―――――――雪。










 

 

 

 そう認識し、鼻に触れたと思えば、スッと肌に馴染んで消えた。

 

「………………」

 

 見上げた白い空から、それは次々と降っていた。

 否―――――――降り続けている。

 

 見渡す一面は、既に白い高原と化している。

 しかし、いくら降り積もろうと白は白。何の変化もない。

 

 

 更には不思議なことに、どれだけ降ろうと地面に積もる降雪量が増える様子はない。

 

 まるで―――――――時間が止まっているようだ。

 

 

 真っ白な白い世界に、ベンチが一つ。

 そこに、たった一人で座るのが―――――――久留美だった。

 

 

 見せ掛けだけの動きを見せる停滞した白い世界には、久留美一人だけが存在していた。

 

 

 ここは何処なのかは、久留美自身にもわからなかった。

 何故、ここにいるのかも。

 

 あまつさえ、久留美自身は気づいていないが、

 

 

 

 ―――――――久留美は、自身のことさえわからなくなり始めていた。

 

 

 

 ここに来るまでのこと。

 何故、ここに至ることになったか。

 それらを含め、自身の情報が彼女の中から消えつつあった。

 

 思い出そうとすれば、頭の中で「止めろ」と言わんばかりに頭痛が響く。

 久留美は、警告音に素直に従った。

 考えてはダメだ。

 本能的なその思いが、久留美に「考える」のを止めさせていた。

 

 

 そして、異変は起きた。

 「思考」を捨てた久留美の中で、代わりに動き出したのは『忘却』という消去作業が始まった。

 それは、徐々にという緩やかなスピードだが、確実―――――――『久留美』を消し去り始めていた。

 証拠に、久留美は『久留美』であることすらわからなくなり始めている。

 

 それが由々しきことだったが、久留美は気づかない。

 否、気づいていたが無視していた。それを、良しとしていた。 

 

 

 このまま消えても構わない、と。

 

 

 考えることを捨てた久留美だが、無意識という思考を必要しない形でその思念だけが残っていた。

 それもまた、少しずつ形を変えていく。悪化という経過を以って。

 

 

 消えていい。

 消えて―――――――しまいたい。

 

 

 受容は願望へと。

 そして、消去のスピードもそれに伴って速さを増す。

 

 『久留美』の消失が、約束された未来となり、それがまもなく訪れるであろう。

 予定が確定へと移ろうとした―――――――その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

―――――――あんた、まだ此処にいたんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 誰にもいないはずの白い空間に、声。

 幻聴かと、久留美が聞き流そうとした瞬間、再度響く。

 

 そして、今度は無視させないとばかりに、

 

「無視するな、馬鹿娘」

 

 さくり、と雪を踏む足音。

 それは人の存在を証明し、肯定するものだった。

 

 久留美は、いつのまにか閉じていた瞼を開ける。

 開けた視界に、あるのは、

 

―――――――は?」

 

 もう随分使われていなかった喉が、思わず声を生んだ。

 驚愕をたっぷり含んだ言葉を。

 

 久留美は見た。

 それにより、その内側で止まりかけ、なくなりかけていたものが一気に動き出し、戻ってくる。

 

 捨てたはずの思考は、急遽活動を再開。

 消え去りかけていた自我は再生し、形を取り戻していく。

 

 こんな急激な復旧工事が起きているのは、目の前の存在のせいだった。

 何故なら、目の前の存在は―――――――『それ』は、

 

 

「やっと見たわね」

 

 

 ふん、と皮肉げに笑う―――――――『顔』。

 

 久留美は、それをよく知っていた。

 当たり前だ。

 

 

 

 

 

 久留美自身の顔なのだから。

 

 

 

 

 

 目の前の存在―――――――久留美の姿を象る者は、久留美の驚愕をそれがどうしたとばかりに何ともないように受け止めて立ちはだかった。

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

「あー、ちょっと退いて。ズレて、隣あけて」

「ぇ? ぁ…………ど、うぞ」

 

 手をひらつかせて、行動を促すふてぶてしい態度に、普段の久留美であれば反抗しただろう。

 しかし、本調子ではない上、目の前の奇妙な存在に圧倒されてしまっているため言われるがまま動くだけだった。

 どっこいせ、と腰を下ろした『それ』は、

 

「……ったく、いつまで時間かけてんのよ。状況整理なんてもう済んでんだから、さっさとあっちに帰りなさいっての。あんたがここでグズグズしているうちに、もうすぐ

丸一日たっちゃうんだからね」

 

