あまりにも切り替わり過ぎではないかと思わずにはいられない、手厳しい返事だった。






 それに久留美は一瞬唖然とし、そして、




 

「な、なによそれっ! ふざけてんのっ……!?」

 

 立ち直って早々、当然の如く反撃の態勢へと切り替えた。

 しかし、そんなことなど袖にも掛けないように、

 

「それはこっちの台詞だ。何の為に、謝ったと思ってるんだ」

「何でって………」

「わからないなんて、聞かせないでくれよ?」

 

 警告のように告げられたその言葉に、久留美は思わず口を噤んだ。

 どうしてこんな空気になったのか、と振り返っている暇はなかった。

 とにかく考え、十秒に至るかそうでないかの寸前のところで沈黙を絶ち、

 

「………何ソレ」

 

 先程と同じ台詞が口をついて出た。

 だが、それを押し出した衝撃と怒りは比べ物にならないまでに膨らんでいた。

 

 千夜の突きつける理不尽さに対して。

 

「……ねぇ、それって……ちょっと、違うんじゃないの?」

 

 声が震えているのを久留美は自ずと理解していた。

 だが、そうせずにはいられない。

 内で煮詰まる怒りが今にも噴き上げてきそうだった。

 

 けれど、

 

「……違わない。少なくとも、俺――――――終夜千夜の意思はこうだ」

 

 目の前の人物は真っ直ぐと突きつける。

 久留美の苦労も辛抱も知ったことではないとばかりに、己の意思を曝け出して。

 

 ………あ、そう。

 

 プツン、と久留美の中で琴線が儚く切れる。

 理性も。我慢も。

 

 ――――――限界であった。

 

 それを己が認めた瞬間に、久留美は既に感情のままに動くことへの躊躇を消した。

 

「っっ、いい加減にしてよ!! あんたが私に謝って、何が終わるって言うのよ!!」

 

 求めていないものを与えられ、自分たちの関係がそれで終わると考えているのだろうか。

 そんなわけがない。

 そんなことで済ませる気はない。

 

「私、私は言ったわよね!? 無かったことにしないでって、言ったわよねぇっ!?」
「言われた。確かに聞いた。――――――だが、断る」

 

 久留美の感情の訴えに対し、千夜は何処までも冷静な拒否を返す。

 その迷いも微塵もない言い切りに、久留美は絶句していると、

 

「なぁ……久留美。お前はどうして俺にこだわるんだ?」

「は……?」

 

 どんな追撃が来るのかと脅えていた久留美は、その問いかけに拍子抜けした。 

 呆ける久留美に千夜は、ああ、と失敗したように、

 

「すまない、言葉が足りなかった。………新條久留美、お前は………()()いう(・・)存在(・・)()()()惜しくて(・・・・)………あの時俺を引き止めたんだ?」

 

 あの時、という言葉に記憶は一気に思考は追憶へ走らせる。

 千夜の言う『あの時』。

 

 それは、

 

 ………私が廊下で詰め寄った時。

 

 久留美は思い出を振り返り、考えた。

 あの時の自分はどうしてあんなにも必死で、この人を引き止めておこうとしていたのだろうか、と。

 

 今考えれば、それは単純な答えが既に目の前に置かれている。

 新條久留美は、そんな単純な答えに突き動かされてあんな行動に出たのだ。

 

 いつ人が来るかもわからない廊下で。

 理性も何も吹っ飛ばして。

 感情を走らせて。

 まるで自分を捨てようとする男に追いすがる女のように。

 

 置いていかないで、と。

 

「………っ」

 

 そんな自分を再度見つめ直して、久留美は羞恥に顔を歪めた。

 時間の経過を経て見る過去は、時に本人には見るに耐え難いものになる。

 

 けれど、答えは一つしかない。

 あの時の自分は間違いなく――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――言うの?

 

 

 

 

 

 

 唐突に、決意をかき乱すかのように割り込む声。

 それは覚えのあるもの。

 気のせいと無視するには、確かに聴き捉えてしまった。

 

 

 

 ――――――それ、言っちゃっていいの? 

