「―――――――あ、降ってきやがった」
外に出ると同時という絶妙なタイミングに、蒼助を舌打った。
狙っているのではないか、とすら思える。
「え、ほんと? ……危なかったね」
その後ろにいた三途は、店の中から身を乗り出してその事実を確認した。
夕刻を越えて夜に入り込んだ世界に、雨が降り出していた。
「うーん……結構強いね」
「あー……センセ、悪ぃんだけど傘貸してくんね?」
「いいよ。ちょっと、待ってて」
そういって、三途は傘を取りに店の奥へと一旦消えた。
蒼助は、待つ間に暗い空を見上げながら、
「……どんどん強くなってんな。こいつが帰るのを渋ってくれたおかげで助かった……つーのかね」
背中に背負った"重み"に首を捻る。
すっかり夢見心地で眠る朱里である。
三途によって振舞われた豪勢な夕飯をしこたま食い貪った後、食ってすぐ寝たら牛になるなんぞ知ったことかとばかりにソファで横になって寝てしまった。
慣れているのか三途は少々小言を述べただけで後は好きにさせていた。
日常茶飯事だというのなら、よくこんな軽量を維持できるものだ、と蒼助は呆れを通り越して感心すらしてしまった。
「……むぅ、おなかいっぱいれす」
「あー、そうだろうとも」
あれだけかっくらっとけばな、と寝言に対し相槌を打っておく。
すると、
「………ねぇさん」
「……………」
考えないようにしていたことをわざわざ掘り返すようなこと言うなよ、と蒼助は苦く思う。結局のところ考えていることは同じ、ということなのか。
「携帯……って、今とれねぇし」
両手はあいにくと塞がっていた。
この状態を脱するには、駅について背中のお荷物を起こすまで我慢するしかない。
はぁ、と蒼助はなんとも手は塞がっているにも拘らず、手持ち無沙汰な気分で溜息を吐き出した。
昼間に千夜へ送ったメールに対する返信は、あれからまだ無い。
だが、何かあった、と考えるにはまだ早いだろう。
「………大方久留美にとっつかまってんだろうが……何してんのかね」
そして、自分はというと―――――――
そう考えが移りかけたところに、ちょうど三途が戻ってきた。
「―――――――お待たせ。いつだったか千夜がそのまま置いていっちゃったのがあったから、これ使うついで持って帰ってあげて」
「あ、どうも」
「待って、朱里ちゃん背負ったままじゃ出来ないでしょ」
実に行き渡った気遣いを働かせる三途は、ワンタッチ式の傘はすみやかに開き、
「はい、どうぞ」
「……………」
差し出された傘に対し、蒼助は手を伸ばす気配をみせない。
三途を見つめたまま動かないという不動を続けるその様子に、
「蒼助くん? ……どうしたの? 朱里ちゃん背負って帰るのが大変なら、やっぱりここで起こし……」
「………いや、そうじゃなくて」
ふい、と視線を逸らしながら、蒼助は言いにくそうに口をまごつかせる。
そして、ようやく言葉を見つけたのか、
「……なんとなく、変わったなぁって……ふと思って」
「ん?」
「なんか、最近感じるんだよ。以前と自分と今の自分の……違いっていうか、ギャップっていうか……そーゆーのを」
「そりゃまた青臭い話題だね。……どうしてそう思うの?」
青臭いなどとあしらう割には聞いてくれるつもりらしい。
聞き手上手なのは年を積んだ成果なのか、と脳裏で失礼なことを考えながら、
「いろいろ込みで……前の自分じゃ到底想像できねぇことになってる。ほら、今なんかどういうわけかガキおぶってるし………。大袈裟に言うと………今自分にあるモノ
全部が、前には絶対に有り得なかったモノだっつーか」
子供はどちらかといえば嫌いで。
人との深いかかわりも不要と思う方で。
「まぁ、取るに足らねぇ些細なことなんだけどよ。………なんつーか、ちょっと前まで俺は死ぬまでこんな感じで変わらねぇもんだと思ってたもんだからさ………」
「それで……その変化に君が感じてることって?」
「………いや、なんだろうかなって」
「わからないの?」
「……ああ」
言葉に対して是と返した蒼助の内心は、実際のところも本当にそうとしか言えない状態だった。
