一秒にも満たない僅かな刹那の間に感じた、本来ならあるはずのない悪寒。




 それは、千夜を反射的にその場から距離を取るという行動に至らせた。

 瞬発力にて行った浅い跳躍を終えた直後、千夜は己の額に浮かんだ湿りに気づく。

 



 それが珠になって浮かぶのも無視して、顔を歪めた。



 

「っ、くそ………どっから嗅ぎ付けてきやがるっ」

「………な、にっ……これ」

 

 背後からの渚の詰まった声に、千夜は即座に振り向き、

 

「結界との接続を切れ! 呑み込まれるぞっ!!」

「でも、そんなこと、したら………」

「っ、―――――――夜叉姫!」

 

 説明している暇はなかった。

 一刻の猶予もない。

 統合した結果が、千夜の行動を一つに定めた。

 

「あの男と結界の接続を断て!」

―――――――御意』

 

 了承の返事が、その証であるかのように強く空間に響いた。

 続けて千夜は渚の元へ駆け、

 

「なに、を」

「心配するな。楽にしてやるだけだ」

 

 交差の瞬間にそう告げて、千夜は身を低くかがめた。

 その際に、影に触れた指は何を引き抜くような形をとり、腕は振り抜かれる。

 

 直後、渚の身体は糸が切れた操り人形のようにその脚を折り、膝を地につけた。

 

「あ…………っ」

"髪"は抜いた。もう自由…………と言ってやりたいところだが、瘴気にあてられたその身体じゃしばらく動けないだろうな」

 

 神巫は霊能者の中でも、霊的資質に富んだ人間だ。その反面、霊気や陰気の影響を受けやすく、脆い。

 

「そこでじっとしていろ。時間が経てば、帰る分には差し支えはないはずだ」

「…………それより、今のは……」

「そうだな。まずは…………おめでとう、と言ってやるべきか?」

「は……?」

 

 微細な動きには支障はない程度の被害なのか、渚は首を振り向かせて千夜を見上げた。

 それに対し、千夜は一切に対応する様子はなく、ただ正面を向くままに、

 

 

「言って聞かせるよりも、楽な展開にはなった。…………しかし、お前との再会は、どう思っても半分ぐらい喜ばしく感じないな。



 ―――――――神崎陵」

 

 

 呼びかけは、光の射さない奥の闇へと吸い込まれた。

 

 そして、

 

 

 

 

 

―――――――く」

 

 

 

 

 

 闇から返されたもの。

 それは、小さな吐息。

 コポリと気泡が水面に浮いて消えるようなそれは、笑みから生じたと千夜に理解させた。

 

 闇の中に『それ』は、笑ったのだ、と。

 

 

「……ひでぇなぁ…………俺は、嬉しくて心臓が中から弾けそうだっていうのによぉ……」

 

 

「構わないがこっちまで飛ばすなよ。風呂に三回は入らなければならなくなる」

 

 

 皮肉を返した後、千夜は放った言葉の先にある闇が蠢くのを見た。

 奥に広がる闇がぐにょりと動き、何かの形を取り出す。

 

 

 

 果てに出来たのは―――――――人の『形』だった。

 

 

 

「あれは……?」

「……神崎だろう」

 

 慄く渚に、答えをくれてやる。

 もっとも、あそこにいるのは思念だけだろうが、と千夜は心中で付け足した。

 

「……完成への準備は整った……わけではないようだな」

「ああ……。だが、もう少しだ……もう少しで、俺は……"完璧な俺" に成る。お前を迎えにいくのも、もうすぐだ。今日は、それを知らせに来た」

 

 それを聞き、千夜は内心で大きく舌打った。

 

 避けなければならなかった局面へと近づいている。

そして、それはもはや避けられない。

 

 最悪の事態になる前に見つけ出して、始末しなければなかった。

 だが、気配は巧みに隠されて、それは阻まれた。

 加えて、自分は霊力まで喪失するという事態に陥った。

 

