突然、開かなくなった扉。

 神崎は苛立ちと怒りに駆られ、それらをぶつけるように叩き続ける。



「開けろぉ! 開けやがれぇぇっっ!!」



 憤怒に満ちた鬼の形相には、先程殴られて切れた箇所からの血は既に止まっていた。

 鼻は陥没したままだが。

 扉を殴り壊しそうな勢いでその音と力は増していく。
 だが、廊下と図書室を隔てる一枚の壁となったそれは、押そうが引こうが一向に開く気配はなかった。



「くそぉ、ちくしょうっ………があぁぁぁァァァっ」



 扉に頭を打ちつけ始める神崎。

 幾度もぶつけたことによって額が割れ、傷口から血が溢れ額の真ん中を伝う。

 血の筋が出来た後、異変は起こった。

 額の赤い一本筋がミチミチ、と肉が裂ける音を立てて縦に割れ始めたのだ。
 下から何かが突き上げてくるかのように。割れた谷間から現れたのは何かの突起だった。最初は小さかったそれは割れ目を拡げるようにその下から生え出て来る。現れたそれは尖った先端、岩のように硬質で、まるで角のような生え様。歪なそれの生え元である額に浮かぶ血管がどくんどくんと脈打つ。

 心臓のように鼓動を打ち始める角を押さえ、神崎は裂けんばかりに口を歪める。



「く、かかっ………逃げられるかよぉ……逃がすかよぉ………」



 神崎の体から黒く、暗い、暗雲のように澱んだ空気が分泌され始める。

 霧のように立ち込め、驚くべき速さで一瞬にして図書室内に満ちていく。



「逃げられるものなら逃げてみやがれ………この"檻"から」



 外の夕日が完全に沈みこむ。

 昼の時間が終わりを告げると同時。
 それを待っていたかのように神崎の澱みきった瞳が紅く光った。


 それが校舎を包む“異変”の前触れだった。







 ◆◆◆◆◆◆







 外からの射光がなくなり、薄暗くなった生徒会室。

 校舎の異変を感じ取った者たちがここに三人。   

 蒼助、渚、そして氷室。


 ディスクの椅子に座った氷室が感じた違和感に眉毛を動かす。



「………結界、か」

「結界だと? 俺達の他に同業者がいるはずねぇだろ」



 去年から在学のニ、三学年にいる退魔師はここにいる三人と七海、そして昶の五人。教員は蔵間という特例を除いていない。四月からの新入生の中には該当者はいなかった。

 その中、蒼助の脳裏に一人の少女の姿が【例外】として描かれた。

 一週間前、この学園にやってきた転校生の姿が。



「う………この陰気は退魔師が張った結界じゃありえないよ。……まるで、魔性の霊力で出来てるみたいだ」



 神巫の家系でありこの中で最も敏感に陰気を感じてしまう渚が、若干眉を顰めて言った。

 渚の言葉に、それまであった少女の事を記憶の隅に追いやった蒼助が目を見開く。



「魔性が結界だと? 連中にそんな芸当出来んのかよ」

「どうだろう……初めて聞くけど」

「関係ない」



 戸惑いを露にする二人の言葉を遮るように、氷室が椅子から立ち上がる。

 冷徹な眼差しの中に、確かな信念を宿し、



「奴が何者であろうが、私達がすべきことは変わりない。………あの二人はちゃんと校舎外にいるのだろうな」

「ああ、もうそろそろ部活も終わって外にいる頃じゃねぇか」



 あの二人とは、この場にはいない昶と七海のことである。

 五人の中で部活に所属している彼等は、氷室の与えた役割により敢えて部活は休まなかった。

 元より神崎を逃がさないために結界を張る予定でいた氷室は、校舎に残っているごく少数の生徒の確保と保護を頼んだ。


 【結界】は一度発動すると、発動させた術者本人が解かない限り内側からは決して出れない仕組みとなっている。特定の者を隔離して創り出すのも不可能という一見便利そうで不便な面も持ち合わせている空間呪法なのである。


 その為に、外に出る必要のある部活組が外から入って校舎内に取り残されている人間を見つけて、保護することになった。

 渚が壁にかかった時計を見遣れば、時刻は六時を過ぎていた。



「さぁて、時間もそろそろ頃合、敵さんも動き出してくれたことだし………行こうよ」



 言われるまでもない、と言わんばかりに言葉ではなく行動で同意を示した。







 

