―――――――メイドレストラン?」




 今しがた言った己の台詞を繰り返す千夜に、久留美は頷き、

「そ。従姉が自分でつくった自営業。まぁ、メイド喫茶のパクリとでも思ってくれるとわかりやすいと思うけど」


―――――――コラぁっそこ! 誤解されるような省略は止めてなさい!」



 説明を簡略させようとした久留美の目論見を阻止するが如く、店内の奥からツカツカと歩いてくる妙齢の女性がいた。
 無論、格好は―――――――メイドのそれだ。
 久留美には今や見慣れた姿となった従姉である。

「似たようなもんじゃん、香奈枝ねぇ」
「断じて、ち・が・うっ! もう……くーちゃんったら、一年も助っ人やっててまぁだわかってないのねっ」
「ちょっ……友達の前でそのあだ名はっ」

 ごく自然にあまり知られたくない呼び名を平然と口にする従姉に殺意募らせながら、咄嗟に隣に注意を向けたが、

「こちらが例の従姉さんか? ―――――――くーちゃん」
「淀み無い対応だなぁっ!?」

 手遅れだった。

「あら、くーちゃん。この美人さんは? ―――――――新しい奴隷?」
「立て続けに爆弾誤爆させるな、このエアクラッシャー! あんた、私のこと圧政政治家かなんかと思ってるわけ!?」
「どうも、初めまして。終夜千夜といいます。恩に着せてこの女に昨日から自由を奪われている身です」
「新條香奈枝です。こちらこそよろしくー。大変ねぇ、くーちゃん一度目をつけたら骨の髄までしゃぶり尽くすまで解放してくれないわよぉ」
「あはは、それは恐ろしい」
「…………………あんたら、打ち合わせでもしてたの?」

 若干恐れ混じりの久留美の問いは無視され、店の主兼従姉は曰く『誤解』とやらを解くべく自ら説明を始める。

「うちはね、どこぞの電気街に巣食う不埒なセクハラ事業とは全然別物なのよ。変に媚びは売らないし、妙ちきりんな設定も無し。売りは『健全かつ癒しを提供する奉仕』を掲げてまーす」
「健全と癒し……?」
「えーと、例えば………ちょっと、待ってて!」

 待機を言い残して、香奈枝は再び店の奥へと戻っていく。
 他のメイドに扮した店員たちも接待や運搬など、それぞれの作業へと行動を移していく。
 そのままの状態を保つのは、久留美と千夜だけとなった。

「………で? 結局のところ、どういう店なんだ?」
「だから言ったじゃん。ウェイトレスをメイドにすり替えただけの、ただのレストランとそう変わったところなんて無いわよ。あえて言うなら、一般人向け及び対象は男女混同ってところかしらね」
「………一般人向け?」

 久留美が問いに答える前に、『答えそのもの』が忙しい動きで戻ってきた。

「見て見て、これがうちの制服よっ」

 ほらほら、と息を撒かせながらヒラヒラと千夜に見せる制服。
 しかし、それはどう見ても、

「………メイド服ですが」
「もう、よく見て! 色合いも白黒で清楚なイメージだし、スカートもロング。露出は極限控えて、変わりにレースとかで細かいデザインに凝ったのよ」
「ああ、そういえば。確かに……テレビで見る感じのある意味サービス心こもったヤツとは大分違いますね」
「そうなのよ! 私はアレに対してはいろいろ言いたいことがあるけど、あの胸も太股も見せまくりなデザインが一番許せないの! 大体、皆メイドの存在意義を履き違えているわ! メイドは使用人なのよ!? いわゆる他者への無償の奉仕者!!」
「いや、多分それなりの給料もらっているはずだから無償では……」