 全てが神崎の良い様に事が運んでいる。

 苦いものを感じずにはいられない。

 

 だが、己の内にあるその事実は相手にとって付け込ませる隙でしかない。

 千夜はそれらを押さえ込み、強気の仮面で覆い隠した。

 

「それは楽しみだ。お前のいう"完璧なお前"を粉砕してやるのが、待ち遠しい。……だが、一つ頂けないな。ここまでの貴重な時間を割いて……お前は人の目の届かない

ところで随分と遊んでいたようじゃないか」

「自分のことにかまけて、自分の女のことをほったらかして置くような男じゃないぜ、俺ぁ……。……ちゃんと、見てなくちゃなぁ……」

 

 ずっと、見られていた。

 

 背筋がざわつく感覚と、相手の意のままにさせていたという事実。

 それらが、千夜の神経をざらりと逆撫でて、煽る。

 

 荒波の立ち始める不穏の気配を押さえながら、千夜は一つの確認を口にする。

 

「………玖珂蒼助の自宅を放火したのは、お前の仕業か?」

「んん? ………ああ、あれか。そうさ……俺の駒を使ってな。あのゴミが、あんまりお前に馴れ馴れしくくっつきやがるからよぉ……。警告のつもりだったんだが、うま

くいけばそのまま燃えちまえばよかったなぁ。ったく、………無駄に悪運の強い奴だなぁ、オイ」

 



 警告。

 あわよくばそのまま消すつもりでやったこと。



 

 この男の一人に対して向けた悪意は、そうして関係のない人間の命を灰に変えた。

 諸悪の根源たる神崎の中には、死んだ住民の「運が悪かった」という簡潔な収まりとなって済まされているようだ。

 

 他意なき悪意。

 無邪気から来るそれとは違う―――――――価値観の狂った、真の凶気。

 

 この世に在るだけで、平穏と秩序を乱す存在となった凶々しい存在を千夜は直視した。

 射るように、砥いだ眼差しを向けて。

 

「………おお、それだっ、その目。……何だよ、まだ全然イケるんじゃねぇか」

 

 神崎はうろたえるどころか、歓喜の様子を見せる。

 

「……ああ、やっぱりお前はイイ女だ。その目だ……たまらねぇ。……その他人をモノとしか思ってねぇ、ナイフみてぇな物騒な目………いいよ、最高だぁ」

 

 濁った歓笑が、人型を模した闇から響く。

 

「………随分と、ディープな好かれようじゃん」

「羨ましいなら、代わってやるぞ」

「ははっ……是非とも遠慮したいね」

 

 背後の渚との会話はすぐさま中断となった。

 

 笑いが止み、神崎の様子が一転したことによって。

 

―――――――だが、俺にはわかるぞ。お前の心が、本来のあるべきところからズレていっているのがなぁ……」

「知ったような口をきくじゃないか。……俺が何処にあるかどうかなど、俺自身が決めることだ」

「は、は…………"本音"を言いやがったなぁ」

「なに?」

 

 まるで弱点を掴んだとばかりに、神崎の態度が急に優勢とばかりに強気に変わる。

 

「気づいていないなら、教えてやるよ。お前は………日常(そっち)に行きたがってんだよ。あの薄暗ぇもんを抱き込んでいるもんには、眩しくて羨ましくて仕方ねぇ場所になぁ」

「…………」

「否定しねぇ、ってことは気づいてるみてぇだなぁ…………どっちにしろ、俺が言いたいことは変わりねぇがなぁ―――――――

 

 一息程度の短い沈黙。

 終わるとともに、

 

―――――――無ぅ理だなぁ。諦めな。……泣こうが、喚こうが………お前はそっちには行けねぇよ。わかってんだろ、お前は……」

 

 

 

―――――――いい加減軽口を叩くな、"若造"

 

 

 

