―――――――バシャッ。
濁った水音の後、その正体の欠片らしきものが久留美の顔に跳ねた。
頬に伝う感覚は、何処かドロリと重たい。
「―――――――ぇ?」
視線を下ろす。
動く母の死体があった、そこへ。
その瞬間、久留美の呼吸は止まった。
「っ、っ―――――――!!」
死体は、そこにあった。
だが、無い。
何かが足らない。
そこにある屍が自分の母親であると確かに知らしめていたはずのモノが、無い。
頭部が―――――――
「ぁ、あっっ、―――――――」
叫ぶ瞬間、追いかけるように次の衝撃が捲くし立てるように起こる。
空気を切り裂くような音と気配を感じた一息の後、首のない身体はその形をなくした。
飛び散ったのだ、と理解したのは、それから三拍後だった。
台所が大きく抉られたような五本の傷跡を刻まれている。
そして、床には、四肢も胴体もバラバラに切り裂かれて出来た数十の肉と共に千切れ飛んだ衣服の残骸である無数の布切れ。
それが、久留美の視界に残る―――――――全てだった。
白いペンキが、脳みそにぶちまけられたような感覚に陥った。
全てが白く染まる。何もかも。
「ぁ、―――――――」
すとん、と下半身―――――――否、全身からありとあらゆる力が失せた。思考する力も、立つ力も。目の前のことを、受け入れる力すら。
出てくるのは、
「………どうし、て」
起きたこと、そして起こした者への―――――――疑念だ。
「どうして……」
「眼が開けば、屍鬼化が完成するところだった。この場の一時凌ぎとはいえ、肉体を完全に破壊すれば甦らせずに済む」
問い先から、淡々とした答えが返ってきた。
必要事項だけを述べた。ただそれだけの、応答。
違う。
そんなことが聞きたいんじゃない。
「そう、じゃな……い」
震える喉から言葉を搾り出す。
べっとりとした母の脳漿が頬に付着していることを、気持ち悪いと感じる心を押しつぶして、
「……どうして、殺したの……?」
「殺したんじゃない。もう、死んでいた」
死んでいた。
その言葉に、ハッと思考が夢から覚める。
そうして久留美の脳内で事態の収拾が測られる。
母は死んでいた。そして、父も同様に。
先ほど千夜が言っていた言葉を思い出す。
さっき父親が目覚めかけた、と。
言葉からその先を導き出すのは、簡単だった。
だが、そうしなければ変わりに何が訪れていただろう。
失ったものを取り戻すことはできただろうか。
自分の元に、両親は帰っただろうか。
それがわからぬほど、久留美の思考回路はまだ排他的状態に陥っていなかった。
失ったものへの無意味な未練を切り捨てて、千夜が選んだのは久留美自身の命だった。
死者ではなく、生きている久留美を助けた。
久留美を。
「―――――――そうじゃないって、言ってるでしょ!!」
恍惚に浸りかけた久留美の意識を引き戻したのは、他ならぬ久留美自身の声だった。
久留美にして、久留美にあらぬ―――――――記憶の中の、筋書きとしてセッティングされた台詞によって、今の久留美は己と過去の記憶との食い違いに気づかされた。
何だ、これは。
何を言っているんだ。
「……何が違うんだ。それは、もうお前の両親じゃない。学校でも見ただろう。死んだ人間は、生き返りはしない。これは、もう形を残しただけの怪物だ。殺さなければ、
殺されていた。………他に理由は、いるのか?」
まるで作業のように説明事項を述べられた言葉。
だが、それは記憶における―――――――【久留美】を納得させるには至らないものであると、久留美は同調して感じ取った。
「どうし、てよ……。どうして、そんなに簡単に殺せるのよ。昨日まで……あんなに仲良く話して……今朝だって………なのに、どうして―――――――そんなに簡単に切り
捨てられるのよっっ!」
応えはない。
千夜は、ただ黙って久留美を見つめるだけだった。
そこに感情はない。否、まるで原型も留めないまでに押し殺している。
久留美には、それが見えていた。
だが、俯く【久留美】には見えてない。
【久留美】の視点を借りているために【久留美】の見えないものは見えないはずだった。
しかし、自分と記憶との間で生じている齟齬によるものか、久留美は久留美で別の視点を持てるようになっていた。
「………何で、何も言わないのよ」
「…………」
「言いなさいよっ!」
息づく人間が二人だけの空間に、【久留美】の張り上げた声だけが虚しく響く。
だが、聞かなくともわかることだった。
生きている人間を助けるために、死んだ人間への未練を割り切ることが、間違った選択だろうか。
そして、本当に千夜が【簡単に切り捨てた】と思っているのか。
けれども、久留美の言葉は、【久留美】には届かない。
当然だ。
そんな歯がゆい気持ちを他所に、
「………じゃぁ、もし………もしも―――――――私が、同じようになったら……どうするの?」
