「……このっ………このっ!!」

 

 

 

 ぺちぺち。

 久留美の指先が、連続運動として携帯電話のボタンを叩く。

 

 突然として電源が落ちた携帯電話は、どんなに起動させようとしても息一つ吹き返しはしなかった。

 

「なんなよ、もう。………結構長く使ってるけど、まだまだイケるでしょー? ねぇ、ちょっと」

 

 バシバシと機体そのものを叩いてもみる。

 しかし、うんともすんとも言わないという変わりない結果が返されるだけだった。

 

「んー……思い返してみると、結構落としたりしたかもしんないわね。水につけちゃったこともあるし………むしろ、ここまで耐久性を維持し続けてきたことを誉めてやるべき

なのかしら……?」

 

 わかったわ安らかに眠れ、と拝むとポケットにしまう。

 

「しょうがないか。………またあとで」

 

 幸い、家には本体と共に子機もあり、連絡網という最終手段が残されている。

 焦る必要は、

 

「だ、大丈夫よね……」

 

 己の名前を呼んだあの声を思い出し、自身に言って聞かせる。

 

 大丈夫。

 大丈夫よ、と。

 

「……よしっ」

 

 とりあえずは家に入ろう。

 そして、

 

「………崩壊した我が家の建て直し。まずはここからよね」

 

 虫のいい話だ、と自分でもそう思わずに入られないのだから世話がない。

 

 だが、

 

 ………このままでいいわけがない。

 

 自分勝手が過ぎた。

 天邪鬼のような性分とはいえ、大事なものをぞんざいに扱ってきた。

 心配もかけてきた。

 

 そうして自分がしてきたこと全てをひっくるめた【現実】。

 それから逃げてきたあの時から続く今まで。

 

 ………もう、終わらせなきゃ……ね。

 

 長い長い勘違いに付き合わせてしまった(ひと)のことを、玄関の扉越しに想う。

 酷いことばかり吐き捨て、ろくに見返らないでいた。

 

「まず、謝って………それから」

 

 何かしてあげたい。

 今まで与えてくれようとした手を振り払い続けた侘びに、今度は自分が母親に対して。

 

 ………紅茶、入れてあげようかな。

 

 習った日から自分で淹れ続けている。

 

 紅茶の入れ方。

 母が与えようとした中で、唯一拒まず受け取ったモノだった。

 

 買ってきてくれる服は全て拒んだ。

 母が築こうとした『普通の親子関係』も拒んだ。

 

 拒んだ時の母が、どんな顔をしていたかは覚えていない。わからない。

 自分の行為も結果にすら目を逸らした。

 

 日常から逃げていれば、少しは近づけるのではないかと馬鹿なことを考えていた。

 自分の居場所から離れれば、あの日々が帰ってくるのではないか、と。

 

「……長い間、迷惑ばっかかけてたね」

 

 大事じゃないわけがなかったのに。

 頭と心のどこかではちゃんとわかっていたはずだった。

 

 悪いのは、現実を受け止め切れなかった心。

 認められなかった自分。

 恨みと盲目的な執念で、本当の望みを見失ってしまった。

 

 そんなどうしようもない自分を、それでも母はずっと―――――――

 

「六年もかかっちゃったけど………でも、やっとわかったから」

 

 遠回りに遠回りを重ねたけれども。

 それでも、自分が何処にいるのが正しくて。何をするのが正しいのか。

 ようやく、答えらしきものを見つけることが出来た。

 

 ここで彼女を待つ。彼女の帰る場所になる。彼女が、彼女のいた場所を帰るところとせずに済むように。

 こんな簡単な答えに気づくのに、納得するのに、随分な時間と手間を注ぎこんでしまったものだ。

 

「……ごめん、ね」

 

 漏れる言葉は、こんなところで零すものではない。

 母親の前で、きちんと頭を下げて告げなければならない。そういうものだった。

 

 約六年分のツケを払う時が、これから始まる。

 うまくいくと、不安がないわけじゃない。許してもらえると、はっきり確信しているわけじゃない。

 

 ………でも、やらなきゃ。

 

