―――――――新條久留美は、現場に残っていた残留思念から汲み取った記録と同じく、やはり両親の襲撃・殺害後に帰宅したようです」

 

 

 

 結局、調査結果は亜樹斗という部外者を残したまま語られることとなった。

 部下はもはや何も言わない。正確には、許されない。

 独裁者としての一面を以って、権力と上下関係というものを全面に押し切ってきた最高権力者がいる。

 

 

 次はないと思え。

 

 

 そう伝えるのには、言葉もアイコンタクトも要らない。

 何もなしに相手に本能的に悟らせた蔵間は、何事もなかったように今は穏やかな様子。既に好青年の皮を被り直している。

 

 普段隠しているだけに敵に回すと奇人狂人モード丸出しだった父親以上に危ない奴かもしれない、と亜樹斗は静かに警戒を高めた。

 

「現場で拾った不確定要素に関する情報は?」

「はっ。……まず、元凶たる屍鬼の存在を確認。数は二体です」

 

 屍鬼、と出た言葉の中にさりげなく置かれた一単語に、亜樹斗の【古傷】が微かに疼いた。

 あの頃に負った【古傷】は、あの頃に拘わった非日常的な事柄を耳にすると痛むようになっていた。後遺症といえば、そのとおりだろう。

 

 屍鬼。

 脳裏に反復させた言葉はそのまま、形を成す。

 

 人間の形をした化け物。

 背中が薄ら寒くなるような赤く濁った目は、【彼女】の澄んでいたそれとはまた違う意味で忘れるに忘れられない。

 

 あの怪物との遭遇が、亜樹斗に未知の異常世界に踏み込んでしまったという事実を知らしめたのだから。

 

「ふーん。それじゃぁ、これでホシの特定が出来たわけだ」

「それだけではありません」

「ほぉ?」

「如何せん完璧とは言い難くありますが………新條久留美の生存の証明が成り立ちました」

 

 うん?と亜樹斗は部下の女が続けた言葉に突っかかりを感じた。

 今、何かおかしなことを言わなかったか、と。

 

「……あのー、ちょっと失礼」

「んー? 何かね、立会人Aさん」

 

 呼ばれた呼称に言いたいことはあったが、切り捨てて、

 

「………今、何かわけのわからない発言が聞こえたんだが?」

「屍鬼のことか? まさか、こっちに踏み込んでおきながら知らねぇとか言うんじゃ」

「いや、そうじゃなくて……」

 

 言いよどむ理由がある。

 こちらの聞き間違い、或いは捉え違いであれば無駄口を挟んだだけである。

 

 いらぬ口を叩いたと、その後の空気が怖い。

 蔵間はともかく、姪の傍に立つ部下の方の冷たい視線も含めて。

 

「ああ、気になったか? ―――――――あんたの姪が生きていることがおかしいってことが」

 

 迷っていたら、蔵間がストレートに亜樹斗の言い分を言い切った。

 しかも、肯定と共に。

 

「……どういう意味だ」

「そう怖い顔するなよ。別に悪い意味じゃない。単純に結果論だ。……普通に考えたら、新條久留美があの惨劇から生き残るのは―――――――むしろ、異常なんだ」

 

 あの頃であれば、理性よりも本能が勝って殴りかかっていたかもしれない。

 人間が年を取る事には意味があるのだな、と場違いな実感を得ながらも、亜樹斗は思考した。

 

 久留美が生き残ったことが異常とは。

 奇跡的と片付けるのは、無理があるのが現実。

 

 ひょっとすると、彼らは―――――――

 

「……おたくは、何を調べているんだ?」

「…………」

 

 問いに対し、蔵間は何故か口端を吊り上げて笑った。

 意味深だ。

 

「……この件に対するアプローチの方針を、変えるかどうかのターニングポイントをさ」

「まぎらわしい。はっきり言えよ」

「はいよ。とりあえず、新條久留美から引き上げようとしているのは……この異常を引き起こした原因だ」

 