 己の口から声が響くと同時。

 後ろで、渚は引き攣ったのを千夜は感じた。

 向かい合う神崎も口を閉ざしていた。

 

 それが自分の発した声が成したことであると理解し、千夜は苦笑した。

 表面上は神崎への嗤笑として。

 

「少しばかり"そっち"に馴染んだぐらいで、賢者を気取って警告か? ……若輩者が、調子に乗るなよ」

 

 

 気づいていない―――――――わけがない。

 言われずとも、わかっている。

 警告も忠告も必要ない。そんなものを与えられるまでもない。

 

 

「泣く? 喚く? 寝ぼけているのはどっちだ、薄ら馬鹿が。……それが無意味で、無駄であることなど、俺はもう当の昔に知っている」

 

 

 他人なんかが見てわかる程度で、理解したつもりでいるのか。

 笑わせてくれる。

 

 その事実は、誰よりも―――――――

 

「わかったような口をきくな、神崎陵。お前に言われるよりも、誰に言われるよりも、俺は俺自身のことをわかっているんだよ………俺は――――――

 

 ずっと、

 

―――――――死ぬまで、世界の淀んだ奥底に溜まる……の住人だ。否定も肯定も関係なく……な」

 

 

 わかっている。

 その事実だけが変わらず在り続けることも、厭というほどに。

 

 突き付ける。

 わかっていないのは、お前の方である、と。

 

「言っておくが、お前は澱の中から俺を対面していると思ったら大間違いだぞ。俺たちは互いの異なる線の上で相対しているわけじゃない。そもそもそれで相対が成り立つ

わけがない。だから、相対する俺たちは同じ線の上に立っているということになる。理解している者とそうじゃない者の間に生じる境界線に阻まれているがな。だが、お前

は理解する。認識は同一となり、境界線は消える。……そして、俺が何処にいるか。そうなると真実は見えてくるな」

 

 人と違う世界を手に入れて鼻を高くしている男に、千夜は全てを取り去って真実を見せつける。

 

「お前は、まだ日常の中にいる。だからこそ、俺はお前に会いに行く。日常(ここ)が嫌だというのお前を、望みどおり連れて行ってやる。俺とお前の本来あるべき場所………紛う

ことなき、この世界の澱にな。ああ、それこそ……
"泣こうが、喚こうが"……必ず」

 

 先程言われた"煽り"を添えてやる。

 返るものはすぐには来ない。

 

 怒り。

 反攻。

 挑発に対して表すと予想していたものは、今のところ闇の中の神崎からは見て取れない。

 

 ただ、得体のしれない沈黙だけが続き、

 

―――――――く、は」

 

 それは吹き出しによって破られた。

 更に、後を追う哄笑に飲み込まれ、

 



「ひ、は、はははははははははははははハははははははははははっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは

はははははははははははははははははははハははははははははははははハはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは

はははははははははははははハははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははハははははははははっ、ハハ

―――――――

 

 

 空間を支配する狂笑。

 

 渚はただ唖然とし。

 千夜は揺らぐことなく己を保つ。

 

 闇から聞こえる独奏は、誰に咎められることもない。

 束縛なき狂気の雄叫び。

 止める者はいないが故に、終わりが見えない―――――――と思われたが、

 

「は、……ああ、そうかい」

 

 不意に奏者自身により、聴く者の正気を揺さぶる狂声は止んだ。

 ひとしきり笑い終えた神崎は、

 

「驚いたな。俺ぁ、お前はシビアで現実主義だと思っていたよ。…………夢想家だったたぁ、意外だなぁ」

「俺は、記憶を夢に見ることをあっても、理想を夢には見ない。……それに俺は、出来ない事とやらない事は無闇に口にしたりはしない」

「大した自信だ………可愛い見栄だぜぇ。お前のそういう手のかかるところが、たまらなくそそるんだ………調教のしがいがあるってもんだ」

 

