三時過ぎ。

 間食時に数えられる時刻、久留美は自分の地元に戻ってきていた。

 

 渋谷区幡ヶ谷。



 家には帰らず、駅からのその帰路の途中にある幡ヶ谷第三公園に留まっていた。

 公園の敷地の半分ほどを陣取る、公園そのもののシンボルである水遊び場が特徴とされており、夏場は親に連れられた子供たちに占拠される。

 しかし、まだ時期を迎えないそこは、水も冷たく気温も肌を晒すには低いため、その人口もごく僅かだ。そうなるのは、親が子供に風邪を引く、まだ早い、と咎めるから

であって、子供たちには水への好奇心が絶えておらず、隙あらば靴を履いたまま足を踏み入れようとしている。



 

 それを目論んだ一人の子供がバランスを崩して倒れこみ、全身を水浸しにしてしまったのに親が悲鳴を上げる様子を久留美は、ベンチから見ていた。

 

「………ばぁか」

 

 子供ほっといて井戸端話なんてしてっからだっての、と遠巻きに眺めて悪態づく。

 その一事件から興味を失った久留美は、視線の対象を噴き出る噴出場へ変えて何を思うわけでもなく無意識に見つめ出す。

 その意図のこもらない動作は、嫌でも物思いを起させる。

 

 ………私、何でこんなところにいるんだっけ。

 

 時間は思った以上にせっかちで、ここに来て一時間が経っている。

 その一時間前、久留美は渋谷道玄坂にいた。

 従姉の店を訪れ、手伝わされ、その後は映画を見た。

 一人ではなかった。

 一緒に―――――――

 

 ………でも今は、一人だ。

 

 ふとしたキッカケで状況が一転してしまった。

 自分が先だったか、相手が先だったかは記憶があやふやだった。

 ただ、本当に一言でそれまでの穏やかな雰囲気が消えてしまい、

 

 ………何よ、元気でって……。

 

 

 

 ―――――――サヨナラ、ゲンキデナ。

 

 

 

 さして経過していないためかまだ新鮮な記憶が、脳の中で反映及び反響。

 蘇るのは、かつて受けたことの無いタイプの拒絶。

 激情とは程遠い穏やかさ。

 まるで、また明日ね、と言うかのように―――――――彼女は、今生のお別れを告げた。

 

 口調は落ち着いていた。

 だからといって、冷たく突き放すようでもなかった。

 

 けれど、それは。

 今まで久留美が聞いてきた拒絶の中で、追随を許さない徹底さを感じた。

 

 わけもわからず閉め出され、扉を閉められた。

 理解り合いたいという要望すら一方的に切り捨てられてしまった。

 

 ………そういえば、"あの時"も似たようなもんだったかな。

 

 一方的に断ち切られた。

 その点を踏まえると、今回も同じ結果になった。



 あの時とは違い、危機感を既に覚えていたのにも拘らず。

 あの時とは違い、抗う余地があったのにも拘らず。

 

 結果は同じ。

 久留美は、また一人に戻った。

 

「世の中、そんなもんってこと……かも」

 

 はぁ、と無造作に溜息を付く。

 努力すれば報われるとは限らないということ。

 どんなに努力を重ねようと、登れない山はある。

 努力で成り上がった人間の影には、同じようにしたにも拘らず認められなかった人間は腐るほど存在するだろう。成り上がるには何かが足りなかった。努力だけでは穴埋

めできない何かを抱えた次席たち。

 

 自分は多分そこに位置する人間だろう。

 

 成りえなかったのは、自分が日常の人間だったから。

 はなっから不合格的要素を抱えて無謀な挑戦をしていたに過ぎない愚かな人間。

 

 それを二度目の失敗で、やっと思い知った。

 それだけのこと。

 

「それだけの……こと」

 

 思ったことを口にした。

 途端、何故か目が熱くなった。

 

 ………え、うそっ。

 

 慌てて上を向いた。

 しかし、目の奥から来るモノは構うことなく込み上げてきて、

 

「ちょっ、や」

 

 出る、と思った瞬間、それはポコリと噴出すと、頬を流れた。

 

「………あ、―――――――

 

 出てくるまでは熱かったそれは、大気に触れるとすぐに冷めてしまった。

 首筋までくると、背筋にブルリとくるほど冷たくなっていた。

 

 そして、それは久留美にまた一つ思い出させた。

 

 クリスマスの夜。

 久留美は、ここで待っていたのだ。

 魔法使いを、この場所で―――――――このベンチに座って。

 約束が果たされるのを信じて。

 