 大して改善された気がしないが、幾分理解は追いつく。

 

 おそらく久留美個人の記憶という記録から、その異常の発端というものを見つけようというのだろう。

 事件のたった一人の証人となる人間は、リアルタイムでその惨劇を体感していた。

 個人の視界は小さくも、それでも生きる証拠を残しているはず。何かを見ていたはず。

 

「とりあえず、あんたに確認作業させてやるよ。……聞けよ? あんたの姪は、昨日の夜……どうしようもない絶望的状況にいたんだ。飢えた獣が四匹もいる檻の中に放り込まれたんだ。力も武器もないかよわいオンナノコが、どうやってそんなところで自分の命を守れると思う?」

「……そりゃ、確かに無―――――――

 

 里、と最後のパーツは出てこない。

 現れた新たな疑念が踏み潰して、先に出た。

 

「……待て、今………四人って言ったか?」

「数え方が間違ってるぜ?」

「どうでもいいっ! おい、さっきあんたの部下は……二体と言っただろうが。何で増えてんだ」

「…………ああ、何だ」

 

 己を見つめる蔵間の目に、呆れの色が滲むのを亜樹斗は捉えた。

 しかも、「やっぱり」という強調のオマケすらついて見える。

 

「忘れてんじゃんか。だから言ったのに……」

「何をだよっ!」

―――――――屍鬼の連鎖サイクル。あんた、覚えてるか?」

 

 連鎖、という言葉に亜樹斗は記憶を引き起こさせられる。

 

「……食った人間の屍鬼化」

「よしよし。そこから説明させられるなんてゴメンだったぜー。……そう、あんたの兄夫婦は屍鬼に食われた以上屍鬼化する。そして、案の定なった」

「だが、屍鬼化したら……」

「倒されたら、消滅する。だが、不完全なら別だ。……遺体を検死してみたら、判明した。もっとも………魂は持ってかれちまったみたいだけどな」

 

 魂は、【親】ところへ収集された。

 ギリギリのところでヒトとして、死ねたかもしれない。

 だが、再び―――――――今度は完全なる怪物として復活させられる。

 

 彼らがそうなる。

 想像するだけでも、吐き気がした。

 

「………さて、ここまでで何かおかしいと思わないか?」

「、あ……?」

 

 おかしなところ、と言われて思考。

 思い当たるところは―――――――とりあえず、無い。

 

「………おかしい、って、いうと」

「あるだろぉー? あんたの姪っ子が、こうしてかろうじて生きていることを当然と証明するのには……なくてはならないものって何だよ?」

 

 これ以上のヒントはなしだぜ、と念を押され、亜樹斗はそこからは自分で思考しなければならなくなった。

 

 事件の最中、久留美は絶体絶命だった。

 四体の屍鬼。しかもそのうち二体は彼女自身の両親。

 化け物となったとはいえ、久留美に両親だったものへ立ち向かうことができただろうか。

 

 可能性と考えても、あるか無いかでは無論―――――――否だ。

 亜樹斗にだって、きっと無理だ。

 

 それを考慮しなくても、相手は人間の手に余る存在。現代における科学器具は武器として意味を成さず、銃すら効かない。

 世俗という―――――――退魔の業を背負う者たちの庇護下にある箱庭でぬくぬくと育った自分たち無能の人間には立ち向かう術はなく、彼らを前にしては皆等しく【餌】なのだ。

 

 それが、亜樹斗が十八年前に訪れた一つの出会いから知ることとなった真実だった。

 

 

 もはや亜樹斗には、久留美が生き残ったことへの疑問を抱くのに躊躇は無かった。

 既に無知ではなく、あちら側の知識を多少なりとも持ち合わせているためだ。

 よくも悪くも、亜樹斗は刑事としての本能をこれまでに育んでいた。

 真実を求める探究心は、その瞬間彼を人間ではなく、『刑事』という別の生き物に変えてしまう。

 