 自分のやらなければならないこと。

 そして、やりたいことでもある。

 

「紅茶一杯じゃ、安すぎるだろうけどね……」

 

 それでも。

 同じぐらい、もしくはそれ以上の時間をかけてでも―――――――元に戻していこう。

 

 思考はそこで区切りと打たれ、久留美は一息つき、

 

―――――――それじゃぁ、第一歩………行くわよ」

 

 たかが一歩。

 だが、たくさんの始まりを詰め込んだ重い足踏みだ。

 

 前へ進むための―――――――大事な。

 

 

 妙な緊張感を伴いながら、久留美はドアノブをじっと見つめた後、手を伸ばした。

 ドアノブを握り、引く。

 

 そして、一歩と共に帰宅の言葉を言いかけた。

 

「た、ただい―――――――

 

 

 途端、久留美を迎えたのは返事代わりにとでもいうかのような―――――――『違和感』だった。

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 急に体が湿っぽくなった、というのが、久留美が最初に察した異常だった。

 

 冷や汗だ。

 額や首筋だけではなく、ドアノブを握っている手もそうでない手にも。

 

 そして、背中がスッと寒くなった。

 凍るように。

 

「………っ」

 

 パッと、思わずドアノブから手を離す。

 そのせいでドアが閉まった。久留美は、それでビクッと身を震わした。

 

 そこからしばらく動けなくなり、立ち尽くす。

 心臓の動く速さが、何故か普通のそれより上がっていると感じ、

 

「……何で、電気ついていないの?」

 

 誰もいないのか、と考えたのは一瞬だった。

 鍵は開いていた。しっかり者の母は、出かける際には鍵を閉める。ほんのちょっとそこまでの距離だとしても、必ず。

 

 そして、

 

「靴……は、あるわよね」

 

 母の靴。

 そして、―――――――父の靴もある。

 

「お父さん………もう、帰ってきてるんだ」

 

 遅くなるか、早いか。父の帰宅時間は、仕事上このどちらかに分かれる。

 前者は別に珍しいことではない。いつもいつもネタが掴めるわけではない。一日家にいる時だってある。

 

 だが、問題は父親が早く帰ってきていることではない。

 

 

 どうして(・・・・)()()明かり(・・・)()ついて(・・・)いない(・・・)()()

 

 

 そして、加えてさっきから無視できない―――――――

 

 

「なに………このニオイ」

 

 

 臭い。

 そう思わせる何かが、先ほどから鼻腔を刺激している。

 

 それは、奥から漂っている。

 奥で―――――――何かが、ここまで流れ込むような強い異臭を発している。

 

 ………何で、こんなに静かなの?

 久留美がふと気づいたのは、ソレだった。

 家の中が、何故こんなに静かなのか。

 人がいる家が―――――――如何して、こんなにも。

 

 

 

 生きて(・・・)いる(・・)気配(・・)()ない(・・)のだろうか。

 

 

 

「っ! ………今、何を」

 

 考えてはならないことを思ってしまった。

 ダメ、と久留美は頭を振った。あってはならない、そんなこと。考えてはダメだ。

 

 行かなければ。

 行って、否定を証明しなければ。

 

 そんなことはあるはずない、と。

 

 足はそれをするべく歩行を再開する。

 靴を脱いで、玄関に上がった途端、心臓が痛いくらい高鳴った。

 

 まるで、ダメだと叫んでいるようだ。

 うるさい。私は行くんだ、と制止の痛みを振り切り、前進。

 

 暗い。

 光につながるものが、今の家の中には一切ないのだから当然だ。

 長年暮らして家の構図を理解していなければ、そこの先にある階段の出っ張りに足の小指をぶつけて悶絶してしまうところだ。

 昔それで爪を割ったことを思い出しながら、ゆっくりと慎重に進む。

 

 が。

 

「っぇ、きゃっ……!」

 

 不意打ちかつ、予想外。

 足が、床を滑った。

 正確には、床の上にある『何か』に。

 

 咄嗟の反射的な動きで、二階へ続く階段によって一度途切れる壁の曲がり角に手を引っ掛けたおかげで転倒は免れた。

 ふぬぅっと、腹筋と腕の力でなんとか体勢を整える。

 

 ………な、なにコレ………濡れてる?