 手がかじかみ、頬が真っ赤になるまで待っても、それは果たされなかった。

 久留美は心配して怒った母親に連れ戻され、散々怒られた。

 そして、その晩風邪をひいた。

 喉もやられて高熱にうなされながら、ベッドの上で己の状況を振り返った。

 

 どうして、まだここにいるのだろう、と。

 途端に涙が出たのだ。

 そこで久留美はようやく置いていかれた事実を理解した。

 絶望感と共に泣き喚いた。

 どうしたことかと母親が動揺するのも構わず、泣いたのだ。

 

 これは、あの時と同じだ。

 最初の一滴で理解し、次に絶叫をあげて泣き出す。

 既に前兆が起きた後、来るのは当然、

 

「う、ぁ……っ」

 

 口を押さえる。

 こんなところで声を上げて泣くなんてみっともない、というまだ残るなけなしの自制心が身体を動かした。

 この理性もいつまで保つかはわからない。

 でも、それでも―――――――ここで、泣いてしまいたかった。

 

「うぇっ……」

 

 喉がしゃくりあげる。

 駄目だ、もう泣く。

 

 そう思った時、

 

「っ、!」

 

 突然、太股で振動が生まれた。

 一瞬何もかも吹っ飛ぶ勢いで、驚き来るところまで来ていた涙が引っ込んだ。

 

 正体はポケットの中の携帯電話だった。

 メールに対してはマナーモードを設定している。

 無視して泣こうかと思ったが、泣きは今の横槍ですっかり奥に引っ込んでしまった。

 

「……誰よ」

 

 知り合いに、返事を待たなければならない手間を踏むメールなんて方法を使う人間はいない。

 ただのチェーンメールか迷惑メールだろうか、と当然の考えが過ぎるが、実際に確認しないことには事実はわからない。

 たかがメールにそこまで気をやり迷っているのも馬鹿らしくなった久留美は、苛立たしげに太股のポケットを探り、引き抜いた。

 

 開いてみたところ、まず名前ではなくURLが代わりに表示されている。

 アドレス帳の中には登録されていないことは明白であるそのメールの件名は、「先日はどーも」と書かれている。

 何のことだ、と更に先に進め、内容に行き着く。

 

 謎のメールの相手の正体には、その先で判明に至った。

 

 

『こんにちは、黒井ゴス子です。

 

 朗報はお役に立てましたか?』

 

 

 あ、と久留美は軽く目を見張った。

 

 三日前、久留美に千夜の情報を送りつけてきた謎の人物。

 あの時はパソコンを通してだったが、今度は携帯電話。

 

 ………この人、一体どこで私のアドレス仕入れてんのよ。

 

 しかも、よりにもよってこのタイミングで。

 返事にどう応えるか、迷った。

 

 ………とりあえず、ここは安直に。

 

 

『はい、とても役に立ちましたよ。

 

 ありがとうございました。 』

 

 

 単純な返事と礼のみを打ち込んで、送信。

 そして、返事は五秒と待たず来た。

 

「はや……」

 

 随分使い込んでいるのか、かなりの早打ちだ。

 久留美は相手への謎をますます深めた。

 

『終夜千夜とはその後どうですか?

 

 お友達にはなれましたか? 』

 

 返事の内容は、それを則りながらも返事ではなく新たな問いだった。

 しかも、今の久留美にはこの上なくタイミングの悪い類の質問だ。

 

「………っ」

 

 思わず携帯電話を握る手に力を込めてしまう。

 わかってやっているということは当然であっても、今はこの上ない地雷だった。

 返事に迷う。

 

 そもそもこの人物は何者なのだろうか。

 当初から付きまとう謎でありながらも、久留美は貴重な情報源としてあまり深くその点には触れないようにしていた。

 だが、今となっては関係ない。

 

 

 ………会って、みたい……な。

 

 様々なタイミングが重なっての一つの願望だった。

 

 謎に満ちたこの相手を人目直接見てみたい。

 そして、誰でも良いからこの胸のやりきれなさを聞いて欲しい。

 一人でいると悶々としてしまうが、家に帰ってもどうにもならない。

 誰でも構わない。

 いっそ、よく知らない他人がいい。

 

 たとえ、それが胸に渦巻く靄つきの原因たる存在に縁あるかもしれない人間であるとしても。

 

 気持ちが固まり、返事を打つ。

 しかし、それは当然質問に対する返答などではなく、

 

 

『よければ、今から会えませんか? 