この変化に対して自分の思っているもの。感情。反応。
蒼助は自身のことでありながらも、それがはっきりと掴めずにいた。
嫌悪や喜びというはっきりとした感情が示されない。
「別に嫌でも呆れてもいねぇんだけど………なんか、もやもやっと違和感みてぇのが喉の奥に魚の骨みたくつっかかってて………」
「…………うーん、君が魚の骨を喉につっかえたことがあるかどうかはまたの機会に聞かせてもらうとして」
はっきりとしない物言いの中に、三途はそれでも何かを見出した様子で、
「その違和感の正体は………変化と君の心の"ズレ"だよ」
「……ズレ?」
「そう。今、君という存在の中には無意識のうちに起こっている変化がある。でもまぁ、それは無意識が故に意識されないから………君自身の心は奇妙な違和感として感じ
ているんだろうね」
「……………もうちょっと、わかりやすくしてくんね?」
三途は不快に思う素振りもなく、苦笑を伴わせながら、
「成長しているってこと。……精神的に、ね」
「はぁー?」
言葉としてはわかりやすくなったが、意味はますますわからない。
三途の言っていることと、「違和感」というものに結びつきを見出すことは蒼助には難しかった。
「……まぁ、なんというのかな。自分の成長ってやつは、自分自身の自覚を伴う必要がないわけでね……それは身体も心も一緒なんだよ。……違和感か。確かに、成長って
変化を捉えるとしたそう思うのが妥当ってところか」
「納得してないで説明してくれよ」
ふむふむ、と分析に入ってる三途に、置いていかれる前にと蒼助は突っ込んだ。
「ああ、ごめんね。簡単にいうと、君の感じる違和感というやつは……今慣れないことをしているから生じているんだよ。君が言ったように、以前の自分ではありえないと
いうことを……ね」
「だから……それが何だっていうんだよ」
「それが、君が前よりも人として成長している証ってことさ」
「……何でそうなる」
「じゃ、てっとりばやく私の自己分析を言うね。以前の君は、どちらかといえば独りよがりな節があって………自分の周りをあまり良く見ていなかったんじゃないかな。
そして、周りの干渉も拒絶しがちで逆も然り……」
「…………」
喉から否定はこみ上げてこない。
だからといって、肯定を口にするのも何処か妙な気分だ。
故に中立的な無言をとった蒼助は、結果的にはその言葉を受け入れた。
「……でも、こうして君と関わるようになってから、新たにわかったこともあるよ。君は……人として成長しつつある」
「結局それか……。何でそう思うんだよ、センセ」
「ハハッ……実はさっきの自己分析は、たった今考えて並べた即席ものでね。今の君とは、真逆のことを述べてみただけなんだよ。君は、今あるものが以前にはなかったと
言ったからね。………あてずっぽだったかな?」
「………いや、当たってるよ。あんたの……言った通りだ」
だからこそ、否定しなかった。
ただ、肯定するには自分の心が並べられたそれらの未熟さを容認出来ていなかった。
蒼助は、降りしきる雨が跳ねるコンクリートの地面を視線のやり場にしながら、
「……別に、あのまんまでも良かったんだよ。俺の人生こんなもんだって割り切って腐って生きてても……誰がなんといおうと、俺の世界での俺が決めた生き方だからさ」
でも、と蒼助は過去から今に意識を移し、
「今はどういうわけか、あんなことになって、こんなことになって……こんな感じになっちまったわけだ。別にケチつけるとか、文句言いたいわけじゃねぇんだ……ただ」
今のこの状況を拒否するわけではない。
決して嫌なわけではない。
だが、
「……今の俺の姿を認めて受け入れちまったら………それまでの俺はどうなるんだろうって……」
今を認めたら、それまでは過去になる。
そして、過去はいずれ―――――――忘れ去られていく。
だとしたら、今までの自分は一体なんだったというのか。
脱ぎ捨てられていくだけの薄っぺらい皮だったなのか。
確かに、今までの自分を好ましく思うこともなかった。寧ろ、反吐が出る思いで変えられない自分という存在を忌々しく見つめていた部分もあった。