 下衆が、と罵りを内心で吐いた時。

 神崎の様子が、僅かに変わった。

 

 何故か、出る声色が落胆の色に滲み、

 

「だがなぁ………お前は気づいていねぇよ。自分が、毒に冒されていることに……」

「………戯言を」

「外からしか見えねぇこともあるんだよ。………自分の視点や感覚がわからねぇことがなぁ」

 

 外から、という言葉が千夜の心を躓かせた。

 否定しようにも、それは己には見えない場所から見えるもの。

 是非がつけらないそれに対して無闇に反応を示せば、神崎を付け上がらせるだけだ。

 

 心中の黙考により生まれた沈黙が、神崎に語りを許すことなり、

 

「ああ、千夜。……俺は、辛かったぞ。もどかしかったぞ。動けない間に、お前がこの微温湯の毒に染められていくザマを見ているしかなかった時間は……。お前の価値を

わからねぇクソな連中が、間違った道へお前を誘惑しやがる。………耐えられない衝動で、俺はお前を守るために刺客を送りもしたが、無駄だった。あの野郎は………運が

いいだけじゃなく、ワケのわからねぇ妙な【何か】が傍にいやがる。……この、俺が……ビビッてそれ以上何もしようとは思えなくなるような、何かにぃ……」

 

 黒蘭、と脳裏に浮かぶ人物がその相手であると、千夜は即座に理解した。

 

 この一件の裏に関して、黒蘭は気づいていた。

 しかし、自分の耳には一切そのことを伝えなかった。

 

 ………全て引き受けてくれていたのか。

 

 今一番失いたくない、守りたいものを、自分の代わりに。

 

 

 千夜は、胸の内がすぅっと軽くなるのを感じた。

 空いた場所に埋まるのは、安堵というふわりとした軽量の想念。

 そして、蒼助のことに関しては、これ大丈夫であるという確信。

 

 ………あの気まぐれを、こんな風に頼もしく感じるようになるとはな。

 

 帰れたら、やらなければならないことが出来た。

 あいつに礼を言うような日が来るとはな、と癪に思いながら、

 

「ああ、そうだな。そいつは……なかなか気難しい奴だが、力量は確かだ。それ以上しつこくすると、遠慮なく消しにかかってくるぞ」

「ああん? お前の知り合いなのかぁ………」

「……俺の選んだ男をいたく気に入ったらしい。お気に入りの玩具に手出しをするような奴には、昔から手厳しいぞ………あいつは。当てつけや八つ当たりの的なら、

ほかを探せ」

―――――――お前の、選んだ男だぁ……?」

 

 声のトーンが一気に急降下した。

 そこから神崎の拒絶と憤りを感じ、千夜は口端を吊り上げた。

 

 大きな勘違いをしたまま暴走するこの愚か者に、もう一度言ってやろう、と。

 この世の全てが、お前の思うままに動くことは決してありえない。

 一人の女すら、思い通りにできないお前なんぞに、と。

 

「そうだ、あいつは、玖珂蒼助は―――――――俺の男だ。俺が想い、俺が選んだ、俺を好きにできる唯一人の男。俺の身体、心を支配できるのは……お前なんかじゃない」

 

 そんなかけがえのない存在を、お前などには奪わせはしない。

 断固たる拒絶を神崎に放った。

 

「……それがわからず、受け入れられないというのなら、俺はお前を消し去ってでも俺の意志を立たせて………―――――――っ?」

 

 更に追撃しようと張り上げた声は、途中で絶えた。

 向かう先の敵の様子の変化に、思わず声は喉元で止まったのだ。

 

 そして、その変化というのは、

 

 

 

「く、は、ははは………やっぱり、か………やっぱりそうじゃねぇかぁ……」

 

 

 

 何故か愉快そうな声色。そして、笑い声。

 そこに何が含まれてそれを生むのかが理解できず、不明さが千夜の不快感を煽り立てた。

 