 

 そのことについて相談したいことがあります。 』 

 

 

 返答を餌にして誘いをかける内容を送る。

 どう出るだろうか、と待つ数秒の時間は落ち着かなかった。

 

 そして、返信が来た。

 心臓を大きく一跳ねさせながら、久留美はメールの中身を開いた。

 

 

 

『いいですよ。

 

 何処で会いましょうか? 』

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 最後のやり取りから十数分が経過した頃だった。

 三十分は待つことになろうと踏んでいた久留美の予想を裏切る早さで、その人物は久留美の前に姿を現した。

 

―――――――

 

 公園の出入り口をまだかまだかと見つめていた久留美は、その姿を捉えた。

 その瞬間の次に取った行動は、息を呑むという驚きの感情に促されたものだった。

 

 待ち人と思われるその視線の先の相手は、妙齢の女性だった。

 そして、遠目でもはっきりとわかるほどの見目麗しい美人だった。

 腰まで伸びる長い黒髪。黒目。

 大人の身体のラインを浮き彫りにする黒いフォーマルスーツに、黒いハイヒール。

 何かも黒尽くめの装いのその人は、モデル顔負けのしなやかな動きと振る舞いで久留美の方へ歩み寄ってくる。

 

 一瞬で魅せられた久留美は言葉もなく、それを呆然と見つめた。

 そうしているうちに、女性は久留美の目の前までやって来て、

 

―――――――新條久留美さん?」

 

 指定した公園にてベンチで待っている、と言っただけだったのに、彼女は質問という形をとりながらも確かな自信を持って聞いてくる。

 下手な女優やモデルなど横に並べるのさえおこがましいであろうその美貌の人の問いに、久留美は言葉もなく、ただコクコクと頷いた。

 美女はそこで花咲くように笑い、

 

「……そう、直接会うのは初めてよね。

 ―――――――初めまして、新條久留美さん。黒井ゴス子です」

「え、本名?」

「まさか。でも、貴方が会いたいと呼び出したのは【黒井ゴス子】でしょう?」

 

 にこやかでありながら、初対面特有の壁を感じさせる言動だった。

 つまりは、本名を名乗るつもりもないし、教える気もないということだ。

 

 最初が肝心とばかりに譲らない一線を黒井ゴス子は引いてきた。

 軽いジャブのようなそれに、呆けていた久留美も気を引きしめる。

 

「……初めまして。えっと……私はハンドルネームじゃないんですけど、そのままでいいです」

「じゃぁ、私はゴス子で。隣、いいかしら?」

 

 どうぞ、と久留美は一人で真ん中を占拠していたベンチの上で、身体を左にずらした。

 腰を座る様さえ優美なゴス子は、片足を組んで腰を押し付けた。

 

 華も恥らう麗しの美女と普通の眼鏡少女。

 どんな光景だろうか、とこのアンバランスな構図を客観的に見てみたくなった。

 

「で、何から話しましょうか。とりあえず、世間話でもしてみる?」

 

 茶化すようなゴス子に、会話を促された久留美は、そこに潜む真意を探る。

 

「しますか?」

「ん〜? 貴方がしたいなら構わないけどね」

 

 掴みどころがない。

 まるで水を掴もうとしている気分だった。

 まわりくどい誘いは無駄だと知った久留美は、気分を切り替えた。

 

「………何処で、私のアドレスを知ったんですか?」

「パソコンは自力で。携帯電話のは、事前に千夜の携帯からこっそりね。便利ね、赤外線通信って」

 

 千夜の、と聞いて久留美の中で次の質問を決まった。

 

「ゴス子さんは、千夜とどういう関係で?」

「関係、ね………」

 

 まるで待っていたかのように、勿体ぶった口ぶりだ。

 焦れながらも、久留美は耐える。

 

「………姉、みたいなものよ」

「みたいなもの?」

「まぁ、親戚とでも解釈して頂戴」

 

 中途半端な返答だった。

 だが、姉そのものではないという言動に対してはなんとなく真実味を感じた。

 千夜は、妹の話はしても姉の話は一切持ち出さなかった。

 

「どうして、私にあんな情報流したんですか?」

「ちょっと手を加えたかったの。……貴方も見てたんじゃない?」

「何を、ですか……?」

「学校でもあの二人はイタチゴッコしてたんじゃない?」

 

 あの二人、と聞いて思い至る人物は決まっていた。

 ちらりと話の糸口が見えたのを、久留美は見逃さなかった。

 

「ひょっとして……私、ダシに使われたんですか?」

「あら、鋭い」

 

 聞いた久留美が拍子抜けするほど、ゴス子はあっさりと観念した。

 