けれども、ここで切り捨ててしまったら―――――――自分のこれまでは、何の価値もなかったということになるのではないか。
過去の自分を切り捨てることへの躊躇。
それが―――――――蒼助の抱く違和感の正体であった。
「自分でも大袈裟に考え過ぎだって……わかっちゃいるんだけど………」
「………でも、やっぱり気にせずにはいられないか。……意外と繊細だね」
「いがいって…………いや、そうかも。俺もこんな女々しい部分があったなんて思わなかった」
「今まで知らなかった自分も見つけた、と………。なかなかの急成長だね」
「茶化すなよ」
「茶化してなんかいないよ。……とりあえず、君の不安を取り除くために年上として助言しようか」
頼もしい言葉だ。
だが、直後にやって来たのは―――――――
「大丈夫。―――――――心配しなくても、人間はそう簡単に変われる生き物じゃないよ」
ずる、と背中の朱里を落としそうになった。
「そ、それ……さっきまでの話、全否定じゃねぇか」
「そうだね。でも、これもあってさっきの話も成り立つんだよ」
ずり落ちそうな朱里を抱えなおす蒼助の傍らで、三途は話を続けた。
「人間はそうは変わらない、或いは変われるとよく聞くけどさ。どっちが間違っているじゃなくて、どっちも正しいっていうのが正解なんじゃないかなって私は思うんだ」
「どっちもって……それじゃ、矛盾しちまってんじゃ」
「その通り。……でも、それが人間だよ」
「……は?」
答えになっているとは思えない返答に、蒼助は顔を顰めた。
「愛憎。生死。正気と狂気。矛盾した二つの命題が表裏一体として一つの答えとなる要素を人間はたくさん持ち合わせている。……それは、人間そのものが二律背反を提示
する存在であることを意味しているんじゃないかと私は思う」
「………難しい話ですかね、それ」
「そうでもないよ。まぁ、ようはだね……人間は矛盾した生き物だと言いたいわけだよ」
「……変われるけど、変わらない存在ってことすか?」
「そうだね。……三つ子の魂百までって言葉があるでしょ? 人間は、持って生まれた性質は死ぬまで変わらない。これは本当だと思うよ。………でも、人間が変わらない
生き物っていうのはバツだね。だって、人間は成長する生き物です」
「………どっちだよ」
強くなる雨の具合を考慮しても、そろそろ結論を率直に述べてほしい頃合だった。
「人間の成長って言うのは、不変たる部分を土台にして、外から得た影響を積み上げていくことで成り立っているんだよ。ロボットみたいに部品をそっくり換えるような
変化じゃなくて、元の何かに新たしい何かを付け足していく………。これが、成長という変化の実態だね」
「それが、人間が変わらないけど変われるって話の証明か?」
「そう。今の君が不安に思っていることの解消にもなると思う。……君は、過去の自分の無価値化が怖いんだよね?」
「怖くは……まぁ、しっくり来ないというか」
「言い方が悪かったね、ごめん。……でも、わかったでしょ? 過去の君は無価値になんかならないよ。用済みどころか、これからも重要な部分だよ」
「………土台、だからか」
「そう。今とこれからの新しい君の土台だよ。本質無しで人間って存在は成り立ちはしないよ。逆に……過去を恐れて拒絶し、自分の本質を見失う人間ってやつほど、哀れ
で滑稽なものはないさ。……君は、今もそうして過去の存在をちゃんと意識に留めていた。間違っていないよ」
誉められているのだろうが、対する蒼助は複雑な気持ちだった。
何故なら、無意味になることを恐れたとはいえ本質を丸出しにした過去の自分は決して誉めれた存在ではない。そして、断じて好きでも大事にも思えない。
振り払えない憐憫と嫌悪の対象。
どう計算しても、叩き出される答えはこの程度だ。
「でも……俺は、俺の本質ってやつぁ好きにはなれねぇよ。ただ、嫌でも目に付くんだよ」
「それはみんな一緒さ。……自分を心底好きな人間っていないと思うよ。自分に対する好きと甘いは微妙にニュアンスが違って……誰もが無意識に自分を嫌悪して、己の外
の住人である他人に惹かれるんじゃないかな」