零した言葉に久留美は、目を見開いた。
叶うなら、今すぐにでもその馬鹿な口を引き裂いてしまいたい、と殺意まで芽生えた。
酷にも程のある言葉だった。
応える側の気持ちを考えれば、そんな言葉出てくるはずがない。
『……いっぱしになに憤ってんだか。……もともとはあんたの台詞でしょ?』
『女』の嘲笑うような言葉に、久留美は強い拒否反応を示した。
違う。
私じゃない。
こんなの―――――――知らない。
『じゃぁ、見て聞きな。あんたがこれからやらかすところを』
『女』の声はそれが最後となった。
ただ、返答を待つ沈黙だけが残る。
何かが爆発する寸前のような、不気味な静けさ。
この沈黙が終わることが、怖い。
絶えず続けばいい、と願った久留美の思いを無下にするように―――――――その終わりは訪れた。
「……そうだな」
静かに零された一声。
「……死んだ時点で、もうお前じゃないというのなら―――――――殺すよ」
パリン―――――――と。
久留美は、【久留美】から何かが砕け散る儚い音を聞いた気がした。
事実、壊れたのだ。それまで押さえ込んでいたものを囲っていたものが。
【久留美】の中で張り詰めていた何かが、もはや留めること叶わないまでに。
ぞくり、と久留美は得体の知れない震えを覚えた。
嫌な予感、という名のつく感覚を。
「……なによ、それ……何なのよ、あんた……。一体なんだって言うのよっ!! ……人に、偉そうなこと言って……日常を押し付けて………そしたら、今度は壊して奪
って……帰る場所も無くして、私をどうしたいっていうのよっっ!?」
溢れる激情は、抑圧をなくした今はなるがままだった。
抑えたくない。
抑えられない。
拒否と促進が入り混じり、【久留美】の中はゴチャゴチャになっていく。
………やめて。
意識に走る痛みはない。
だが、心が強く反応している。
畳み掛けるような勢いで、この先で起こることへの拒否を。
「あんたのせいで……なんのかんも、なくな……って―――――――」
嗚咽を含みながら漏れていた言葉が、不意に止まった。
そして、何かを確信づいたように淡白な一言が落ちる。
そうよ、と。
「………あんたさえ………あんたさえ現れなければ……ずっと続いたのにっ!」
馬鹿、と思わず久留美は叫んだ。
言ってはいけない。
その先は、
「退屈でも……日常に、平穏に浸り続けていられていたのにっ! こんな風に、日常を無くして死ぬほど後悔することもなかったのにっっ! ……何もかも、あんたが来て
からおかしくなった! あんたさえいなければ………誰も何も失わずに済んだのよぉぉぉっ!!」
やめろ。
「あんたが……」
やめて。
「あんたが―――――――死ねばよかったのにっっっ!!」
――――――――――――――っっ!
声無き慟哭を、久留美は胸が張りさけんばかりに叫んだ。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――はっ、ぁっ!」
耐え難い苦痛にも似た心が訴える拒絶反応が、久留美を『女』から距離を取らせようとする。
突っぱねるように押し出した両手は、『女』を退かすことは出来なかったが、久留美をベンチから転げ落とした。
「っは、……ぁ……あ、ぁ……」
頭を掻き毟り、水面に突っ伏する。
上半身はガタガタと震えが止まらない。
全身を取り巻く忌まわしさ、恐怖、嫌悪、後悔、拒否感。
それらを取り除こうと久留美は一面に水が張る足場をのた打ち回った。
「あ、ああああああああっ、ぁ、ああああああっ!!」
絶叫。
やり場も正体もわからない想いの旨だった。
泣きじゃくりながら、久留美は叫び続けた。
最悪の失態。
己の行いを忘却したこと。
全てが、久留美には耐え難い苦痛となって襲い掛かる。
久留美は、後悔と嘆きの海に溺れそうだった。
だが、
「………まぁ、助けてくれた相手に向かって潔いまでに責任転嫁しちゃったもんね。呆れて言葉も無いって言うか、いっそ拍手したくなっちゃうわ」
久留美を見下ろして立つのは、罪に苛まれる者への救いの主ではなかった。
絶望の淵に立たされた久留美に、更に追い討ちをかける。
たっぷりと毒が染み込んだ言葉に、久留美は大きく震えた。
「……わかってる? アレがそうなるように手引きしたのは……あいつでもなければ、コソコソ悪巧みしていた奴でもない………【あんた自身の意思】なのよ?」
「……ち、がう」
張り上げて掠れた声が、顔が上がると共に紡ぎ出された。
「あんな、の……望んでなかった。わた、し……私が望んだのは……日常にあいつの居場所を……つくって、あげたかった……だけなのに」
「微妙に嘘ぶっこいてんじゃないわよ。あいつのために日常に居場所を……? 違うでしょうが。―――――――あんたが、日常も非日常も手に入れるため、でしょ?
