空間があった。四面を全てコンクリートの壁で構成された至ってシンプルの髄を極めるばかりの部屋だった。

 そこには二つの存在がある。

 一つは白髪の巨男。厳しき顔は普段それに更に険しさを増して、もう片方の存在を見据えていた。




 そして、その片足は―――――――何故か血塗れていた。






 

「っ、おっさ、ん……さぁ……」

「何だ」

「もうちっと………マシな起こしか、た……なかったん?」

「無いな」

 

 即答かよ。

 その気はないとばかりの言い切りに殺意を芽生えさせつつも、蒼助は無視するには強烈過ぎる激痛の発生源に気を遣った。

 二の腕から先が千切れてなくなっていた。

 その千切れた断面からはダクダクと赤黒い血が流出し、地面を汚す。

 

「ひでぇよ、オッさん。俺ぁ昨日の二時過ぎまでずっと一人鍛錬してたっていうのに、九時ぐらいまで寝こけてたからって何だよこの扱い。いきなり寝室から寝てる人間

引っ張り出して着いたら足で腕を踏み千切るなんてよ」

「騒音。痛み。眠りの中にいる者はいずれにせよ不快感によって目を覚ます。それに倣って手を打ったまでのことだ」

「じゃぁ、俺はこの先あんたに起こされるたびに代償に腕一本が必要ってか………笑えねぇぜそのジョーク」

「ジョークではない。世俗の小童どもの薄汚い言葉に則れば―――――――本気と書いてマジだ」

 

 いっそう性質が悪いじゃねぇか、と蒼助は会話の続行を切り捨てる。

 寝不足を言い訳にベッドへ戻らせてもらえないのは、元より十分承知の上だった。

 幸いというべきなのかは微妙だが、眠気は痛みと衝撃的な出来事が降りかかったことで、見えないどこかで飛んでいってしまった。

 腹を括ろう、と決め込んだ蒼助は、

 

「わーった………わかったから、あと三十秒だけ俺に時間をよこせや」

 

 要求に対し上弦は、ふん、と鼻音と共に腕を組んで、仁王立ち。

 罷り通ったのだと理解した蒼助は時間が来る前にするべきことをしようと、座り込む己の傍らで出来上がった血溜まりの中に力なく横たわる―――――――かつての体の

一部を見た。



 ラッキーだった。

 いつものように千々の肉片に変えられてしまうところのそれは、今回は原型を保っていた。

 これならば、と蒼助は意気込んで、

 

―――――――

 

 意識の集中と共に腕の断面が熱を持ち出す。

 顔を顰めながらも、それが現段階では上手くいっている証拠であることを知っている蒼助は尚も集中を高める。

 血液と共に循環路を失った霊力が断面に篭っている。それによって傷ついた細胞の活性化が起きているのだ。

 息を吹き返す細胞。まずは第一段階クリア。

 第二段階としてイメージ。己の織り上げたいものを脳裏に固定するための。

 ちらり、と血の気のなくなった腕を視界の端に移す。それにまだ繋がっていた頃の結構の良いそれのイメージを被せる。

 イメージの固定の完了。

 

 そして、蒼助は必然と起きるであろう激痛を覚悟の上で損傷した腕を一気に力を込めて力ませた。

 

―――――――っ、っ」

 

 痛いのか。

 熱いのか。

 それらの苦痛の類たる感覚を歯を食いしばって耐える。

 

 それも一瞬で、蒼助は血と共に己の霊力が噴き出る気配を感じて脳裏のイメージにひたすら意識をしがみつかせた。

 

 すると、

 



 ―――――――ズチュンッ!



