それは、まるで蓋を切ったボトルのように溢れ出した。
もはや抑えようもなくなったかの如く。
少なくとも、渚にはそう感じた。
「―――――――っっ!」
全身が、一気に総毛立った。
目の前の存在から放たれた殺気は、ビリビリと服の上からでも肌を刺激してくる。
見誤ったか、と渚は己の判断に間違いを感じた。
そして、親友の算段にも誤算の存在を見た。
自分が―――――――自分達が思っていたよりも、【澱】はずっと深くて得体の知れないものだったのだと、今になって確信に至った。
「どうした?」
目の前のモノは、クスッと嗤う。
まるで見た目そのものである少女のように。
けれど、渚にはとてもそうは思えなかった。
「…………来ないのか?」
誘い。
乗るのか、と自己に問うが、本能の答えは―――――――『NO』だった。
未知の相手に、下手に踏み込むなど愚行も等しい。
相手の動き。
攻撃手段。
それ一連の対策。
最低でもこの三つが自分の手札として揃わないうちは、一人で攻め手に出るのは危険だ。
ましてや相手は―――――――人だ。
退魔師は、その名の通りの意味として魔に対して存在する。
よって、戦闘技術もそれに対応するべく出来ている。
反面、通常では有り得ないケースとして対人戦闘技術には乏しい。
レベルの高い魔性に対する対応が遅れるのも、一つの共通した理由がある。
それは、知性。
コレが有ると無いで、対処の難易度は大きく違ってくる。
こちらに動きに対して、対策を練ることも、咄嗟の臨時応変も可能。
そうなると、ただ我武者羅に突っ込めば返り討ちの展開も十分有り得ることになる。
そして、人もまた―――――――そういった意味では、異能のみでは対処し難い相手なのだ。
………だからこそ、より高い能力を持つ魔性には複数で取り掛かるのが基本なんだ。
現代において、降魔庁が組織内で定めたチーム制度もそれに基づいている。
対処の効率が上がる反面、単独での対処に弱い。
昔に比べて、魔と同様に退魔師が弱体化しているといわれる由縁でもあった。
………これじゃ、一人じゃ何も出来ないのと同じだ。
焦りは禁物。
だが、渚はもどかしかった。
そして、今この場に相棒が居ないことがたまらなく心細かった。
………そういえば、考えるのはいつだってマサに任せっきりだったもんなぁ。
彼に比べればずっと劣る思考で小難しい作戦を練るよりも、彼の考えたことをそのまま実行することを選んだ。
身に合った選択だと思ったのに、今になってこんな時に後悔するとは思いもしなかった。
………さて、対人間っていうのは実は初めてなんだけど。
どうしようかな、と渚は千夜の動向を観る。
一見したところ、武装はしていない。
素手で武器を持った相手を迎えるつもりでいるのか。
そして、それどころか千夜は構えすらもとっていない。
………舐められてんだろうなぁ、きっと。
十中八九当たっているだろう。
何しろ、先に来いと匂わす台詞を既にもらっている。
だが、これは好機(チャンス)でもある。
相手が自分を見くびっているのなら、隙も何処かで出るはずだ。
………ソロデビュー、いきなりハードなのと当たっちゃったけど。
頑張るから見ててよ、マサ。
ここにはいない。
けれど、離れた場所で帰りを待っている相棒の期待を裏切るつもりはない。
………一緒に行くと、決めたんだ。
何処にだって。
何処であろうと。
そこに彼が行くなら、自分も―――――――と。
「………全身から警戒心が剥き出しになっている。……いい心がけだ。そうだ、隙など一切見せるな。………一秒足らずのそれが、俺にはお前を殺すのに十分なターンと
なりえるからな」
精神攻撃、だろうか。
張り詰めた神経を更に引き伸ばそうとする言葉。
揺らぐな、と渚は己を律し、
「…………っ」
額の脂汗が気持ち悪い。
だが、それに意識を向けるだけの余裕はまだあると知って安堵。
互いが臨戦状態に入ってから、今だ不動が続く。
だが、渚は決して自分から動くことはしないと決めていた。
たとえ何を言われようと、相手が先手を打つのを待つ、と。
それが、雅明を無くして自分に出来る―――――――唯一の策として。