 

 

 途端。

 久留美の中の追憶の作業が急激に進んだ。

 記憶は本人の意思を無視して、無意識のうちに更に遡る。

 戻り、戻り、そして行き着いたのは――――――

 

 

 見覚えのある光景。

 白い雪が降る無人の公園。

 

 静かなそこに、ただ一人取り残されたように立つのは、幼い小学生。

 しかし、確かな面影を宿して存在するそれは、見紛うことなどあるはずのない。

 

 

『新條久留美が、最も忌み嫌う新條久留美』だった。

 

 

 幼い久留美は哂っていた。

 今の久留美を嘲るように。

 過去の失態を剣のように振りかざして、

 

 

 ――――――その本音をぶつける気でいるの? 昔、そうやって失敗したくせに。

 

 

 クスクス、という嗤い声が、フラッシュバックを導く。

 

 そこには別の久留美が無邪気に笑い、誰かと何かを約束していた。

 彼女はそれが果たされると疑っていない。

 そして、彼女には見えていなかった。

 その約束を仄めかす度に、相手はいつもすまなそうに苦笑いしていたのを。

 

 気づかなかった。

 見もしなかった。

 幼く狭すぎたその視野を絶対と疑わなかったその愚かな子供は、いざ約束の時となって何を見る羽目になっただろうか。

 

『センセイ、弟子って家族に入るかな?』

『んー、どうかなぁ』

『でも、センセイのセンセイは? センセイは、その人のこと家族だって思ってなかったの?』

『……ううん、思っていたし、思っているよ……ずっと』

『じゃぁ、わたしがセンセイの弟子になったら、センセイの家族になるんだね!』

 

 そう言い出した時、『彼女』は少し驚いたように眼を見開いた。

 きっと喜んでもらえると、疑いもせず、その子供は確かこう言ったのだ。

 

『センセイ! わたし、センセイの弟子になって、センセイの家族になりたい! そしたら、センセイはもう一人ぼっちじゃなくなるよねっ』

『……久留美ちゃんには、もう家族がいるじゃない。私に着いてきちゃったら、心配するよ』

『平気だよ! 早めに嫁にやっちゃったようなもんだって、気にしないよウチの親!』

 

 私はセンセイの方が大事だもん!

 

 そう思い切ったのは、どれだけ自分が真剣なのかを伝える為だった。

 それが、逆効果であったかなんて知りもせずに、

 

『………ダメだよ、そんなこと言っちゃ』

『センセイ?』

『家族に関して、そんな軽がるしく言っちゃぁダメだよ……それはきっと、君が――――――

 

 哀しそうに苦笑いをして、『彼女』は何と言っていただろうか。

 きっとそこで『彼女』は決めてしまったのだ。

 自分を連れてはいくまい、と。

 

 彼女自身が焦がれていたものを久留美に押し付けて、一人で行くことを。

 

 

 ――――――ねぇ、言うの? 本当に言うの?

 

 

 傷を抉るように突いてくる声。

 かつての失態の象徴は、揺れ動く久留美を面白おかしそうに笑いながら、

 

 

 ――――――いい加減、気づきなよ。

 

 本音をぶつければいいってもんじゃないってことをさぁ。

 

 

 

「わ、わた、私は――――――

 

 掠れた声が、それでもまとわりつく忌まわしい声を振り切ろうと絞り出る。

 

 が。

 

 前に立ち塞がるように、約束を果たされなかった場所で一人泣く己の姿が過ぎった。

 ひ、と息を呑み、頭が白く染め上げられる。

 

 くすり。

 嗤うもう一人の久留美が、グワッと口を開けて久留美を呑み込んだ。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 数秒の呼吸の休止。

 それが思考の切り替えのスイッチとなった。

 同じ過ちを二度も犯してたまるものか、と。

 

 そう思考が打ち出した途端、過去の自分は脳裏から消え去った。

 それは、久留美にこれから返す返答正しいのだという自信を付けさせた。

 

