―――――――ねぇ、新條さん。……ここ最近なんかおかしくありませんか?」

 

 

 

 

 

 今日の昼間に逮捕したスリ常習犯。

 被害届けから三日がかりで取り押さえた犯人の事情聴取を終えた。

 

 

 それから十数分が経過した、夜に突入した時刻のことだった。

 現在、己が指導係として面倒を見ている新米刑事が話題を切り出したのは。

 

 

「……世の中がおかしいのは、最近に始まったことじゃねぇと思うがな」

「先輩個人の皮肉った世間への見解を聞いているんじゃありませんって。この署内でのことですよ」

 

 署内に設けられた廊下の片隅にある休憩所。

 自販機とソファが二台ずつというささやかな設備が署内のいくつかの場所に構えられている。

 彼―――――――【新條】とその後輩は、その一つにて束の間の休息に浸っていた。

 

「何だよ、もったいぶらないではっきり言ってくれ。若いお前と違って、四十過ぎた中年はここらで睡眠とっとかないと身体が持たないんだ」

「スリとの三十分持久走に耐え抜いた中年のねちっこさでもうちょっと粘って話を聞いてくださいよ。というわけで、ねちっこい先輩……質問です」

「……何だ、目上を労わる気のない後輩。手短に頼むぜ」

 

 縦長のソファのスペースに身を横たえて、丸ごと陣取った体勢のまま、向かいのソファに腰掛ける後輩にとりあえず応えてやることにした。つまらないことだったら、

強引に打ち切って仮眠に突入する心構えをしつつ。

 

「少し前まで署内で持ちきりだった………ほら、渋谷での殺人事件。謎の猟奇殺人事件だって、散々ニュースでも取り上げられたやつ」

「あー、あったね。犯人は未だ捜索中、と。……で、お前がわざわざ俺の仮眠を妨げてまでおかしいって主張するのは、その事件のどういうところに関連してるんだ?」

「……その時期くらいから、なんか妙な連中がここを出入りするようになってませんか?」

「妙な連中? ………本庁の連中じゃ、ねぇのか?」

「最初はそう思ったんですけど、その本庁の連中となんか争ってるところとか見かけたんで………ありゃ、違うと思うんですよ」

「ふーん。それで、お前は何だと思うよ?」

「だから質問するんですよ。新條さんは知りませんか? 

 

 ―――――――あの喪服みたいな黒スーツを着た連中のこと」

 

 

 ああ、やっぱりそれか。

 最後に倒置法で付け足された言葉の部分で、後輩が何を勘繰っているかを【新條】はすぐに理解した。

 本庁の人間と争っていたという点で匂ったものがおかげで明確に直感できた。

 

「……あー、お前この世界は入ってどんぐらいになるんだっけ」

「半年ですよ」

「そうか。じゃぁ、しょうがねぇな。連中のことに関してなんか、まだ微塵も知識として持ち合わせちゃいねぇよなぁ……」

 

 どっこらせ、と【新條】は上半身を起こし、振り払いきれない眠気に頭を振りながら、

 

「ほら、教えてやるからそのコーヒーよこせ。講義代だ」

「自分で買ってくださいよ。すぐ隣に自販機あるんですから」

「財布、ディスクに置いてきちまった。……情報料と思って、ソレよこしな」

「………俺が口をつけたところは避けてくださいね」

 

 言われんでもするがな、と渋々と差し出された紙コップに入ったコーヒーを受け取る。

 一口啜り、口の中に広がる無糖の苦味に目が覚める感覚を覚えながら、

 

「………【降魔庁】だよ」

「……ご、うま?」

 

 初めて聞くであろう単語に予想通りの反応を示す後輩の姿を確認し、

 

「国家に属する秘密機関。俺たち警察とも違う、また別の治安組織。………情報、活動内容、何のための創られたかさえもわからない。全貌は一切明かされていない……

いわゆる謎の集団組織ってとこだな」

「何ですか、その絵に描いたような胡散臭い組織像は……」

「胡散臭い組織なんだからしょうがないだろ」

 