 【彼女】が今の自分を見たら、どう思うだろうか。

 向いていないわね、と皮肉りながらも何処か褒めているようでもあったあの少女は。

 

 罪悪感を象るように現れた【彼女】の残影は、すぐに打ち消えた。

 己の記憶の中で留まる【彼女】と違い、自分は変わらずにいられなかった。

 過去の存在となった【彼女】のようになれない。

 自分は、過去(むかし)を立ち去り未来(さき)を迎え続けて―――――――現在(いま)にいるのだから。

 

 頭の中で再生される【彼女】の声を振り切り、亜樹斗は思考作業を続けた。

 

 そして、その瞬間は不意に訪れた。

 まるで道端の石に躓くように。

 

 

「……あ」

 

 まず納得という形だった。

 そして、それは疑問へと発展し、

 

「………そうだ、何で久留美は……」

「だよなぁ。文字通り四面楚歌だったはずの新條久留美には、生き残る術はなかった。なかったはずなのに―――――――どうして、両親はバラバラにされてんだろうな?」

「ひょっとすると……その元凶の屍鬼二体も?」

「さて、ね。………どうなんだ?」

 

 蔵間の視線と共に、亜樹斗は部下を見た。

 二つの注目を受けた部下は、動じることも無く、

 

「……ジャミング領域に入る直前、彼女の目の前で切り刻まれています。それも、一瞬で」

「その執行者は?」

「彼女が視界に映す瞬間に、ジャミングが始まりました。あいにく、その姿を確認することは………」

「そうか。残念だな」

 

 蔵間はさして残念そうな様子は見せずに頷いて、

 

「……まぁ、というわけだ」

 

 言葉を再び亜樹斗に向ける。

 

「生き残った、はちょっと違うだろ? 正確には―――――――助けられたんだ。惨劇に介入した何者かによって」

「………あんたらは、そいつを」

「たった今、本格的に捜索対象に繰り上げさ。現場で検出された、第三の痕跡でな。……なぜか残留霊力の質が薄くて、その場でその存在を特定するには証拠不十分だった。そいつは、間違いなくもう一人の事件の目撃者だ。いや、ひょっとしたら……誰よりも重要参考人になるかもしれねぇな」

「どういうことだ?」

「どう考えたっておかしいだろ。何だってこいつはこの場に居合わせたんだ? 偶然? まさか。こいつは、ここで何かが起こると断定的に予知していたはずだ。そうでない限り、この場を突き止めることなんぞ出来るわけがない。なにしろ、ウチでも感知できなかったんだからな」

 

 世間に事件が表沙汰になっているのは、裏の手回しが遅れたから。

 そして、気づく点はもう一つ。

 

「……この件も、例の連続猟奇殺人の」

「同一犯だ。今回は結果として間接的になったとはいえ、大本は間違いなく……な」

 

 それに、と続いた言葉の先は、

 

「なんか、クサいんだよな。……今までの被害者は野外で襲撃を受けていた。それも、殺され方も今回は違う。猟奇的って点では同じだがな。……だが、それまで通り魔同然のやり方と違って、今回は自宅で襲われた。それも一家で、だ。更には、実行には駒を使って。手段、状況を考えると………今回は何かが違う。これまでの単なる領土拡大を狙った狩り……と片付けるには、些か浅慮過ぎる」

「……通り魔じゃ、ないってのか?」

「家の中狙う通り魔が何処にいるんだよ。通りがかりを襲うから、通り魔っつーんだろ? ……知ってるよな? アパートから一軒家にかけて、東京の有人の建築物には、一つ残らず、【中から招かない限り、魔を進入させない術式】が仕掛けられている。わざわざ手間なことしなくても、外にはエサがわんさかいるんだ。どうして、わざわざ屋内にいる人間を狙う必要があった?」

 

 そうもそうだった。

 猟奇の言葉に惑わされ、肝心なところを見落としていた。

 

