帰ろう、と思い至ったのは、見上げた空が赤を通り過ぎて今度は青になり始めていた頃になってからだった。
そう思うまでに迷いはあったが、視界の片隅で子供がまだ帰りたくないと母親に駄々をこねていたのに気がついて、それは振り切れた。
空がどんどん紺に色づいていく様を見上げながら、久留美は帰り道を歩いた。
頭の上で起きている変化が、もうすぐ夜が来ることを意味していることと考え、
「………世界が、切り換わる」
昼から、夜へ。
日常が眠り、非日常が目を覚ます。
夕刻。
それは両者の狭間。
毎日のように迎えていたそれをこんな風に深く考えたことは、今までなかった。
当たり前、と。
そんな風にしか思わないこの時間を、千夜はどんな風に受け止めて、何を感じていたのだろうか。
………きっと私とは、違う。
夢から覚める瞬間。
少なくとも、彼女はそんな風に思っていたかもしれない。
現実。或いは当然。
きっと、彼女はそういった概念を抱いたりはしなかったはずだ。
………生きてきた世界が、違うから。
思い、虚しくなる。
この先、どう足掻いたって自分と千夜は全てを共有することは出来ない。
物事への想いも。
価値観も。
そんな相手に執着することに、意味などあるのだろうか。
………報われなくてもいい……なんて、思えるわけないでしょ。
人は誰だって、何かをしたらその報いがほしい。
そう思うのが当然だ。
そこに何か得られるものがあると思うから、それが重労働であろうと何であろうとしてみせようとすることもある。
「………どうしろっていうのよ」
思わず口にして、
「いや、そうじゃない。………どうするか、よね」
直後に訂正する。
今自分が抱える問題は、そう表現するのが正しいのだ。
自分で考えて、選ばなければならない。
だからこそ、悩んでいるわけだが。
「うーん……ようは、コレがいけないわけよ。得が無いというマイナス思考。……何が、あればいいのよ。私に対する得が」
自分の思考基準から損得を省くのは、まず無理だ。少なくとも突然には。
ならば、そこはあえて譲らず、
「物事には何であろうと利益ってものがあるはずよ。大きさにもよるだろうけど………えーい、なんかあるはずよ何か」
出て来い、と頭を小突いてみる。
「………あるでしょ。……あるはずなんだから」
そうでなくては、困る。
選びたい道は最初から決まっている。
そして、自分は、
「………そうじゃないと、私は前へ進めないのよ」
懇願のように吐いた、その時―――――――
「っ!!」
腰の下で振動が起きた。
ポケットにしまわれた携帯電話からだった。
「……こんな時に、一体だ―――――――」
着信表示を目にした瞬間に思考が途絶える。
理解には、その停止が必要だった。
終夜千夜。
まさかの相手からだった。
しかもメールではなく、電話だ。
「うそ………」
有り得ない。
現実に対して出たのは、否定だった。
それだけのことを彼女にしたはずだった。
なのに。
なのに、今。
「………ああ、もう」
嘆息が漏れた。
電話の向こうの相手にではない。
こんなにも単純な―――――――自分自身に対してだ。
………あるじゃん、見返り。
こんなことで気づくなんて。
こんなことにも気づかなかったなんて。
なんて。
なんて、情けない奴。
「………結局、なんだっていいのよ」
どんな方法であろうと。
得るものの形が何であろうと。
欲しいものに、変わりないのだから。
「……私は、あんたにいてほしいのよ」
場所なんか何処だっていい。
自分がいるところであるなら、何処だってかまわない。
いなくならないでほしい。
帰ってきてほしい。
望んでいたものも、得るべきものも―――――――ただ、それだけだったのだ。
「……千夜」
振動が鳴り続けている携帯電話。
出なければ、と二つ折りのそれを開く手が震える。
選択は定まった。
あとは、決定ボタンを押すだけだ。
耳にあて、内でうるさく響く心臓の音にやましいと抑止を命じながら、
「………も、もしもし?」
それでも震えてしまった声には目を瞑る。
そして、一秒と間は開かず、
『っ、久留美か!? 俺だ、千夜だ!』
機械を通して響く、千夜の声。
現金な久留美の心臓が一気に高鳴った。
