見据えられた眼。

 見据えたその奥。

 

 

 僅かなズレもなくかち合ってしまった瞬間に、久留美は『女』の眼から逃れることも逸らすことでも出来なくなった。

 

 『女』の眼の奥は、暗い。

 まるで虚空のように何もなく、ただ闇が落ちているだけだった。

 だが、徐々に見えてくるものがあった。

 

 少しずつ。

 少しずつ。

 

 そこには、何かの映像が見え出した。

 茶色く褪せたそれに、段々と色が付き出す。

 砂が混じる荒い画質から、しっかりと安定を得ていく。

 

 そして、一瞬それが強く反射を放ち、目の前が真っ白になったと感じた瞬間。

 

 

―――――――は……っ!」

 

 

 目の覚めるような感覚。

 一瞬の呼吸を停止と共に、全身が痙攣した。

 ぶわっと吹き出る汗を感じながら、

 

 

 

 

―――――――久留美」

 

 

 

 

 すぐ傍で、声。

 それは安堵を伴った心地よさを含んでいた。

 

 

 ………私、知っている。

 

 

 この声―――――――この人を、知っている。

 

 

 瞬く間に駆け巡る限定的な記憶。

 顔を上げた瞬間には、そこに誰がいるかは既にわかっていた。

 

「か、ずや」

 

 己の意思よりも先に、口がひとりでに動いた。

 違和感と驚きを抱く久留美の耳に、

 

 

 

―――――――何を驚いているの。これはあんたの記憶の中よ』

 

 

 

 あの女―――――――久留美の姿を模った『女』の声が響いた。

 耳にというよりも、頭に響いたといった方が正しいかもしれない。

 どちらにしろ、ここにはいないはずの女の声が聞こえた。

 

 

『あんたは今、既に始まりから終わりまで筋書きが決まった【過去】の一部を、当時のあんた自身を通して再体験しているのよ。……だから、あんたはその筋書き通りに

動かされるわ』

 

 

 言葉が響く中で、そのとおりに久留美の身体は久留美の意思によってではなく、既に決められた行動をこなしていく。

 涙が促す感情もないのに流れ出し、身体は勝手に震える。



 そして、

 

「……無事か、久留美」

「っ、千夜!」

 

 しがみついて泣きじゃくる。

 死に際となる瞬間に思い浮かんだ未練の対象に救われた感動と、途方もなく輝く希望の光に縋りつきたい思いで一杯だった。

 

 そうだ。

 あの時、自分は死に掛けた。殺されかけた。

 

 だが、そうはならなかった。

 この人が、千夜が―――――――助けてくれたからだ。

 だから生きている。

 

 しかし、疑問がそこで終わることはなかった。

 だったら何故、自分は心を閉ざして現実から逃避し、『女』のいう【深層世界】に閉じこもる羽目になるのか、と。

 そもそも、何でこんなことになったのか、と。

 

 

 そこへ、疑問に割りいるように、

 

「………久留美。―――――――ごめんな」

 

 千夜が紡いだ謝罪の言葉。

 その時、記憶の中の筋書きと久留美が一瞬重なり、

 

「何で………謝る、の?」

「………なんでもないよ。意味なんて、ない。……忘れていい」

 

 しがみついていた体勢から見上げようとした動きを遮るように、千夜は久留美の身体に腕を回して、抱いた。

 そして、死角に顔を伏せたまま、

 

「ただ、―――――――俺を許すな。何があっても、絶対に」

 

 呟いたそれは、小さくもしかと響く。

 拒絶とも、懺悔ともとれる言葉だった。

 

 決められた行動以外何一つ許されない久留美が、唯一例外として出来るのは、胸のうちで疑問を膨らますことだけだ。

 

 不意に、千夜によって密着していた身体を強く寄せられ、

 

「……怖ければ、目を閉じていろ」

「え………―――――――っ!」

 

 目を瞬かせた後、前方から感じた気配に視線を向ける。

 その次の瞬間、久留美は顔を恐怖に引き攣らせた。

 

 リビングの入り口から顔を除かせる、赤い双眸。

 飢えた獣の目が、久留美と千夜を食い入るように見ていた。

 

「し、き………」

「そうだ。……すまない、俺の不注意だ」

 

 だが、と続き、

 

―――――――すぐに終わる」

 

 頼もしさと安堵を与える絶対の自信が、その言葉から汲み取れた。

 けれども何故だろうか。

 

 何故、自分はこんなにも胸騒ぎを感じているのだろうか。

 

 怯え、という感覚に近い。

 しかし、一体『何』に覚えているというのか。

 

 

 思考はそこで中断される。

 獣は、久留美を待たずに牙を剥いたのだ。

 

 真っ赤に染まった口が、裂けんばかりに大きく開いて突進してくる。

 