 

『どうして、くーちゃんなんですかっ』

 

 それは、久留美でなければ―――――――あの一家でなければならない理由があったから。

 偶然ではないというのなら、そういうことになる。

 

「………しかも、これまでの一連の連続事件には奇妙な点が付いて回ってる」

「奇妙な……?」

「魔性はな……普通は、俺たちには見つかりたくないんだよ。言わば、俺たちは奴らの天敵。手駒の屍鬼を増やすにしても、死体は食い残さない。だから、俺たちの管轄するものは表沙汰の事件として世間に漏れることは滅多にない。しかし、この一連の場合はまるで……」

 

 ―――――――世間にわざわざ見せ付けている。

 

 続く言葉は、亜樹斗にも想像できた。

 

「……挑戦状、みたいなものか」

 

 口にするのも吐き気がするような言葉だ。

 

「或いは、自己顕示だな。降魔庁か……それとも、特定の誰かにか」

「誰かって……一体」

「わかりゃ、苦労しねぇよ……つっても、候補が上がっちまったがな」

 

 それが久留美を助けたという人物であることは、聞かずとも察せた。

 

「……それじゃぁ、久留美は……っ、俺の姪は」

「巻き込まれたんだろうな。……何か、厄介なイザコザに知ってか知らずの内に」

 

 他が助からず、久留美が助かった。

 その分け目は『偶然』か『必然』であるか。

 久留美は後者だった。

 何かの拍子でこの事件の中核に触れてしまったのだ。

 故に巻き込まれ、そして助かった。

 

 コトの中心にあるもう一方の存在によって、迫る危機を感知されたから。

 

「一体……店今、この東京(まち)で………何が起こっているんだ?」

「それも、このコを助けた奴に聞けばわかる……かもしれねぇな」

 

 その時、

 

―――――――お話しのところ申し訳ありませんが、総帥」

 

 控えめに上がったのは、部下の声だ。

 まさか懲りずにまた、と亜樹斗は冷や汗が出そうになったが、

 

「……先程の報告に、少々……付け足しが」

「ん?」

 

 見れば、部下は再び久留美の額に手を置いていた。

 蔵間と亜樹斗の会話をしている最中にも、彼女は調査を進めていたらしい。

 地道な作業は、どうやら実りを見せたようで、

 

「………調査中、気になった箇所があったので念入りに見ていたのですが………プロテクトによるジャミングが混じり始めたところで、この少女が何かを繰り返し叫んでいます。呼びかけているようなので名前だと思われますが……」

 

 その言葉に、亜樹斗は目の色を変えた。

 それは蔵間の同様であった。

 

「聞き取れたか?」

「はい。なんとか」

 

 言ってみろ、という蔵間の言葉に促され、

 

 

 

―――――――……【かずや】。………総帥の推測にある【第三者】を指していると思われます」

 

 

 

 部下はその名を口にした。

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 事件発生時にその場にいたという人物の名前を聞いて、蔵間は撤収を宣言した。

 ここではこれ以上の収穫はないと判断した、とのことだった。

 調査は蔵間のその言葉で切り上げとなり、自然と退室へと移行した。

 よって、亜樹斗も共に病室を出て行くことを余儀なくされた。

 彼らの退室は、同時に亜樹斗にもそれを意味する。

 

 ベッドで横たわる久留美を最後に一度見て、亜樹斗は蔵間たちと共に病室を出た。

 

 受付前まで戻ると、蔵間は部下に本部への報告を言付け、そこから別行動を匂わす言動をしていた。

 その中で、何故か「学校」という言葉が出てきたので思わず聞くと、

 

「ん? 俺、副業で高校の教師してんのよ」

 

 耳を疑うことはこれまで何度もあったが、これほど自分の耳が使い物にならない粗悪品なのではないかと思いつめたのは久しぶりだった。

 なんでまたそんなことを、と呟けば、

 