「わ、わかってるわよ。着信表示されてるんだから……」
って、こんなところでいらん棘を突き出さんでも、と久留美は後の祭りで思った。
何か言わなくてはと手探りで言葉を探し、
「急に、どうしたのよ。………まさか、あんたからかけてくるとは思わなかった、けど」
あんなことを言った自分を、まだ名前で呼んでくれるとは思わなかった。
またか、と久留美は内心で舌打つ。
建前の下に本音を仕込んだって伝わない。
そう教えられたばかりなのに。
そんな久留美の心境など、電話の向こうの千夜にはわかるわけもなく、
『久留美、今どこにいるっ』
「な、何よ急に」
『何処だ!』
久留美はここにきてようやく千夜の様子がおかしいことに気づいた。
その口調と声量からは、焦りが生み出されている。
何故、と疑問を抱きながらも、
「…………何処って、もう家の前まで来てんだけど」
言いながら見遣るのは、僅か三メートル程度もない距離まで近づいた我が家。
急げば遠く感じることもあるが、それとなく歩いているといつの間にか直前まできていることもあるのだから感覚とは不思議だ。
この場合は、後者。
思い悩んでいるうちに家の方から近づいてきたみたいな気分でさえある。
「あ、あのさ……………、千夜?」
電話の向こうから伝わるのは、沈黙。
言葉はなく、詰まるような小さな息遣いだけが聞こえる。
どうしたというのか、と久留美が再度声をかけようとした時、
『っ、聞いてくれ。……いや、頼む。家には、―――――ザザッ――――っ、―――――――な』
久留美は眉を顰めた。
突然生じた雑音が、千夜の言葉の伝達を阻んだのだ。
「―――――――は―――――ザザッ―――――ザッ―――――――!」
度重なる雑音が波のように覆いかぶさって、千夜の声を飲み込んでしまった。
この場所の電波が悪いのか、それも向こうがなのか。
久留美はとんだ邪魔者に苛立ちながら、
「もしもし、千夜? あんた、今どこに―――――――はぁっ!?」
言いかけた言葉は文句へと様変わりした。
通話が切れたのだ。
何でよ、と勢いあまって電話を睥睨する。
しかし、それはすぐに驚きの開きへと一転する。
「―――――――電源が、落ちてる」
◆◆◆◆◆◆
通話が切れてしまった瞬間、千夜は携帯を確認することもなく察した。
結界が発動したのだ、と。
「あの、クソ蛙っ……!!」
結界。世界の中に別の世界を作る術式。
外と内を生み、外からの干渉の一切を断つ。
通話という電波の繋がりが切られた。
それは結界の発生を意味していた。
或いは久留美が結界内に踏み込んでしまったか、だ。
どの道、もうこちらから、この場所で―――――――久留美を救う手段は無い。
「っ、まだだっ」
浸かりかけた絶望からもがき出た千夜は、背後を振り返る。
状況から置いてかれていた渚がそこに座り込んでいた。
突然、己へ注意を向けられた渚は驚いたように身を竦ませた。
「おい……」
「え、と……何? つか、今どんな状況……」
「お前、新條久留美と接したことは?」
「………へ?」
何を突然という渚の反応。
千夜は、そんな躊躇に付き合う時間はないとばかりに歩み寄り、
「いいから答えろ! お前は新條久留美となんらかの接触をしたことはあるか!? 会話だろうが、名前を呼んだ呼ばれた程度だろうが……一度でもいい、無いのか!?」
激昂。
渚は、己との対話では一度として揺るぎもしなかった千夜のその感情的な様子に驚き、言葉を失った。
昼間、新條久留美とは親しげに行動していたのを見た。
どんな関係かは知らないが、あのクラスメイトはいつの間にこの人物の中に踏み込んでいたのだろうか。
胸倉を掴まれて迫られる中、千夜の勢いに渚は気が引けながらも、
「……あ、あるよ。少なくとも、一度くらいなら」
是の返答を聞くと、千夜はあっけなく渚を開放した。
そして、空を見た。
紺色に色づいた空。陽はまもなく沈む。
時間が無い。
「………一応、一言断っておく」
「え?」
「人からモノを借りる時には、そうするのが礼儀というものだ」
空から下がった視線は、渚をまっすぐに据えられる。
「朝倉渚―――――――お前の【影】を貸してもらうぞ」