 そんな身も蓋も無いことを、と開いた口が塞がらない様子の後輩。

 だが、事実を口にしているだけだった。

 

「で、その胡散臭い組織の連中は何で本庁からの当たりが厳しいんですか?」

「胡散臭いから」

「それはもういいです」

「本当だって。………普段何してるか一切わからないやつらが、一方的に管轄内に踏み込んできたんだ。本庁の連中にとっちゃ、こいつら突然やってきて何様のつもり

だって話だろうが。お前が見たのも、大方事件の資料やら調査情報やらを掻っ攫いに着たところを難癖つけられている場面だったんだろうよ」

「結局、全く相手にされていませんでしたけど」

「埒が明かないからな。それに、向こうにはそういうことをしていい権利がある。しかも、何言われようと聞かれようと答える必要もない、と」

「ついつい野次馬根性出してしまって最後まで見ていたら、自分が火の粉被りましたよ。完全に八つ当たりでした……」

「そりゃ災難だったな………」

 

 どうやら、体のいいストレスの捌け口として散々嫌味やらをぶつけられたらしい。

 

「それにしても…………名前ぐらいしかロクに何もわからない組織ですか。そんな秘密主義な連中が、どうしてあの事件に関与してくるんですかね……」

「さぁな……」

 

 話は終わりとばかりに、【新條】は半分ほど残っていたコーヒーを一気に煽って、空の器となった紙コップをゴミ箱に放り込むと、再び横になる。

 瞼を閉じて寝たフリを装い、己の思考世界に飛び込んで彼が思ったのは後輩との間で挟んだ話題の種だった。

 

 降魔庁。

 この存在をまともに直視するのは、何年ぶりのことだろうか。

 

 

 ………そうか、やっぱりこの件も……。

 

 

 渋谷区にて起きた話題騒然となった猟奇殺人事件。

 無差別に、連続として、捜査を混乱させるような愉快犯的で無残残忍を極める犯行。

 この一連の事件における最初の発端となる現場は、【新條】の所属する代々木警察署の管轄域である代々木公園であった。

 

 通報を受けて向かった担当刑事たちを出迎えたのは―――――――狂宴の跡だった。

 

 精液塗れの虚ろな女。

 食いつばまれたような食い残しの男。

 

 二対の死体は、その前夜にどんな惨劇があったかを容易に想像させ、何人かを嘔吐させた。

 現場に立ち合わせた一人である【新條】も、その日は肉や魚を一切口に出来なかった。

 

 血と精液の汚臭に満ちる常軌を逸した現場に、正気じゃない、と誰もが漏らした。

 同僚たちが慄く中で、【新條】もまた戦慄めいた感覚に身体が震えた。

 

 他とは、一線を引いた別の意味で。

 

 

 ………まさか、な。

 

 

 あの時、現場の目の当たりにした瞬間に、【新條】の脳裏には追憶のフラッシュバックが瞬く間もなく起きた。

 シャッターを切るようなそれよりも早く、そして細かく。

押し込めていた忌まわしさと懐かしさに彩られた記憶は、箍が外れたかのように奥底から噴き上げた。

 

 その開放感はまもなくして―――――――全身を総毛立たせる悪寒へと変わった。

 

 

 ………そんなはずが、ない。

 

 

 終わったはずだ。

 六年前に、全ては終わったはずだ、と。

 

 【新條】は、それを伝えに現れた【彼女】との最後の逢瀬を思い出した。

 同時に、離別も伴った六年前の再会を。

 

 

―――――――さよなら。多分、これで本当に最後だから』

 

 

 最後。

 【彼女】と。そして、非日常との拘わり。

 もう自分の二度と現れないと約束することで、彼女は自分を日常へと還した。

 

 逃がされた。

 救われた。

それで、終わったのだと思っていた。

 

 

 ………俺だけ、だったのか?