 ◆◆◆◆◆◆  







 ―――――――同時刻。




 千夜と久留美は、ちょうど三階に降りてきていた。

 五階から段を踏み外しそうな勢いで駆け下りて、ようやく三階に降り立った所で、千夜が突然その動作を止めた。

 夢中でそれに続いていた久留美は、突然立ち止まった千夜の顔を息切れしながら覗きこむ。



「ど、どうしたっ……の…………?」



 覗き込んだ千夜の顔は失敗した、とでも言うかのように強張っていた。

 そうなる理由が全く読めない久留美は、ただただ怪訝な表情で戸惑うばかりだった。



「ね、ねぇったら……」

「……まずいな」



 久留美が肩を掴んで揺すると、千夜がぽつりと言葉を漏らす。



「へ?」

「あの蛙、結界を張ったな。………両生類の分際で生意気な」



 何を言っているのかさっぱり理解できない。
 千夜の台詞に、久留美は眼をパチクリさせた。

 問う暇すら与えず、千夜は再び動きを再開する。
 掴んだままの久留美の腕を引いて、真っ暗な廊下を再び歩き出した。

 昇降口とは正反対の方向を。



「ちょ、ちょっとぉっ! 昇降口はあっちよ、しかもここまだ二階………」



 この校舎―――――――学生棟は階ごとに昇降口と玄関が備え付けられている。

 第二学年の下駄箱はもう一つ下。
 しかも、何故か千夜は目指していたはずのそこから逆に遠ざかる方へ行こうとする。



「ねぇ、終夜さんったら!」

「予定変更だ。どれかの教室にお邪魔させてもらおう」

「はぁっ?」



 全く意図が読めない展開と行動に、久留美の思考はいよいよショートしようとしていた。



「奴が行動を起こす前にお前をこの校舎から出してやるつもりだったんだが……もう手遅れだ」



 千夜は一番奥の教室まで来ると、出入り口のスライドドアを開けようと試みる。



「くそっ。………やっぱり鍵がかかってる」

「………鍵、壊したら?」

「立てこもるのに肝心の鍵を壊したら意味が無い。………こんなことになるなら、ピッキングでも習得しとけばよかったな」



 ガタガタッと乱暴にドアをスライドさせようとする千夜は、それこそ鍵どころかドアを壊しそうな勢いだ。

 ドアがギシギシ言い出したところでいよいよという気配。
 そこで、言い出そうか迷っていた久留美は思い切って胸の内の言葉を口にした。



「あのさ………開けようか、鍵」

「お前が?」



 思いもよらない久留美の申し出に、千夜が意外そうに尋ねる。

 一般人の久留美がピッキングが出来るというのだから、驚くのも無理もない。

 照れくさそうに頬を掻く久留美。



「親戚に鍵屋経営してる人がいてさ。将来の為にと思って教わったの。簡単な鍵なら二十秒で開けられるわ」



 ほら、と太く編まれた三つ編みの編み目から針金を取り出してみせる久留美。

 そこにいつも常備しているのだろうかと疑問が芽生えたが、千夜には他に聞く事があった。



「将来の為って?」

「私が何部か忘れてない? ジャーナリストよ、ジャーナリスト! 偽りの裏に隠された真相を探る危険と隣り合わせの役職よ」

「何で新聞記者になるのに、錠前破りの技術が必要なんだ」

「何言ってんの! 裏社会と闘うとなったら、当然命を狙われることだってあるのよ!? 悪の秘密組織に監禁されたらどうするの!? 誰かが助けてくれるのを待つの? いいえ、違うわ! いざとなったら頼りになるのは自分の力だけ、自力でなんとかするしかないのよ! 敵は多くとも味方はいない孤高のジャーナリスト……なんて素敵な響き」