 

 壁に両手をやりながら、足を床の表面に押し付ける。ぬるり、とした感触と何かが染みる感覚が靴下越しに伝わる。

 

 水にしては、何かおかしい。

 そう思って久留美は腰を屈めて、『何か』の上に指先を滑らせた。指に感じるそれは、やはり何処か粘着質さを持っていた。

 それを己の顔に近づけ、

 

「………っ!」

 

 空間に漂う異臭と同一のそれが鼻を突き抜けた。それも一層濃く。

 それの付着した指先を凝視する。

 暗いため、色彩判断は殆ど出来ない。

 だが、その液体がとても濃い色をしているくらいは久留美にもわかった。

 

 そして、わかったのはそれだけではなく、

 

 ………コレ……奥に、続いて。

 

 足元の『何か』は、家の奥―――――――リビングとキッチンへ引き摺るように延びていた。

 更に、

 

「………?」

 

 足元と続く先を見比べているうちに、もう一つ気づくことがあった。

 久留美は、再び指を床へと滑らせる。

 何かを探るように、何度か一部の上を行き来させ、

 

「………傷」

 

 ぬるついたモノの下には、床の一定の平坦さを乱すいくつかの傷があった。

 

 方向はバラバラ。

 長さや大きさも均一ではない。

 そして、深さも同じく。

 

 これはまるで、

 

 ……引っ掻き、傷?

 

 そうだ、と確信を思った時だった。

 

 

 リビングで―――――――物音が聞こえたのは。

 

 

「っ!」

 

 久留美は、身体を震わせた。

 同時に心臓も跳ねた。

 

 ………今、音が。

 

 思った矢先、また同じ音が響く。

 

 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。

 ゴン。

 

 ゴン―――――――と。

 

 一定の間隔で響き続ける何かをぶつける音。

 それは、久留美にリビングで何かが起きているという事実を察するに結びつけた。

 

 だが、

 

 ………『何か』って?

 

 どうして、親がいると自分は考えないのか。

 そこには、『自分の両親以外』がいると考えているのか。

 

 

「……そんな、わけが」

 

 無い、と言い切ったが、その語尾の声は小さく微弱だった。

 ギュッと唇を噛んだ久留美は、

 

 ………そんなわけがないっ!

 

 さっきから自分は何を馬鹿なことばかり考えているのだろうか。

 どうかしている。

 

 第一、理由がない。根拠がない。

 そう(・・)なる(・・)要因(・・)が、見当たらない。

 

「い、かなきゃ」

 

 無意識に出た言葉と共に、足が一歩を踏んだ。

 その瞬間に、こめかみがツキンと鋭く痛む。

 

「確かめなきゃ」

 

 ダメだ、と痛みが叫ぶ。

 

 ………何がダメなのよ。

 

 見てはいけないものなんか、この先にはない。あるはずがないというのに。

 行って、確かめなければならない。

 違うと証明しなければならない。この否定が正しい、と。

 

 ………だって、そうでないと。

 

 玄関先で決めたこと。

 これから自分がしていくこと。しなければならないこと。

 

 それら全部をどうすれば―――――――

 

「そんな、ことは……無いったら!」

 

 リビングと廊下を遮る一枚の仕切りであるドア。

 普段はキッチリ閉まっているはずのそれが、少し開いているという不自然も無視して、久留美はそれを押そうと手を伸ばす。

 

 止めろ。

 ダメだ。

 開けてはダメだ。

 

 見ては―――――――

 

 

「うるさいっっ―――――――!!」

 

 

 痛みとして響く頭の中の制止を振り切るように、思い切り押し開けた。

 それで全てが終わると思った。

 

 鳴り止まない警笛のような痛みも。

 このいくら振り払おうとしても、消えやしない不安も。

 

 

 全部、終わって―――――――

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

「紅茶を入れてくれるって? ……あんたが、私にぃ?」

 