 訂正は当然の如く無視される。
 久留美はそれを確認して、悟る。

 始まるな、という嫌な予感を。

「メイドが現代に蘇ったって聞いた時は、飛び跳ねて喜んだわ。でも、実際行ったら何なのアレはっ!? ペラッペラのキャラと媚と露出っ! ある意味衝撃だったわ、下品でね! 私は思ったの、これは間違ってると! だから……」
―――――――はいはーい。その反抗心でこんな店つくれた香奈枝ねえはスゴいスゴーい。でも、開店まで十分切ったから準備の最終チェック済ませてね。あーいそがし。私も着替えてスタンバイしなきゃー」

 強引なシャットアウト。
 そうでもしないと、この従姉のメイド語りは終わりを見せず延々と場所も時間も場合も選ばず続くのだ。
 悪い人ではないのに残念な人だ、と改めて己の従姉という存在に嘆きながら、チラリと千夜を一瞥。
 ポカン、としていた。
 無理もなく、当然といえる反応だった。
 やっぱり連れてくるんじゃなかったかなぁ、と思っていた矢先、久留美はふと千夜の視線をかち合った。

 千夜は久留美に何を見たのか―――――――少しどうすればいいかわからないように、笑った。

 久留美はそれこそどうすればいいかわからなくなり、香奈枝を引っ張って店の奥に逃げ込むしかなかった。




 ◆◆◆◆◆◆




―――――――おかえりなさいませ、お嬢様。御用があればわたくしめに何なりと申し付けくださいまし」
「………………久留美?」

 店が開店して、少しずつ外からの人間が入ってくるようになった頃、久留美は千夜の前に再び姿を現した。

 ―――――――その姿を一新させて。

「へっへん、どうよぉ? なかなか様になってたでしょ? これでもここの助っ人ととして一年目は経歴持ってんのよ」
「勤務中に私語丸出しじゃぁ、客にまだまだなんじゃないか?」
「いーのよ、どうせ今日はあんたに付きっきりなんだから」

 そうか?と向けられる半目を久留美は無視して、

「それよか、後ろで未練がましく視線飛ばしてくる店長の方が職務怠慢だと思うけどね」
「………まあな」

 久留美の言うとおり、背後の一メートル先には、席の影からジト〜と久留美と千夜を凝視してくる香奈枝の姿があった。
 何故か、泣きはらした目で、

「……ねぇ、くーちゃ〜ん。一時間だけでも彼女に」
「だ・め」
「着てみてくれるだけもいいからぁ」
「………今年の二月三日午後八時二十四分十三秒に香奈枝ねぇが何処で誰と何していたか、叔父さんに話してもいいならね」
「だから、何で知ってるのーっ!?」

 くーちゃんの鬼畜ぅーっ!と泣き叫びながら、厨房に走り去っていく香奈枝の姿を久留美は千夜と見送りながら、

「ねぇ、あれで今年で二十四でいい大人なのよ。信じられる?」
「大人気ない大人を結構知ってるから、信じる」
「……あんたも大変ねぇ」

 真顔で応えるので、真実味を感じる。
 久留美は引いてきたワゴンに手を置きながら、

「では、お嬢様。ご用件は何かございでしょうか?」
「それは?」
「ドリンク一式。客の目の前で全部作業するのが、この店の方式なんだって」
「お世話されている感が増すな」
「それが狙い。わかってるわねぇ」
「俺も、喫茶店でバイトしているからな。目の前でやると客の信用性も上がるとか聞かされたんだ」
「へぇ……」

 初めて聞く話に久留美は興味を惹かれた。
 しかし、今は仮にも勤務中だ。
 表面上でも仕事をこなさなくてはならない。

「ゴホン………何か御飲みになりますか?」
「何がオススメだ?」
「えっと……僭越ながら、わたくしめは紅茶をお勧めいたします。いかがなさいますか?」
「ああ、そうする。種類は何がある?」
「ここにはアールグレイ、アッサム、ダージリン、オレンジペコーがございます。ここにあるもの以外に御希望があるのでしたら、ご用意致しますが」
「いや、結構。………では、ダージリンを」
「かしこまりました」