 感嘆符の連続に千夜は魂が抜かれそうになった。

 ただ、わかったことが幾つか。

 新條一族の職は多種多様だということ。

 久留美が意外に夢見がちかつ熱血系だということ。  

 ネタ探しの際に、自分の家がピッキングされる可能性があるということ。



 しかし、それはこの際置いておく。
 久留美が浸って戻って来なくなる前に鍵を開けさせようと思い、寸前の久留美の肩を叩く。



「お前の将来の夢への熱意は充分伝わったから、早いとこやってくれ」

「あ、そうね」

 どっこいしょ、と若い女子高生がそれはどうなんだという台詞を零しながら、久留美はドアの前にしゃがみ込み針金を射し込んだ。



「でも、どうしてこんな奥の教室なの? 別にドアなんて何処でも強度は同じ……」

「時間稼ぎだ。昇降口から逃げようとすることぐらいは、いくら単細胞でもわかるだろうからな。予想が間違っていなければ、"アレ"は各階の昇降口で待ち構えているはずだ。奴らに見つかる前に教室に逃げ込めれば、とりあえずのところは安全だ。だから一刻も早く、その鍵を開けて………」



 言葉が終わる前。
 そして、久留美が『アレ』とは何か、と尋ねるよりも早く。
 千夜の表情が、纏う空気が変わった。


 神崎とその一同を叩きのめした時のそれに似ていたが、それよりも遥かに温度が低い。

 敵意だけではない。

 同時にそこに存在する意思は、


 『殺意』。


 目の当たりにしてしまった久留美は凍り付き、動けなくなった。

 それが、己自身に向けられているものではないとはわかっていた。

 けれど、あまりに強過ぎる存在感を持つ殺気は、もし向けられればそれだけで自分の息の根を止められてしまうのではないか、と久留美にそう思わせるには充分過ぎた。

 久留美を我に返らせたのは、一つの湧き上がった疑問だった。 

 この極寒零度の殺気は誰に向けられているのか、という。




 ―――――――……カツ……―ン……。




 暗闇と静寂の空間に響く物音。



―――――――っ!?」



 驚いた久留美が肩を振るわせれば少し置いて、もう一度同じ音が木霊する。

 それは足音だった。 

 人が歩く歩調にしてはテンポが緩やかだが、視界が不可視に近い状況で敏感となっている聴覚だからこそわかる。響くそれは、確かに靴の裏がコンクリートを打つ音だった。



「……………」

「警備員さん……かしら」  

「ライトも点けずに点検か?」

「……う、」

「いいからお前はそっちに集中しろ。"コイツ"の相手は私がする」 

「は? 相手って……」



 久留美の言葉を無視し、千夜は足音が響いてくる漆黒の暗闇が広がるその先と向かい合う。

 右手が前へ差し出される。 

 その仕草に久留美は鍵を開ける事すら忘れて、魅入った。

 招くようなその動作が何かを呼び寄せるような気がして、それを見届けたくて。



「来い、舞の時間だ」



 千夜がそう呟くと、右手がある空間がぶれた。

 ぶれは歪みへと拡張し、ずるりと吐き出されるように一本の刀が現れ、千夜の手に収まる。



「……、っ」



 久留美はその光景、そして現れたそれを見て息を呑んだ。


 あまりにも現実とはかけ離れた出来事は異常だった。
 同時に、現れた刀も普通のそれと呼ぶにはあまりにも―――――――"異質"だった。

 その刀は鞘、柄、唾、全ての部分が白一色。あまりにも色がないそれは刀身だけでも一般の展示されている刀とは比べ物にならない長さを誇っていた。立てて並べれば、千夜の背丈以上はあるかもしれない。