 

 生々しい粘着質な水音を立てて、断面から突き出るように生えるものがあった。

 それは―――――――骨だ。

 白い身に血に塗ったそれは生まれたての胎児を彷彿させる。

 しかしそれも僅かな時間の中のお披露目に終わった。まるで隠すかのようにビュルルッと無数の筋のようなものが細い触手のように後を追って生え、骨を芯とするように

幾重にも巻きつく。

 そしてそれは肉の固まりとなり、やがて腕の形をとり、その先の手の形も形成していき―――――――

 

「……は」

 

 神経や筋肉が剥き出し腕の上を浮き上がるように現れた皮膚に覆われたところで、蒼助は一息を吐きだした。

 作業の終了―――――――腕の『再生』を終えたことへの安堵だった。

 

「……ほう。もう己の意思で再生をやってのけるようになったか。小憎たらしい」

「いつまでもその度に気絶してるわけにもいかねぇからな。時間が勿体ねぇ」

「ふん、良い心だけだ。こちらも暇を持て余すことがなくなって助かる」

 

 ギュッギュッと己の手の動かして感覚と調子を確かめていると、上弦から殺気と闘気が一気に噴き出るのを感じた。

 戦闘開始の前兆であった。

 

 だが、

 

「………なぁ、ちょっと一個聞いて答えてくんねぇ?」

「戦いを始める前に言葉を挟むとは無粋な輩よ。………何だ」

 

 文句を言いつつも聞いてはくれるらしい。

 真面目なのか寛容なのかイマイチ断定できない男である、というのがここ数日で蒼助が上弦に抱いている認識だった。

 

 だが、今はそれにつけ込むことにした。

 

「………アンタは、―――――――誰かの為に死にたいって思ったことあるか?」

 

 

 昨夜が胸に蟠りとして残る疑問をぶつけられた上弦の反応は、まずはその脈絡の無い唐突な質問への唖然だった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 一つの疑問は戦闘態勢を解き、状況を変えた。

 向かい合っていたはずの蒼助と上弦は、いつの間にか横一列に並び座っていた。

 そして空間に施された術式はまだ発動していなかったせいで元の質素な空間は、いつのまにか―――――――何故か竹林と化していた。

 自分ではない、と蒼助は確信していた。



 となると―――――――答えは一つしかない。

 

「………オッさんってカミさまだけど、成り上がりなんだっけ?」

「それが如何した」

 

 蒼助は真顔で聞いた。

 

「……神格上がりする前、パンダかなんかだったのか?」

「あれほど頭を吹っ飛ばしても貴様の脳細胞はちっとも増えんのか!!」

 

 叱咤が飛んだが、拳は飛んでこなかった。

 一度オフになると、短気なように見えて割と我慢強い男であるという見解も、最近得たものだった。

 

「……落ち着いた空間を求めた結果、こうなった。閑静とした風景といえばこれだと思ったのだ……それに、中国の武道の探求者とはこういったところで精神の統一を

はかるというではないか」

「あんたこの現代が嫌いみたいだけど、十分現代にかぶれてるぜマジで」

 

 その知識の出所は香港映画あたりか。

 無断で金を遣ってDVDを借りてくるのは、黒蘭だけではないらしい。

 

「ま、まぁよいであろう。それより、先程の問いかけだがな……」

 

 上弦は面倒見の良い男だった。

 悪く言えば、苦労性。

 嫌っている相手の相談もこうして跳ね除けないあたり、きっとずっと奥に根付いているある種の反射的なものなのだろう。

 


 ………潜在的なオカンってところか。


 

 上弦という存在に対する追加事項候補を脳裏に控えさせつつ、蒼助は上弦の言葉に耳を傾ける。

 

「見に覚えはあるかと問いかけたのなら………ある。嘗ては、そう思って生きていた。それが当然のことと己が心に定めてな」

「……かつてってことは、今はどうなんだよ」

「………三途と朱里と……何かあったのか?」

 

 噛みあわない会話が発生した。

 逸らすつもりはない、とわかったので、とりあえず己の問いは置いておくことにした。

 

「……まぁ、それに関して……いろいろ」

「貴様にはわからぬだろうな。あれらのあの気持ちは」

―――――――っ」

 

 まただ。

 昨夜の不快の発言の出現に、蒼助は己の顔が不機嫌に強張るのを感じた。

 そんな蒼助の不快感を感じ取ったのか、

 