この瞬間、千夜は翻弄やあしらいという意を除いて、ようやく渚という存在とまともに向き合った。
◆◆◆◆◆◆
「事実として本人が望んだとしても………それを当の本人が覚えていないんじゃ意味ねえんじゃねぇのかい?」
公園。
昼間はこぞって屯していた親子達は、日暮れと共にそれぞれの帰路につき、今はいない。
その中で、志摩のみはそこに変わらずいた。
己の座るベンチの隣接者を変えて。
「……約束の放棄とは、記憶しているか忘却に帰しているかではない。当事者たちの中のいずれかが、破り捨てるかなのだ」
「はっ。つまりは、覚えていようかいまいが関係ないってか。なかなか、容赦ねぇじゃねぇか。―――――――上弦さん」
がっしりとした筋肉を纏った身体でベンチに腰を下ろす男に、志摩はサングラスの下で視線を横流しにした。
目の前の巨躯がやってきたのは、黒蘭が去ってしばらくしてからだった。
自らの意思でやってきたのか。それとも黒蘭の指示か。
どっちが有力であるとすれば後者ではあるだろう、と志摩は自己判断した。
"コト" の経緯を知った自分の鬱憤を受ける相手として。
「もうすぐ払われる【悲願の対価】で、あの女の子は何を得るんだったっけか……」
「……今も昔も、望もうとも得ることが出来なかったモノだ。何を売り渡して、失おうとも構わないと言い切ってしまえるほどの………まさしく"悲願"だ」
「"悲願"、ねぇ……」
何を成そうとも遂げたい悲壮な願いを意味する言葉。
何をしてでもというからには、無傷ではすまないことは必至の条件。
「その達成のために、あの子は失う。俺が見たヴィジョンは、それを意味している……と」
「ああ」
「これって、昔のツケを今になって払わなきゃならなくなってるだけなんじゃねぇかなぁ……。―――――――前世で世界と結んだ契約なんてよぉ……なぁ、オイ」
昼間、黒蘭から聞いた話から得た新たな知識。
新條久留美に関する全て。
今までまったく聴かされることの無かった内容。
どうして触れようとしなかったのか。
理由を尋ねると、黒蘭は言った。
「……知らせておく必要はなかった、か。それって、ただの小娘一人ぐらい別に大して必要ないことだったからなんじゃねぇのか?」
「それは違う。あの娘の決意を聞き、その頼みを引き受けた時から………あの方は、頼みを成すと決めていた。言わなかったのはな……確信がなかったからだ、志摩よ」
「確信?」
「あの娘だけは、運命の輪の外にいた。偶然それに触れただけの、凡庸で自由な魂だった。………それ故に、再び逢える保障はなかった」
「……十八年前の【新條】は、まったくの想定外なのか?」
「そうだ。あの娘の姓を聴いた時は、まさかと思った。……だが、関係あるまい。なにしろ、四百年前では村娘に姓などなかったからな」
そりゃそうだな、と今と昔の違いの浮上に、志摩は上弦の意見に同意した。
「よほど濃い宿縁、もしくはその存在そのものが特殊であるか。………そうでもない限り、時代を越えてもう一度なんて………あるわけねぇよなぁ」
「……あの娘にはどちらもなかった。一代限りの邂逅………本来なら人と人の出会いは、それが普通だ。あの娘は……それを認められなかったのだろう」
「それを引きずって対価を払わなきゃならねぇのか。………後世には、とんだ迷惑な置き土産だなぁ」
「そうかもしれぬ。いや、そうだろう。………止めてやらず、利用しようとする我らの言うことではないだろうがな」
悔いが滲む上弦の言葉に、彼が率先して取り入れたわけではないと考察できる。
決定打を押したのは、当然黒蘭だろう。
だが、結局同意した。
最も優先すべき存在のために、一人の少女の平穏を切り捨てたことには変わりない。
「なぁ。……本当に必要なことなのか。……あのお嬢ちゃんを引きずり込むことは」
「わからぬ」
「はぁ?」
明らかに非難を滲ませた声を荒げる志摩に、上弦は無理もないと一息つき、
「……私には、わからぬのだよ。それが正しいのかなど。……だが、あの方はこう言う。何かに変化をもたらすのに最も簡単な方法とは、それまでになかった"部外者"の
存在を投じることなのだ、と。運命の輪を壊すとまでいかなくとも、外から与えられる影響で何かが変えられるかもしれない、と。……あの娘が"此方"に来るということ