 その反応だけで、振り向かなくても母がどんな顔をしているかは十分に想像できた。

 

「どういう風の吹き回しって言いたいだろうけど………別に、理由なんて無いわよ。気分よ、気分。たまには、母さんの顔を見て紅茶飲むのもいいかなぁって……」

「なに気持ち悪いこと言ってるのよ」

「言ってから自分でも思ったわ! 忘れればいいでしょ!」

 

 失敗した、と苦虫を噛み潰しながら、それを拭うように手元の作業を進める。

 しかし、後ろからは母の茶々が飛び、

 

「ちゃぁんと淹れられるんでしょうねぇ? 変なの出したらぶっかけるわよ」

「自分で教えたんだから、それくらい自信持って待ってなさいよ」

「言われるまでもないっての。ただ、教えたことをあんたが十分に出来るかどうかって話よコレは」

「……あー、ハイハイ」

 

 憎まれ口ばかり叩く母親の声に、いっそワザと強烈なのをお見舞いしてやろうかと考えた矢先、

 

 

―――――――ほら。期待してるから、早く淹れてみせなさい」

 

 

 柔らかくなった口調。

 どんな顔をして言ったのかは、わからなかった。

 

 惜しいな、と思ったが、焦ることないかと思い直す。

 これからきっといくらでも見ることができるはずだ。

 

 もう寂しい思いはさせないから。

 これからは、ずっと。

 嫁の貰い手はかなり先延ばしになるだろうから。

 だから、その分ずっと。

 

 

 二人で、一緒に―――――――

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 部屋の中は廊下と同様に暗かった。光がないため、殆ど視界は役に立たない。

 

 だが、そこで【何か】が動いている。

 そう思わせる人影が、ぼんやりと辺りの闇よりも濃く浮かびがっていた。

 

 音がした。

 それが動く音と、廊下にまで聞こえていた何かがぶつかる音。

 

 それらに混じって、さらにもう一つ加わる。

 耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな鈍く微細なもの。

 

 だが、それは―――――――水音だった。

 

 ぬちゃ。

 びちっ。

 ぐちゅ。

 ぴちゃっ。

 ぐちゃ。

 

 何処か粘り気を含んでいるそれは、一度気づくと絶えず響く。

 蠢く影の動きに合わせて。

 

 

―――――――

 

 

 目が慣れてきたせいか、暗闇の中が少しずつ見通せるようになってきた。

 それは影の詳細も浮かび上がらせていく。

 

 蠢いている【それ】は、背を丸めて頭部を何かに埋めていた。

 小刻みに動く【それ】が顔を埋めるものを見る。

 

 最初に見えたのは―――――――足だ。二本の足。

 

 ………足、って?

 

 

 誰のだ。

 そもそも、【あれ】は何をしているのだろう。

 

 知ろうとする思考によって、足が一歩前へ出る。

 その際に爪先が、何かを蹴った。

 痛い、と感じる程にならないささやかな衝撃に、久留美はその障害物を見下ろす。

 

 バックだ。

 そこからはみ出ているのは―――――――カメラ。

 

 

 

『お父さんって、毎日こんな重くてデカいカメラ持ち歩いてるの?』

『ああ。だけど、遠くからでもよく映るぞ』

『隣のビルから見える女優の着替えとか?』

『ああ、もちろんって何を言わせてんの、久留美さんっ!』

 

 

 

 安かった割に性能はいい、と言って父は愛用していた。大事にしていた。

 それがどうして、こんな風に放り出されているのか。

 よく見ると、レンズが割れていた。一大事だ。

 

 記者としては抜け目ないくせに、なぜか抜けている部分もしっかりあるあの父はついにやっちまったのか、と持ち主を探した。

 

 いない。

 何処にもいない。

 仕事以外じゃ四六時中締りのない面で、ヘラヘラと視界を横切る父が―――――――いない。

 

 

「い、や………ぅ、そ……」

 

 さっきから視界にチラつくものは、違う。

 

 だって。

 だって、あの人は―――――――■■でなんかいない。

 だから、違う。

 

 あそこで、腹を貪られているアレは違う。

 父は、■■でなんか―――――――

 

 

「―――――ぁ」

 

 影の動きが、一瞬止まった。

 一定の動きをただ続けるだけだった【ソレ】は、丸めていた体を今度は反るように伸ばして、

 

「っひ……」

 

 

 こちらを見た。

 

 血走った目。

 突き刺すために尖った歯。

 そして、それを生やす口元は、鼻から下という領域に渡って真っ赤に染まっていた。

 

 ……それ、誰の?

