頃合は既に来ていた。



 お互い部活動を終え、学園の敷地には生徒の気配はなくなった。

 だが、二人は言われた通りに行動に出ようとは思えなかった。





 ―――――――目の前で聳える校舎を包む不穏な気配に、とてもそうしようとは。






「なぁ、どないするー?」



 弓を左手、背中に矢を詰め込んだ矢籠を背負う七海が、隣に立って同じものに向かう昶に尋ねる。

 篭手で固定された両腕を組んだまま、問題の校舎を見つめていた昶が眉を顰め、



「どうすると、言われてもな…………行かなければあとが怖いのはわかりきっているが……」



 ほんの少し前のこと。

 彼らがいざ入ろうとした時、その異変は起こった。


 戦いの場となる学生棟の校舎が結界で覆われた。
 結界の話は、計画上で決められていたことだった。
 だが、いざ現れたそれは―――――――"異質"だった。

 顔を顰めたくなる程の陰気を漂わす『それ』は、彼らが知る退魔師が張る結界はあまりにもかけ離れていた。



「げぇ……、ほんまに気持ち悪い結界やなー。なんか、夏の炎天下一日履い歩いた後の蒸れた靴下の臭い嗅がされた気分やわぁ……」

「嗅いだ事あるのか、お前……」



 昔、罰ゲームで姉貴に、とその言葉で苦い過去を思い出したのか嫌そうに顔を歪める七海。

 ちらりと七海が隣を見れば、昶は首をゴキゴキ鳴らし準備運動のように手首を回していた。



「………え、行くんか? こんなヤバそうなトコに?」

「どうせ逃げても後が怖いんだ、それに………」

「それに、何や?」



 問われた昶は、不穏な氣にまみれた校舎を見上げ、



「得体の知れない輩に、俺達の学び舎を占領されているというのも………なんか癪に障るだろ」



 きょとん、とする七海の肩を叩いて昶は昇降口へと向かっていく。

 その背を見送りつつ、少し考えるように校舎を眺めた。



「………それもそうやな」



 中で既に行動しているであろう『男』のことを考えた。
 どうにもこのまま帰る気にはなれなくなり、七海は先を行く昶の後を追いかけるように駆け出した。







 ◆◆◆◆◆◆







 窓際から射し込む月明りだけが、深い闇を薄める空間。

 比較的に明るい窓の近くの席に千夜を座らせ、久留美は腕を差し出すように急かした。



「ほら、腕見せなさい」



 強い調子が効いたのか、案外千夜は素直に噛み付かれた腕を差し出した。

 しなやかな細さの腕に無惨に刻み込まれた噛み痕に、思わず久留美は息を呑んでしまった。

 牙によって抉られ陥没した二つの肉の穴からは今だボコリ、と血が湧き溢れている。最も目立つそれ以外の噛まれた場所は均等性のない痕が、白いきめ細やかな肌の上を血に滲ませて荒らしている。

 綺麗な肌なのに、と思わず顔を顰めずにはいられない。



「酷い………これでよく大した事ないなんて言えるもんよねぇ」



 まじまじと夥しい赤に塗れた患部を確かめて、気まずそうに目を逸らすを呆れの意味を込めて睨む。

 勿体ない。これでは病院で手当も受けても、完全に治すことは出来ないだろう。

 どれ程良くても、縫い跡は残るのではないだろうか。 

 傷も悩ませものだが、出血も少なくない。

 何せ止まる気配を全く見せず赤い筋が腕に引かれている。

 傷の治療云々は久留美自身にはどうすることもできないので、まず出血を止めようと決めた。

 しかし、持っている絆創膏では到底無理な話。

 せめて逃げ込んだ場所が保健室なら、包帯なり消毒液なり緊急時ということで好きに使えただろう。 だが、ここは三階。しかも、保健室は教員棟の一階にある。外には、先程襲ってきた人の形を真似た化け物が徘徊している。

 あまりに離れ過ぎている距離に、久留美は正直挫けそうだった。



「もう、この際ハンカチで応急処置とか………いやでも、今日持ってきたハンカチ昼間手ぇ拭いちゃったし………まずいわよね、バイ菌とか入ったら。……ああもうっ、こんなことなら通販で携帯救急セットでも買っとけばよかった!」