 注文を了承する中で、久留美はここで噴き出しそうになるのを堪えた。
 自分たちが主人と使用人のやり取りをしていることが、何故か妙に面白おかしく感じてしまったのだ。
 そして、それと伴ってふと浮き上がった感情がもう一つ。
 楽しい、という。

 誰かといて楽しいと思う。
 それが己にとっていつ以来のことであるか、久留美は手を動かしながら考えた。
 自覚すら覚束なくなるほど、そんな想いに満たされていた過去があった。
 ようやく実感したのは、その相手がいなくなってからの空虚を得た時だった。

 あれ以来、久留美は何をしても楽しいと感じなくなった。
 学校にいても。
 家にいても。
 家族といても。
 旧友といても。
 一つの趣味のようなものとして、見出した他人の秘密を暴くという危険を孕んだ行為に感じる興奮すら、久留美には刹那的なものにしかならなかった。
 けれど、永遠に続けばいいと思ったことは無い。
 あの行為はそれでいい。
 どう持ち上げても、あの奇跡のような時間に代わりには成りえることはないことを、久留美は悟っていた。

 ………でも、これは?

 今感じている感情は、間違いなくかつて感じた代わりのないはずのそれだ。
 しかも、

 ………失う前に、自覚している。

 あの時と何が違うのだろう。
 何がそうさせるのだろう。
 そうさせる何かが、あるはずなのに―――――――久留美には、それがわからない。

 ………違うけど、何が?

 去っていった『魔法使い』と。
 今の目の前の千夜。
 どちらも久留美の焦がれる非日常から日常にやってきた存在だ。
 同じであるのに、何かが違う。

 ………存在が? それとも……。

 自身の向ける意識がか、と考えがそこまで行き着いた時、久留美を物思いから引き戻す声が呼んだ。

「久留美」
「えっ、なに?」
―――――――紅茶が」

 千夜の視線が久留美から離れ、少し落ちる。
 そこは、

「へ、って、あつぅぅぅぅぅぅ―――――――っっ!」

 いつの間にかカップから射程を逸れて、支える手の指先に熱々の紅茶を注ぐティーポットだった。




 ◆◆◆◆◆◆




「おまちどう」
「敬語崩れてるぞ」
「………察しなさいよ」

 火傷はすぐに水で冷やした事と、熱湯と呼ぶほど熱くない紅茶を淹れるのに適温だったおかげで、ほんのり指先が赤くなるだけで済んだ。
 それでも、久留美には痛みとして残り、不機嫌の要因となっていた。

「大体、何でもっと危機感持って言ってくれないわけ? あんまり自然体だから、全然わからなかったわよ」
「十秒近く注いでいたのに、気づかない方がどうかしているだろう。指先の危機に全く気取れないくらい、何を考えていたんだか」
「………っ」

 あんたのことよ、なんて言えるはずもない。
 久留美には押し黙る以外返答の手段が残されていなかった。
 そうしている間に、淹れ直された紅茶に口をつける千夜。
 それを久留美がちろりと盗み見ていると、

「……うん。うまいよ」
「え……そぉ?」

 皮肉か文句かが飛ぶかという久留美の予想を裏切る千夜の言葉に、思わず気が抜ける。

「紅茶はあまり飲まないんだが………なんだか好きになれそうだ」
「いつもは何飲んでんの? コーヒー派?」
「そういうわけじゃないが、淹れてくれる人間………バイト先の店主が徹底としたコーヒー派でな。喫茶店のくせに、絶対に紅茶は出さないし自分でも飲まないんだ」
「え、じゃぁ紅茶出せって言われたら……」
「……一応、丁重に対応してるよ。―――――――ヨソの店でいくらでも、と玄関を開けて」
「……………丁重を装った最悪の対応だと思うけど」