達観とした三途の意見は、今度は蒼助の中にすんなりとおさまった。
だが、どうすればいいというのか、と反発も生じた。
「君は意識しているだけ、その傾向が強いようだけど………足りない自分に腹が立つなら、これからどんどん新しいものを取り入れていくといいよ。足りない部分を、埋め
るんだ」
「……出来たら、苦労は」
「もうしてるじゃない。……自分でさっき言ってたでしょ」
「…………」
黙りこむ蒼助に、三途は後付けるように言葉を添えた。
「成長にも良し悪しはつくけど………今の君は、良い方向に向かってると思うよ?」
蒼助の背中で、その要素の一つとなるであろう温もりが、またもぞりと身動ぎした。
◆◆◆◆◆◆
何処で何を間違えたのだろう。
歩みながら、千夜は思った。
礼拝堂。
しばらく訪れていなかったそこは、今は無人だった。
了解を得ようと思ったが、いないものは仕方ないと勝手にお邪魔させてもらった。
カツンカツン、と歩を進めるごとに鳴る足音が、高い天井を備えた広大な空間にはよく響く。酷く空虚な気分にさせる響きだった。
千夜は進む通りの左右に並べられた長椅子の列のうち―――――――右側の一番前のそこの手前に腰掛けた。
俯くと鼻先から雫が落ちる。
雨に打たれた身体は、頭から足先までびっしゃりと濡れていた。
テラードジャケットは水をたっぷり吸って、今は重く感じる。
「まぁ、どの道もうダメか……血も吸ってるしな」
袖口から滴り落ちる雨水が、僅かに赤みを持っているのを見つめ、諦め心地に呟いた。
濡れた衣服や下着が素肌に張り付くのは気持ち悪いが、それも仕方ないことと割り切る。
「………雨、強くなる一方だなぁ」
建物の外から聞こえる雨音は、中に入ってから一際強くなったように聞こえる。
何もかも洗い流しそうな勢いだ。
「……いっそ全部―――――――」
口にしかけて、続きは苦笑で滲ませた。
都合のいいことを吐きかけた己への嘲笑だった。
大地を洗い落とすこの自然現象にだって―――――――人の罪は流せやしない。
くっ、と笑い声が漏れたそのタイミングに重なるように、
「―――――――誰か、いるんですか?」
背後の出入り口の扉が開く少し錆び付を伴った音。
そして、僅かに遅れて続いた少女の声。
しばらく聞いていなかったが、覚えている。
この礼拝堂―――――――及び教会の管理者だ。
「あ、俺だ。俺ー」
「………え、と」
振り向かず手だけ振って自己主張してみたが、相手の理解は追いつかない様子だ。
千夜は今の自分の姿が普段とは少し違うのを思い出し、
「よぉ、―――――――みちる」
振り向いた顔で、相手がようやくわかったようで、
「か、かずやさんっ」
突然の来訪者に驚きの声を上げた。
しかも、
「きゃぁっ!」
転倒。
駆け寄ろうとして、千夜がつくった所々にある水たまりで足を滑らしたらしい。
「大丈夫か? ……濡れた床に足を滑らせて転ぶのもお前くらいだと思うが」
「……す、すみませっ………え、濡れて?」
奥まで点々と続いている水跡を見て、そして近づいてくる千夜を見て、
「び、びしょぬれじゃないですかっ! どうしてっ……出かける前には傘を持たなきゃダメですよ!」
「今日みたいな晴天に予知できるか」
「私、タオル持ってきますからっ」
思い立ったらすぐに行動を起こす。
少女は、そういった感情に実直な人間だった。
しかし、
「きゃうっ」
それに体が付いていけない。
「同じところでそう何度も転べるのもお前くらいだよ………。……その前に、一つ頼みをきいてくれないか」
「いたたっ……え、何ですか?」
とりあえず立ち上がるのを諦めて聞くことに徹することにしたのか、少女はぺたりと足をつけて聞く体勢に切り替わった。
相変わらず犬みたいなやつだな、と一つ一つの行動に集中して入れ込むその真面目さに千夜ははにかんだ。
「―――――――今夜、泊めてくれないか?」
「えっ……でも」
「ちょっと、揉めてな……今日は家に帰れないんだ」
「……喧嘩、したんですか?」
「まぁ、な。三途のところだと、すぐに居場所がわかるし………今夜は、ちょっと一人で考えたいことがあるんだ。いいか?」