 後悔先立たず、という言葉をこんな風に噛み締めたことはかつてなかった。



「新條」

「何よぉ。笑いたきゃ笑いなさいよ………偉そうな事言っておきながら、怪我の応急処置すら出来ないなんて有言不実行もいいところよ………所詮、私なんか無力な小市民よちくしょー」 

「何を突然ワケのわからんヤケに走り始めているんだ………いいから私の話を聞け」 



 血で汚れていない方の手で、どうどうと口ずさむ千夜に頭を撫でられる。

 馬扱い?と尚更惨めになるが、言われたとおり彼女がこれから語るであろう言葉に耳を傾けた。



「今からちょっとした非現実的なコトが起こる。……とりあえず、驚いて良いがあまり騒がないでくれ」



 アレ以上に非現実的なことがあるのなら、逆に見てみたい。

 久留美は、千夜の頼みを出来るだけ善処しようと頷いた。



「ありがとう。それでは、遠慮なく」



 そう言うなり千夜は怪我を負っている腕の、患部にもう片方の手を覆うように傷に被せた。

 何が起こるか全く皆目付かないところ、久留美はただその様子を見つめる。

 何も起こらないじゃない、と彼女の言葉を疑い始めた時だった。



「えっ」



 思わず驚愕が口から飛び出した。

 目の前で起こり出したことに対して。


 ―――――――銀色の光が千夜の傷に被さる手に灯ったことに対して。


 決して強くはない光。

 まるで蛍が発するぼんやりとした存在を示すようなそれに、久留美は何故か温かなイメージを覚えた。

 だが驚くのはこれからだった。


 光がおさまり、手を離したその下は、あったはずの凄惨な傷痕が最初からなかったかのように消えていた。

 腕に付着した血が、何処から溢れたかを感じさせる痕すらなく。

 それはまるでゲームで僧侶が使う回復魔法のような所業。
 先程とはまた一味違った、あまりにも現実離れした出来事だった。 



「うっそぉ……」



 嘆息するしか無い久留美に、千夜が笑う。



「どうだ、ご感想は。驚いたか?」

「………驚いたに決まってるでしょ。すっごい何よ今の……魔法? ね、もっかい見してよっ」 



 子供のようにはしゃいでもう一度、と催促する久留美。
 その様子に千夜は、若干予想を裏切られたようだった。 



「新條はこういう異常現象、怖がったりはしないんだな」

「さっきの化け物強襲に比べたら、こんなの夢と希望に溢れた可愛いもんよ。だから、もう一回」



 千夜は、子供にお菓子を強請られた大人のように少し困った風に溜息を小さく吐く。
 そうして、久留美の腹部に手を伸ばした。



「な、何っ?」

「神崎に一発入れられたのは何処らへんだ……ここ辺りか?」



 服越しにちょうどその部分に値する箇所を押されて、鈍い痛みに顔を顰める。

 漏れた声に千夜は言葉を聞くまでもなく察したようで、探るように動かしていた掌を止める。

 間もなく銀色の光が掌に帯び始める。

 感覚を鋭くしてじっとそれを受けていると、腹部に不思議な温かみを感じた。



「あれ? ………あったかい」

「鬱血した部分の死んだ細胞が息を吹き返しているんだ。再生する細胞が活性化する中で、お互いに熱を出し合う。運動した後、体温が一時的に上がるだろう? あれと同じことだ」

「へぇ、だから……あ〜、あったかいこれいいわね」

「痣で済んでよかったな。傷となると再生するのも相当な労働だ。分泌する熱も半端じゃない。温かいどころか、焼鏝押し付けられたような熱さと痛みを思い知るところだったぞ」

「そ、そうなんだ……へぇ〜。……………あ、もう平気よ」



 先程までの疼きはすっかりなくなっていた。

 感心した久留美はしばらく腹を摩る。

 見上げると、千夜は緩く微笑み、


「さて、新條。質問タイムだ、私に答えられる事なら何でも教えよう」

「へ?」

「とりあえず、ここにいればしばらくは安全だ。だが、逆に言えばここから下手に動けない。行動が制限されてしまっている今、私たちが出来るのは言葉を交わすくらいだ。お前には、私に聞きたい事があると思うんだが」