「上には上がいるんだよ。たかが組織一つのトップくらいじゃ、胡坐かいていられねぇのさ」

 

 謙遜というよりは皮肉っているようだった。

 話によると、今日は当直で放課後の教室点検などの役割を果たさなければならないという。世間で騒がれている猟奇事件を警察の手から取り上げ、一切を取り仕切らなければならないというのに、だ。

 

「俺の上にいる奴は、約束に厳しいやつでな。サボったら後が怖い」

 

 少なくとも、この国の真の最高権力者に地位にいる存在にどんな上がいるというのか。

 口にしかけたその言葉は寸でのところで飲み下して、臓腑に戻した。

 無意識の好奇心で、【彼女】の労力を無駄にするのだけは避けたい。

 

「じゃぁ、俺はいくが………あんたも気をつけろよ」

「は?」

「言っただろ。―――――――姪にばっか気をとられていると、そのうち足を掬われるぜ」

 

 不吉な一言を残して、蔵間恭一は去っていった。

 去り際に残していくというシチュエーションが、より縁起でもなさを強調させている。

 

 ほしくもない不安を置き土産に残された亜樹斗は、移動するあてもないので一人その場に残った。

 仕方ないので、彼らが来るまでいた定位置―――――――待合席に再び腰を下ろした。

 

 ………もう四時半か。とんでもねぇ三十分を過ごしたな。

 

 過ごした時間も、過ごしたい相手も、その際に入手した情報もとんでもない。

 あまりにも異常を濃縮した時間の中で、常識に関する平衡感覚がおかしくなりそうだった。しかも、あれだけ濃い時間が、たった三十分程度のものだったというギャップ。

 

 その僅か三十分によって形成された―――――――昨日のスリ常習犯を追っていた時にすらなかった気疲れに、亜樹斗はどっかり圧し掛かられている。

 

 そういえば、最初のところで自分の資料がどうとか言っていた。

 きっと自宅の電話番号や住所も押さえられているだろう。

 これっきりの拘わりにしたい、という自分の切望は天に届くだろうか。

 

 己の行く先を悶々と考え込む亜樹斗だったが、その思考内容はふとした表紙に切り替えられる。

 

 それは、

 

 

「………かずや……か」

 

 

 久留美の命を救った人物。

 同時に、この一連の事件に大きく関わっている重要参考人。

 

 そして、久留美が狙われた―――――――原因、なのかもしれない。

 

 ………名前からして、やっぱり………【男】なのか。

 

 思えば、最近の久留美の様子はおかしかったといえばそうかもしれない。

 妙な言い方だが、この世間を騒がす猟奇事件騒動の中で、それを担当して携わっていた自身に対する接触があまりにも少なかった。

 

 久留美は、【危険(アブノーマル)】な匂いがするモノをこよなく好んでいる。むしろ、愛しているといっても過言ではなかった。兄の血なのか、平穏(ノーマル)とはかけ離れた不穏の気配を追い求める性を持ち合わせているという、普通の高校生と呼ぶにはいささかズレた変わり者だった。

 そんな姪の周りには、幸いにも一般職業とは言いがたい特殊な業種に付く身内、親戚が自分や彼女の今は亡き父を豊富に存在していた。きっかけや付け入る箇所はいくらでもあり、よって彼女はかなり危ない道を幾度なく潜り抜けた戦歴を持つ兵となった。

 刑事という職業を【危険】への最前線と捉えているらしかった久留美は、特に亜樹斗に懐いてきた。刑事のクセにスレてない馬鹿正直なところも好きよ、と彼女は内面に対する喜んでいいかよくわからない好感度も付け足していたが。

 非日常に飢える久留美が、ひょっこり現れては最近起きた事件で面白そうなやつはないのかと不謹慎なことを聞いてくるのが亜樹斗の日常茶飯事の一つだった。

 時折、兄を流出源に仕入れてきた弱みを片手に強引に聞き出そうとしてくる時もあったが、物事はフェアに進めるまっとうな一面も持ち合わせる久留美は、料金代わりに己が持ち合わせている情報を提供してくれた。