 千夜が何か聞き質す前に、神崎は笑いながら、

 

「笑わせてくれるじゃねぇかよ……なぁにが、死ぬまで澱の住人だ。しっかり毒されていることにも気付かねぇくせによぉっ!」

 

 嘲笑を伴った言葉は続く。

 

「俺が正しかったんだ。俺は間違っていなかったんだ。千夜ぁ、俺の可愛い千夜ぁ。哀れなお前にもう一度教えてやるよぉ……正しい俺が、本当のことを教えてやるよぉ」

 

 己の前についた所有代名詞が、千夜の怒号の火蓋を切る。

 しかし、それが放たれるのを許さず神崎は、

 

「……可哀想に、もう自分のご主人様が誰なのかすら判断できなくなっちまってるのか」

 

 だがな、と言葉を接ぎ、

 

「愛情深い俺はそんなお前を見捨てはしねぇ……。大丈夫だ、安心しろ。たとえ錆びちまおうが、お前はまたそこから砥ぎ直せる。あの触れたら腕を持っていっちまいそう

な切れ味を取り戻せるさぁ……。その為には、お前にまとわりつく臭ぇ塵を取り除かねぇといけねぇ………いけねぇなぁ」

「っ、蒼助に手を出そうというのなら無駄だと……」

「…………ああ、わかってるさ。―――――――お前を惑わせているのは、あいつじゃねぇみたいだしなぁ」

 

 そんなことは心得ている。

 そう匂わす言葉が何故か千夜の思考に引っかかった。

 

「な、に………?」

「俺も最初は玖珂がそうだとばかり思っていたさ。……だが、考えてみりゃそいつはちとおかしな話だ。あのゴミ虫は落ちこぼれとはいえ、こっち寄りの人間だ。そんな

やつが、お前を日常に縛りつけてふやかせている程の要因であるわけがねぇ……。それに気づいたのは、玖珂のマンションを燃やした後だった。玖珂にはもう手が出せねぇ

となって、他にお前の目を覚まさせるのに使えそうな生贄はいねぇかと俺は考えた。………そこで、ようやっと気づいたさ。玖珂にばかり気ぃとられていたばかりに見逃し

ていた。

 

 ―――――――日常を這って蠢く猛毒を持った蟲をなぁ」

 

 

 吐き捨てられたその毒づきの言葉の中に存在するのは―――――――誰なのか。

 

 

 思考する千夜の脳裏を、数刻前に見た泣き顔が過ぎった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 言葉の中で引き出された相手が誰であるかを思い当たった瞬間。

 死角からの不意打ちされたような感覚だった。

 

 故にその感情を隠しきれなかった表情に、神崎を宿す闇は、何を見透かしたようににやりと笑ったような気がした。

 

「き、さまっ……まさか!」

「オイオイ、どうしたよ。………俺はまだ名前を出してねぇってのにそんなに慌てて」

「黙れっ。……神崎、お前久留美に何をっ」

「………久留美、かぁ。あの毒蟲は、そこまでお前に猛毒を撒き散らしてやがるのかよ………嬲られてももがくしかできねぇ、小虫がぁ」

「何を、したと………訊いているっっ!」

 

 内で溜め込まれ凝固した感情が塊となって、放たれた空間に拡張し、響いた。

 冷静さは、既に失われていた。

 形成の優位の行方など二の次となり、その意識はただひたすら一つの事柄にのみ一点集中を成していた。

 

 久留美。

 新條久留美に向けて。

 

「かかか………まぁだ、何もしてねぇよ。あの女には、な。しかし、想像以上に重症だな………冷静さを欠いてまで、あんな虫に気を遣るのかよ……。分不相応な願望を

お前に押し付けて、拒まれて逆にお前を罵るようなやつに、何でまぁそこまで……」

「俺の感情だ。……誰をどう想おうが、俺の勝手だ。お前なんぞにどうこう言われる筋合いはない」

「馬鹿が、あるに決まってんだろう。………俺のモノだからなぁ」

 

