パチン。
頭の中で、トラウマのスイッチの入る音が聞こえたのは幻聴ではない。
黒い服。それは、十八年前に負った心と身体の傷を疼かせるキーアイテムだ。
それだけなら、まだ良かった。
黒い服だけなら、まだしも。
だが、今は―――――――
「っ、っ、っ……っ」
いかん、と意識が己の状態がどうなっているかを確認する。
足が、手が―――――――というか全身が震えていた。
無理も無い。
何故なら―――――――どういう因果か、二度とお目にかかることなどなかったはずのトラウマの【元凶】が目の前にいるのだから。
「……あー、と……なんだっけ、な」
「総帥。彼は代々木警察署に所属する刑事、新條亜樹斗です。……被害者【新條久留美】の叔父であり、殺害された【新條波留夫】の実弟にあたる人物です。今朝、資料で
お見せしたはずですが」
「あ、そういえば。特徴の無い面だから覚えにくいんだよな……」
何か失敬なことを言われた気がするが、そんなことを気にするほどの精神の余裕は亜樹斗にはなかった。
目の前の二人は若い男女だ。
だが、【あそこ】に年齢など関係ない。
所属する資格は、全員に共通するたった一つの【才能】だけでいいのだ。
異能という―――――――常識の枠を取り外された力さえ、持ち合わせていれば。
「っぁ、……ぁ」
ダメだ。
どうにかなりそうだ。
自身で自覚していたよりも、トラウマは深刻な傷として残っていたらしい。
まさかの最悪の形で思い知ることとなった亜樹斗は、緊張と焦燥でガチガチに凝固した思考を無理矢理稼動させて、ようやく一つの打開策を産み落とす。
「ここにいるのは……姪っ子の見舞いに来たってところか。警察には、捜査に関する干渉も差し押さえ出したしなぁ」
髪の長い男の方が何か言っている。
しかし、亜樹斗にそれを理解する余裕は無い。
昔の【古傷】が先程からずっと疼きっぱなしだ。
この場にあることを、心身共に全力拒否しているのだろう。
目の前にいる彼らは否が応にも存在を意識するしかなく、身体は恐怖に当てられて古江が止まらない。
このままでは、本気で気が狂いそうだ。
「……い、だ」
「ぅん?」
そうして我慢の限界に達し、ついに、
「ひっ、人違いだぁああああああああああああっっ!!!」
ブチン、という理性の切断音と共に、亜樹斗は逃亡のスタートを切った。
無謀だった。
だが、身体は既に言うことを聞かず、逃げの体勢に入っていた。
体当たりするように男と女の間を突っ切り、そのまま全力疾走に突入した。
幸い上手くよけた為彼らにぶつかることはなかったが、
「―――――――"待てよ、新條亜樹斗" 」
背後で男が焦りも怒気も含まず、無感情に口にした制止の声。
それが響いた途端、
「っ、―――――――」
身体が、待った。
まるで、馬鹿正直に男の言葉に従うように。
「ぁ、あ………?」
何をした、と問おうにも首を後ろに向けることもできない。
指先、舌先すら何一つ。
自身の身に起きた異常に、目を白黒させる亜樹斗のその後ろで、
「……総帥。一般人に【言霊】を執行するのは……」
「普通に言ったって止まらねぇんだから、仕方ないだろ。まぁ、向こうさんはこれで言葉が理解できないほどパニくるような柔な精神じゃ―――――――ねぇよなぁ?」
最後は、己へ向けられたものだと理解できた時点で、男の言うとおり亜樹斗にはまだ言葉を理解する程度の猶予はあった。
寧ろ、身に起きた出来事が亜樹斗を取り巻いていた恐怖を不思議と和らげるという結果となったのだ。
「とりあえず、あんたには用は無い。危害を加える気はねぇから安心しろ。今から言う言葉を聴いてくれたら、その縛りも解いてやるから。だから、そのまま聞け」
これは危害に入らんのか、という突っ込みは身動きの取れない身体では諦めるしかなかった。
だが、背後から敵意や悪意という不穏な空気は感じない。
だからといって気が抜けるわけではない。過去にやられたことがことなのだから。
是非もないこの状態では、相手の言うとおりにするしかなく、
「……なっ、ん……だ?」
「実は、俺たちはあんたの姪っ子に用があってここに来たんだ。あんたのことは事件の資料で知っていたが、ここで鉢合わせたのは想定外だ。……だがまぁ、これもなんか