こんなところまで責任転嫁なわけね………いい根性しているじゃない」
『女』は弁解を鼻で笑い、一蹴した。
「甘ったれた考えね。どっちも欲しいだなんて欲張るから、【本当に大事なもの】まで手放す羽目になったっていうのに」
「…………どういう……意味よ」
「わかんないの? なら、わかるように教えてやるわ。
―――――――諸悪の根源は、あんただって言ってるよ」
予想の範疇を飛び越えた言葉に、久留美は目を見開いた。
「わ、たし……?」
この『女』は何を言っているんだ。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔して、言葉が受け入れ難いこと示す久留美に、
「あんたが【契約】の条件を満たしたから、前約束どおりに執行されたのよ」
「契約って……さっきから、何なのよソレ。一体……何の契約なのよ!」
「―――――――奉納儀式【悲願】。魂の底から想う望みを、己が持つモノを代償として差し出すことで、叶えてもらえる願掛けよ」
望み。
代償。
悲願。
全てが、久留美を混乱の坩堝へと誘うキーワードとなった。
「あんたは、日常を代償として【世界】に差し出して、異能を………【あいつの傍に立つ権利】を手に入れたのよ」
「日常……?」
「この場合は、日常を象徴するものね………言わなくてもわかるでしょう?」
瞬間、過ぎる二つの『顔』。
もはや二度と離れないものとしてこびりついた―――――――あの惨劇の映像の中から飛び出してきた二人の人間の残像だ。
「………なに、よ……知らないわよっ………契約なんか、私はしてないっ!」
「まぁ、当然ね。その点は間違いない。契約そのものを取り付けたのは―――――――私だもの」
思考を麻痺させるには十分な言葉だった。
「……な、に……?」
「契約を結んだのは、私よ。私も、諸悪の根源っていえるわね」
いけしゃぁしゃぁと『女』は告げた。
「…っ、に……よ、ソレ……あんたのせいで……」
「捻りも無く私に来たわね。……でもね、私はあくまで【契約を結んだだけ】よ。……あくまで実行されなきゃ、何の意味も無い形ばかりの口約束を交わしただけ」
今にも飛びかかってきそうな久留美に対し、『女』は欠片も怯みもしなければ、動じた様子も見せない。
己に咎はまるでないと言わんばかりに、ふてぶてしい態度は未だ健在のままだ。
「……実際に決めて、実行に出たのはあんたよ。どんなにフェアに審査して割合ふっても責任はお互いに五分五分ってところじゃない?」
「わけわかんないこと……言ってんじゃないわよぉぉっ!!」
目の前の『女』が、自分が事の発端であると打ち明けたことで、久留美の怒りとやり場の無い後悔は自然と方向を定めた。
追い詰められた久留美の思考は、感情を『女』へぶつけることを選択した。
蹲っていた久留美は、女に飛びかかるように立ち上がった。
「―――――――いいから話を聞け、馬鹿」
しかし、『女』はそれを見越していたかのように先に動いていた。
ガッと首を掴み、牽制するように力がこもる。
久留美はもがくが、びくともしなければ、外すことも出来ない。
ここで久留美は、己が今子供で、相手がそれよりも大人な身体を持っているという体格差があることを思い出す。
「私に腹立てるのも恨むのも結構だけど………あんたの責任まで押し付けるのは止めてくれる? というより………いい加減理解してほしいのよね。自分が何をしたのか、
何がこの結果を招いたのか………理解したうえで、自分がこの後どうすべきなのかをさぁ」
「……わたし、は……なにも、して……な」
「したから言ってんのよ。往生際の悪いやつね、ったく」
絞められた喉からようやく搾り出した弁明は、情け容赦なく踏み潰された。
「言っとくけどね……あの惨劇の起動ボタンを押したのはあんたなんだからね? 言ったでしょ。私は事の発端だけど、あくまで土台をつくっただけなのよ。それを知らず
のうちにそこから上を積み上げて、契約を【完全なもの】にさせたのはあんたなのよ……新條久留美」
「だ、から……わか、らっ……な、いって……」
「あんたは選んだでしょ。あいつを」
「…………?」
何故、そこで千夜なのか。