 つまりは、久留美は拗れている男女二人の橋渡しの役目を負う人間として、白羽の矢を立てられたのだ。

 現に久留美はゴス子の思うがままに、いくつかの事情が重なった結果として思惑を行動に移した。

 多く人間の行動の顛末として描かれたと思っていたあのハッピーエンドは、実際のところはこの最初の一人によって投じられた一石で全てが決まっていたのかもしれ

ない。
そんな気がしてきた。

 

 ………なんか、すっごい人。

 

 完全に一つの柱が折れてしまった気分だった。

 千夜を相手に敗れた後の久留美には、この熟練した駆け引きの転が手との遭遇はある発覚の決定打となった。

 自分は所詮、雑魚だという自覚の。

 

 ………もう、真っ当に生きた方がいいのかも。

 

 勘が鈍った何らかの専門家はもう先が無いと同じだ。

 鈍りを振り切る自信も失った。

 

 一つ溜息をつき、気持ちに区切りをつけて、

 

「……私のことは、千夜から聞いた話で判断したんですか?」

「いいえ。千夜は私にそういう話はしないの。聞くまでもなく貴方は学校を突き抜けるくらいの評判の人物だったから」

「………そう、ですか」

 

 ほんの少しの期待を込めての問いだった。

 話していないのは彼女に限らないだろう。

 きっと、千夜は誰にも話さなかったにちがいない。

 切り捨てる予定だった人間のことなど、話すほど気にかけていたわけがない。

 

「……そういえば、その評判ではわからなかったことがあるわね」

「え……」

「話を少し戻しましょうか。最初のほうにしたものと同じ質問を私はあなたにしていなかったわ。私ばかり答えていては釣り合わないわよねぇ?」

 

 今度は私の番だ。だから、答えろ。

 言葉数の多いゴス子の台詞は簡略化すると、久留美にはそう汲み取れた。

 

「何ですか?」

「貴方が私に持ちかけた二番目の質問よ。

 ―――――――貴方は、千夜とどういった関係なのかしら?」

 

――――――――っ」

 

 傷口を容赦なく抉られるような痛みを胸に感じたのは、錯覚ではなかったはずだ。

 今日のことを知らないゴス子に悪意はなかろうとも、今の久留美には間違いなく痛恨の一撃だった。

 

 久留美は何とか表情には出ないように、詰まった息を無理やり飲み下し、

 

「た、ただの……クラスメイトですよ?」

「でも、そう呼ぶには親密なようじゃない」

「親密なんて……学校で会ったらちょっと話すだけの仲ですよ?」

「あら、そうなの? おかしいわね、私………昨日あの子の妹からは―――――――"友達の家に泊まりにいってる"って聞いていたのだけれど」

「っ、?」

 

 不意に逃げ道が埋め立てられた。

 先程から感じていた違和感と、久留美はここでようやくまともに相対する。

 

 ………何、これ。

 

 おかしい。

 普通の話しているのに、違和感を感じること自体が間違っている。

 非日常にこだわるあまりに、自分は普通の会話すら出来なくなってしまったというのだろうか。

 

 ………違う。

 

 久留美は思わずゴス子を見た。

 目が合う。

 

「どうしたの?」

 

 こちらを伺いながら、微笑むゴス子。

 だが、その笑顔に、一瞬だが。

 

 ―――――――千夜の面影が過ぎった。

 

 それが姿かたちの無い違和感の具現の瞬間だった。

 

「っっ……!!」

 

 久留美は思わずベンチから立ち上がった。

 そして、ゴス子から距離を置くように一歩足を引いた。

 

 何故、そんな風に思っていたのか。

 何故、こんな簡単なことに気づかなかったのか。

 千夜という非日常に当たり前のように接するようになっておきながら。

 

 ………そうよ、この人は。

 

 相手に対する対応を自分は間違えていた。

 この相手にどうして普通の対応が正しいなどと判断したのか。

 だが、気づいた。

 既に時遅しとしても。

 

 この女性は、確かに千夜の知り合いだと言った。

 嘘をついている風ではない。

 彼女は本当のことを言っている。

 

 だが―――――――そこをそのまま聞き入れたことが最大のミスだった。

 

 千夜の知り合いであること。

 それは即ち―――――――

 

 

「あらあら、今頃気づいたの?」

 

 

 クスクスっと強張る久留美を嗤い、ゴス子こと―――――――非日常の住人は言う。

 

 

 

「座りなさいな、新條久留美。私を招いたのは、貴方なのよ?」

 

 

 

 

 そうして久留美に打ち付けられたのは、『今更逃げることは許さない』という裏づけがなされた釘だった。

 

 

 

 









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