 叔父と姪。そして、刑事と情報やという奇妙な表裏の関係も築いてきた少女を、亜樹斗自身も不思議と愛着を持っていた。可愛げの有無では、間違いなく無い方だった。

 だが、亜樹斗はそんな姪を気に入っていた。

 

 はっきり言えば、羨ましかったのかもしれない。自分とは正反対の人間性を持つ久留美という人間が。

 知的(インテリジェンス)という意味ではともかく、狡猾(ワイズ)という意味では間違いなく賢い人間だった。

 人生に利益や得を招くには、そういう形振り構わない一面はまず必要だろう。言うまでもなく、それを欠いて得に満ちたとは言い難い――――――間違いなく貧乏クジばかりを引いてきた亜樹斗には、一般的にはあまり好意的な意味はない理工さを持つ久留美が何故か羨ましかった。

 どんな形であれ、知り合いには損な人生よりも得な人生を送ってもらいたい。

 羨望を嫉妬に変えるには、亜樹斗という人間は己の人間性を割り切ってしまっていたため、無理だった。

 

 自分には叶わない人生を大成する可能性が身近な人間にあるというのなら、やってみせてほしい。試合には介入できない観客としてせめて応援したい。亜樹斗が久留美に対して抱いたのは、そんな気持ちだった。

 

 しかし、その矢先でこんな顛末だ。

 

 ………なんで、また……お前まで……。

 

 まさか久留美にまで、同じような転機が巡ってくるとは。想像できるわけがなかった。

 だが、と思う。

 

 ………お前は俺と違う。なら、わかったはずだ。

 

 【それ】に遭遇した場合、どう対応すればよかったか。何が、正しい行動か。

 亜樹斗にはわからなかった。わかっていながらもそれが本当に正しいのかわからず【間違えた】のだ。

 久留美は頭のいい娘だ。本能的に、【それ】が触れてはならないものである、と感じたままに理解できたはずだ。好奇心のままに生きていたが、引き際と身の安全の確保は考慮できる人間だった。だからこそ、今まで何か取り返しの付かない事態を一つも被ることなくのらりくらりと無事に生きて来られたのだ。

 

 ………引き際を、見誤ったのか?

 

 理性を上回る何かが―――――――感情が、久留美自身の判断を鈍らせたのか。

 相手に対し、そこまでの感情を抱いたのか。

 

 ―――――――かつての己のように。

 

 

 その存在に惹かれて。

 感情のままに動いて。

 気が付けば異常事態に巻き込まれていて。

 引き返せば間に合うところを、相手を見てそれを迷って。

 引き返せ、と言う相手のことがどうしても放っておけず、不正な判断を下して。

 

 違うところは結局のところとして至った箇所だ。

 亜樹斗は死に掛けたが、失ったものは特になかった。

 久留美は命こそ助かったが、失ったものは大きかった。

 

 

 この結末の分け目となったのは、やはり―――――――

 

 

「……はぁ」

 

 

 溜息と共に思考は中断された。

 考えても仕方ないことであると、思考回路の片隅で傍観していた達観的部分が急に出ずばったのだ。

 それもそうである、とその意見に賛同し、亜樹斗は考えるのをやめた。

 

 署に戻る。

 ここにいても向こうにいても、無為な時間を過ごすしかないのは同じだが、ここにいると気分が自然と滅入る。

 ひょっとしたら、何か他の事件を回されるかもしれない。何かに没頭してこの件から意識を逸らしたいという願望に応えてくれる可能性は、少なくともある。

 

「……その前に」

 

 くるり、と奥に続く―――――――玄関とは真逆の廊下を見遣る。

 久留美の様子を人目見たい。

 変化や回復などの期待などできるわけが、それでも姪が生きている姿を確認したかった。

 