 見かけも凄いが何より異質なのは、その刀の存在自体だった。

 霊感という超感覚的なものを持ち合わせていない久留美にも、それが只物ではないということは理解出来た。


 千夜は無言のままその長い刀身を手慣れた手つきで難なく抜き放った。

 お披露目となったその刀身もやはり白だった。
 白い刀身には反りが一切無く直線を描いていた。 


 不思議と絵になるその姿に呆けていた久留美は、視界の端で暗闇の中に浮かび上がったのが人影であることに気付き、そちらに意識を移す。

 それの登場により、久留美の緊張の糸が解けた。



「ほ、ほらー、やっぱり警備員よ……もう、妙な脅かしはやめ」 



 ホッとしたのは束の間。
 まさにそれが当てはまる刹那の安息だった。


 窓際のそこから月明かりが差し込み、暗闇を掃い廊下を照らし出す。 

 それによって人影は明確な正体を見せるが、そこに照らし出されたのは彼女等が望んだ警備員などではなかった。


 歩を進めてくるのは、彼女たちと同じ月守の学生服姿の女子生徒だった。

 しかし、その女子生徒には欠落しているモノ―――――――異なる『何か』があった。

 本来赤みを帯びているはずの肌は血が抜かれたように青白く、黒いはずの眼は血のように赤く濡れてその奥には光がない。

 足音がやけにテンポが遅く、不連続だったのは、おぼつかない足取りだったから。
 まるで
―――――――



「っっ、ぁ、あ、………」

 久留美の口から漏れる、言葉になれなかった破片。

 驚愕が喉を引き攣らせていた。 


 目の前にいる女子生徒には見覚えがあった。

 知り合いだったわけではない。寧ろ、話すら碌にした事も無かった。

 その顔を、存在を知ったのはつい最近だ。


 それも今朝の報道ニュースで、テレビの画面に現れた写真によって。

 茶髪でセミロングという特徴も。



「よ、終夜さ、ん………私、夢でも見てるのかしら」

「至って現実だと思うが」

「だって、ゆ、夢じゃないなら何なのよ、あれ。………有り得ないっ……有り得ないわよっ!」



 だって、と一息おいて、久留美は目の前の存在の否定を叫んだ。








―――――――あの子、あの事件で殺されたはずじゃないっ!!」







 ◆◆◆◆◆◆







 久留美の言葉は確かな事実だった。

 けれど、死んだはずの少女が目の前で立って歩いているのもまた事実。

 パニックとなっている久留美に、千夜は静かに告げる。



「お前の言っている事は正しい。彼女は死んでいる。だが、生きている」

「なによ、それ……」

「殺された瞬間、もう彼女としての意義を失った。あれは、もう―――――――人じゃない」



 奇しくも同時だった。

 人外であると言われた死者が、赤い眼の瞳孔を獣のように細めて本性を剥き出しにした瞬間。

 久留美が、己が彼女にとって獲物なのだと察する瞬間。


 それらの動作が交差した時、化け物と化したそれは、人間には在り得ない鋭く尖った牙を誇張し、獣の爪のように鋭利さを帯びた爪を見せつけ、狩りへと赴いた。



―――――――ひ」



 信じられない俊敏さを持って獲物との距離を詰めてくる相手に。久留美は本能的に悲鳴をあげそうになる。

 しかし、それは、連続するように起こった出来事によって阻まれた。



「がっつくな。あれはお前には過ぎたディナーだ」



 千夜のからかうような言葉。

 それが発されたのは"化け物の目と鼻の先"。

 千夜はいつの間にか久留美の傍から離れ、怪物の傍に居た。

 向かって来たそれよりも速く、それの前にいた。 



「代わりにこれでも食っていろ―――――――ほら」


 まるで了承を受けさせる際に肩を叩くかのような軽さで、千夜は目の前の畏怖すべき対象を切り刻んだ。

 己の身長を越える程の長さを誇る獲物をオモチャのように振り回して、人間の形をした身体をまるでバターを切るかのように切り分ける。

 無駄な動きは一切感じないそれは、まるで舞踏を踏んでいるが如く。

 動作の度に解体されていくそれは、断面から黒い液体を撒き散らしながら小さく十数の個に分かたれていく。



 地面に溜まった黒い水溜りの中に落ちたそれはずぶずぶと沈んで行った。 

 沈んでいく様が、血溜りを底無しの沼のように思せる。



 あっという間の出来事だった。

 瞬く間に終わった解体ショーを目の当たりにした直後に、久留美に戦慄の震えが訪れる。

 解体ショーそのものにではない。

 それを実行した少女に対して。


 ちらり、と見えた千夜の表情は破壊行為に酔って恍惚としていたわけではない。