 

 

 そんな風になっていたのは、あくまで自分の中でのみで。

 自分に被害がこれ以上及ぶまいとした【彼女】が、まだ終わっていない渦中から自分を外へと逃がしただけなのか。

 

 

 しかし、と【新條】は沸々と沸きだした危惧を鎮める要素をやや無理やり持ち出す。

 

 あの狂気の連続殺人事件は、突然、ぷつりと途絶えた。

 四日間に立て続けに起きた死の連鎖が唐突に。

 

 それから不気味なまでに続く沈黙。

 【新條】は、それを降魔庁が事態の処理に動いているからだと考えていた。

 そもそも表であるこちら側に発見されたことが既におかしい。

 その手に関する情報や事件そのものが世間に露見する前に、事前に処理することが彼らの最善であり当然であるはずなのだから。

 

 

 ………なんであれ、あれ以降何も無い。どうにかなったんだろ。

 

 

 こちらで何も無いということは、あちらの対応が適っているということだ。

 どうして出遅れたかは知れないが、終わりよければそれでいい。

 

 

「……あ、新條さん。雨降ってますよ。昼間っから取調室に篭り切っていて全然気づきませんでしたが」

 

 それを知らせたのは、陽がとっくに暮れて夜に浸った外の様子を窓から見ていた後輩の言葉だ。

 

「あー………置き傘してねぇのに。くそ……」

 

 ここで仮眠を取ったら今日の仕事は切り上げて帰ろうかと思っていたところを、外から聞こえる雨音に、【新條】は予定の変更を強いられ舌打った。

 

「自分は傘があるのでもうここらで帰ろうと思いますが、新條さんは……」

「その傘を俺のところに置いてってくれたら帰ろうと思う」

「…………それじゃ、お疲れサマでした」

 

 無視してソファから立ち上がる後輩に薄情さを感じつつも、それを見送る一瞥をくれて、【新條】はひとまず外の様子に収まりがつくまで眠ることにした。

 

 

 

 

 

 しかし、ようやく得ようとした安息を奪う足音は、無情にも【新條】のもとへ忙しさをまとって近づいてきた。

 

 





―――――――おい、新條!! そこにいるな、新條ぉっ!!」

 

 

 んぁ、とその声に落ちかけた意識を寸前で引き上げられた【新條】は、痙攣と共にソファの上を跳び起きた。

 そうして起き上がった先―――――――向かいの廊下からは、よく知る同僚の刑事二人が駆け寄ってくるのが見える。

 

「……あー、何だよ。これから仮眠だっつーのに……」

「馬鹿、そんなこと言ってる場合か。"殺し"だ」

「………っち、何処のどいつだよこんな時に」

 

 眠りにたゆたいかけた若干ダルい身体を、ソファから離しつつ悪態を吐く。

 

「……それで、現場は? 車出すなら運転は頼むぜ、寝起きの運転で事故りたくなったら」

「…………」

 

 返事の代わりに、違和感の込もった沈黙が返ってきた。

 目敏くそのささやかな異変を察した【新條】は、

 

「……どうした?」

「…………新條、お前」

「何だよ」

 

 切り出しを迷う口ぶりの同僚の様子にじれったさを込めた促しを出す。

 すると、隣で同じように渋っていたもう一人の刑事が開口を切った。

 

「……お前、幡ヶ谷に親戚とかいたか?」

「はぁ?」

 

 突然何を言い出すのか、と【新條】は目を見張ったが、言葉の中の一部はある記憶を引き出すには十分のキーワードとなった。

 

「いや、兄貴とその家族が住んでいるが………何なんだ、一体」

 

 【新條】の本能は、既に嫌な予感を捕らえていた。

 しかし、まさかという躊躇と疑心が思い切った踏み出しを抑えた。

 

 それを無力化するように同僚は、

 

 

 

 