――――――……私、昔魔法使いにあったことがあるの。手品師とかそういうんじゃなくて、正真正銘の魔法使いに」

「…………」

 

 あの時の自分は子供だったのだ。

 ただ言われたことを鵜呑みにするしかない、疑うことすら知らなかった無垢という愚かさしか持っていなかった。

 だが、今は違う。

 

 ただ時間だけを食って今に至ったわけではない。

 駆け引きという武器を手に入れた。

 もう、あの時の自分とは――――――違う。

 

「その人は、趣味も何にも持たないただ日々を食い潰すだけだった私に、非日常を教えてくれたわ。その時は、本気でその魔法使いに憧れて、弟子になろうと思ってた

くらい本気でのめり込んだわ。……結局、その断られちゃったけどね」

 

 自らの過去の失態を話し、恥を晒している羞恥を感じながらもそれに耐え、

 

「でも、私は夢を見ていたんだって、全部忘れようだなんて思わなかったわ。だって、それは………私の中で、それまでの何よりも現実だったから」

「お前にとって、その魔法使いと出会って過ごした非日常の方が、家族といた日常よりも現実的だったと……?」

「そうよ! 生きることに、ゾクゾクして、楽しくて、わくわくして……それって、そういうことでしょっ?」

 

 心が躍り、興奮を得る。

 それは生きていることを実感する瞬間以外のなにものでもない。

 

「私にとって、非日常は生きていると思える世界なの。私は、ここじゃ生きている実感を味わえない。だから、人のプライベートを荒らしもしたし、危ないことにだって

首を突っ込むわ。生きていると、私自身が理解する為に」

 

 呼吸して動くだけが生きている証なわけがない。

 それが本人が実感を得て、初めて証明になる。

 生きているとはそういうことだ。

 

「けどね、そんなの所詮紛い物だった。それで誤魔化し誤魔化しで、自分を満足させてきただけだったのよ。もう潮時かなって、心の何処かで思ってた……。そんな時、

現れたのはあんただったわ」

 

 衝撃的だった。

 心が吹き飛ぶほどに。

 

 それだけのショックを、自分に与えたのは千夜。

 

「諦めようとしてたのに、あんたはもう手には届くはずも無いと思っていた非日常を連れて私の前に現れた。ねぇ……巻き込んで、目の前で見せびらかすだけ見せびらか

して……それで、もう拘るなっていうのはズルいんじゃないの?」

「ズルい……?」

「そうよ。卑怯よ………私が欲しかったものをこれ見よがしにしておいて! 私を一度は受け入れておいて!!」

 

 理不尽ともいえる糾弾だ。

 だが、相手に反論も許さずに立て続けに口走るのは効果的だ。

 己の言いたいことを言えないままでいるうちに、ふっかけられると大抵の人間は意志を揺らがせてどんどん防御と体勢を崩していく。

 千夜にだって例外ではない。そういう一面があることは知っている。

 

 だから、弱いところを突いて、体制を崩して。

 要求を突きつける。

 お前にはそうしなければならない、と。

 

「………つまり、お前は……私が現れなかったら、あの時拒んでいれば…………諦められたのか?」

 

 不意に、静かな問いが来る。

 揺らぎは表面上には見て取れないが、千夜ならそれを隠すことだって容易だ。

 よって久留美は己が優位であることを信じて、答えた。

 

「ええ、そうよ。あんたが現れなければ、私は諦められたわ! だから、あんたには…………」

 

 

――――――そうか。では、俺は今度こそお前の前から消えるとしよう。お前が諦められるように」

 

 

 返されたその言葉。

 その意味を理解するのには、一度思考回路の電源を落す必要があった。

 

 

「ぇ?」

「ここでお別れだ。多分、もう会うことはない。学校でも。この街の何処であろうと。たとえすれ違おうと俺はお前に声をかけたりはしない。お前に声をかけられても

応えはしない。再び、何処かで俺たちの間に縁が結ばれることがあるとしても……俺はそれを断つ。

 ――――――じゃぁな。さよならだ、新條久留美」

 