 殺意に満ちた、それこそたった今分解された怪物のような鬼の形相でもなかった。


 そこにあったのは何の関心も見せない無表情だった。


 あれが人間ではないのは久留美にも充分理解出来た。

 例えそうでも、元は人間であったことを考えれば、殺す事には躊躇は覚える。

 なのに、千夜からはそんなものは一切感じない。

 その様子からはまるで一定の作業をこなす作業員のようなものしか感じ取れない。


 人間だったものを殺すことを事務的に済ますなど常識では考えられなかった。

 これなら、快楽の為に人を狂気の笑みで惨殺する殺人鬼の方が可愛らしい。

 そう、これに比べれば、おかしな良い方かもしれないがずっと『人間らしい』。



「早くしろ、新條。ぐずぐずしていると他の連中が嗅ぎ付けて集って来るぞ」

「あ……」



 腰に力が入らなくなり、地面に尻が付く。

 久留美は、呆然と視線の先の人物を見つめた。

 これは一体誰だろう。

 久留美の中で、わかりきっているはずなのに、そんな疑問が思考された。


 違う。
 これは違う、と久留美は頑なに否定する。


 自分が知っているあの少女は、こんな殺人人形のような人間ではないはずだ、と。

 綺麗な見かけとは正反対で、過激な性格ではある。おまけに、本性は性格破綻者。

 それでも自分が知る彼女は、こんな人間ではない。こんな。




 ―――――――ぴちゃっ……ん……




 錯乱しそうな久留美を正気に戻したのは、耳元で聞こえた水音。
 同時に感じた、濡れた感触だった。


 肩口をみれば、そこは紺を更に深くした色になって湿っていた。

 上から降ってきた、と理解すると久留美はこれ以上にいない嫌な予感が降り掛かる。

 予感しつつも、確かめなければ後悔する気がして、恐る恐る上を見上げた。     


 "それ"を意識が、眼が認識し、久留美は眼を見開き凍り付いた。


 蜘蛛のように四肢を天井に這わせ、ぎろり、と正気を失った眼で久留美を見定める“それ”が唾液を口端から垂れ流していた。

 久留美が叫ぶよりも、"それ"が唾液滴る牙を剥き出して飛びかかった方が早かった。



「っ新條!!」



 鮮血が舞う。

 見上げたことによって露になった喉とそれに喰らいつこうとした顎の間に入った千夜の腕から噴き出したものだった。

 眼を閉じる間もなく、それを目の当たりした久留美は今度こそ悲鳴をあげた。



「っ、い、やぁぁぁっ!! 終夜さんっ腕が、腕がっ!」



 喰らい付いた牙は、骨を噛み砕かんばかりの顎の力によって、どんどん白い肌とその下の肉に食い込んでいく。

 叫びを噛み殺し、苦痛に顔が歪む千夜。


 しかし、それもその一瞬だけだった。

 追い詰められているはずの千夜は、何故か悪企みを秘めたかのような邪な笑みを浮かべ、 



「………そんなに私の血肉は美味いか? ……なら―――――――」 



 そのまま離すなよ。


 宣告の直後、肉を断つ音と血が噴き出す音が交錯する。

 奏でたのは、噛まれる腕とは逆の―――――――白い得物を持つ手。
 

 首から上を失った身体は力を失いドシャッ、と崩れ落ちる。 


 そして、



「な、ナニっ……!?」



 久留美の前で、首なしとなって今度こそ屍となったそれは、端から黒く浸食されるように染まり塵になって消えた。

 息絶えた後もしぶとく腕に喰らい付いていた、恐ろしい形相の首も。

 あまりに衝撃の強い出来事が風のように過ぎ去った。
 その後、久留美に訪れたのは安堵と緊張感からの解放。

 とは言っても、後者は状況が解決したわけではない事を思い出し、若干落胆を覚えた。 

 暫く、真っ白になった頭で放心していた久留美だったが、千夜の腕から絶え間なく溢れ滴る赤が床に斑模様を描いているのを見て我に返る。



「終夜さんっ! 腕が………」

「ん? ああ、気にするな、大した事ない。それより、もう一体いたとはな………鍵開けたら先に中に入っていろ。私はちょっと、向こうまで見回りに」



 言葉の途中、千夜の頭に衝撃と激痛が襲う。

 その上にはいつの間にか立ち上がって力一杯振り下ろされた久留美の拳が沈んでいた。



「……痛い」

「痛くしたんだから、当たり前でしょ!!」



 先程の怯えっぷりは何処へ飛んでいったのか、仁王の如くの形相になった久留美が叱咤を飛ばす。



「気にするな? 大した事ない? 何考えてんのよ、この馬鹿っ!! アンタ、目の前で血ぃボタボタ垂れ流しておいてよくのうのうとそんな台詞を吐けるわね! 気にするに決まってるでしょ! 大した事あるわよ!」 