「さっき、通報がきた。―――――――幡ヶ谷一丁目の……新條宅で人が死んでいる、と」

 

 

 

 

 睡魔のまどろみを残す思考を一掃する言葉を放った。

 

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 首の付け根が痛い。

そう感じたのは、蒼助が我に返った瞬間だった。

 

 バッと身を乗り出して一拍の空白で、蒼助が理解したのは自分が寝ていたということ。

 そして、次いで思ったのは、その場所としていたのがリビングでありソファであるということ。座ったまま、いつの間にか寝ていた。

 

 その後続く自覚は、現時刻が朝の七時前であること。

 そして―――――――

 

「………帰って、きてねぇ……よな」

 

 念のため、立ち上がり玄関まで歩いた。

 そこに靴が増えた様子は無い。

 更に、念には念を入れて寝室も覗く。しかし、本来の使用者の代わりに潜り込んだその妹が寝息を立てている姿のみであった。

 脱力感と失意、そしてここにあるべきものがないことへの不満を違和感を混雑させながら、蒼助は元の場所へと収まった。

 ドカリ、と腰をソファの弾力に任せ、一息。

 

「…………何処にいやがるんだ、あいつ」

 

 帰ってきても、家に待ち人はいなかった。

 それは日付変更時刻をまわっても、それは変わらなかった。


 一緒に粘っていた朱里が先にダウンして、それを寝室に運んだ後も蒼助は待ち続けた。携帯電話にも何度もかけた。

 しかし、一度も通じることは無く、連絡はとれなかった。

 

 こうなれば維持でも待ち続けようと、夜通し起きていることを覚悟してソファを陣取って一人待ち続けた。が、やはり身体は知らずと途中で限界を迎えて、気が付けば

外はすっかり明るくなっていたというのが事の顛末だ。

 

 途中で根性負けしてしまったことに関しては、苦虫噛み潰す思いだが、せめて起きたらそこに待ち人である彼女がいればいくらかマシな具合になっただろう。

 けれども、それも叶わなかった。

 

 テーブルの上に放置していた己の携帯電話が目に入り、捨てきれない希望を抱いてそれを手に取り、開く。

 それもまた、虚しく散る。

 

「………っ」

 

 半ば叩きつけるようにソファの上に放り、掻き毟るように髪を混ぜる。

 

 落ち着かない。

 いてもたってもいられない。

 

そうした満たされない何かが、眠りに落ちてしまう前より遙かに蒼助の中で増長していた。

 水では潤せない渇いた感覚。

 

 情けない、と今の自分に出るのはそんな蔑みばかりだ。

 一人いないくらいで、こんなにも自分を保てなくなるなど。

 心の何処かに今も残るかつての自分の残滓が、客観の位置に立って嘲笑っている。

 

 腹立たしいが、否定は出来ない。

 抗えない事実が確かに内側に居座っていた。

 

「ああくそっ、女か俺は……!」

 

 鬱陶しいみっともないと見下げてきた女たちと同じではないか、と蒼助は自己嫌悪の渦の中に巻かれてしまいそうだった。

 どうにかなりそうで、そうなっては困るとテレビの電源を付ける。

 それで解決とまではいかないが、気を紛らわす程度にはなるはずだ、と。

 

「つっても、この時間帯はどのチャンネルでもニュースか………つまん」

 

 吐きかけた悪態は突然途切れた。

 不自然にブツリと言葉を中途半端に切ったのは、チャンネルを変えようとした寸前に流れた一つのニュースだった。

 

 

 

 

 

 

 

――――昨夜、東京都渋谷区幡ヶ谷一丁目にて建つ一軒家にて、何者かに惨殺された遺体が発見されました。警察の調べにより遺体は、家主の新條波留夫氏(45)、妻の

新條久美子さん(
42)のものあると判断されました。………なお、唯一の生存を確認された娘の新條久留美さん(16)は、すぐさま病院に搬送され、現在意識不明の状態で

――――

 

 

 

 

 





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