疑問を込めた視線を送ると、
「なにも契約は強制的に運んだわけじゃない。あんたには、ちゃんと選択肢があったのよ。このまま、あんたはあんたに用意された日常を歩み続けるっていうもう一つの
選択肢がね。………けれど、あんたはそれを蹴ってまであいつの手をとった。【あの時点】で、あのままあいつに振り切られていれば……契約は白紙に還るはずだったん
だけどね」
「……あの、時点……」
『女』が何処を明確として指しているかはわからない。
しかし、『女』の言うことは正しかった。
去りゆく千夜を追いたいと駆り立てられた。そして、事実追いかけた。
「契約の執行条件として、取り付けておいたのよ。あんたが、もし……出会えたとしても、道を交えたいと自らの意思で選択しなければ契約は破棄。望めば、即執行……
そして、代価を奉納するってね。……あんたは選び、契約は執行され……代価である贄は奉納された。
―――――――さて、ここで問題」
『女』の眼は、射抜くように細まった。
「結局、こんなことになるように転ばしたのは……誰なのかしら?」
問うような言葉とは対極的に、視線は決め付けんばかりに久留美を刺し貫く。
「私が……二人を―――――――殺したって……言うの?」
「わかってるじゃない」
「―――――――違うっ!」
受け入れかけたところ、久留美は弾けるように反発した。
「……違う、違う、違うっ! 私じゃない、殺したのは……殺したの、は―――――――」
ガチ、と額を強く小突かれる。
指や拳では及ばない硬さを感じた。
押し付けられていた【それ】は少しだけ離され、その正体を明かす。
何処か、現代のそれとは異なる形をした拳銃だった。
「……これと同じよ」
「ぇ……?」
「これは、実際に自分の手を汚さずに相手を殺せる便利な道具よ。……引き金を引くだけで、勝手にこの丸っこい弾が飛び出て……相手は死ぬ」
銃口は久留美から標準を外し、もう一方の手の平にはいつの間にか二発の銃弾が乗せられていた。
二つの弾。
そこにどんな意味が導入されているか、じわじわと理解を追った。
屍鬼。
そして、千夜。
「自分では手を下さずに済む。……自分は、引き金を引けばいい。ただ、それだけだもの」
「…………」
「あんたの意思を汲んで、【世界】は命運を動かした。動かされた命運は、二つ。堕ちた人の成れの果てと……奇しくもあんたを守るべく参じた人間だった。あんたが殺し
た、奪ったという……行為を直接行った奴らは、あんたの望みを実現するために動かされたに過ぎない。単なる動力だったのよ。あんたの望みの為に支払う代価をつくるた
めの、ね」
ここまで聞いて、否定の意思は既に瀕死だった。
久留美は手を下していない。
だが、久留美が促したのだ。
久留美の意思が、選択が―――――――彼らを殺したのだ、と。
「…………そ、んな」
虚勢も維持も残っておらず、久留美は呆然と事実に打ちひしがれる。
全てが、自分がほしいと願ったせいだというのか。
手に入らないものがあるという事実に対し、みっともなく駄々を捏ねたから。
「理解、した……わね?」
「……ん、で」
「あん?」
まだ何かあるのか、と『女』の眉が不快そうに釣り上がる。
「何で……私、は………ただ………ただ、あいつに……こっちに来て……ほしかった、だけ……なのに」
ただ、それだけを思ってのことだった。
それが―――――――どうしようもない惨劇を招くなんて、どうして予想できただろう。
「……詰めも考えも甘いわね。甘いにも程がある」
縋るような久留美の言葉を、『女』は容赦なくぶった切りにした。
「……あんたは、結局のところあいつを”わかっていなかった”のよ。あいつを見て知って……あんたと同じことしようと考えた人間なんて、今まで腐るほどいたに決まって
るでしょ。それでもあいつは【あそこ】にいた。……意味は、わかるでしょ?」
先達者の存在。
考えたことはなかったかついて是か否かでは―――――――否だ。
わかっていた。
自分は多くいた中の一人でしかないことに。
あの男のようにはなれないことだって、とっくに理解していた。
彼女が手をとった男のように、一つ抜きん出た『特別』な場所には立たせてはもらえないのだ、と。