 言葉通りだ。

 此処に至るまでに知りたい事、聞きたい事は溢れ出そうな内側に溜まっていた。


 だが、



「………そういうのってパターンとしては秘密だと思って、一応……持てる限りの理性で遠慮してたんだけど」

「巻き込んでおいて、何も教えないわけにはいかないだろう」



 予想と反して、彼女は内緒にする気はないらしい。

 正直、訊きたいことだらけで逆に困る。

 けれど、最初に問う質問だけは決まっていた。



「ねぇ。……さっきの……あの化け物………何なの?」



 人の形をした決して人ではないもの。

 虚無に満ちた表情が、血に飢えた獣のそれに変わった何か。

 鋭い人にはない牙を思い出して、殺されるところだったという事実を思い出す。
 ぶちまけた赤い色を想像して吐き気がした。



「あれは【()()】というものだ」

「……し、き?」



 千夜は、眉を僅かに下げながら千夜は机上に細い指を走らせた。



「屍の鬼、と書いて屍鬼だ」



 言うと、彼女は表情を引き締める。
 静かに語り始めた。



「彼らは元は人間。"ある者"に喰われ、死んだ尚もその魂を喰った者の元に縛り付けられた成仏も許されない存在。陰気を注ぎ込まれ、魂に肉付けした偽りの肉体を与えられた端末さ。屍から鬼へ……ゾンビ、が一番近い表現だろうな」



 聞いた字面だけを見れば、笑ってしまうくらい荒唐無稽な話だ。けれど、実際襲われた久留美にはその小難しい説明を笑い飛ばす事など出来なかった。
 未だに、千夜の腕から飛び散った鮮やかな赤色が目に焼き付いて消えていないのだから。



「屍鬼となった連中には思考や人格は無い。残っているのは地獄の苦しみと飢餓に近い食欲。その苦しみと飢餓というのは人間の血肉を補給するとその間は安らぐらしい。生前の姿を象って油断しきって隙だらけの獲物に―――――――がぶっ」



 顔の前での片手ジェスチャー。

 もし千夜が傍に無く、一人きりだったら間違いなくそんな末路を辿っていただろう。
 そのシーンを想像した久留美は、一人肝を冷やした。



「そうして、飲み食いし存分に貪った分だけ新たなエネルギーになって、親玉の元へ送られる。それを得た親玉はまた強くなって、糧になった者達は新たな手駒となる……と、この質問に対しての説明は以上だ。他には?」

「……アンタって一体……何者?」

「そーゆーのを飽きもせず、昔から一目忍んで相手にしている連中の一人さ。一応退魔師って呼ばれている」

「………それって、あれ? 普段は女子高生、しかしそれは世を忍ぶ仮の姿。しかーし、その正体はー………っての」

「大分レトロなフレーズだが、そう解釈してくれても構わない」 



 彼女は言い切り、沈黙した。

 久留美も考え込むように沈黙する。

 少しの間が互いの間に訪れ、久留美は自身の中で導き出した答えを口にしてそれを破った。



「殺されたかけた身で、この期に及んでなんだけど……ぶっちゃけ有りなくない?」

「あー、やっぱり。こっちも言いだしっぺでなんだが私もそう思うよ」



 私もそう思うってアンタ……、と呆れて項垂れる。

 もう少し信じろと強要してくれても良いのに、と呟けば千夜がさらさらそんな気はなさそうな顔で、



「そう言われてもな。こっちのことはどれほど説明しても信用してもらえない事を何度も繰り返すほど、理解してもらう必要はないんだよ。信じられないのなら、信じなくてもいい。夢だと思うのならそれで全然構わない。寧ろ、大歓迎だ」



 千夜の台詞に呆気に取られていると、千夜はそれを知ってか、更に続ける。



「転校初日、あの後帰り道で私が言った言葉を覚えているか?」

「え、……と……」

「"有り得ない真実を信じ込みやすい嘘にすり替えてしまえば人を騙すなんて簡単なこと"。何故そうなるか、それはな新條………」



 ガタリ、と物音を立てて椅子から立ち上がり、



「信じないからだ。例えそれが現実であっても、あまりにも非現実的ならば自然と否定する。見てみない振りをするのさ、今まで信じてきた常識を壊われることを恐れ、壊したくないと望む。だから誰かが、もしくは自身が偽りを用意すれば、それが目の前の現実よりも現実的であれば容易く受け入れる。そして、打ち捨てた有り得ない現実を忘れる。………無かった事として」