 さすがは千夜のバイト先だ、という感想が久留美の中で出された。
 類は友を呼ぶ。ことわざというのもあながちバカに出来ない、とも。

「まぁ、昔一度自分で淹れてみたこともあるんだが…………最悪だ。飲むならうまいのを淹れようと高い葉っぱを買ったのに」
「バカね。紅茶にだっていろいろ種類があるんだから。葉っぱの量はもちろん温度も大事だし、種類によって味も全然違うんだから」
「以来、気が向いて飲みたくなったら、ティーパックで淹れている。便利で、味もそれなりに飲めるからなアレは」
「でーもっ! やっぱり自分で選別して淹れたやつには及ばないわよ。そりゃ、淹れる前にポットを温めるとかいろいろ手間かかるけど、紅茶に愛を向けるならそれくらいどうってことないっていうのは当然で……」
「ははっ、こだわるなぁ………オバさんもそんなこと言ってたぞ?」

 親子だなお前ら、という笑いを含んだ言葉に、少し複雑な気分になる。
 元々この語りも母親に聞かされて、気づけば己のものとしていたものだ。

 あれは高校受験真っ最中の時期だったか。
 既に危ない趣味をものとしていて、それによって家族との距離が開いていた。
 まだ得た趣味に新鮮味を感じていた当時、それにガンガンに熱を入れたいという願望に運悪く重なるように迎えた受験。
 他の事はそっちのけで没頭したかったが、それでは両親とて黙っていない。
 だから、完全に遮られないように適度に勉強をした。
 さすがに中卒はいろいろまずいだろうという気持ちと、高校という中学生にとっては未知の上層部に対する興味も十分にあったからだ。
 出来れば「いかにもやっています感」をわかりやすく表現したかったので、夜中に勉強するようにしていた。
 目論見は成功した。干渉もいわゆる受験を向かえた家庭で繰り返される程度のもので、過剰なそれも不審も向けられなかった。

 ただし、代償となったのは睡眠時間とそれを求める欲求だった。
 夜通しというわけではないが、その時間帯をある程度起きて勉強しなければならなかった。
 当然、身体に訪れる睡魔はそれを阻む。
 眠気覚ましにカフェインをとろうと思って、手を出したのが紅茶だった。
 だが、失敗した。それこそ千夜のように、紅茶の淹れ方を当時はろくに知らなかった久留美が初めて自分で淹れたそれの味ときたら思い出したくもない酷さだった。
 そこを偶然起きてきた母親に見つかり、見兼ねられて―――――――

 ………耳にタコが出来そうなくらい聞かされたっけ。

 思えば、それが中学時代に母親と一番交流した思い出だ。
 指導する母親にただ相槌を打つだけだったが、最も長く接した夜。

 そうして、幼い頃は母親に淹れてもらっていた紅茶は、久留美にとって自分で淹れるものとなったのだ。
 離れかけていた自分たちを、紅茶はあの時点ではまだ繋いでいてくれたのかもしれない。
 けれど、それも―――――――断ち切ってしまった。

「………ってゆーか、言ってたって………何で?」
「あ……」

 失態を踏んだ、というその瞬間に表れた千夜の表情を久留美は見逃さず、

「……なにそれ。いつ聞いたのよ」
「えっと……」
「んー?」

 じとーっと凝視を続けると、千夜は耐えかねたように、顔を久留美から背けて観念を示した。
 ひどく言いたくなさそうに、

「………俺はヨソの
領域(テリトリー)では寝付けないんだ」
「は?」
「……だから、偶々起きてきたお前の母さんに見られて………落ち着くようにミルクティー飲ませてもらったんだ」
「いや、そこは別に良いけど…………え?」

 久留美は目を丸くした。
 テリトリーなんて微妙に格好よく表現しているが、つまりは、

 ………か、可愛いじゃないのっ!

