぐ強さを誇る軍神だ。迅さと俊敏さでは、それに追いつける者はいない」



 神降ろしの器。

 それが渚の異能であり、周囲からの敬称。


 その身体はありとあらゆる霊的存在を受け入れることが可能なだけではなく、符という仮初めの肉体では出来ないその存在の本来の力を発揮出来る。並の巫女では、死者などの下位の霊ならともかく、存在として強大過ぎる神属は受け入れることなど到底かなわない。神属自身が、自らの力をある程度戒めなければその肉体はあっという間に破壊されてしまう。


 それに引き換えて、渚にはその心配は無用なのである。

 生まれながらにして予め外部から受け入れる為の"空洞"を持つ渚は、本来の力を妨げる事なく神属に力を振るわせる事が出来るのだ。


 しかし、渚自身に神属が呼べるわけではない。
 それは氷室の役割であり、離れた存在に召喚するのは手間がかかるという欠点があった。

 符に召喚すれば妙な手間はいらず手っ取り早いのだが、強力ではあるのものの本来の力を思う存分振るえず、致命的な攻撃を受ければ、符が破れ召喚した式神は依り代を失い還ってしまう。

 更に、式神を召喚するのには、相当な霊力を削ることになる。
 現世に維持させるのにも。


 今の氷室には、一日で召喚出来る回数は三度までが限度だった。


 そこで、渚に時間稼ぎをさせて氷室自体から注意を逸らし、その隙に召喚に必要な下準備を終え、一度の召喚で決着がつけるという策に乗じたのだ。

 そして、"二つのうち一つの策"は成功した。

 あとは、もう一つの読みが当たるか当たらないかだった。 



「がぁ、あぁ、あっああぁぁぁ、あああっ!!!!」



 自分に起きた事が信じられない神崎は、驚愕と怒りを慟哭に込めた。

 折れた鼻から留めなく噴き出る鼻血を振り撒きながら、神崎は拳を振りかぶり電光の如き速さで繰り出す。

 避ける素振りすら見せない渚の顔面に目掛けて放たれたそれは、有無を言わさず渚を打った。

 確かな手応えににやり、としてやったりの笑みを浮かべた。

 しかし、それも一瞬の事だった。



「………何っ!?」



 手応えはあった。

 ただし、それは骨を叩いた感触ではなかった。
 もっと、硬質な手応えだった。


 狙った物と神崎の拳を僅かに隔てるのは、電光石火の勢いで打たれた拳をそれよりも速く受け止めた渚の短刀だった。 



「馬鹿な……っ」



 迅さでも上を行かれた事にショック受けて、神崎は大きな隙をつくった。

 軍神は、それを逃がすような甘い存在ではなかった。

 受け止めた拳から滑らすように己の腕を絡め、捻り上げた。

 それに驚愕した神崎慌てて逃れようと身を捩るが、一見緩く見えるその締め様はとても固く締められている。



「くそっ……離せっ、離しやがれぇぇぇぇっ!!」



 神崎の筋肉質な太い腕に比べれば、女装しても違和感のない体つきであるだけに渚の肉体を借りた勾陣の腕は一回り二回りも細い。

 その頼りない見かけからは想像も出来ない力で、神崎の力は抑え付けられていた。

 その事実を否定しようと必死にもがき、暴れた。


 それを離れた場所で聞き留めた氷室が、一言命じた。



「………勾陣、――――――"離して"やれ」



 命令を告げた声は、凍えそうなほど冷えて切っていた。 

 その言葉に秘められた"真意"を感じ取った式神は、主人の命令を"忠実"に実行した。



 下ろしていた右手の短刀を、



「お、おい」



 その動きに、神崎は本能的に嫌な予感がした。

 敵の制止などに聞く耳を持たない勾陣は、構わず短刀を振り上げた。


 そして、――――――神崎の腕に振り下ろした。 




「が、あああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!」




 日本三霊場の一つ、青森の霊山【恐山】の霊気を注がれた朝倉家の人間が扱う霊剣。
 それは、肉を、骨を、筋肉を容赦無く断つ。


 接続箇所の一切を切り離された腕は、左腕の拘束を外されると同時に地面にボトリ、と落下した。

 激痛に神崎の絶叫が、廊下を響き渡った。


 噴き出る魔性の黒い血液が留めなく噴き出る中、それをまともに浴びた渚の顔を借りる勾陣の表情は全くの無表情で、痛みに喚く神崎に尚も攻撃を繰り出した。
 光速の動きで、ガラ空きとなった胴体に無数の斬撃を浴びせる。

 痛みの上乗せに神崎は声に成らない悲鳴を上げ、ついに膝を落とす。


 ボタボタ、と音を立てて血を流す身体には、傷の無いところを見つけるのが困難なほどの凄惨な状態となっていた。

 その光景は、氷室が抱いていた予想を確信へと変えた。



「やはり、か………」



 く、と皮肉を込めた笑みを浮かべた。



「貴様の再生能力も無制限、というわけではないようだな。傷の深さによって、回復に要する時間も差がある。部品が欠ければ、治すものも治せない。おまけに複数の傷は一度に修復はできない、か」



 その証拠であるかのように、神崎の胴体に刻まれた無数の切り傷は修復の気配を見せない。



「つまり、損害が許容(キャパ)範囲(シティ)を超えてしまえば、貴様の自慢の再生力はあまり役に立たないという事だ」

「……な、な…ん……だと」

「何を驚いている。まさか、自分の事だというのに気付いていなかったのか? それで無敵だと主張するとは…………不様という言葉も、貴様に使うのは勿体ないな」

――――――っ、っっ!!」 



 侮蔑の言葉に、顔を赤くして歯を噛み締める神崎。 

 ぶちり、と唇を噛み切り吐き出した血が、充満する口の中に新たな血が流れ込む。


 何もかもが信じられなかった。

 瀕死に追い込まれ、地面に這い蹲る自分も。この戦況も。

 こうなるのは、自分ではなく目の前の二人だったはずなのに、と。



「貴様はもう終わりだ、神崎……」



 静かに告げられた宣告を神崎は否、と否定する。


 まだだ。

 こんなところで終わるなんて事はないっ!

 何もかもこれからなのだ。

 自分を見下して来た全てに復讐するのも。

 千夜を手に入れるのも。


 何もかもっ!!



「ま……だ、終わらねぇ……っ!」

「終わりだよ」

「違うっ! ……ま、だ……だっ!」



 何かを掴むように、神崎の指が地面を掻く。

 もがくように。



「滅せよ、魔性」



 再び、勾陣の腕が上がる。

 霊剣の狙う先は、

 額の猛々しく生える歪な角。 


「や、止めろ……っ!」

「やはり、そこが弱点か」



 懇願する神崎の姿など目にも入れない氷室は、静かに分析した。

 そして、冷徹に、短く、冷酷に、指令を送った。



「やれ」

「やめっ……――――――――――――  



 制止も虚しく勾陣の腕が、振り下ろされるのはほぼ同時だった。





 そして、















「っ、よせぇ! その角に触れるなぁぁ――――――――――――――――っ!!!」














 彼らから大分離れた背後から新たな絶叫が飛んだのも、また同時。

 叫びと、霊剣の刃が神崎の角を打つ音が、重なった。

 ガチン、と硬いもの同士がぶつかり合う音が響いたその瞬間は、恐ろしいほど静かだった。





 次に起こった【力】の爆発を予期させぬ程に。

























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