「我、動かず……か。だが、いつまでのそうされていると………こっちはいい加減、焦れるな」
千夜の言動に、渚は動の気配を感じた。
来るか、と気を張る。
「来ないなら、俺から行こうか。さっさと終わらせて帰るとしよう」
千夜が完全攻撃態勢に入った。
来い、と如何なる方面からの攻撃も受容できるように気を張り巡らす。
そして、千夜が踏み出したその一歩が開戦の合図と―――――――
「……………なんて、な」
―――――――ならなかった。
千夜の全身から昇っていた殺気が、一気に緩むのに渚は目を見張った。
「、は?」
「やっぱり面倒くさい。何が哀しくて、こんな場所でやり合わなきゃならないんだ………。
―――――――止めた、帰る」
渚は、警戒も何もかも忘れて愕然とした。
千夜は気の抜けた目で、本気で言っている。
クシャリと前髪を捏ねながら、
「………ちなみに、結界は訳あって俺には効かないんで。……それじゃ」
「えっ、ちょっ……」
完全に相手のペースで事が進んでいる。
そうはさせじと、
「……こ、の…待てよっまだ終わって……」
「―――――――終わったさ」
終わっていない、と否定の言葉を言いかけた渚は最後まで言い切ることを放棄した。
止めようと動いたのは言葉だけではなく、体も伴って動いていたはずだった。
だが、現に動いたのは前者だけだった。
そう身体は、
「……っな」
一歩を踏み出したはずの足は、依然と元の立ち位置の上にあった。
動いていない。
否。
動けない。
「………言っただろう? ―――――――終らせて、帰る、と」
再び見遣れば、千夜は笑っていた。
それは、勝者の誇る笑みだった。
◆◆◆◆◆◆
突如発生した己の身に起こった異常。
冷静さなど消し飛び、渚は完全に混乱状態に陥っていた。
………いつだっ!?
一体、いつ行われたのか。
千夜は武装どころか術式の詠唱の気配、そして霊力具現の波紋すら起していなかった。
いわば、無防備。非武装。
その状態でいかにして自分を"こんな状態"に追い込んだのか。
「……くっそ……なんだよ、これっ」
一体どうなっているんだ、と動かない首で視線だけを飛ばし、己の体をその周囲を見回す。
そして―――――――
「っ、これは?」
視線が止まったのは―――――――影。渚自身の影。
そこは、まだ外の陽の光が差し込む場所。故に薄暗い場所でも影が生じていた。
その影には、
「………針?」
黒い針のような何かが、影越しに地面に突き刺さっている。
「影に……? ……っ!」
「―――――――そいつは俺の髪だよ」
答えを放り込む声に、渚は己の影から千夜へと注意を移した。
見れば、確信めいた笑みを浮かべており、
「―――――――髪と神。……表わす字は違えど、発音が同じくするが故か……髪という物質は、霊力の通しが良く、伸ばせばそこに霊力が貯まる。だから、昔の人間は
こんな説を立てた。髪には、神が宿ると…………いや、宿せると言うべきか」
千夜は徐に前髪を一本引き抜いた。
だらりと力なく垂れるそれを、渚に見せるようにかざし、
「……髪を伸ばして霊力を貯蔵するのは、知っているな? 体内に霊力を溜め込むには個々の保有量の限界がある………だから、肉体に直結する部位である髪に溜め込む
ことで総合的な保有量を増加させる。神巫(かんなぎ)の多くが髪を伸ばしている理由だったな、これは」
「だったら、何だって言うんだ」
「………髪にはこういう使い方もあるってことだ」
その瞬間、地面を向いていた髪の先端が渚に向いた。
否。
何かが芯として通ったかのように―――――――立ったのだ。
渚はその光景を見て、目を見開く。
「髪がっ……」
「別におかしいことじゃない。霊力の通りがいいということは、霊媒としての応用性もこれにはあるというだけだ。まぁ、やり方は身体強化の応用……といったところか。
霊力を芯として流し込み、外を更にコーティング。それよって、髪は針のように硬化を起こす。だから、特にこれといって種も仕掛けもない……髪自体には」
「髪に、霊力操作を……っ?」
事実は、渚を驚愕の心境に叩き落した。
髪を媒体に霊力操作。
ありえないとは言わない。
だが、不可能だ。
今までふと考えるに至った人間はいたかもしれないが、すぐに捨てただろう。