 

 思考が分析対象としたのは、向き合った対象そのものではなかった。

 

 その口についた赤は、何だ。

 その赤は、何から付着したものなのか。

 どうして付着しているのか。

 

 誰の■なのか。

 

 

「あ、ぁ……っぁ」

 

 

 一歩、一歩と足がひとりでに後退していく。

 現実を受け入れられない本能が、その意思のままに身体を動かす。

 

 現実が遠ざかるように。

 そんなことは無駄とわかっていても。

 

「……っ」

 

 肩が出入り口の角にぶつかり、久留美はその拍子にバランスを崩した。

 元々身体は理解していた。心を置いて、本能と共に。

 力をなくしてギリギリの維持を保っていた膝は、ガクリと床の上に落ちた。

 何の緩和もなく打ちつけた尻は痛かったが、久留美はそれを感じる余裕などなかった。

 

 【ソレ】は、久留美に対して注意を完全に移した様子で動き出していた。

 それまで夢中になって縋り付いていたモノなど放って、久留美の方へ。

 

 そして、見えてしまった。

 今まで久留美の視界から遮っていた【ソレ】が、そこから退いたことで。

 

 ■■となった、父の姿が。

 

 

―――――――っあ、ぁ、あ、ぁ、ぁ、ああっ!!」

 

 

 久留美は啼くように叫びながら、立たない足を引きずって後ろへと引いた。

 背が壁にぶつかり、行き止まる。

 後ろには逃げ場が無いと理解するのに幾度がもがいた後、久留美は横へと這いずった。

 

 

「ぁ、あ、っぁ」

 

 

 誰か。

 誰か。

 誰か。

 

 久留美は、この夢から覚ましてくれる誰かを求めた。

 

「おかあ、さんっ」

 

 朝、いつも最初に見る人。

 夢を見ていたら、起こしてくれるのはいつだって母だった。

 

 久留美は母を求めた。

 両手で床を引っ掻き回しながら、家の奥へともがき進んだ。

 四つんばいになって這い進む久留美は、中でリビングと繋がっているキッチンの前まできた。

 やはり、そこもドアが開いていた。

 しかし、久留美は気にかける余裕はなく、

 

 

「っは、おか、ぁさ―――――――

 

 

 ―――――――ゆえに、待っていた悪夢の続きを目の当たりにした。

 

 夢の終わりを告げる人はなく、ただ覚めない夢の続きだけが絶望を伴って、そこあった。

 

 

―――――――、」

 

 

 母はこちらを見ていた。

 目には光がなく虚ろ。それでも、目を大きく見開いていた。

 仰向けに倒れたまま、久留美を見ていた。

 

 否。

 

 母は、もう久留美のことは見えていなかった。見ていなかった。

 何故なら母の命は、食われてしまっていたからだ。

 腹の臓腑を貪り喰らう化け物に。

 父と、同じように。

 

 

 そこにあるのは―――――――かつては母であった、今はただの肉塊。

 

 

 

 

「………ぁ」




 

 くたり、と久留美は全身から力が抜けるのを感じた。

 絶望に促された脱力という現象だった。

 

 縋るもの。救いを求めるもの。逃げ場となるもの。

 それら全てが、もう無いのだから。

 

 

「……どう、して」

 

 

 何で、こんなことになっているのか。

 やっと認められたのに。

 やっとそこにあることに意味があるのだと理解できたのに。

 

 どうして、無くなってしまったのか。

 

「……どうして」

 

 ようやく前へ進めると、思ったのに。

 過去から先へ踏み出せると、思ったのに。

 