 告げられたそれはあまりにも的を射ていた。

 あの化け物に遭遇した時、久留美も同じように思った。

 これは夢だ、夢なら早く覚めて欲しい、と目の前を現実を否定して、仮想を求めた。

 人間はそうやって自己防衛の為に現実逃避する。その為に、"何か"を見捨てて―――――――



「まぁ、こっちとしては逆にありがたいことだがな。昔ならばともかく、今は化け物と戦える奴なんぞ普通の人間から見ればそう対して変わらない。変に騒ぎ立てられるより知らん振りしてくれる方が面倒がなくていい……特に、親しくしている人間には尚の事な」



 その言葉の後、一瞬千夜の表情に翳りが見えた。

 何処か遠くを見つめるように呟かれたその言葉は何故か久留美にはとても重く感じられた。



「ん? どうした、新條」



 ここではない何処かを見ていた双眸は、いつの間には久留美に戻されていた。

 そこには、先程見えたはずの翳りはない。通常通りの余裕に満ちた頼もしい表情と、瞳の豪華絢爛の輝きがあった。



「そんな顔をするな、ちゃんと傷一つなく、無事にここから出してやるから」



 ポン、と頭に置かれた手。

 そこから伝わる温かさが、何故か胸に突き刺さるような痛みに変わった。







 ◆◆◆◆◆◆







 空間のやや薄まった闇を、久留美はぼんやりと眺めていた。

 特に何もすることがないからだ。



「あーもう……あんなこと言っておいて何で一人にするのよぉ。……窓ガラスを破って入ってきたらどうするのよ、一気に絶体絶命じゃないっ」



 さっきから独り言が意味もなく口から零れる。

 否、意味はある。
 独り、という恐怖を軽減できる。


 先程までいた千夜は今、ここにはいない。

 恐らくは、この頭上の先で怪物たちと戦っているに違いないだろう。

 数分前までここにいた千夜との会話を思い出す。



『はぁっ? ココ出て上に行くぅっ!? アンタ正気ぃ?!』

『至って正気なんだが、つーか新條声デカイ』



 むぐ、と口元を押さえられ、とりあえずのところ黙ると、



『さっきはここにいれば安全だと言ったが、このままじっと待っているわけにもいかないんだよ。防戦一方では、攻め込まれるだけだ。屍鬼は生きている人間の匂いに敏感なんだよ。僅かにでも残り香があれば嗅ぎ取り、その後を追ってくる厄介な連中なんだ。どういうことかわかるだろう?』

『う゛……』



 匂いを辿ってくるということは、いずれここにも足が付くというコト。

 ここが安全区域であるのも時間の問題。



『うう……わかったわよ、行けばいいんでしょ行けば』

『いや、お前はここいろ。行くのは私だけだ』

『はぁぁっ!?』



 更なる驚愕をぶち当ててくれた千夜に、一つ嫌な予感を覚える。



『まさか、私を見捨てる気………?』

『落ち着け。上にいる連中を片付けてくるだけだ。ここに来るのを待って迎え撃つのは、正直きついんだよ……』



 ハッとする。

 理由はなんだかわかった。
 他でもない自分がいるからだ、と。


 先程のことを思い出せば、その答えに行き着くのは簡単だった。

 久留美、というもう一人の獲物がいたから、化け物の注意が分かれて千夜が怪我を負ったのだ。

 思わず顔を伏せて黙り込むと、心情を察したのか千夜は気遣うように言った。



『安心しろ……出来る限り早く終わらせてくるから。……そうだ、私がいない間はこれを持っておけ』



 スカートのポケットから取り出されたのは、逃げてくる前に千夜が図書室の扉に使っていた奇妙な札だった。

 千夜は二枚しかないそれをぺりぺりと剥がし、一枚を久留美に渡した。



『これって………あの時使ってた札よね? ……一体、何なの』

『それはな、"三枚の御札"だよ。日本昔話………知らないか?』

『それって……あの、山姥に小僧が追いかけられる話よね?』



 久留美にとって、それは幼稚園や小学校で紙芝居で嫌と言うほど見せられた話の一つ。

 やめろって言うんだから止めれば良いのに、とか。山の中で年取った婆さんが一人で暮らしてるなんておかしいだろ、とか。
 そんなことを考えながら、間抜けな小僧に苛々していたくらいしか印象がない。