の縁ということでだな……」
胡散臭い言葉が連ねていく中で、それを断ち切ったのはその後に続いた―――――――
「いっしょにどうだ? 調査ついでに会わせてやるよ―――――――あんたの、姪に」
◆◆◆◆◆◆
【それ】に気づいたのは、受付を通り過ぎる際だった。
「おい、受付……」
「あー、いらんいらん。だって、この病院はうちの管理下にあるやつだし」
「…………」
通り過ぎていく彼らに、看護婦は視線すら向けることは無い。
ついていく亜樹斗にすら、だ。
黙認しているというよりも、まるで、存在そのものに気づいていないかのようだ。
「そもそも、視えていないんだ。んなもんにイチイチ確認とるなんざ、手間だからな」
「み、えて……」
あ、と思うと同時に訪れたのは一瞬の追憶。
そこから拾うのは、記憶と共に刻まれた経験だ。
昔、同じような会話をした―――――――という。
「………実際、どちらに属するかは関係ない。決定打となるのは、当人の意識とその順応力。たとえ、生まれた世界がそうであっても、そこに馴染み生きることへ抵抗が
あったり、存在する自意識が薄ければ、その世界においてその存在は異物として扱われる。……そういうこと、だよな」
受付を通り過ぎ、廊下に入って間もなくしたところで呟いた言葉に、前方で歩いていた男が立ち止まった。そして、後方の亜樹斗に向けて上半身を捻り、
「へぇ、なかなか話せるじゃねぇかあんた。誰に教わったんだ?」
「…………」
「……まぁ、別にいいがな。そうだ、その通り………ただ、違うのは双方の【世界】では異物への扱いが違うということだ」
「………日常(こっち)では、異物は常識の外側。つまり、あるはずのないものとして扱われる。存在しないはずの何かが、そう思っている側に認識されることは……ない」
「正解。逆に……非日常では、異物は確かに異物であることに変わりないが、無視はされない。……そっちと違って生死に無事は付かないがな」
「日常の人間にとっては、異界ともいえる非日常は【常識という結界】の外。常識の守りは、外には届かないから……か」
ひゅぅ、と男は軽く口笛を吹き、
「……誰だか知らんが、そういうのを一般人にもわかるように説明しておいてくれたことを感謝しておくとするか。更に……それに則ると、あんたは俺たちのそういう気配
に呑まれている。だから、常識には認識されなかったのさ」
「……そう、だったな」
なんだかお浚いのようだな、と感じる心は、亜樹斗に異なる点を違和感で訴える。
相手が、【彼女】ではない、と。
「にしても……」
「……あ?」
男の見る目が何故か細められる。
それは、眼差しに込められた意を汲んで考えると、
「……なんで、そんな距離とって歩くんだよ。ここまで面倒くさいから突っ込まなかったけど、あんま離れると気づかれるんだぜ?」
呆れ、という感情を向けてくる男に言われた指摘。
事実であった。
しかも、目測する限りでも五メートルは開いている。
「……あー」
無意識ではない。
寧ろ、意識していたからこそこれほどの距離は開いているのだ。
言い淀む亜樹斗の様子を察しよく汲んだのか、男は、
「そんなにこの制服が怖いか。………世話かけたちまったなぁ。すまんね」
その言葉が、玄関前では流してしまった言葉を亜樹斗の脳裏に再度降りさせた。
「……あんた、総帥だって言ってたよな?」
「ああ。名乗るのが遅れたが……俺が、国家退魔機関【降魔庁】の現・総帥の蔵間恭一だ。以後、よろしく」
この縁の延長は、正直なところ是として頷けるものではなかった。
「……現・総帥って……」
「あんたをとんでもない目に合わせたキチガイ野郎の息子だよ。安心しな、アレはもうくたばってるから」
「―――――――総帥っ!」
隣を歩いていた部下と思わしき女が、大きく声を上げて蔵間という男に目を剥いた。
玄関先での蔵間の誘いにも驚く素振りを見せていたが、今度のものは異議を唱えているように見える。
当然の反応だろう。
この男がしていることは、組織の機密漏洩に他ならない。
しかし、部下の叱責にも大したことなさそうにして蔵間は、