 傲慢きわまりない神崎の言葉に、冷静を失った千夜の理性は簡単にぶれる。

 一度崩れた精神の体勢は、持ち直してもこんなにも脆くなる。

 だから、なんとしても維持しなければならなかった。

 

 そんなことは十分に承知していたはずだった。

 けれども、出来なかった。

 

 ………日常に毒された、か。

 

 目の前の下衆が言った戯言が、今は妙に信憑性を感じさせる。

 

 千夜は思う。

 あの時、本当は久留美を受け入れてしまいたかったのではないか、と。

 

 自分のことを教えろという久留美の言葉に従って、彼女に知ってほしい、と。

 本心では、久留美を一緒に連れて行きたかったのではないか、と。

 彼女は手放したくなどなかった、と。

 

 確かな決意を以って突き放したはずなのに―――――――自分は今、こんなにも不安定に揺れている。

 

 ………何を、馬鹿なことをっ!

 

 現に今、もっと早く距離を置かなかったからこんな事態に見舞われているというのに。

 久留美を巻き込む危険性を招いてしまったというのに。

 

 それでも尚、自分はそんな温い考えを捨てきれないというのか。

 

 そうして千夜が己に恥じている合間にも、

 

「こりゃぁ、決定的だなぁ。………安心したぜ。これで………骨折り損にならずに済むみたいだぁ」

―――――――なんだ、と?」

 

 

 冷や汗が首筋あたりで浮かびあがる。

 それを感じながら、同時に悪寒。

 

 言葉が意味する中身は、まるで―――――――

 

 

「あの女には、まだ手を出してねぇのは本当だ。だが、あいつは今……帰宅途中だったか? だったら、びっくりするだろうなぁ。………家に着いたら、置いて(・・・)ある(・・)()()お礼(・・)を見てよぉ……かかっ」

 

 その目論見が既に久留美に向けて仕掛けられている。

 神崎の言葉が、完全な確定を促した。

 

「っ、貴様、一体何を」

「なぁに、その場その場の手合いものを使った即席もんさ。昼間……お前がちょうどこんなふうに薄暗い路地裏に二匹放置してっただろうが。……お前からの贈り物は、

ちゃぁんと………リサイクルさせてもらったぜぇ?」

 

 昼間。

 二匹。

 路地裏。

 

 三つのキーワードが導き出した記憶は、

 

「………お前、あの二人を」

「ああ……あいつらちょうどイイ感じにお前に恨みを持ってたからなぁ。……わざわざ材料を探す手間が省けたぜぇ。なかなか素質のある連中だったからなぁ………今頃

あの家で……く、くっ………俺の期待以上の
"コト" をしてくれてるだろうさぁ………ハ、ハハ」

 

 

 今頃、あの家で。

 

 台詞の中で、その一部分だけが耳の中で異様に長く響いた。

 

 神崎の言うとおりに事が進んでいるのなら、今あの新條家では―――――――

 

 

「喜べ、千夜………これでお前を惑わすものは―――――――

 

 

 響き続けた耳障りな音が、突然途絶えた。

 

「………あ?」

 

 神崎の疑念の発声に、顔を上げる。

 そして、気がつく。

 

 自分が何かを投射したように腕を振りかぶった体勢にあること。

 自分の手から、一度は引き抜いたがなくなっていること。

 

 

 無意識のうちに、神崎に目がけて投げつけていた。

 

 

 ………まぁ、いいか。

 

 

 もう十分だ。

 

 一通りの己の状態を認識し終えて、

 

「……さっきから、千夜千夜と……」

 

 ぐっと、"髪" を投げた手を握るように閉じる。

 

 



―――――――気安く呼ぶな」



 

 