は、外からの干渉を意味する」
「つまりは、生贄か。……何もかも忘れてゼロから再スタートした魂を、お前らは逃がしてやらないんだな?」
「…………逢えなければ、あの方は逃がしただろう」
ん?と志摩は、上弦の零した言葉に眉を顰めた。
「………本当に、ノーマークだったのか?」
「ああ。あの方が、"彼ら"をあの学園に集うように手引きしたのは、お前も知っているだろう。……その手引きした中に、あの娘は入っておらん。気づいたのは、姫様を
あの学園に招いてしばらくしてからだった。顔も名も違うゆえ、私には今でも確信できぬがな」
「……黒蘭にはあるんだな、確信。まぁ、あいつは原色者だからな。……その気になれば、魂を透視することも出来るか。……で、見つからなかったら見逃してやるつもり
だったっつーのは、どういう腹積もりだぁ?」
「裏も何もない。………あの娘が今代に間に合わなかったら……或いは、逢うことがなければ………それまでの縁だったと忘れるつもりでいたという。約束ごと、な」
呑み込め、と言われてもなかなか出来ない言い分だった。
あのねちっこい黒蘭が、そんなにあっさりと駒を捨てるだろうか。
現に使いまわされている身として志摩は、信じがたい話だと思った。
「悪ぃが、信じるにはハードルが高ぇって。そうだとしたら、新條久留美はあってもなくてもいい駒ってことになる。……わけがわかんねぇぞ」
どうでもいい駒を手に入れるために、キング或いは王将をとんでもない危険に曝す羽目になるかもしれないというのに。
黒蘭の考えがわからない。いつものことだが、今は特にだ。
困惑する志摩に、上弦は落ち着かせるように、
「先刻申したであろう。……あの娘は必要だ。少なくとも黒蘭様はそう考えている。だが、我らが操っては意味がないのだ。あの方の持ち駒には意思がある。あの方は、
駒に命令は下さん。ただ、期待を寄せる。さぁ、お前はどうする―――――――と」
「期待か………いつも、最後はそれだな」
始まりの頃から付きまとう疑問が、志摩の中にはあった。
あの、この世の全てを知り尽くしていると思わせる不敵で狡猾で大胆なカミは―――――――何故、策を練ろうとしないのか。
実は、出来ないのか。
それは無い、という結論が笑えるくらい早く出た。
「わからねぇ。何だって、いつも回りくどいことしやがるんだ。人間なんざ、あいつにとっちゃ操り人形も同然だろう。いくらでも雁字搦めにして、好き放題に動かせる
じゃねぇか。それが何だって……」
「……………………………うむ」
突然難しい表情で黙る上弦。
苦悩。眉間の深い皴は、彼の内を取り巻く感情を表していた。
何だよ、と志摩が黙りこくった上弦に声をかけても、
「………聞いても信じられんだろう。今は、聞かずにおけ」
「なんじゃそりゃ」
「コレこそ信じられぬだろうからな。………まぁ、いずれ何処かで話してやる」
強引に打ち切られ、志摩はしっくり来ない気分に陥りながらも、
「………じゃぁ、話は戻すがよ。結局は、全部が黒蘭の期待だっていうのか? ……あの女の子をたどる道も」
「……そうだ。あの方の期待にあの娘が応えた結果だ。……自力で姫様に出会ったことも、姫様を求めたことも、その想いに従って選んだ道も。奇しくも…………あの娘は
―――――――"かつての己"が課した【条件】を忘れているにも拘らず乗り越えてしまった」
「忘れていたはずなのに、か。……………魂に染み付いた執念に突き動かされたのか?」
「そうかも、しれぬ」
魂に染み付いた執念。
人はそれを未練と呼ぶことがある。
自身が何かを望もうとして遺した未練に突き動かされたあの魂は、それで得る悲劇をどう受け止めるのだろうか。そもそも受け止められるのか。
「………やりきれねぇな」
かつて望み、今は望むわけがない喪失。
あの魂は、何を得るために失うことを【世界】と約束したのか。
「あんな喪失から………何を得ようっていうんだよ」
口から出た無意識の問い。
それは新條久留美へか。
それとも黒蘭へか。
もしくは両者だったかもしれない。
だが、同じくこの場にいない者達へは届くことはなく、志摩のそれはただ独白となって空気になじんで消えた。