千夜の突然の申し出に、少女は呆気にとられたが、
「はぁ、私は構いませんけど……」
「そうか、助かるよ。今日一晩でいい……明日の朝にはいないだろうが、気にするなよ」
「え、何か用事でも……?」
「ああ、ちょっとな……」
やらなきゃいけないことがあって忙しいんだ、と千夜は答え、そこで会話を打ち切り、
「ほら、手を貸してやるから立て。その下濡れているだろ。尻が冷えると身体に悪いらしいぞ」
「ええっそうなんですか!?」
いや事実か知らんけどとにかく立てよ、と少女の手を引き起こす。
「あぅ……お尻濡れちゃいました」
「だから言っただろうに……。ほら、裏に行って着替えにいくぞ。昔いた頃に使っていた服がまだあるなら貸して……」
進行と共に紡いでいた言葉は不意に止まった。
袖につっかえるような抵抗がかかり、千夜の歩みを阻んだのだ。
「みちる……どうした?」
袖を摘むようにして、弱く掴む少女は、ただ黙って千夜を見つめた後、
「あの、―――――――大丈夫、ですか?」
「――――、―――――――」
問われた言葉に、表情の時間が止まるのを千夜は感じた。
わずか一瞬の変化を、少女は見逃さず捉えたのか、そうでないのか、
「私、見当違いなこと言っているのかもしれません………けど、なんだか今の千夜さんちょっと……」
「みちる。―――――――夕飯は?」
「……ぇ?」
全く脈絡のない問いに、少女はポカンと目を丸くした。
それが無意識の優勢の明け渡しとなり、
「おおかたお前のことだから、今日もこのあたりにようやく夕飯の準備にありついて、やり忘れたことがないか作る片手間でこっちに来たんだろう。料理は片手間でするな
とあれほど言ったのに、お前はまったく聞いてくれていなかったみたいだな……」
「あ、えっと……すみません。気になっちゃって、つい」
「まさかと思うが、味噌汁を火にかけたままにしてきてないだろうな………?」
「……………っ!」
返答も返さずに少女は礼拝堂から走り出た。
踵を返す瞬間の血相を抱えた表情だけで、事実の是非は透かして見ることができた。
「わかりやすさも相変わらずだな……」
苦笑とも微笑とも捉えにくい笑みをこぼしながら、その後を追おうと足を一歩踏み出す。
パシャ、と軽く鳴った水音に一旦動きを止め、振り返る。
背を向けたその後ろには、点々と出来る小さな水溜り。
じっと見なければわからないが、その水は―――――――ほのかに紅い。
「……どうせ明日にはバレるだろうが」
それでもいい。
これが彼女の目に触れる前に出て行こう、と明日の予定の第一を決める。
千夜はそれを見つめながら、不意に幻視を感じた。
赤く滲んだ足跡は、千夜がそれまで歩んできた道を模しているように見えたのだ。
人の血と肉と―――――――死で築かれた過去を。
ピチョン、とまた一滴落ちる。
袖から一定の間隔で落ちる仄かに赤い雫を眺め、
「………人は、変われる……か」
いつか言われた言葉。
どれだけ時間が経とうと忘れられず、残り続けている教え。
それは、変われないと言った自分の諦めを真っ向から否定した。
生きている限りいくらでも変われる。
変わらないものなんてない、と。
嘘ではなかったと思う。
きっと彼女は本気で真剣だった。
それが出来ると信じて、だからあんなことをしたのだ。
だが、
「……あんたも、知らなかったんだろうな」
この世の全てを識ったような顔をしたあの賢者は、信じた先に望んだ道はあると、強く信じていた。
しかし、彼女にとって、自分という存在は未知のイレギュラーだっただろう。
彼女の経験では乗り越えられない困難の固まりだった。
それを知らず、彼女は信じていた。
自分が変われる、と。
「…………ごめん、やっぱり無理みたい……なんだ」
信じたかった。
信じてくれた彼女を。
信じたかった。
彼女が信じてくれた自分を。
けれど、けれども。
もう自分には見えてしまった。
「―――――――ダメ、なんだ」
彼女の言葉を嘘にしてしまう自分の行く末とその事実。
それが―――――――目を閉じるようと逸らそうと、拒むことが出来ない距離にあることに。