 ギュリ、と握る手に込められた力。

 力を凝縮するようなそれとは、対照的に、

 

 

「カ――、―――――

 

 

 神崎の顔を模るように浮き出る闇に突き刺さった一本のから、光が爆ぜた。

 

 

 "髪"に込められていた霊力はあっという間に膨張すると破裂し閃光と成った。

 その瞬間、それは空間から一切の闇を消し去った。

 一瞬の無音轟音がそれ以外を呑み込むように、結界内を響き渡る。

 

 粉塵が舞い上がり、千夜に降りかかるが、動じず受ける。

 閉じることもない双眸は、ただきつく細められて土煙の向こうの爆発地点を見据えていた。

 

 鼻腔に不快な違和感を与える煙幕はおさまり出し、奥がようやく開ける。

 そこには、闇が何事もなかったように広がっていた。

 しかし、先程までとは決定的に違うものがあった。

 

 神崎の気配。

 それがなくなった。

 わざわざ出向いた目的である用事が済んだから、なのだろう。

 

 犯行予告。

 それも、実行直前のギリギリに。

 何もかも確信犯の行動だった。

 

 実現すれば、いかなる結果が生まれるか。

 今と何がどう変わるか。

 

 目的は何であるのか。

 八つ当たり。

 挑発。

 見せしめ。

 

 どの意図が正しいのかはわからない。

 だが、一つだけ確かなことはある。

 

「………お前の、思い通りにさせて……たまるかっ!」

 

 激情を吐き捨て、千夜はスカートのポケットに手を突っ込んだ。

 さして広くないそのスペースに置かれた携帯電話を掴み出し、数字を打ち出す。

 久留美の携帯番号だ。

 

 メールアドレスの交換を申し込まれた時は、正直面倒くささが先立って億劫だったが、今となっては幸いだ。

 

「………っ」

 

 緊急事態に先急ぐ心が指先に影響してか、番号を打ち間違えてしまった。

 そもそも履歴から引き出せばいい、と気付く羽目になった。

 

 思った以上に、自分が動揺していることを思い知る。

 焦るな。

 そう言い聞かせながら、今度こそ打ち終えて回線を繋ぐ。

 

 ………頼む、出てくれ。

 

 神崎は、「帰宅途中」と口にしていた。

 まだ目論見は完全には成されていない、とその可能性は無いとは言い切れなかった。

 新條久留美は、まだ家に着いていないかもしれない。

 

 そこには千夜自身の願望も入り込んでいるのは否定できない。

 だが、諦めるにはまだ早くもあるはずだ。

 

 ………頼む、から。

 

 大きく脈打つ心臓の音が携帯の電子音に重なる。

 最悪の事態を脳裏に描きながら、相手が電話にまだ出れる状態であることを胸が焼けそうな思いで祈った。

 

 そして、

 

 

 

―――――――も、もしもし?』

 

 

 

 声。

 久留美の声。

 

 それを耳にした瞬間、締め付けられるように苦しかった心臓が、緊迫感から開放される。

 

「っ、久留美か!? 俺だ、千夜だ!」

『わ、わかってるわよ。着信表示されるんだから……』

 

 電話越しでもわかる、向こうの異常の皆無。

 察した精神が、ゆるりと落ち着き始める。

 

『急に、どうしたのよ。………まさか、あんたからかけてくるとは思わなかった、けど』

 

 機械越しに伝わる久留美の声には戸惑いの色が滲んでいた。

 あんな別れ方をした。

 無理もないとは思うが、今はそんな場合ではない。

 

「久留美、今どこにいるっ」

『な、何よ急に……』

「何処だ!」

 

 急いた問答に久留美を置いて、千夜は質問を優先した。

 強い口調に久留美も押され負けしたのか、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『………―――――――何処って、もう家の前まで来てんだけど』

 

 

 

 

 

 

 

 

 最悪の事態は、あと数歩の距離まで迫っていた。

 

 

 





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