だが、諦められなかった。
だから足掻いた。
足掻いて、足掻いて―――――――そして、この顛末。始末。終末。結末。
「………もう、いい」
結果として、己の手に残ったものは何であるかを考え、久留美は溜息のように呟いた。
残ったのは、悲劇。そして、結果だ。
手に入らなかったという―――――――虚しさと自業自得で出来た屑鉄のようなオワリ。
「もう、なんだっていい……わかったわよ。結局、私は余計なことばかりして一人で空回っていた………そして、全部がほしいとのたまった挙句の果てが………これよ」
―――――――全てなくなった。
新條久留美という人間を支えていたものは、全て砕かれてしまった。
他ならぬ―――――――新條久留美によって。
「どうでもいい………もう、どうでもいいわよ。……何もかもなくなっちゃった………新條久留美は、からっぽだもの」
「………で、帰らないの?」
「……帰って、何が残ってるのよ。……あるとしたら、何もないって結果だけよ。そんなのいらない。ここにいても、向こうにいても私の手の平の上には何もないって言う
のなら………ここにいるわ。さっきみたいに………私が、消えてなくなるまで」
「………………そう」
何かに見切りをつけるかのように呟いた一言と共に、久留美の首を捕らえたままの『女』の手に力込もる。
それは、先ほどのような威嚇のような加減のきいたものではない。
力は留まることなく強くなっていく。
虚ろな久留美の眼に、『女』の顔が映った。
『女』は、嗜虐ともとれる凶暴さを濃く滲ませていた。
「じゃぁ、頂戴よ」
「………何を」
「新條久留美を」
「……残り滓もらってどうするのよ」
「あんたにとってはそうでも、私にとってはまだまだ使い道があるの。………私なら、もっとうまくやれるわ」
「………」
嘲る言葉は続く。
「あんた、とんだ期待ハズレだったわ。……自分の尻も自分で拭えないなんてね。そんなにここにいたいっていうのなら………好きにすれば? 考えれみれば、その方が
好都合かもしれ…………いいえ、そうねきっと。あんた、いても役に立たないし」
ふんっとこれ見よがしに笑う。
「……とっとと舞台から降りなさいよ、出来損ない。あんた程度が今までやってこれた役………私みたいな代役でも十分立ち回れるわ」
もう、お前は要らない。
久留美は、容赦なく切れ味を持った暗喩をその言葉の中に見た。
憤るべきところだろう。
反論すべきところだろう。
だが、
「………好きに、すれば」
だらしなく口から零れ落ちたのは、久留美の中に溜まりつつある怠惰を表す意思だった。
「勝手に、引き摺り下ろしなさいよ………私は、もう……どうでもいいわ」
普通なら、きっと掴みかかって殴っていた。
けれど、どうだろう。
何も感じない。
そのとおりだと受け入れてしまう、今の自分がある。
これが、新條久留美だっただろうか。
新條久留美とは、何であっただろうか。
白い靄がかかったような思考の中、久留美はふと気がつく。
答えは既に出ていた。
先程自分で言ったばかりだった。
新條久留美は、もう『カラッポ』なのだ―――――――と。
妙な納得を己の中に見出し、久留美は口を閉じた。
【こんなもの】が欲しいというのなら、くれてやる。
好きにすればいい。
この『女』が何をしたいかは知らないが、どうでもいい。何かできるものなら、やってみればいい。
自分には関係ない。もう、関係ない。
濃くなる頭の靄によって、思考が再び薄まっていく。
自己放棄をしたからだろう。また、少しずつ無に帰ろうとしているのだ。
だが、どうでもいい。
どうでもいい。
どうでも―――――――
「……どうでもいい……だぁ?」
唸る声。
『女』のものだ。
何故か不機嫌さが滲んでいることが怪訝な点だった。
しかし、それにも興味をさして引くもなく、久留美は無に落ちようとした。
が。
「あんたが良くてもこっちがよくないじゃぁ、すっとこどっこいがあああああああああああああっ―――――――!!」
さすがにスルーできずに、我に返った途端に襲う顔面右側面への衝撃。
その目まぐるしい出来事の瞬間、久留美が理解できたのは一つきりだ。
パーではなく、グーだった。