「そう目くじらたてるなよ。この男には、あのクソナルシストの生死の確認を知る権利がある」
「しかし、一般人にそのような機密を……」
「これぐらい別になんてことねぇよ。………なぁ?」
向けられた視線に、亜樹斗は心臓を鷲掴みにされるような緊張感を感じた。
同意を求めるその眼差しは、声なくしても語りかけてくる。
お前は、もっと深いところまで知っているだろう、と。
自分という存在を見透かしているような目に、亜樹斗はかつて散々味わったイヤな気分というものを久々に掘り起こされたと感じた。
味あわせた存在は、二人。
一人は狂人。
もう一人は―――――――
「……まぁ、とりあえずそのトラウマの元凶たる原点はもういねぇから……ひとまず安心しといてくれ」
「………ご親切にどうも」
とりあえず、亜樹斗の中で一つ決定したことがある。
この若き総帥もまた、まともな精神であること以外は大した根性悪であるのは同じということ。
そのことに対して、出来ればこれっきりの縁を願いたいという気持ちだった。
「着きました。ここです」
「はいよ」
着いた、と前方の蔵間たちが足を止めた場所を見て、亜樹斗は、
「…………………………は?」
目を見張った。
たっぷりとした沈黙は躊躇の時間だった。
冗談何かなのだろう、という希望としての。
「……ここって…………そこ、ただの【壁】……」
「そこにいちゃ視えねぇよ。ここ立ってみな」
招くように手を振る蔵間の提案に、それこそ亜樹斗は戸惑った。
何のための距離だったと思っているのか。
しかし、久留美に会うにはその導きを受けるしかない。
背に腹は換えられない。
苦渋の決断を下し、
「……わかった」
距離を縮めるべく、歩みを進める。
出来るだけ、彼らの制服を視界に入れないように目を逸らしながら。
蔵間の隣に立った際には、やはり脂汗と脈拍の異常は起き始めたが、
「………え」
目に映ったものに、それらを意識から外すことになった。
目の前。亜樹斗の視界が捉えたのは、
「……何で」
扉だ。
部屋と部屋の間の間隔として取られていた【壁】には、確かに扉があった。
無理して割り込んだ様子もなく、まるで最初からあったかのように。
ポカン、とする亜樹斗に理解を促す言葉はすぐさま隣から注がれる。
「結界さ。幻術も織り交ぜている特殊なタイプのな。こうして正面の向いて立つ場所以外は、全て死角になるようにしてるから、普通の人間はまず気づかない」
「何で、そんなもんをわざわざ」
「隠すためさ。あんたの姪を」
何で、と問う言葉が出るよりも早く、蔵間はドアノブを回した。
奥へ開く扉の向こうに―――――――部屋が広がる。
そこには、
「入りな」
誘う言葉を聞き逃しそうになるほど、その光景は亜樹斗の思考を錆び付かせた。
一人のためだけに使われるであろう個室には、ベッドとその脇に棚が一台。
そして、ベッドには一人の少女が寝かされていた。
「………くる、み」
呟いた言葉は、風が吹けば掻き消されそうなほどに儚い。そんな自覚を捉えるのは、亜樹斗の思考の何処かでまだ稼動する微かな理性だった。
よく見慣れていたはずの長い三つ編みは、今は見る影もなく解かれてシーツの上に広がっている。知的要素なの、と常に掛けていた伊達眼鏡もない。うっすらと開いた
瞼の下の目は虚無そのもの。
呼吸で息づく胸の微かな上下がなければ、人形と見違えたかもしれない。
だが、道理としては仕方ないことではないだろうか。
目の前にいる少女は、亜樹斗自身が良く知る破天荒な姪ではない。
両親を惨殺される陰惨な事件から、ただ孤独と共に一人遺された年端もいなかない少女だった。
「眠っているのか?」
「いえ、意識はあるようです。ただ、担当医師の話によると……肉体的損害はなかったようですが、精神的なものが」
「……両親を殺されたことによる過度なショックで……自閉状態真っ最中ってところか」
「いかがなさいますか」
「いや、逆に好都合だ。予定通りやってくれ」
「了解です」
己を置いて進む二人の会話に亜樹斗が気づいたのは、部下の女が久留美に近づいた時だった。
「っ、おい」
「落ち着け。調べるだけだ」
「調べるって……何を」
「決まっている。あんたの姪は、今回の事件の唯一の生き証人であり……目撃者でもある可能性があるんだからな」