 一方的。

 それこそ、先程の久留美のように反論すら許さず。

 いつの間にか情勢の優劣が逆転している。

 

 復興した思考は何処で手順を間違えたかを探り、見つけ、そこで逆手を取られたことを久留美に知らせる。

 同時に、久留美の敗北も。

 

「……あ、ぁ……」

 

 千夜は既に久留美を見向きもしないで背を向けて歩き出している。

 錯覚ではなく、本当に距離が開こうとしている。

 

 今度は、立ち止まる気配は――――――無い。

 

――――――っ、っ、待ちなさいよっっ!!」

 

 駆け引きなど脳から吹き飛ばす勢いで、久留美は呼び止めを叫びに乗せた。

 それだけではダメだと思って、身も乗り出して、遠のきつつあるその手を掴んだ。

 

 千夜はそこでようやく立ち止まった。

 出かけの際と違うのは、それが久留美という他意によってという点だった。

 証拠に、千夜は振り向きはしない。

 背中が拒絶を語っていた。

 

 待ってくれたのではなく、拒絶を自分が跳ね除けて無理に繋ぎとめているだけに過ぎないのだという事実を痛感しながらも、

 

――――――"ソレ"を通すっていうんなら、別に良いわよ」

 

 良くない。

 けど、

 

「私はあんたに敗けた。あんたは勝った。だから、あんたの好きにすれば良い」

 

 嫌。

 駄目。

 でも、

 

「……だけど、せめて………せめてっ……敗者(わたし)に納得のいくような説明をしなさいよっ」

 

 それは足掻きだった。

 敗北を決したのではなく、その一歩手前にいると悪足掻く久留美自身の意地。

 諦めない、まだ逆転の機はあるかもしれないという醜悪な縋り。

 そこまでわかっていながらも、久留美は捕らえた手を放さなかった。放せなかった。

 

 疲れてもいないのに、呼吸が苦しい。

 胸が、痛かった。

 

「………お前が、気づきもせずに求めるからさ」

「……?」

 

 視線は依然と久留美を向くことはなく、背中越しに答えが放られる。

 『求める』の言葉に続く言葉はわかる。

 だが、『気づかない』とは。久留美は己が何に気づいていないかは理解しかねた。

 

「……私が、何に気づいていないって?」

「お前にとって日常こそが生きる場所であるということに、だ」

 

 返答に対して、覚えたのは拒否感だった。

 

「なにを……さっき言ったの、聞いてなかったわけ?」

「聞いていた。で、思った。――――――わかってないな、と」

「だからっ……何をっ!!」

 

 さっきから一人叫んだり喚いたりしてばかりだということにきは気づいていた。

 周りの視線もさっきからずっと集中しっぱなしだ。

 だが、どうでもいい。

 引っ込んでろクソ外野ども。どっか行け。行けったら。

 

「自分が生きているのに、興奮とかは必要ないと思うんだ。心が躍らなくても、人間は生きていける」

「違うわっ! 心臓は動いてても心が何に対しても動かないなんて、そんなのは……死人が動いてるだけとなんら変わりないじゃないっ!」

「そうじゃない。そういう意味じゃ…………なんと言えばいいのか」

 

 言いたいことを説明へ変換するのにてこずっているらしく、千夜は掴まれていない手の指先で頬を掻き、

 

「まぁ、あれだな。お前が望むほど、極端に生きていると感じなくても……人間は立派に生きていけるということだ」

「答えになってないわよ。……あと、イミわかんないし」

「わかろうとしていないからだろう」

「理解しようとしてるわよっ! でも、あんたの言ってることさっぱりわかんないわっ」

「してないだろ。……ほら。そうやって、拒否で返す」

「………っっ」

 

 戦況が覆るどころかビクともしない。

 反論も出来ず、久留美が唇を噛み締めていると、

 

「……理解出来ないといえば、俺もお前のことは言えないな。なぁ、わからないんだ………久留美」

「……え?」

――――――お前がどうして、そんなにも日常を嫌うか」

 

 俺にはソレが理解出来ない、と溜息交じりにぼやき、

 