 見れば、羞恥を煽られたのか千夜の頬はほんのり赤らんでいた。
 それが更に久留美の胸をキュン、とさせた。

 ………なんか、イイ。この普段のアレとのアンバランスさが。

 不覚にも萌えてしまった。
 ふと見えた千夜の意外な一面に。

 千夜はニヤニヤする久留美を睨み、

「……オイ、絶対に記事にするなよ」
「どうしよっかなぁ〜」

 優位に立てていることが、久留美を思わず調子に乗らせる。
 とりあえず、記事にする気はない。
 だが、

「やったら、十倍にして返すからな。お前の秘密は既にお前の母親からのタレこみで掌握済みだ」
「な、なんですとぉ!?」
「疑うならここで一つあげてやろう。
 ―――――――三歳。お前は遊んでいたビー玉を鼻に」
「ぎゃぁぁっ! ストップストぉぉぉぉぉップ!」

 親と親類しか知らない己の恥を真っ黒い笑みと共に公言しようとした千夜に、慌てて降参を提示。

 ………前言撤回!

 可愛くなんかねぇ、と久留美は先程の己の感想を取り潰した。

「メイドさん、おかわり」
「っ、かしこまりましたぁっ!」

 実にイイ笑顔となった千夜に反して久留美は、仏頂面で対応した。
 あっという間の下克上の終わりだった。

「……ところで、店長は本当にお前の従姉なのか?」
「何よ突然」
性質(タイプ)が真逆にも程があると思ってな。あれは見かけではなく、本質的なものだ」
「……嫌味か、このヤロウ」
「純粋な感想さ」

 それは、今まで腐るほど言われてきた類の言葉だ。
 いろいろ問題児的な要素が目立つ久留美に反し、こうなるまでの香奈枝は、

「……まぁ、あの人は元々聞き分けのいい子供として親戚の間でも優等生の筆頭だったから。おかげで私が悪い例でよく引き合いに出されたわ」
「だろうなぁ」
「納得すんな。……まぁ、無理もないけどね。香奈枝ねぇは、頭も良くて何やっても要領よくて、親にも逆らわなかったし……いろいろ厄介なクセのある人間が出てくるうちの家系からは、珍しいマトモな人間だと思われて……いたんだけどね」
「どうして、こんな状態に?」
「………優等生だったけど、これといって趣味のない人だったのよね。前は」

 久留美にはあって香奈枝にはない唯一のもの―――――――それが趣味だった。
 妙なことに、それが香奈枝には酷く羨ましく思えたらしい。

「優等生って周りは褒めてくれるけど、正直それを落とさないためにずっと気を張っていなきゃいけないから、苦しかったんだって。しかも、少しも楽しくない。だから、本当に楽しそうに趣味に没頭してる私が羨ましいって………昔、言われた」

 それは無いモノ強請りだ、と人のことは言えないとはいえ、そう思っていた。
 それでも仲は悪くなかった。
 良い、と己の中で表現しないのは、香奈枝に一方的に家に押しかけられるやらまとわりつかれるやらだったからだ。
 形で見るなら、普通は逆ではないだろうか、と今更ながら思う。

「で、今に至る経緯の発端が……中二の頃だったかなぁ。まぁ、もはや恒例となって学校から帰ると大学帰りの香奈枝ねぇが私の部屋で漫画読んでてさぁ。もう突っ込みも文句も諦めて好きにさせて私が仕入れたネタを記事にするために原稿にまとめてたら、肩こりがキたわけね。そしたら、近くの香奈枝ねぇが目に入って、どうせただで居座らせておくくらいなら有効活用しようと思って、肩もみ頼んだのよ」
「それで?」
「いや、思いの外上手くてね。初めてだっていうから驚いたけど。……終わった後に、ありがとう気持ちよかったよ、と言うとね」

 久留美は、一度そこで言葉を止めた。
 思い出したのだ。
 彼女がこんな風に行き着いてしまったそもそものスタート地点と、それを後押ししたのは自分であるのだということを。

