日常嫌いの久留美にも、それに関する密かな憧れがある。
例えば、『友達』を家に招くこと。
或いはその逆。
全てあげるとなれば十数を超える願望があるが、いずれにせよそれは『友達』のいない久留美には叶えられない願いだった。
そして、だからこその憧れという形をとっていた。
最近になって、思いもよらぬ出会いから叶うはずも無い願いは一つ成就した。
それに乗じて久留美は、もう一つの憧れも実現させようと目論んだ。
『友達』とお出かけ。もしくはショッピング。
正直、一人で服を買うにしろ休日を謳歌するにしろ―――――――ツマラナイのだ。
そうして、いつのまにか休日にすることといえば、浮かれた馬鹿どものボロを撒き散らす姿を情報収集する。それだけとなっていた。
枯れ過ぎ、と母が言うのにも頷ける。
とても女子高生の過ごす休日ではない。
だが―――――――今日からそんな枯れた青春とはお別れだ。
生まれて初めての友達と過ごす休日。
買い物をして。
少しオシャレな店で外食。
道行く人間が相手を伴う姿を羨ましげに見つめて、一人で人ゴミの中を歩くのではない。
未知の体験に胸躍らせていた久留美だったが、
―――――――それは、一本の電話によって狂いを生じることとなった。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――午前中に急な用が入った?」
家を出てまだ十数メートルとない場所で、久留美が進行片手間にそう打ち明けると千夜は予想外に少し驚いた表情をした。
無理もない、と申し訳なく思いながら、
「うん。あんたが着替えている間に……ちょっと、飛び入りでね」
「ふーん…………で?」
どうするんだ、という言葉がギュッと凝縮された問いかけに久留美は行き詰った。
とりあえず、決断は後回しにして外に出たのだ。
家でこのことを打ち明けて、これ以上母親に首を突っ込まれてかき回されるのは御免だった。
「………とりあえず、行くって言ったから行かなきゃならないんだけど」
半ば強制とも言えない要求だったが為に、断ることは出来なかった。
無視すればとんでもなく痛い目を見るのも予測済み。
けれど、
「…………そうか。では、また今度だな」
「えっ」
「行かなければならない用事なんだろう?」
「そう、だけど……」
「別に怒っていない。急な用事なら仕方ないからな。そんな顔しなくても、今日の分はまた何処かで付き合うよ」
歩みを止め、久留美は思わず千夜の顔を見た。
見つめた先、不快や怒りという気配はなく、ただ寛容深い笑みだけが存在する。
予定を重複させたことを怒っていない、というのは本当らしい。
今日取り潰してしまう分は、また久留美の好きな時に付き合うとも言っている。
それでもいい―――――――はずなのに。
「行き先は?」
「……し、渋谷道玄坂。従姉がやってる店があって………今日は、午前中……どうしても、人手が足りないからって……」
「そうか。渋谷駅に着くまでは一緒だな」
千夜のマンションも久留美の行く先と同じ渋谷区渋谷にある。
途中までは一緒だ。途中までは。
「ゴメン……こんなはずじゃなかったんだけど」
「久留美?」
直後、ハッと我に返る。
内心で呟いたつもりだった言葉が、無意識のうちに口から漏れていた。
信じられない、と羞恥心が一気にリミッターを振り切る。
あ、あ、と言葉にならない声だけが意味もなく開いた口から零れ落ちて、
「……気にしてないよ」
「…………」
「変な奴だな。いやでも、また"明日"も会うのに……」
言葉を聴いて、久留美は己の思考が停まるのを感じた。
明日も会う。
明日も会える。
―――――――『明日』も。
僅か一日の先の未来を指し示す言葉が、久留美の古い記憶を抉り出した。
『―――――――さよなら。また、明日』
別れと明日への約束が重複していた『彼女』の言葉。
今思えば、それがとても不安定で大きな矛盾を孕んでいることは明白だ。
いつでも自分の傍からいなくなるつもりでいた。
それでも行けば、自分を待っていたかのようにそこにいたのは、気まぐれだったのだろうと思う。
『彼女』の言う『明日』はいつ嘘に消えてしまってもおかしくなかったというのに、自分はそれに気づかず無邪気に信じてその日の眠りについていた。
そして、あのクリスマスの夜に知った。
もう『彼女』の手を掴んで引き止めることすら出来ない手遅れの状況で。
「行こう、久留美。俺はいいが、遅刻したらお前が困るだろ」
千夜が進行の歩みを再開する。
よって、僅か一歩の距離が久留美と千夜の間に出来た。
ただ、それだけのこと。
それが、久留美の衝動を突き動かした。
「―――――――っ、待って!!」
二歩目を妨げるかのように、千夜の手首を掴んだ。
それを自覚として感じたのは、驚いて振り向いた千夜の顔を見た後だった。
「………久留美?」
「……ぇ、と……」
咄嗟の行動とはこのことだった。
後先なんて考えていたわけがない。
けれど、この手が掴んだ理由だけは、唯一理解出来ていた。
だから―――――――
「っ、やっぱり行く」
「だから、今」
「違う! 今日、遊びに行く!」
「……え、でも……」
「午前中だけだって取り付けだから。だから……午後から、遊ぼうよ」
「けど、それじゃぁ半日も無い……」
「それでもいい! 今日が良いの! 今日ったら、今日っ!」
子供か、と何処かで客観視する己の一部分が久留美を哂い、呆れる。
だが、久留美はあえて無視した。
知ったことか。
ただ、後悔だけはしたくない。
あの時と同じように、手遅れを迎えることだけは避けたかった。
だから、手が動いた。
まだ、この手が届く距離のうちに、捕まえなければ、と。
「……今日が、いい」
気が付けば、泣きそうになっていた。
俯き、泣くものかと涙腺に力を込めた。
そうしたら、今度が喉に泣きが回ってきた。
「………っ」
今、千夜がどんな顔をしているのか見る勇気がなくて、顔があげられない。
失望。
呆れ。
嫌気。
久留美の想像は前向きなイメージを浮かべはしなかった。
こんなふうに、自分ですら自分に呆れているのだから、それを客観視できる立場にいる千夜ときたらそれは比べ物にならないだろう。
そう思って、今度こそ泣きを抑えられなくなりそうに―――――――
「―――――――しょうがないな」
なりかけたところを、声が差し押さえるように割り込んだ。
呆れを模している言葉に反して、そうは聞こえない優しい声に、久留美は思わず顔を上げた。幸い、まだ泣いてはいなかった。
そして、見上げた千夜の顔は、
「……千夜」
「今日の夕方までは、俺はお前のものだからな。好きにするといい、お前のしたいように。………付いていっても構わないなら」
まわりくどい「いいよ」という返事。
少なくとも、久留美はそう解釈した。
目の前にある少し困った笑みを見て、そう解釈することした。
もし、あの人の手を掴むことが出来ていたら、同じようにこんな笑みを浮かべて立ち止まってくれたのだろうか、と思いながら。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――おかえりなさいませ、お嬢様」
単体ではなく、複数の重なりで響く。
目的地のドアを開けての第一声。
そう出てくるとわかっていた言葉を聴いて、今更ながら久留美はグラッと脳が揺れる気分となった。
「……………………………久留美」
「………………」
さて、まず何処から説明しようか、と思いながらこれから並べる言葉を検索し始める。
そして、今度こそ千夜の顔は見れなかった。
見れるわけが無いのだった。