―――――――お座りなさいな。

 




 逃がすつもりなど欠片もない相手の言葉をかけられ、久留美は鎖で足を拘束されたようにその場から動けなくなった。

 

 ここにいてはいけない。

 一刻も早く去るべきである。

 この人物の目の前から。

 

 だが、迷いという釘が深く打ち込まれて外れない。

 もし、背中を向けたら。

 逃げることを許さないこの女は自分に何をするだろうか。

 

 先を予想できない恐怖。

 予想など無意味であるという直感。

 それらが久留美に停滞という状態を維持させ、離さない。

 

「…………」

 

 呼吸と瞬きだけが許された空間で、久留美は紡ぐ言葉すら考えることもできず、その場に立ち尽くした。

 そんな状況下に置かれた久留美は、次第に五感を見失っていく。

 ゴクリ、と溜まった唾液すら飲み下せず。

 額に滲む汗の濡れた感触すら感じることが出来ない。

 

 時間さえも止まって―――――――

 

「ねぇ、ちょっと。座んないの?」

「……………………へ、ぇ?」

 

 長い沈黙を破ったのは、命令でも強制が込もっているわけでもない非日常の女の声だった。

 軽い調子の掛け言葉に、久留美から身体の強張りがスルリと抜けてしまう。

 

「なにを緊張してるか大体予想つくけど……心配しなくても、貴方が考えているようなやましいことは何一つ当たっていないわよ」

「何を根拠に……そんなこと信じろって」

「あーのねぇ……」

 

 ゴス子は額に手を当て、呆れた口調で、

 

「……呼び出したのは貴方。私は貴方に相談にのってほしいと呼ばれて出向いたの。私はメールで返事をもらえればよかったのに、貴方は私に会いたいと要求してきた。

ねぇ、貴方の勘繰っているような点が少しでも臭うようなものが今言った中から見つかる?」

「う゛……」

 

 痛いところを突かれ、言葉を詰まらす久留美をおかしそうに笑いながら流し目をくれて、

 

「まぁ、座りなさい。立ったままでも座ったままでも何も変わらないわよ」

「………逃げられないことに変わりないって?」

「この場で貴方の危惧するようなことは起こりはしないってこと」

 

 悪魔で他意は無いと主張してくる。

 そして更に、

 

「第一、そんなことをする理由が私には無いもの」

「………千夜から聞いているんでしょ?」

「こっちの世界を知ったことについて? そんな気でいるのは貴方だけだから気にすることはないわよ」

「私だけ?」

「自分で思っているほど貴方はこちらを知らない。それが事実。こちら側である私から見た見解よ。だからこそ…………千夜は、手遅れにならないうちに貴方を拒絶した

のだしね」

 

 不意を討つように出てきた名前に、久留美の心臓が跳ね上がる。

 

「どうして、知って………」

「壁に耳あり、障子に目あり。こっちはそういう世界なのよ。それも理解できていないうちでは、貴方は何も知らないも同然よ」

 

 ほぼ一方的な言い分であるにも拘らず、久留美の反抗心は少しも奮えやしない。

 千夜に徹底的にやりこめられたショックのせいか。

 それともゴス子の言い分が適っているせいか。

 

 いずれにしろ、それに対して迎え撃つ言葉を久留美は持っていなかった。

 

「………じゃぁ、私と千夜に何があったかも、知ってるの?」

「おおまかには。貴方たちがどんな会話をしたかまでは知らないけど」

 

 それならば、何を相談したくて呼び出したかも、彼女には検討がついているということと判断してもいいのだろうか。

 疑問と迷いを胸に、久留美はゴス子から一度目を逸らし、そうしてもう一度見た。

 

「座りなさい。立ったままでは疲れるでしょう?」

 

 優しい声色で紡がれたゴス子の言葉に、久留美の心が揺らぐ。

 胡散臭い存在が何を言おうが全部胡散臭くなるだけなのに、気がつけば久留美はもうそんなことはどうでもよくなりかけていた。

 