「……久留美、どうした」
「………犬」
「いぬ?」
「いや………褒めたら、飼い犬みたいに尻尾振る勢いで喜んでさ。んで、他人の世話して役立つのに快感を覚える新たな自分を発見。趣味から飛んで将来はそういう仕事につきたいとまで発展して………大学を自主退学するわ、向こうの両親卒倒だわ、親戚大騒ぎだわ……ふとしたキッカケでこの超展開よ?」
「………そりゃまた」
「今思えば私、押しちゃいけないスイッチ押しちゃったわよねぇ……」

 考えていると、いろいろな人たちに申し訳ないことをしたという思いが浮かび上がってきた。
 無論、当人たる香奈枝にも。
 しかし、久留美のそんな心境に割り込むように、

「まぁ、いいんじゃないか? 大勢の人間に否定されても、誰か一人くらい理解がいれば」
「……ん、まぁ……いないよかは、ね」
「久留美と……さっきの話の中に出てきた人とか」
「私は別に面白い展開になったからそれはそれでと思っただけ………って、え」

 待て、と久留美の思考と言葉が停まる。
 聞き逃せない部分が後半にあった。

「……さっきの話のって………」
「ん? 恋人のことだろう」
「はっ………何でわかるの!? ってか、根拠はっっ」
「……午後九時近くに一緒にいて、両親に知られたらいろいろマズい相手といったら………そんな感じかなっと」

 思わず口が開いた。開いて閉じられなくなりそうだ。
 なんて、アバウト。
 だが、当たっている。

「……マズイも何も、激マズなのよね。何せ、高校時代の担任だったから。十三も年上で、しかも妻子持ち」
「教師とはまた……」
「どこの少女漫画かっての。まぁ、泥沼じゃないよ? 向こうの夫婦仲も香奈枝ねぇと知り合う前から冷え切っていたらしいから、遊ばれているってわけじゃないみたい。子供が成人したら一緒になろうって………いかにもって背景だけどね」

 けれど、両者が本気であることは久留美も知っていた。
 向こうの男も、久留美に関係が知れた時に接触してきた際に己の思いの旨を聞かせてくれた。
 あとで切れる時にいざこざが起きないように、自分から懐柔するつもりでいるのかと思っていたが、そうでもなかった。
 相手の男は一見冷めているようだったが、香奈枝のこととなるとその雰囲気を一変させた。香奈枝に出会った自分は変わった、とまるで恋に落ちた少年のような初初しさを浮き彫りにさせて、彼女の恋人は久留美にその経緯やら過程やらを話した。
 秘密の関係なのに第三者にそんなに話して良いのかよ、と思ったが、狡猾とは程遠い単純で純朴な人間であることはそこから理解できた。

 どうしてそんなにまでして好きなのか、とその時は男に聞いた。
 男は照れくさそうに言った。
 わからない、と。
 ふざけてんのか、と白けかかったが、その後に続きがあった。

 理由がわからないから、わからないそれをわかりたくて傍にいたいんだと思う、と。
 きっとずっとわからないだろうけどね、と苦笑いと共に付け加えて。

 口約束から四年が経とうとしているが、相変わらず密会は続いているらしい。
 どうせ一瞬の熱だと思っていたが、久留美の予想を裏切って彼らは熱を上げたままだ。

 他人のプライベートを探り出すようになってからというものの、久留美は人間関係の軽薄さや絆といわれるものの脆さを嫌というほど見てきた。
 だから、彼らの言う『愛』とやらも理解出来なかった。
 何の保証も無く、寧ろ代償ばかりが大きい関係にある互いをそこまで信じられる彼らそのものが、理解出来ずにいる。
 