「お、落ち着け新條……」

「落ち着け!? はっ、廊下走ってたらいきなり腹殴られて気絶して目が覚めたら図書室前で変な遠吠えみたいなデカイ声聞こえたと思ったら全力で階段駆け下りてたら突然ワケのわからないこと聞かされてピッキングを要請されたと思ったら突然ゾンビモドキがなっがい刀で解体ショーでお次は天井から喉笛食いつかれそうになったり腕から血が吹いて首ちょんぱで落ち着けですって!? 息もつかせない衝撃の出来事連続で、落ち着けるかぁっ!!」



 それこそ息もつかずの長台詞を言ってのけた久留美の剣幕に千夜は呆気にとられ、反論を忘れた。

 それに乗って久留美が勢いに任せて攻撃を続ける。



「ああもうっ! ちょっと待ってなさい」



 そう言うなり、久留美は針金を鍵穴に突っ込んでガチャガチャ動かすとカチン、と音を立てた。 



「はい開いたっ! ほら、中入って!」

「いや、私は」

「つべこべ言わずにとっとと中に入んなさい! これ以上まだなんか言うならまたこれだからね!」



 拳をつくってみせる久留美の迫力に、千夜は一歩引く。
 その様子を見て、胸の前で握り拳をつくっていた手をダラリと下ろし、



「………ごめん。でも、正直……今いろいろ限界なの」

「…………」

「さっきのでトドメ。その上で、あんたまで……いなくなられたら…………わ、たし」


 声の震えは、終わりには涙声へと変わっていた。



「………殴られても泣かなかったのに、そこで泣くのか」

「ふつーこんな状況に耐えられる女子高生なんていないわよぉ……ぐすっ」

「まぁ、そりゃそうだな。………悪かった」



 謝罪とともに久留美の頭に降ったのは、二度の軽い撫で付けだった。

 優しい手つきに思わず久留美は、顔を上げた。

 さして身長差のない千夜の顔は、ゆえにほぼ正面にある。


「考えて見れば、お前から離れるのは良策とは言い難いな。出口はふさがれた今となっては………急ぐ必要もなくなったわけだしな」



「いか、ないの?」

「何だ、行っていいのか?」

「だ、ダメに決まってんでしょっ!」



 余裕のない反応に、千夜は笑みで返す。



「………やめたよ。この現状で、一番優先すべきなのはお前の安全だ。そのためには、お前のそばにいることの方が得策だからな」

「…………」



 久留美は、そういった千夜の顔を何か含むように見つめ、



「あんたって………どっちなの?」

「ん?」

「………なんでもない。中、はいろ」



 ドアを開けて、中へ一歩踏み入れた直後、



「……あのさ」

「何だ?」

「さっきさ………怒鳴り散らしたらイロイロ飛んじゃって………もう、終夜さんとか堅苦しく呼ぶのもなんか、変な感じが……するっていうか」

「はっきり言えよ」

「っ、っ、……わ、私を安心させるために―――――――名前で呼ばせなさいっ!!!」 



 怒鳴る声の後、妙な沈黙が生まれた。



「…………………………………………………………はぁ」

「何よ、その異様に長い間はっ! 嫌なのっ? 嫌だというわけ!? 私の安全が第一だって言ったじゃないのその口は! だというのなら、肉体的安全はもちろん精神的安全も配慮しなさいよ! 苗字でさん付けって堅っ苦しくて気ぃ使うのよ! 余計な気を使わせたくなかったら、私の好きにさせなさいよ! つーか、もうするわっ!!」



 廊下まで響く大声を至近距離で受け、耳に栓をしながら千夜は、


「この状況で、ここまで自己主張できる余裕があるなら心配ないと思うが…………まぁ、好きにしろよ」

「言われんでも、するっつってんでしょ!」


 ズカズカ、と荒々しい足踏みで中に入ると、久留美は背を向けたまま、



「………助けてくれて、ありがとう。―――――――千夜」



 言葉の最後に呼ばれた名前に、千夜は何を思ったのか、



「どういたしまして」

















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