 そもそも彼女をここに呼んだのは、紛れも無い自分だった。

 彼女が何を思ってそれに応じたのかは知らない。

 応じた裏で何を企んでいるのかも知らない。

 そもそも本当にそんなをことを今もこうして考えているのかどうかも、久留美には知りえないことだ。

 

 ただ、そんな久留美にもわかることが一つだけある。



 それは、

 

「………話、聞いてくれるの?」

 

 理性という束縛の目を掻い潜って、自然と口から漏れた問いかけ。

 垂らされた一筋の糸に縋るような罪人のような心持ちだった。

 当初の呼び出した用件を再度確認するかのように問う。

 

 ゴス子は、そんな小さく細い問いを聞き逃さなかった。

 

「ええ、どうぞ。まずは、貴方の中に溜まったものをすべて吐き終えるまで聞いてあげる。相談はその後でちゃんと応じるから……ね?」

 

 ポンポン、と先程まで久留美が座っていた場所をはたく。

 招いた人間を、奇妙な形だが招くように。

 

 

「………はい」

 

 

 そう頷いた時には、久留美は既に警戒心などくだらない粗末なものとしてかなぐり捨てていた。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 全て話した。

 何もかも。

 

 千夜とのことも。

 己の過去の話も、

 己の想いも。

 

 今日生まれた想いも、積年の間に積もり続けた想いも。

 新條久留美という人間が持っている感情全てを用いて表現し、言葉にして外に吐き出した。

 

 ゴス子の声など途中から聞こえなくなるほど夢中になって、その行為に没頭した。

 溜まって溜まって濁りに濁った恨み辛みは、いい加減体内に押し込めておくのがきつくなっていたのも知れない。

溜め込まれていたそれは、濁流のような勢いで久留美の口から押し出されていった。

 

 息継ぎも二の次で、とにかく喋った。

 喋って喋って。

 当然苦しくなったが、それすらお構いなしでブチまけた。

 

―――――――っっ……げほっ、えふっ……」

 

 そして、ついに渇いた喉にて酸素が突っかかり、咳き込むことになった。

 長い長い懺悔のような久留美の語りは、ここでようやく途絶えた。

 

「あーあ、大丈夫?」

「へ、平気……っ」

「もっと落ち着いてゆっくり話せばよかったのに……」

「自分でも、そのつもりだったんだけど……」

 

 自覚がなかっただけで、限界が来ていた。

 もし、彼女が聞いてくれなかったら、何処でどんな風に爆発していたか想像も出来ない。

 

「……でも、ちょっと……すっきりしたから、良い」

「そう」

 

 走ってもいないのに大きく乱れた呼吸を整えると、仕上げとばかりに大きく息を吸い込んだ。

 

「……ふぅ―――――――

 

 肩から力を抜くように息を吐いて、項垂れる。

 胸のもやつきがなくなったわけではないが、それでも状態は向上した。

 

「………結局ね、今回のことは私に与えられたなけなしのチャンスじゃなくて、もう諦めろって言うトドメだったのよ。私には手の届かない世界だって、分別をいい加減

弁えろって話だったの………きっと、あいつもそう言いたかったんだわ。……ははっ、回りくどい言い方しないではっきり言えっての」

 

 あんなに怒鳴っても叫んでも、少しも呼吸を乱さないで冷静にあしらったくせに。

 それなら、もっとストレートに言って欲しかった。

 そうであったなら、きっと、もっと―――――――簡単に割り切れたというのに。

 

「詰めが甘いわよ、あいつ……未練なんて、残せないくらい………もっと手酷く言い切ってくれればよかったのに」

「あらあら、結構Mなのね。手酷くしてほしいなんて」

「あー……案外そうなのかも」

 