当たり前だ。
何故なら、髪は媒体とするには脆すぎる。
髪に霊力を貯蔵とするというのも、それは肉体と直結した状態であり、更には幾重にも束になっていてこそ一つの倉庫のように扱えるのだ。
その一本一本に霊力を通す霊脈は存在する。
だが、髪の中の霊脈だ。それがどれだけ細く、どれだけ繊細に出来ているかなど想像するまでもなく見当がつく。
流し込んだとしても、負荷が内の霊脈の耐久性を超えてしまえば、物質として髪は耐え切れず内側から弾け飛んでしまう。
外側をコーティングするのは、それを防ぐための作用なのだろうが、
………肝心の成功の決め手は、ソレじゃない。
成功の仮定を組み立てる机上の空想でもない。
そこで立てられた理論でもない。
全てを行う当人の―――――――技量だ。
それに全てが掛かっている。
………単純な作業ほど、難しいって言うけど。
大掛かりな術式は、術者の制御にかかっているかといえば実は一概にそうでもない。
そういったものについては、いくつかの補助的な仕掛けを施さなければならない場合もあり、それを敵に気付かれて阻止される危険性ゆえの使い勝手の難しさなのだ。
逆に千夜がやってみせたように、全てが自分の技量に委ねられる単純な操作の方が、実質を問われるということもある。
………つーか、いつのまに飛ばしたんだよっ!
ずっと警戒して、絶えず行動に目を向けていたというのに。
何処かで何気なさを装った仕草を笠に着せて、行動を起こすことを許してしまったのか。
………っ、あの時か?
唐突な発言と共に、千夜が髪に触れた瞬間。
あの僅かな刹那に生じたのは―――――――間違いなく隙だった。
そんなものが、この場の形勢を一瞬で決めてしまった。
覆しようが無いほどに。
「………俺をっ……殺すの、か?」
「………………その台詞は、期待されていると受けとってもいいのか?」
皮肉るように言う千夜。
しかし、
「だとしたら…………悪いが、ゴメンだね。お前らにそこまでして止めてやる義理は無い。その硬直状態は日が暮れて、影の位置が移動すれば自然と解ける。まぁ、その頃
には俺もお前らの目が届かない場所にしけこんでいるだろうがな」
じゃぁ、そういうことで、と千夜は一方的に切り上げて背を向ける。
完全に勝者のペースだった。
「……っ、待て! こんな………卑怯じゃないか!!」
瞬間、何かが一瞬の間に渚の頬を掠めた。
その一部分の髪を舞い上げるほどの勢い。
そして、ちくりとした痛みと共に頬が何かで濡れるような感覚を覚えた。
「…………卑怯、か。確かに……そうだな。俺がした真似はそういうものだ」
背を向けていたはずの千夜は、こちらを振り向いた体勢でいた。
振り向く際に、何かを投げつけたような姿勢。
そして、振り抜いたような形で止まる腕―――――――その先の手には先程まであった【髪】がない。
渚は、動けない状態で己の頬で起きていること臭いで知った。
鉄のような臭い。
それは―――――――血。
さっき頬を掠めたのは、千夜が投げつけた【髪】だった。
「……だが、お前ら………【澱】とはそういうところだぞ?」
視線を合わせた千夜の目は、かつてないほどに冷たく澄んでいた。
非情。無情。冷酷。冷徹。冷静。
あらゆる冷え切った情によって鋭く光るその眼光は、渚を戦慄に突き落とした。
「まったくお前ら……どういう心構えで【こっち】に来る腹積もりでいたんだ? 正々堂々なんて言葉が【こっち】で通じるなんて思っていたのか? ………本当に、何処
まで俺を呆れさせれば気が済むんだか……」
渇いた笑い。
しかし、そこから想像も出来ないほどの憎しみに似たおどろおどろしい感情を、渚は感じた。
それを感じ取ったのは、神巫としての感性か。それとも、人としての本能か。
「……だから、箱入りだというんだ。所詮お前らは………正当性や常識が通じる箱庭の中で育てられた世間知らずに過ぎないんだよ。箱の中には、箱の中なりの不便さや
理不尽が存在しているとしてもな………。篭の中の鳥が、決して外では長生きできないのと同じように………お前らもこっちに来れば、大して保ちはしないだろう」
「何を、根拠に………」