「……何もかも奪い去るような波はない。心をかき乱されるような予想外的な要素もない。誰かが退屈と評する日常。……だが、俺はそれでいいんだと思う。俺は、それが

欲しかった」

 

 独白めいたものの中に、ちらついた千夜の願望。

 それを聞き逃さなかった久留美は、信じられない想いで眼を見開いた。

 

「一定のゆったりとした小波が続く海面。その上に浮かんで、俺は………ただ時間だけが過ぎていく穏やかさを感じていたい。………揉まれるような荒波を望むお前とは

対照的だな、これは」

 

 まるで皮肉を押し固めたような言葉。

 久留美には、何故かそう聞こえた。

 

「昨日、お前に家に招き入れられてから……一層強く思うようになった。俺は、きっと……日常(ここ)が好きなのだと思う。お前が非日常を求めるように………求めているんだ、

日常を。だから、わからない。お前が、ここを嫌うことが」

 

 そこまで言われ、閉口を堪えきれなくなった久留美は限界を振り切り、

 

「だからっ、だから……言ったでしょっ!? 私はそんな生ぬるいもの飽き飽きしているのよっ! 何の刺激もないここは、脳みそが溶けそうな退屈しか転がってない。

だから、私は………」

「それは、久留美……お前の」

 

 

 

 ――――――持っている人間としての傲慢な言い分でしかない。

 

 

 返された言葉が、久留美の脳に一つの場面のリフレインを起す。

 

『それは、君が持っているから言える我が侭だよ』

 

 まるで怒りたいを我慢しているかのような歪な苦笑い。

 過去の映像が、そのまま現実の千夜に重なる。

 見えない千夜の表情があの時見たものと同じ表情を浮かべているという久留美の想像のように。

 

「理解は難しいかもしれないが、新しいものを求めるのではなく、もっと自分の持っているものとちゃんと向き合うべきだ」

『もっと、自分の持っているものを大事にしなきゃ駄目だよ』

「失って、どうにもならなくなって、途方も無い後悔をしてからじゃ遅いんだ」

『手遅れになってら、どれだけ泣いてももうどうにもならないんだからね』 

 

 記憶のリフレインと千夜の言葉が重奏する。

 それは重ねがけるような久留美への否定だった。

 

 もうこれ以上、聞きたくなかった。

 だが、たとえ耳を塞いでも、内側の声は止むことはないから無意味だ。

 

 煩い。

 どいつもこいつも。

 

 ………なんで、あんたまでセンセイと同じ事を……。

 

 待ってくれたのに。

 置いていかないでくれたのに。

 

 なのに。

 なのに。

 

 どうして――――――

 

「当たり前のように、帰る家がある。当たり前のように、産んで、育て、帰りを迎える両親がいる。当たり前のように、それらと過ごす時間を許されている。

 ――――――当たり前。それはとても幸福で、満たされている証だ。だから、久留美……お前は特別なことを求める必要は……」

 

 

――――――わかったような口きかないでよっっ!!」

 

 

 たまらず、久留美は怒鳴りたて、その先を遮った。

 教えを諭すような言葉が、とても精神を逆撫でたのだ。

 言葉が止んだのを皮切りに、久留美の中で堪えていたものが堰を切ったかのように腹の底から押し上げて、口から溢れ始める。

 

「……あんた、何様なわけ……? 自分の考えが絶対正しいみたいな言い方して………人のこと否定するだけの権利があんたにあるとでも思ってんの!?」

「久留美、そうじゃな……」

「うっさいわね黙りなさいよ今は私が喋ってんのよっ! あんただけ今まで散々喋ってたでしょ!」

 

 何も聞きたくない。

 ただ、もう何もかも全部吐き出してしまいたい。

 久留美はその衝動に身を任せた。

 

「あんたにっ……わかるもんか! あんたにだって、わからないわよっ……私の気持ちなんて、わかるわけないわよ! 私の欲しいものを、当然のように持っているあんた

には…………絶対に、わかるわけが――――――

「なら、答えは簡単なことだよ。久留美」

 