 ギロリ。

 そんな擬音がつくのではと思うほどの鋭い視線が、久留美に突き刺さる。

 『それ』―――――――『女』から来る睨みと言葉の意味がわからず、困惑する。

 

「こんなところに閉じ籠っていても、何も変わりやしないわよ。………【契約】は、とっくに完遂しちゃってるんだからね」

「け、いや……く?」

 

 口にした後、久留美は心臓がぶるり、と震えるのを感じた。

 何故か、目の前の『女』が発した『契約』という言葉が、久留美には良くないものであると思えたのだ。

 

 思い出してはならない―――――――触れてはならない何かを浮き彫りにさせてしまうような気がした。

 

「なに、とぼけて………………―――――――ああ、そう。……だから、いつまで経ってもこんなところに居座り続けていたわけね」

 

 久留美の僅かな動揺から、『女』は何かを悟った表情を険しくした。

 隠そうともしない侮蔑に歪めて。

 

「ねぇ、私が何であんたの姿借りてるかわかる? 別にいいでしょ? ……今、使っていないんだから」

「……つか、―――――――っ!?」

 

 

 ハッと眼を見開く。

 

 久留美は気づいた。

 一人の時は知る術もなく、『女』と同じ体勢で視線を交わすまできづかなったことに。

 

 己の視線を放つ場所が、いつもよりも低い位置にあることに。

 違和感に促されるがままに、久留美は己の身体を見回した。

 

 

 掌。

 足。

 顔。

 髪。

 

 

 違う。何かが違う。

 

 一心不乱に己の身体を触る久留美を、『女』は醒めた眼差しで見つめ、

 

「そんなに気になるんなら、足元見てみなさいよ。確認したこと全部が見れるから」

 

 顎をしゃくって促す『女』の言葉を怪訝に思いつつ、言うとおりにする。

 

 すると、

 

―――――――っっ!!」

 

 先ほどまで陰り一つない雪原だった足場は、いつの間にかない。

 代わりにあったのは、水。

 

 

 地平線まで広がる水面だった。

 

 

「な、に……っ?」

「深層世界ってのいうは、自由自在らしくね。本人次第で、いくらでもどんな情景も映し出せるのよ。さっきまではあんただけだったから、ああなってたの。ま、私が出て

きたからいろんなもの交じり合ってこんな感じ」

 

 『女』の言葉など、久留美の耳にはまるで入ってこなかった。

 何故なら、久留美は他に意識を分ける余裕もないほどの驚きに支配されていた。

 

 

 

 そこに映る己の姿に。

 

 

 

「こ……"子供"?」

 

 

「年は十を迎えたくらいかしらね。まぁ、放っておいたら赤ん坊まで戻っちゃっていただろうけど」

「一体、ナニが」

「あんたが、自己放棄に走ったからでしょ。【新條久留美】そのものを丸ごと捨てようとしたから、よ」

「あんた、何わけわかんないこと……」

「オツムまで退化したわけ? ……しょうもない奴」

 

 吐き捨てるように出た貶しに、久留美はカッと眼を見開いて『女』を睥睨する。

 しかし、それにうろたえる様子はまるでなく、

 

「……なによ、その眼? 負け犬がいくら睨みをきかせようと痛くも痒くもないわよ」

「まけい、ぬっ?」

「そうよ。敵はおろか自分から逃げたやつがなんか、負け犬の極みよ。そうじゃないっていうんなら……」

 

 一瞬、『女』の手が伸びた。

 その矢先に、久留美は己の身体がぐいっと強い力で動かされるのを感知した。

 

 その直後、『女』の顔は眼と鼻の先までに距離を縮めた。

 

「……コレ、返すわ」

―――――――っ」

 

 『女』の眼を見た瞬間、久留美は背筋を駆け上がる何かに身震いした。

 警告音が再度響くのを聞いた。

 久留美は、『女』から離れようとしたが、そうはさせないと胸倉を掴む手がビクとも動かさなかった。

 

「はなっ……」

「この姿と一緒に拾ったのよ。……感謝しなさいよ?」

「いや、……やめっ」

 

 

―――――――ダ、メ」

 

 

 完全に怯えきった久留美に、冷酷な断言が降りかかる。

 据わった『女』の眼が、久留美を逃がすまいと捉え、

 

 

 

「あんたは、逃がさない。絶対に。忘れたっていうなら―――――――思い出させてやる」

 

 

 

 

 ―――――――あんたの犯した、間違いを。

 

 

 

 

 

 

 

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