 どうして、求めたら今度は無くなってしまうのか。

 

 

「………どうしてっ!」

 

 問いに答える生者は、この場には久留美以外にいない。

 答えは返らない。

 

 ただ、危機はじわりじわりと迫っていた。

 両親に降りかかった危機が、久留美にも―――――――もう目前だった。

 

「…………あ」

 

 気配に首を向ければ、真っ赤に染まった目が久留美を見下ろしていた。

 赤黒く染まった口はだらしなく開き、はぁ、はぁ、と血生臭い荒い息が出入りしている。

 

 死。

 先駆となった二つの死を、何よりも身近な存在を以って目の当たりにした久留美は、その概念をあらゆる感覚で感じた。

 

「……あ、ぁ……」

 

 身体が動かない。

 脅威の放つ恐怖に当てられて、腰が抜けるどころか指一本すら動かない。

 身体が恐怖に屈していた。

 心はまだ抵抗を捨てきれていないのにもかかわらず。

 

 折れない久留美の心は、恐怖に無防備のまま曝し出される結果となり、

 

「……い、や………っぁ」

 

 死にたくない。

 

 生きる目的を喪失したという現実を目の当たりにしても、久留美はまだ死を受け入れることは出来なかった。

 ここまで追い詰められてもなお、久留美を生に執着させ、しがみつかせる何かが残っていた。

 

 

 ………死にたくない、だって……私、まだ。

 

 

 脳内での言葉は続かず、代わりに浮かんだのは一人の人間の顔だった。

 それは、父でも母親でも、かつて自分を置いていった魔法使いと称した『先生』でもなく―――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――その血生臭い面を、即刻俺の友人から退かせ腐れ野郎」

 

 

 

 

 

 

 

 

 在るはずない声が響き、同時に目の前に迫っていたはずの死の具現者は、瞬きの間に無数の肉片となって弾け飛んだ。

 飛び散る肉片と黒い血が久留美に降りかかるが、そんなことは気にならなかった。

 

 その意識は、目の前で起きた現象よりも、今この場で聞こえた声にのみ集中していた。

 恐怖に固まった身体は僅かに緩み、堅い動きで背後を振り向いた。

 崩れかかった体勢からの苦しい捻りだったが、久留美にはどうでもいいことだった。

 

 ただ、響いた声が幻聴ではないことを確かめることを優先し、

 

 

 

「か、ずや……」

 

 

 

 顔が見えない。

 顔が見たい。

 

 力が入らない身体を起こそうと試みる。

 しかし、被さるように影の方が先に降りてきて、

 

「……無事か、久留美」

 

 膝を屈して、近づく顔。

 ようやく見えた顔は、暗い中でも不思議とよく見えた。

 

「っ、千夜!」

 

 瞬間、久留美は支えとなっていた腕を千夜に向けて放ち、しがみついた。

 

「かずや、かずやっ……かずやぁ」

 

 死に満ちたこの場に現れた己以外の生者に、久留美は泣きながら縋る。

 凍りつきかけていた感情は一気に開放され、反動して溢れたのは涙だった。

 緩みきった口からは、馬鹿の一つ覚えみたいに一つの名前以外出てきやしない。

 

 それだけの存在だった。

 この闇と死で出来た空間において、千夜という存在は唯一つの光だった。

 

「ぅえ……っ、えぇ……ん」

「………久留美。―――――――

 

 不意に千夜が零した言葉に、泣くことを止められないながらも顔を上げた。

 ごめんな、と言った千夜を。

 

「何で………謝る、の?」

「………なんでもないよ。意味なんて、ない。……忘れていい。ただ―――――――

 

 一つ頼みがある、と続いた言葉に、久留美は益々疑念を増幅させた。

 千夜は苦しそうに笑みをつくりながら、

 

 

 

 

―――――――俺を許すな。何があっても、絶対に」

 

 

 

 

 降る言葉を久留美は理解できなかった。

 そして、夢から覚めたと思ったこの瞬間すら―――――――覚めない悪夢の続きであるということも。

 

 

 

 

 

 

 

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