「卑怯を責め立てる時点で、失格だ。【こっち】じゃ、そんな良い分は笑いの種にしかならない。……そんな薄っぺらい紙のような言葉には、何の意味もない」
「……っっ」
容赦ない切り捨てに、渚は二の句を継げなかった。
少なからず、当たっていた。
単なる悔し紛れに出てきた、負け惜しみから出た言葉だった。
「………相棒にも伝えておけ。
―――――――何の為に、あの時生かしてやったと思っているんだ、と」
「…………は?」
渚は耳を疑う。
今の言い分では、まるで―――――――
「あんた、一体……」
反抗心も、敗北感も全てが疑問符の下に埋まる。
しかし、疑問が口に出るよりも先に、千夜は既に渚から興味をなくしたように背を向けてしまった。
◆◆◆◆◆◆
酷く、気分が悪かった。
胸に何かがとぐろ巻く感覚。
それは、久しく感じるものだった。
欠乏感。
虚無感。
少し前まで伴侶のように付きまとい、絶えなく有り続けたモノ。
だが、不思議と随分と長く留守にしていたような気がした。
しかし、それも帰って来た。
先程行われた過去の暴きと、
………こいつのおかげで。
背後の相対者を体面したうちに感じた、劣等感。
在り方の相違。
生きてきた過程の相違。
無知と、識った側。
面と向かっているだけで、負の感情が内側に溜まっていった。
かつて、自分を構成するのに欠かせなかった感情。
………最近、忘れかけていたからか。
束の間の"嘘"が、いつの間にか馴染んで来ていた。
"嘘"で作り上げられた両手足。
それを本物のように思い始めていた。
………俺は、いつの間にか【終夜千夜】として在るようになっていたのか。
終夜千夜という―――――――嘘に、成りきっていた。
………現金なものだ。
少し前までは、【御月千夜】に未練を持っていたくせに、と自身を嗤う。
何がその未練を薄め、【終夜千夜】への執着を強めたのか。
考え、脳裏を過ぎるのは―――――――ここにはいない人間だ。
………会いたい、な。
急激に起こる波のような欲求。
ここにはないものを、千夜の心は激しく求めていた。
思えば、この場を切り抜くことが出来たのも頭の中で描く男のおかげであった。
一昨日の夜に、交わることを目的として触れ合った。
本格的なところまで到達はしなかったが、精神が昂ぶった状態で触れ合うだけでも多少の効果があったらしい。
感応法。
予期せずとも、霊力を欠いていた千夜はその呪法を則ったことで、多少の霊力が回復したのだ。
そう考えると、余計会いたくなった。
………早く帰ろう。
ここにいると、自分が保てなくなりそうだった。
【終夜千夜】という己を。
現実逃避、という言葉が思考を過ぎり、自嘲する。
今の自分の心境は、間違いなくそれに該当する状態だった。
だが、それでも。
………俺は、【終夜千夜】で……いたいんだな。
実感が滲む。
じわじわと染み出る願望が、足先を外へと急かす。
心が。
身体が。
【終夜千夜】という存在を作り上げる一人の男を求めて。
「………っ」
つられて、少し前の【日常】の喪失を不意に思い出す。
最後の瞬間の顔が記憶に焼きついていた。
それが時折として、胸に痛みを生むようになっていた。
これで、己の【日常】は今度こそ幕を引く。
だが、それでも【終夜千夜】は続いていく。
―――――――続けていくのだ。
………あいつに、言わないとな。
自分が学校を辞めるといったら、あの男はどうするだろうか。
昨日の朝の会話どおりにするのか。
思い出し、不謹慎とはいえ少し胸が温かみを取り戻す。
「ちょっ、オイ結界が……」
渚が外へ出ようとする千夜に、それを妨げるものの存在を主張する。
だが、関係ないと千夜は無視した。
己の霊装【夜叉姫】の加護は、いかなる術式の効果であろうと全て無効とする。
よって、己に結界による封じ込めなど通じない。
経験と相棒への信頼をもって、誰よりもそれを既知していた。
足は、既に主の意思よりも先を行くように進む。
向かう先にいるであろう、不思議な安寧を与える男の元を求めて。
そして、踏み出した一歩が、外と内の境界線となっている結界に触れる。
「―――――――っ!」
触れた瞬間。
信頼と確信の外側から全てが、一瞬にして覆された。