 悪魔で冷静な声が、煙のように捲くし立てられる久留美の喧騒を割るように響いた。

 そして、

 

 

 

――――――俺が日常であるお前を理解出来ないなら、そのお前にも非日常を理解することは出来ない」

 

 

 

 容赦も。

 情も。

 

 全て取り払った完全なる拒絶に、今度こそ久留美は言葉を失った。

 

 その一言がトドメだった。

 久留美で止めようの無いほどに荒れ狂っていた感情は、その一撃で木っ端微塵に砕かれた。何かに吹っ切れた時のそれに近い、あっという間の感覚だった。

 

 

 それによる、一瞬の内なる場所での静寂の訪れ。

 その僅かな間にて、久留美の中で――――――何かがグルリと裏返った

 

 

 

 あれほど強く掴んでいた久留美の手は、するりと縄が解けるように千夜の手から落ちる。

 久留美の生む静寂と無反応が、皮肉にもようやく千夜を振り向かせた。

 

「確かに、俺はお前の手には届かないものを持っている。だが、お前が俺の手には届かないものを持っているのも間違いないんだ。だから――――――

――――――わかった」

 

 淡白な了承の言葉。

 だが、自分の口から出たその言葉が、当の久留美には表現しきれないほどの粘着質さとおどろおどろしさを持っていることが感じ取れ、理解できた。

 

 胸の奥で巻いているとぐろがかつてない唸り声をあげていた。

 その存在を十分に膨らませて、肥え太っていた。

 おかしい。

 最後にその存在を認識した時からそれほど時間の経過はないというのに。

 

 だが、久留美には理由がわかっていた。

 

 暗い感情。

 先程受けた衝撃が、産んだそれを存分に食らって一気に大きく育ったのだ。

 育ちに育った蛇のように内でその肢体をとぐろ巻いているものは、もはや久留美の手に余る存在となって内に君臨していた。

 

 獣は()く。

 久留美の口はそれを代弁する。

 

「……わかった、もうわかった。あんたが、私をそこまで振り払いたいって誠意は十分伝わった。無理言って御免。ウザかったよね。しつこかったよね。…………いい加減

うんざりしてたわよね」

「…………」

 

 返事は無い。

 その無言は、肯定であり否定する言葉はないという表われであると単純化した久留美の思考は、深読みをせずそう処理した。

 ならば、と久留美はまた一つ振り切る。

 

 もう遠慮する必要は無い。

 迷いもいらない。

 

 獣がその裂けた口を開き始めた。

 

「……じゃぁ、さ………最後に、一個だけ私の頼み聞いてくれない? 無茶なことじゃないから………」

「………ああ、何だ久留美」

 

 その応答が、久留美の中の火蓋を切った。

 そして、

 

 

――――――消えて。あんたの顔なんか二度と見たくない」

 

 

 もっと怒鳴り立てて出るかと思った己の言葉は、思ったよりもずっと静かな口調でするりと出てきた。

 ただ、喉を通って出てきたそれは酷く冷たいように感じた。

 

「ああ、わかった。了解だよ、久留美」

 

 返事に、伏せていた顔を思わず上げた。

 そうして千夜は、久留美の投げてぶつけた言葉に、悲しむことも、苛立つ事も、怒ることも、当然の態度として表情に表してはいなかった。

 

 

 ただ、出て行く誰かを送り出すように、

 

 

――――――さよなら。元気でな」

 

 

 ただ、振り返ることも立ち止まることも許さない微笑を久留美に向けていた。

 

 

 あ、と声を震わし、更には足も震えた。

 途方も無い絶望感だった。

 結局、あれだけしてもこの相手を一つも傷つけることは出来なかったということ。

 自分の痕はこの人の中には残らず、残すことすら甘んじてはもらえなかったということ。

 

 それらを理解したその瞬間。

 バタン、と扉が目の前で閉まる音を久留美は幻聴した。

 

 

 

 閉め出されてしまった久留美には、千夜の前から走り去る以外の行動が思いつかなった。

 

 










BACKNEXT