 その後に署へ帰ろう、と予定を決め込んだところで、亜樹斗はようやく待合席から腰を上げた。

 その際、ちらりと受付口の看護婦を一瞥し、一度は断られたことを思う。

 面会謝絶と突っぱねた自分が蔵間たちと奥へ行っても気づかなかったということは、あの看護婦は一般人だろう。

 おそらく、上司から久留美の部屋に行こうとする者はとりあえず追い返せとだけ伝えられているのだと思われる。

 

 このまま自分一人奥へ進んでも、不審な動きとして捉えられて差し止めをくらったりしないだろうか。

 不安要素の発生に、亜樹斗が行動に踏み切れずにいると、タイミングよく受付の前に来院者が立った。

 しめた、とばかりに亜樹斗はその影に隠れて看護婦の注意の範疇に入る前に、廊下へとさりげなく進む。

 

 

 

 

 しかし、その先で亜樹斗の進行を阻んだのは―――――――背後からではなく、前方から来る【モノ】だった。

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 病院内で走るのは、厳禁。

 

 

 そんな言われなくても知っている常識など思考から吹き飛ばず勢いで、その瞬間、亜樹斗は疾走した。

 この状況における最優先の【対象】を追って。

 向かうは出入り口―――――――病院の玄関だ。

 【対象】は、今まさに出入り口の役割を果たす自動ドアを通過して病院の外へと出るところだった。

 待て、と意思を声にする暇はなかった。

 

 とっさの反応で形にできたのは、自動ドアの向こうに消えかかった背中を追うという行動のみで―――――――

 

 

「っっ―――――――!」

 

 

 走り出す亜樹斗を注意する声は幸い聞こえなかった。

 待合席、受付から玄関はそれほど遠いところになく、走るという行為を咎められるほどの距離ではなかった。

 仮に聞こえたとしても、亜樹斗にはどうでもいいことだった。

 そんなもの無視して走るだろう。

 

 そう、関係ない。

 この場で亜樹斗にとって重要なのは、一つなのだから。

 

―――――――っ、は」

 

 自動ドアの開くまでの僅かな時間のロスにも歯噛みしつつ、亜樹斗は病院の外へ駆け出て【対象】の姿を探した。

 しかし、いくら視界を駆使しても【対象】の姿は影すら捉えられない。

 見失った、と亜樹斗が事実を受け入れるのにさして時間は要らなかった。

 

 来た時の青空は朱色に染め変えられ、日の暮れる前兆を示していた。

 褪せた日差しに染められた周囲もそれに応えるように仄かに朱い。

 

 

 その景色の中に、【対象】―――――――あの【少女】はいない。

 

 

 そんな馬鹿な。

 諦めきれない心が事実を否定するように吐き出す疑念。

 呆気にとられて行動が遅れたとはいえ、【少女】との距離はさしてなかった。

 そう、僅か数秒ほどの距離間と遅れだった。

 

 その間に見失うなど有り得ない。

 普通ならば、有り得な―――――――

 

 

 ………普通

 

 

 思ってから、それが酷く意味のない言葉であることを思い出す。

 彼ら―――――――蔵間や、おそらくあの【少女】のような澱にそんなもの通じはしない。そうして失念していたことを思い出すと、同時に亜樹斗は落ち着きを徐々に取り戻していく。そして、思考するだけの落ち着きが戻った亜樹斗は、回想する。

 

 僅か数分足らず遡った先に―――――――【少女】との遭遇の瞬間を。

 

 久留美の病室に向かおうとした亜樹斗の正面からやってきた【少女】に対して、抱いた印象は外見的な判断による単純なものだった。

 

 久留美と同じくらいの年と思われるのに、まったく似ても似つかないほど本当の意味で大人びていた。そして、四十を間もなく迎えようとしている亜樹斗ですら見惚れてしまうほど綺麗な顔立ちだった。