 そう言われても仕方ない。

 だが、中途半端な対応よりも全力でぶつかられた方がよかった。

 それこそ完全燃焼というものだ。

 ひょっとしたら、今よりかは幾分マシな気分だったかもしれない。

 

「もっと酷い振り方して欲しかったかな。いっそ、何も言わずに応答すら拒んでいなくなっちゃうとか……そういうの」

「そうなの?」

「…………わかん、ない」

 

 もう何だって良い。

 全て終わってしまった今となっては、何を考えて振り返っても無駄なのだから。

 

「っ、……もういいの。今回のことでいろいろ思い知ったし……そろそろ未練がましく子供の頃の夢を引きずるのも止める。愚痴ったら、気も晴れたし……。明日になれ

ば、全部元通りになる。あいつと会う前に戻るだけ。あいつがいなくても生きて来れた。それまでの日常なんだから……問題なんて、ないもんね」

 

 ただ、日々が元の形に還るだけ。

 それだけのことだ。

 当たり前だったものが帰って来る。

 たった、それだけの―――――――

 

 

「話は粗方聞かせてもらったけど―――――――解せないわね」

 

 

 見切りをつけようとした思考を歯止めとしてかかる言葉は、それまでただ話しに耳を傾けるだけに徹していた隣接の存在から降ってきた。

 

「え……?」

「貴方は駆け引きに負けたといったわね。……そもそも、あの子を相手に駆け引きなどする必要が、何処あったのかしら?」

 

 そこが皮切りだった。

 今まで聞く体勢を維持していた反動のように、疑問の発露が猛攻し始める。

 

「何故、本音を言わなかったの? 何を恐れて言わなかったの?」

「……ぁ」

「他にもあるわ。大体、本当にあなたは非日常なんて求めていたのかしら。それが望みだったのかしら?」

 

 ねぇ、とゴス子が顔を傾け、久留美に直視を向ける。

 それに射抜かれた久留美は思わず表情を凍らせた。

 

 

―――――――あなたの本当の望みって、何?」

 

 

 突き合わせた相手は、もはや懺悔の聞き手ではなかった。

 内に秘められたものを容赦なく暴く冒涜者が、知らずのうちに入れ替わったかのようにいつの間にかそこにいた。

 

「あ………え、と……」

 

 あまりの変貌ぶりに、久留美は言葉を失くした。

 怯えにも似た口ごもりを見せる久留美に、ゴス子は、

 

「………急に畳み掛けすぎたわね。だって、貴方が自分を誤魔化して勝手に終わらせようとするんだもの。これくらい言わないと止まってくれないと思って」

「……私が、誤魔化してる……? 何言って……」

「私を呼んだのはそれが目的だったんでしょ? まだ諦めきれない自分を諦めさせる為に……そのために私を呼んで、諦めきれない想いを外に出す場をつくり、私という

外からかける是非の存在を用いて……貴方は諦めきれない自分に誤魔化しをかけたかった」

「ち、ちがっ……私はっ、ただ誰かに聞いて欲しかっただけで……」

―――――――ほら、発見。……誰かに聞いてもらった。やり場のない想いを外へ発散したその満足感で、あなたは自分の納得の行かない部分に強引な収拾をつけようと

していた」

 

 弁解は慈悲も無く切り捨てられた。

 抵抗も反抗も許さない一方的な弾圧。

 一種の言葉の暴力を前に、久留美は成す術などなかった。

 出てくるのは、情けないほどの、

 

「っっ―――――――……だ、ったら、……他に私にどうしろっていうのよ」

 

 負け惜しみ。

 遠吠え。

 いずれにしろ敗者の紡ぐ醜くも脆弱な虚勢だった。

 

「私の声はあいつに届かなくて。拒絶されて。納得も満足も出来なかった想いは……外に出して誤魔化す意外にどうしよう出来ないじゃないっ……」

 