「だからって……あんな状態の人間をどうするっていうんだっ」
「どうもしない。ただ、頭の中を覗かせてもらうだけだ」
「……頭の、中を……?」
不可解なことを口にする蔵間を不審の目つきで睨む間に、部下はベッドの上に寝かされている久留美のすぐ傍に立っていた。
その手が久留美に伸びるのを見て止めに入ろうと動き出す亜樹斗。
しかし、
「―――――――【接触感応能力】だ。頭かっさばくわけじゃねぇから、大人しくしてくれよ」
またしても蔵間の口から出た言葉によって、制される。
「サイコ……?」
「限定特化型異能の一つ。世間で言うところの―――――――【超能力】ってやつだな」
超能力。
それを耳にした瞬間、亜樹斗の脳裏を過ぎる一瞬の記憶。
『―――――――うさんくさい言い方をすれば、超能力っていうんですって』
蔵間のそれに被さるように、記憶の中の【彼女】の言葉が亜樹斗の脳内に反響した。
「細かく分けるとまたいろいろあるんだが………こいつの場合は、物や記録をデータとして読み取ることが出来る。その異能(ちから)を使って、口の利けないあんたの姪
から手かがりを引き出そうって腹積もりで俺たちは来たんだよ」
「………そう、か」
身を乗り出そうしていた身体を後退させ、亜樹斗は蔵間と隣接する位置に留まる。
その様子に、部下は安心して作業にかかれると思ったのか、安堵のように一息。
そして、二人に背を向けて、久留美の額に手を置くと目を閉じた。
「精神集中するかしないかで拾い落とすもんらしいから、あまり騒がないでくれよ」
「……わかった」
よし、と蔵間が満足げに頷いた矢先、
「そんじゃ、暇潰しになんか話そうぜ」
「…………さっき、自分で」
「別に騒ぐわけじゃない。デカい声出して喚かなきゃ、向こうには聞こえねぇよ」
前言撤回もいいところの主張だ。しかし、それが正しいか悪いかなど、実情を知らない亜樹斗ははっきりと否定はできない。
ここは、好きにさせようと受け流すことを選択し、
「話す……って、俺とあんたで一体何を会話の肴にしようっていうんだ?」
「あるだろう。それこそ―――――――目の前に」
顎で指し示した先には、記憶を探らされている久留美。
その意図に何が暗示されているのかを、亜樹斗はすぐに直感した。
「……さっきから妙に饒舌じゃないか。あんたらの組織は………所轄や本庁の人間には、相当つれなくしていると聞いているんだけどな」
「そりゃ、あんたが相手だからさ」
「…………」
「オイオイ、深読みすんなよ。俺は、健全な性癖だぞー」
そういう意味じゃねぇよ、と言いたかったが、否定は相手にからかいの種を与えるだけであると己を抑え、
「……俺と他の何が違うって?」
「今更しらばっくれる意味なんてねぇと思うんだがね」
「どうとでも言え。俺は、もう……可能な限りあんたらと【そっちの世界】には関わりたくないんだ」
溜息と共に、吐き捨てる。
心の底から汲み上げた本音である。
「……それが、あんたを逃がしてくれた奴の……あんたに対して向けた最後の願いだからか?」
「…………」
「まぁ、いいけど。……ただ、さ」
つい、と横流しされた視線に亜樹斗は背筋を硬直させた。
まるで貫くように鋭いそれに。
「一度逃げられたくらいで、安心するのは早いぜ? 現にあんたは今……姪の不幸を通してこっち側に近づいちまってるんだからな」
突きつけられる現実に、亜樹斗は目を剥いた。
否定は出ない。出せない。
こちらの拒絶という壁をものともせずに突き抜けて、突きつけられた言葉は、拒否も受容も許さないほどに、ただ無慈悲に、一方的に突き刺さる。
胸に刺さった棘のような言葉を引き抜くこともできず、亜樹斗は黙するしかなかった。
「おい、どうだ。なんかわかったか?」
亜樹斗の沈黙の合間に、蔵間は意識を部下へと向けていた。
通常の音量よりもやや大きく発されている声は、精神集中している彼女の意識にも届くようにと配慮しているためだった。
「……精神的プロテクトが強くて、全ては読み取れません。おそらく、精神に受けたショックのせいだと思われます」
「読み取れた部分だけでいい。言え」
「しかし……」