 同じ十代の女の子でもこうも違うのか。やっぱ神様いるんだなどうでも贔屓だろ、と思ったことといえばそんなことぐらいだった。

 

 何事もなく【少女】とすれ違おうとした瞬間だった。

 全身の肌が総毛立つような既視感に襲われたのは。

 

 それは蔵間と鉢合わせた時に感じたものと同等。つまりは、【あちら側】の気配。

 しかし、それだけではなかった。それだけなら、亜樹斗もこうして追いはしなかった。むしろ、それだけなら亜樹斗は知らぬふりをしていただろう。

 

 ただ、【少女】からはそうさせないものを感じたのだ。

 

 すれ違う僅か一瞬に何故か駆け巡った【二つの人間の顔】によって。

 

 

 一つは嘲笑を浮かべていた。

 そこに込もる他意に気づかなければ完璧な愛想笑い。

 今思い出しても、いけ好かない笑み。

 

 

 もう一つは、ただ無表情。

 その奥でどれだけの感情が押し込まれていたかを知ったのは、随分あとの話。

 いつ思い出しても、胸が苦しくさせる抑圧の(かお)

 

 

 二人の人間。

 男と女。

 まったく異なる表情と性質を持ち合わせていた一対。

 

 

 十八年前。

 ひょんなことからとんでもない騒動に巻き込まれた。

 拘わった時間は短かった。

 だが、それまで生きてきた人生の中で、最も必死になった時期だ。

 

 そこには、いい思い出ばかりとは程遠く、どちらかといえば間逆な感情ばかりが詰まっている。

 

 けれども。

 最も―――――――新條亜樹斗という人間が『生きて』いた記憶がそこにはある。

 

 そんな過ぎた時代を象徴する―――――――二人の人間だ。

 

 あの【少女】の気配を間近で感じた瞬間に、【彼ら】が突然記憶から引き出されたのだ。

 そして、被さった。あの【少女】自身に。

 

 

 ………ようするに、俺は。

 

 

 結論を出すと、亜樹斗は【少女】に【彼ら】を見たのだ。

 しかし、それは亜樹斗にとって答えとはならず、新たな疑問でしかなかった。

 

 ………だから、何だっていうんだ。

 

 追いかける理由になるか否かでは―――――――否だ。

 とっさに行動を起こさせた理由にはならない。

 

 感情。

 あの行動の起爆となった『感情』は何だっただろう。

 思った先で、待っていた答えは―――――――

 

 ………ああ。そうか、俺は……。

 

 『それ』は、ここに来るまでの亜樹斗の行動全てを一括りにする締めとなった。

 

 『それ』とは―――――――未練。

 過去に対する未練。

 【彼ら】への。そして、【澱】へと向けられる未練だ。

 

 あの【少女】を追いかけたのも。

 降魔庁、そして蔵間と拘わりを拒まなかったのも。

 

 根底では、彼らとの接触を望んでいたからだ。

 

「………納得だよ、久留美」

 

 亜樹斗は、離れた場所にいる姪に対する同意を声にした。

 わかったのだ。

 彼女が判断を誤った理由が。

 

「俺も……そうなんだ」

 

 危機的状況で、命がけの瞬間を。

 その中で、誰かと共にいる楽しさを。

 

 記憶と心に直接刻み込まれる『生』の実感というものを、知ってしまえばもう知らなかった頃には戻れない。

 

 久留美も同じだったのだろう。

 なんらかの形で拘わり、それを知ってしまった。

 理性の警告を無視して、本能のままに求めて―――――――

 

 

「わかって、いた。……ただ、それでも」

 

 

 あの日。

 別れを告げに来た【彼女】を去る背を追っていたら、まだ戻ることができただろうか。

 

 

 自分とは異なる結果を生んだ久留美を、亜樹斗は不謹慎にもうらやましく思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、彼が病室から久留美が消えたことを知ることになる一時間前のことだった。

 

 

 

 

 






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