 収まったはずの熱い液体が再びこみ上げてくる。

 惨めで、情けなくて、ただ吠えるしか出来ない自分に対する途方も無い失望と無力感。

 否定に畳み掛けるように更に否定。

 それがもう耐えがたく、いい加減誰かに肯定してほしかっただけだ。

 

「いつまでも、ここで止まっているわけにも行かないから………終わったことを振り切って前に行かないといけないから………だから、私は……」

「無駄よ。仮に進んだとして、そう思っているのは貴方だけ。貴方が誤魔化して目を逸らした過去は、決してなくならない。未練は残り続ける。そして………貴方を縛り

続ける。それこそ、死ぬまで一生ね。過去から逃げようとして次を望むことを―――――――前へ進むとは言わない」

―――――――っ、っ」

「現在は自ずと過ぎ、未来は貴方が望まずとも来る。けれど、貴方は進めない。そこに留まって、躓いて、同じ事を繰り返す。この先何を望もうと、何一つ望むものを手

に入れることはない。どれだけ時が過ぎても貴方は、そもそも望みを叶える術を知らない。望みを叶えることもないまま生きる人間に、どんな望みであろうとそれは叶え

られないのだから」

 

 完全な否定に、今度こそ久留美は泣いた。

 もう泣く以外に行動が残されていなかった。

 折られた上で、踏み砕かれた。

 留めなく溢れる生ぬるい涙を頬へ垂れ流しながら、全てを閉ざして追い出し、

 

「じゃぁ…………どうすればいいの?」

 

 全てを否定した相手に問う。

 何を言おうと否定するのなら、この相手は正しい答えを知っている。

 もはやそれを乞う以外に、久留美は何も思いつけなかった。

 

「まぁ、とりあえずこれで涙拭いて。拭きながら聞いて頂戴」

「………」

 

 差し出された四つ折で畳まれたハンカチを受け取り、押し当てる。

 質の良さがわかる薄くも柔らかい感触の生地に、涙がぐいぐい吸い込まれていく。

 

「………とりあえず、反省会ね」

「はん、せ……い?」

「そ。失敗したら何が悪かったか物事を振り返って検討する。失敗は成功のもとってこういうやり取りあっての言葉でしょ」

「……でも、今更そんなことしたって」

「事態が覆るかどうかはこの際置いておきなさい。貴方が求めているのは、何処で何を間違えてこうなったかの"納得"でしょ? 前へ進みたいなら、逃げてはダメ」

「…………」

 

 ゴス子の掌が、慰めるように久留美の背中を撫でる。

 たった今、自分を責め立てるように言及してきた相手にそうされるのは、何処か奇妙な感覚だった。

 

「ゴス子さんって……優しいんだか、そうじゃないんだか」

「あら、私は優しいわよ? いつまでもくだらない駄々を捏ねない、聞き分けのいいコにはね」

「……………すんません」

 

 優しいかそうでないかで一括りするには危険な相手であるということだけは、今わかった。

 

「まぁ、これでようやく御所望の"相談"が出来るわね」

「………え」

「貴方がメールで寄越してきたんでしょ。全く、ここまで来るのに思った以上に手がかかったわ」

 

 ああ、それとね、と彼女はふと思い出したように、

 

「お互い腹を割って話すわけだし、本名を明かすわ。私、黒蘭っていうの。黒い蘭と書いて【黒蘭】。


 ―――――――さぁ、始めましょうか。理解と納得の追求を」

 

 一つの始まりを告げるその人。

 ただ聞くだけだった聞き手でもなく。

 暴いて辱める冒涜者でもない。

 

 目の前にいるのは、自分が求めたはずの確かな相談者。

 

 久留美はここでようやく目の前の人物―――――――黒蘭という女性と正面から向き合えた気がした。

 

 理解らない人だ、と久留美は黒蘭に対して感想を抱いた。

 ただ、恐怖を感じる不明さではない。

 

 

 そして、何故か。

 この難解さに、あるはずのない懐かしささえ覚えていた。

 

 

 

 

 






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