「っひ、……!」

「俺から離れるな」

 

 言われずとも身体は千夜にしがみ付く。

 この場で絶対の信頼を置ける唯一の存在に。

 

 千夜は、応えるように片腕で久留美の身体をしっかり抱いた。

 

 そして、

 

―――――――千変万化弐之式【凶弦糸】」

 

 千夜は腕を後ろに引いた。

 掲げるように高く位置を上げると、手は何かを掻くように五指を折り曲げ、

 

「俺と拘わったばかりに……運が悪かったな。だが―――――――散れ」

 

 腕を振り抜いた。

 

 だが、あの時の作業じみた余裕が、今はない。

 

 バタバタ、と床に落ちる肉片は、まるで獣に引き裂かれたように粗雑な切り分けをされていた。

 

 恐怖の対象が、今は無力な肉の破片に変わったのを見届けると、

 

「……お、かぁ……さん」

 

 千夜の腕から逃れ、久留美の身体は血の海に横たわる母の身体へとおぼつかない足取りで向かう。

 

 すぐ傍まで寄ると、力の抜けきった足は役目を終えたように折れた。

 座り込んだまま、母の顔に触れる。

 まだ温かい。

 

 けれど、徐々にそれも失われつつあることを指先が教えた。

 

「……久留美」

 

 背後に千夜が経つ気配を感じた。

 

「………おねがい、なんとかして」

「…………無理だ」

「私の怪我、治したときみたいに……」

「……死人を生き返らせることは、出来ない」

「死んでな、い。……死んでなんか……だって、まだこんなに温かいのに」

「わかって、いるんだろう……?」

「わからないわよっ! なにも、かも……わからないわよぉっっ!!」

 

 何で、こんなことになったのか。

 

 記憶の中の自分の疑念と、久留美は同じ思いを重ねた。

 

「久留美………そこから離れろ」

「いやよ……手を離したら、母さんが……冷たくなっちゃう」

「じきに()()覚ます(・・・)。……離れるんだ、久留美」

「………?」

 

 目を覚ます、と千夜は確かに言った。

 

 その不可解な発言に気をとられ、久留美は千夜の顔を見た。

 

「……さっき、お前の父親が目覚めかけた。……その後に襲われたというのなら……もうすぐだ」

「な、に……言って」

 

 

 がり、と床を掻く音が、久留美の意識に割って入る。

 

 それは―――――――

 

 

「う、そ……」

 

 見上げていた視線を恐る恐る下げる。

 そこに、あるのは【動く指】。

 冷たい床に上に力なく伸ばされた指が、今はもがくように床を掻いていた。

 






―――――――ぁ」






 

 血の気の色の失せた唇から、掠れた声が発された。

 

 幻聴ではない。

 確かに母の口から出たものだった。

 

「え……あ、あ……っ」

―――――――久留美」

 

 抵抗のない身体は、あっさりと千夜によって後ろへ引き下げられた。

 慄く視線を蠢く死体に釘付けとされた久留美の耳元に、

 

「……赦さなくていい」

「ぇ?」

「……憎んでもいい」

 

 振り向きたい、と自由のきかない体を無理にでも動かしたかった。

 しかし、それは本来の筋書きからは外れている行動であるためか、まったく意のままにならない。

 

 

 千夜。

 千夜、顔が見たい。

 

 

 決まったことしか起こらないこの記憶(せかい)の中で、久留美の望みが叶うことはなかった。

 そして、ただ一方的にかつて起こったことを思い出せ、と突きつけられる。

 

「だから―――――――

 

 

 しかし、偶然にも久留美の望みに応える動作が用意されていた。

 首が僅かに上へと傾く。

 

 真上にあるのは、見たいと願った千夜の顔。

 

 

 

 笑っていた。

 小さく、不恰好な微笑(えがお)がそこにあった。

 

 

 

 初めて見る顔だった。

 

 初めて―――――――

 

 

 ………初めて?

 

 

 そう感じる理由を、久留美は思考の片隅で探った。

 

 

 本来なら【記憶の筋書きに無い行動】だったということか。

 

 

―――――――"さーびす"、よ。今の、忘れんじゃないわよ?』

 

 

 あの女の声だ。

 だが、そんなことも些細なことして思考の隅に掃けて、ただ目の前のものに魅入る。

 

 

 ああ、こんな風に笑うのか。

 それにしても、なんて寂しそうな笑みなのだろう。

 

 なんて―――――――

 

 

 僅かな自由の時間。

 規格外の瞬間。

 

 

 それは、振り下ろされた千夜の腕によって終わりを告げる。

 

 

 

 

 

 グシャ。

 

 

 

 

 

 それは―――――――肉が千切れ、潰れる音だった。

 

 

 

 

 

 



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