 確か物語の中盤で、小僧が本性を見せた山姥から逃げる時に和尚から貰っていた札を使っていたな、と古い記憶を探り出す。



『この札が……それ? 何でまだあるのよ』

『知り合いがそういうものを扱う店を経営していてな。バイトで仕事をしていたら、偶然見つけた。面白そうだったから、ちょっと拝借させてもらったよ』 



 つまりは、勝手に持ち出したということ。

 なんてことなさげに白状して、目の前の性格破綻ぶりを発揮する少女に頭痛を覚えた。



『……あれって作り話じゃなかったのね。この調子じゃ舌切り雀の話もホントにあったことみたい』

『ああ、それに出てきた葛籠が大小二つあったな。中身は開けてみなかったからわからないが』

『マジでッ!?』



 本気で驚くこちらに千夜はくすり、と笑い、



『何かあったら、それに念じればいい。私を呼びたかったら、敵を撃退したかったら、庇護をしてくれる存在を創りたかったら。それの効力はなかなかのものだから、大抵の願いに答えてくれるよ』



 そう言って、彼女は外敵の掃討へと出向いて行った。







「こんなので本当に大丈夫なのかしら……」



 両手で大事持った札。

 動かすとペラリペラリと揺れる様が、頼りなさを煽る。

 千夜がいない今、頼みの綱はこのほんの少し力を入れれば簡単に裂けてしまう紙切れ一枚。

 なんというか、これ以上にない心細さを覚えずにはいられない。



「はぁ……」



 不安を吐き出すような溜息を何度ついたかは、もう覚えていない。

 時計を見れば、七時を回っていた。いつもなら家でソファに転がってテレビでも見てる時間だ。

 腹から空腹を訴えてる声まで聞こえてきた。



「………信じない、か」



 腹の音を紛らわすように呟いたはずなのに、出てきたのはこんな言葉だった。


 千夜の語り出した話は、あまりにも突飛な内容だった。
 非現実的な与太話と片付けられてしまうような。

 久留美は現実主義だ。
 目の前で起こった事、目にした者しか信じない。


 小さな子供は一度は心を傾ける御伽噺もくだらない、と小さい頃から小馬鹿にしていた。 

 誰よりも現実を見つめていた。
 世界は決して平和ではない、と。
 皆ぬるま湯のようなそれに浸って見て見ぬ振りをしているだけだ、と。
 平穏の紛れて不穏が存在するということを。


 だから記者になりたい、と子供の頃からずっと夢見ていた。

 皆が目を逸らすなら、知らないと言い張るなら、自分が真実を暴いて突きつけてやる。


 その志の前に突然現れたのは自身が否定する非現実。
 紛れも無い現実になって、久留美に牙を剥いた。

 それに立ち向かったのは、現実であるはずの最近知り合った転校生。
 非現実を纏って、非現実と対峙していた。


 現実離れした現実。ほんの少しの思い込みで夢にも現実にも変わる不安定な存在。 

 思考を狂わす、不可思議。

 延々と考え続けたせいで、久留美の思考はオーバーヒート寸前だった。


 はぁ、と深い溜め息を吐き出し、目を閉じる。

 信じられないのなら信じなくてもいい、と言っていた千夜の台詞が脳裏を掠めた。



「忘れる………?」



 そうだ、忘れてもいいと言っていた。その言葉は酷く魅力で気な響きを孕んだ誘惑。

 ここを、この化け物が徘徊する異常な空間を出れば、何もかも終わる。
 自分は迷い込んだだけだ、この非日常の世界に誤って踏み入れてしまっただけ。
 ここは自分がいるべき世界ではない。
 帰ろう、いつもの日常へ。退屈だけれど、あそこには奇異なものは存在しない。

 家に帰って、すぐに寝よう。
 目が覚めたら朝で、全部夢だったと思える。
 化け物も、それが徘徊する狂った校舎も、全部夢になってやがて記憶から薄れて最後には全部忘れる。