 人の気持ちは揺れ動きやすく、そして多感だ。
 それは、絶対と銘打てるほど純情なものではない。
 そして、誰にも相手のそれは見透かすことが出来ない。

 そんな久留美の冷めた認識を否定するかのように、香奈枝とその恋人は何処までも見せる事の出来ない気持ちを抱えた自分たちを何処までも信じている。

 それは捻くれた見方をすれば、

 ………あてつけ。


 信じたのに、裏切られた自分に対して。
 だからかもしれない。
 香奈枝たちのことを認められないのは、きっとそのせいだ。
 彼女たちと同じくらい自分も相手を信じていたのに相手はそうは思っていなくて、あっさりと久留美の傍から離れて消えてしまった。
 嫉妬。
 同じ思いを抱いて、夢破れた者にとって彼らは妬みの対象だ。
 或いは、果てを知る者としての憐憫の
―――――――



「どうして、楽な道を蹴って茨道みたいなところ歩きたがるのかな……あの人たちは」
「何だ急に」
「……だってさ、たとえ辛いことに挑んで一緒に何かを得ようとしたって……仮に得たところでその後に相手から気持ちが離れたり置いていかれたりしたら、それまでの苦労も水の泡。何のメリットが残るっていうのよ。当人たちは盛り上がっていれれば、それでいいだろうけど………見てる側からすれば危なっかしいだけよ」
「…………」

 我に返ったのは、既に喋るだけ喋った後だった。
 一気に噴き出す冷や汗を感じながら久留美が見たのは、無表情に黙り込む千夜の姿。

 ………わ、私何言って……。

 口が勝手に、と馬鹿な言い訳しかつかない始末だ。
 物思いの独白に耽るばかりに現実との境を見失っていたのか。

「ぁ、えっと……今のは、な」
―――――――どうしても、欲しいものがあるからじゃないか?」

 沈黙していた矢先の言葉。
 千夜の発言に、久留美は話を白紙に戻すのも忘れて首を捻った。

「……欲しい、もの?」
「楽な道にはそれがない。あの人とその恋人が求めるものは、お前の言う茨道の向こう側にあるんだろう。どうして欲しいもので、それを手に入れるにはその道を苦難を享受し、乗り越えなければならない。……それを覚悟して、そっちの道を選んだんだろうな」
「で、でも……保障なんてないのよ? どっちかが耐えられなくなって、嫌になるかもしれないじゃないっ……乗り越えたと思ったら、まだ別の苦難が待っているかもしれないのに………それに、仮に欲しいものが手に入ったところで……その先も相手の気持ちが変わらないなんてわからないわ………」

 何をむきになっているのだろう、と己の冷静な部分が思う。
 彼らを肯定する千夜に、否定をぶつけて。
 千夜まで自分が認められないあの二人の肩を持つのが許せないからなのか。
 それとも、千夜の肯定をもっと聞きたいからなのか。

 己が何をしたくてこんなにも必死に攻撃しているのかわからない。
 だが、一度火蓋を切った口は、内から出てくるものを抑えるべく閉じることは出来なかった。

「人間は残酷な生き物よ。昨日今日まで一緒にいて笑っていた相手を、そんなの嘘だって平気な顔して突きつけて……あっさり置いて何処かへ行ってしまえるのよ? そんな奴等が交わす約束なんて紙切れみたいなもの……」
「……なら、凄い人だな。お前の従姉と恋人は」
「………は?」
「そんな紙切れみたいなものとわかっているものを、それでも信じることが出来るんだから」

 そこから千夜の返答が始まる。

「……お前の言う事は決して間違っていないよ。人間は感情に左右される残酷な生き物だ。俺もそれは……理解している」
「………じゃぁ、何で」
「無論、これは当人たちも理解しているだろうな」
「え……」

 思いも寄らぬ千夜の台詞に、久留美は反論の言葉を見失う。

「お前が思っているほど、あの人たちは夢見がちな子供ではないと思うぞ。誰がどう見たって………良い年をした大人だ。本人たちがそれをわからないはずがないだろう。特に、従姉さんの方は………ここまでにソレを思い知っているはずだ」

 言っている意味はわかった。
 従姉はお人よしであれど、頭の良い人だ。
 己のしている事がどういうことなのか、わからないはずがない。
 選ぶことが利口ではないことも。
 それに己を通すことが困難であることも。