ここでは、さすがに部下が粘った。
いくら何でも度を超している、と。
しかも相手は、一般人というだけではなく刑事。
あちこちで好き放題に捜査資料を掻っ攫っては、部外者立ち入り禁止を一点張りにしている降魔庁は、表の警察関連者にとっては根掘り葉掘りしたくて仕方ない不審者も
同然の存在である。
いわば、降魔庁にとって頭の上を飛び回るやかましい蝿である世俗の組織枠に嵌る人間に、迂闊に重要機密を漏らして当たりかまわず言いふらされては困るというもの。
手に取るように、亜樹斗には部下の女の心中と言いたいことがわかった。
さすがにもうダメだろう、と亜樹斗は静かに部屋からの退出の申請を試みようとした時、
「―――――――お前も、しつこいな」
突然、部屋の重力が変化した。
そんな錯覚が降りかかった。
ずどん、と突然身体に圧しかかる重力の強度が増した。
隣に立つ蔵間恭一の一声によって。
「うちの組織が秘密主義なのは、百も承知だ。お前なんぞに言われんでもわかってる。俺を誰だと思ってる? 誰だと思って、従っている?」
「………も、もうしわけ」
「あん? 何で謝るんだ? お前は自分が間違ったこと言っているとわかっていながら、わざわざ言わんでもいいことを声にして俺に吹っかけたのか?」
「ぇ、……ぁ」
「いや、悪い。この場合、俺が悪いな………どう見ても。お前が言っていることは至極真っ当なことだ。正しいのは、お前だよ。ごめんな、物分りの悪い上司で」
途中から急に声が軽くなった。
だが、それが終わりではないのは、相変わらず続く威圧感で理性と本能は共に理解していた。
亜樹斗は、そんな重力付加を間近で感じながらも部下の方を見た。
戸惑っている。この若き統率者がこのような状態なるのを目にしたのは始めてなのだろう。
この【経験】に関する先達として、ここでホッとして気を抜いてはダメだ、と教えてやりたかった。
ここまではあくまで前振り。
ここからなのだ、と。
「……上に立つってのは、実際不便だなぁ。偉くなると自由に動いちゃいけねぇっていうんだから。どういう原理だろうな?」
「そ………それは、秀でた人間が司令塔となり、その下にいる人間をより良い方向に導くためです」
「ん、そうなの? あ、何だ……お前わかってんじゃん」
その直後、一瞬の空白が開いた。
刹那と呼べる一秒にも到底足らない僅かな隙間。
来る、と経験を刻んだ本能が警鐘を鳴らす。
亜樹斗は、部下の女を見捨てて、自分一人だけでも身構えた。
そして、その時は―――――――来た。
「―――――――だったら、お前のいう秀でた俺の言うことに従え。違うのか、オイ」
声に圧力が舞い戻る。
寧ろ、倍増していた。もちろん、理由は―――――――ここがフルターボをかける重要ポイントだからだ。
「もう一度言うぞ。んなこたぁ、言われんでもわかってる。わかっている上で、俺はそう判断したんだ。俺がそうする、と。俺が上にいる理由ってのは、俺の足元にいる
お前らを導くためなんだろう? わかってる。わかってるんだよ。なら、黙って導かれろ。俺の法(ルール)に従って―――――――」
独裁者そのものの物言い。
それに対し、絶望に色づいた諦めを、亜樹斗は感じていた。
容姿を見ても、そうだとは気づかなかった。
しかし、似ていないな、と感じたつつも、それも段々薄まっていった。
部屋に入る前にあの視線を受けたあたりから、なんとなくこの第一印象は早々に切り捨てるべきあると考えに移ろい始めていた。
ああ納得、と亜樹斗は蔵間恭一という男に対しての認識を定めた。
過去の人物は、360度―――――――あらゆる角度から見て評価されても、好意なんてものは抱かれるはずのない存在だった。
息子と称するこの男も、廊下で聞いた台詞を聞く限り、大勢の意見に対して右に同じと賛同していただろう。
だが、と一つ残念な事実を亜樹斗は呑み下す。
似ていないと見えて、息子もそれを心底願おうとも。
この男は―――――――
「―――――――黙って、いうこと聞け」
腐りきった外道と外見を除けば、父にそっくりの―――――――独裁者だった。
―――――――帰りたい。
姪には悪いと思いつつも、それが亜樹斗の本音だった。