 忘れる。忘れる。忘れる。忘れる。忘れ――――、



「………忘れる? 全部、あの娘がしたことも…………?」



 本当にそれでいいのか。

 ここで起こった事全てを夢として終わらせてしまっていいのだろうか。


 千夜が身体を張って自分を守った事も、一瞬だけ見えた不可解な彼女の素顔かもしれない翳りも。

 この身を守る、たったそれだけの、薄汚い自己の保身の為に無かったことにしていいのか。



 ほんの少し前に思ったばかりなのに。
 彼女を知りたい、もっと近よりたい。

 何より、今自分がしようとしている事は何より嫌う、『現実から目を逸らす』という行為なのではないか。 

 自分は現実主義。
 幻想や夢想はくそくらえ。求めるのは、現実という真実だけ。


 どれだけ非現実に近くても現実が目の前にあるのに、逃げるのか―――――――



 否。それ以前に、





 
―――――――諦めるのか。"あの時"のように





 いつかの、遠い記憶の残像が過ぎる。
 
 苦味を感じさせるその雑音交じりの映像に、思わず久留美は奥歯を噛み締めながら、


「……諦める? 逃げる? ………冗談じゃ」久留美は奥歯を噛み締めながら、



 自身に対する怒りに奥歯を噛み締めた時だった。


 静かだった空間に音が響いたのだ。

 それも廊下から。


 久留美は一瞬凍りつき、混乱する頭で懸命に今の音が何処から聞こえてきたかを分析した。



「階段………?」



 嫌な予感が過ぎった。

 それが下から上って来るならまだいい。
 だが、もしそれが上から降りて来るものなら、千夜はどうなったのだろうか。


 死、という最悪の考えへと結論付きそうなり、頭を振る。

 今はそれどころではない。


 どちらから来ていようと、近づいてきている足音はあの化け物に違いない。

 それにしては、若干足音のテンポがアレよりも速い気がする。
 しかし、そんな淡い期待はですら今は命取りだ。    


 笑いそうな足を叱咤しその場から立ち上がり、扉を見据える。

 コツン、コツン、と足音は徐々に、確実にこの教室へと近づいて来ていた。

 来ないで、と眼を瞑り、必死で息を殺した。

 そして、祈った。この教室とは正反対へ行く事を。  

 不意に足音が聞こえなくなった。

 何を思ったのか、扉の向こうの何者かは階段を上がったところで行動を止めているらしい。


 向こうへ行け。向こうへ行け。


 速まる鼓動を感じながら、久留美はそれすら押し潰す思いで念じた。

 お願い、と懇願した時、その想いが天に通じたのか、相手の足音は遠ざかって行く。


 緊迫感から解放された久留美は、大きく肺に溜めていた酸素を安堵と共に吐き出した。

 気を抜いたはずみに、かろうじて保っていた足がバランスを失い、その場に崩れ落ちた。


 その際に蹴った机が大きな音を立てて響いた。



「っあ………うそ」



 自分の締めの甘さに泣きたくなった。


 当たり前の事だが、遠ざかりつつあった足音は一度止まり、再び近づき始めた。
 無論、この教室に。


 今更静かにしてももう遅いと覚悟を決めた久留美は、もつれそうな足に鞭を打ち、壁を支えになんとか立ち上がった。

 右手に護身の札を握りしめ、



「どうすんだっけ………」



 現在消息が不確かな千夜を呼んでみるか。
 それで死体がここに現れたらどうすればいいのだろう。

 札の効力は一度きり。
 一度しか望みに答えてはくれない。



 これを失えば、自分にはもう頼れる物は何一つ残らない。

 何を願えばいい? 

 何を、何を、何を、何を、何を、何を、何を―――――――


 足音がついに止まった。

 この教室のドアの前で。

 鍵のかかったそれを開けようと試みているのか、ガタガタッとドアが揺さぶられ音を立てる。 

 身を固くしていると、音が止んでドアの揺れが治まった。 

 そして次の瞬間、そのドアが吹き飛んだ。



「ひっ……」



 引き攣る喉から悲鳴が上がろうとした時。
 外と内を隔てるものがなくなりその向こうが露となった。




  そして、




「………久留美ぃ? アンタ、何でこないなとこにおるんや」 








 喉から出たのは悲鳴ではなく、呆けた声だった。

 そして、扉の向こうから現れたのは、物騒な得物を持ったよく知る級友の姿だった。

 






















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