 わからないはずがない。物事の道理がわかる人であるのに―――――――それでも彼女は、

「ただ何も見ようともしないでする一点張りとは違う。………何もかも理解したうえで、それでも信じることは……とても難しいことだよ。もう、従姉さんたちはどれくらいになるんだ?」
「よ、四年になるんじゃないかしら……」
「そうか………もう、四年も。強い人だな、お前の従姉とその相手は。………揺らいだこともあるだろうに、何度も」
―――――――……、っ?」

 何か言おうと、口を開いた時。
 久留美はここから少し離れた場所にて不穏な気配を匂わす声を聞き拾った。
 見遣ると、その方向の先では嫌な予感を忠実に描いた光景を視界が捉える。

 香奈枝が店員と共に冷やかし目的の客の対応をしている。

 たまにあることだ。
 この店はその手の目的には格好の的だから。
 ここだけに限ったことではない。
 接客業には、こういうことは付き物であり、それに耐えられなければこの先をやっていくことなどできない。
 香奈枝も店をつくってからはそれを重々承知しているだろうし、もう慣れているはずだ。

 少なくとも久留美はそう思って―――――――いた。

―――――――

 だが、久留美は見た。
 ここに来て、香奈枝の顔を初めて直視した。

 見覚えのある表情があった。
 それは、大学を辞めてきたいう報せを本人の来訪と共に受けた夜。
 親に家を追い出されたから暫くお世話になるね、と一時の急な同居人と化した時に、見た顔だ。
 困ったように眉が歪んだ、少し無理をしている笑み。

 新條香奈枝。
 周りを見向きもせずまっしぐらに走れる人ではない。
 逃避のように周りを目を背けてしまうような臆病者ではない。
 だから、周りから受けた叱咤や罵倒という類の否定を受け止めて、揺れて。

 それでも倒れまいとする時の、歯を食いしばって耐えるような笑み。

 ………そっか。

 そうだったのね、と今更ながら久留美は気づいた、
 見たことはないが、恋人との件が関わった時もこんな表情をしているのだろう。

 辛ければ止めてしまえばいいのに。
 苦しいなら泣いて座り込んでしまえばいいのに。

 見ていると、対応相手である男性客二人組の片割れが新しく一つ嘲りをぶつける。
 香奈枝の表情が僅かに震えたのを久留美は捉えた。
 けれど、それでも彼女は耐えるように笑う。
 泣けば、屈したことになるとわかっているからか。

―――――――……自分のやりたいことをやりたいと素直に動ける人間っていうのは、見ていて気持ちがいいな。そう思わないか、久留美」

 言葉の後、立つ気配を傍で感じ、視線を戻すと、

「……自分勝手とか、無鉄砲とか………悪く言われたりもするが、それが出来る人は凄い奴だと俺は思うよ。困難が付き物であるそういった行為に堂々と立ち向かえる人間には、理性という皮を被った臆病風に吹かれて震えるだけに人間なんか足元にも及ばない」

 千夜は席から立ち、そこから出て、

「会っても間もないが―――――――良い従姉を持ったな、久留美」

 何故か飲みかけの紅茶を手に持って、問題の発生地へと歩いていく。
 どうするつもりなのか、久留美の脳裏にはすぐに的中率の高い予想が巡ったが、今はどうでもよかった。
 ただ、久留美は香奈枝と千夜を見比べた。

 そして、香奈枝に対して一つの感情が芽生えた。
 同時に一つの記憶が瞼の裏に閃いた。




 ―――――――いいなぁ、くーちゃん。羨ましいー。




 趣味を持つ己にかつて向けられた香奈枝の言葉。
 今は別の意味で、こっちの台詞だ、と記憶の中の香奈枝にぼやいた。


 千夜の賛辞の向く先である、あの時とは立場が逆転してしまったその人に。
 








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