「そう悪くとるな。わからないことが悪いと言っているわけではない………わからなくていいのだ、あんなもの」

「んなこと言われたって………それで納得がいくもんでもねぇだろ」

「確かに。本人たちの満足や納得で済む問題でもあるまい………しかし、他者にいくら否定されたからといって曲げることも出来ぬのだよ。己の間違いは己が気づくまで

納得がいかぬものであるのだからな」

「………オッさんは、気づいたってことか?」

 

 かつてそうだった、と上弦は先程言った。

 ならば、少なくとも今は違うということだ。

 その転機が、己の間違いへ気づいたことだとすれば、話は繋がると蒼助は脳裏で考えを組んだ。

 

 沈黙。

 肯定とも否定ともいえないそれが三十秒ほど続いて、蒼助が焦れ始めた時、

 

―――――――今より遥か遠き日、私は人であった。そして、人として持っていた私の全てを……奪われた」

 

 それは、とても楽しい思い出を語り出すとは思えない、苦汁を吐き出すような声色の重さだった。

 眼差しは遠く、まるで独り言をただポツリポツリと漏らし始めるかのように。

 蒼助の存在など、無いかのように。

 

 上弦は語り始めた。

 

「小僧。貴様にはあるまいよ。全てを奪われることなど……。お前はあると言おうと、私は否定しよう。お前は知るまいよ。本当の意味で、何もかも奪われ、壊される

ことなど。己の価値観で己を語るな。他者から見れば、お前はまだ全てを失っていないのだ。全ては、な」

 

 見透かすような口ぶりだ。

 心ではなく、蒼助という存在を。

 否定しようにも、蒼助にはそれを成させる言葉が見つからない。

 

 本能は察し、理解する。

 目の前の男は、そうなのである、と。

 

 全てを失くしたことのある存在であると。

 

「生きていることに何の意味すら感じなくなるほど、私は絶望した。憎しみも悔恨も、あろうとなかろうと……どうでもいいと。生かされたことを惜しく思うほどに。

そんなあらゆる生に対する理由を失くし、在るべくして無き存在となった私を………と或るカミが見咎めた」

「………黒蘭?」

「否。あの方にも、縁ある御方ではあるがな。……私は、そのカミによって救われた。いらぬ命なら己が引き受けよう、と私に己の眷属とするための神格上げを行った」

 

 そして、私は不老不死のカミとなった。

 

 そこまで蒼助は聞き、浮かんだ言葉を疑問の形にし、

 

「……死にたかったのに、そんなことされてよかったのか?」

「死にたかった、か。…………違うな、小僧。私は死を望んでいたわけではない。……生も死も己の判断でどうにかしようという気も起きなかった。どうでもよかった

のだよ、全てが。絶望とは、流れに身を任せるのに躊躇をなくすことであるのだからな。……故に、誰かにそれを見咎められ、拾われるのは………絶望の淵にいる者には

この上ない救いなのだ。不要と呼ばれることにまだ残る心は、その否定を求める。それはもう己自身では出来ない。だからこそ、他人に求めるのだよ。他人に不要を否定

され、必要と認められることで、その絶望から救われるのだ」

 

 不要。

 それは蒼助にも見に覚えのあることだった。

 それは他人から主にぶつけられる否定だが、己の心でいくら拒もうと断固としてそれを否定し返す理由がない。

 かつて、周囲から不要と言われ続けた自身が、絶望せずに済んだのはどうしてであったのかを蒼助は考えた。

 その末、思い至ったのは母親だった。そして、続いて父親と屋敷の人間達。

 不要という否定に対し、否定で迎え撃った者達。

 自分ではどうにも出来ないことを出来た者達。

そこまで思考を進め、気づいた。

 

「ああ、なるほどな………他人にしか見えない部分は自分じゃ否定も肯定もできねぇもんな」

「そうだ。己が他人に見えていない部分を振りかざして否定し返そうと、それは他人には見えない上理解されない。かといって、他人に見える部分の否定を否定しようと

しても、己には見えないのだからできるはずもない。そういったこととなると己自身と他人は対等ではなくなるのだから不思議なものだ」

「……で、目には目、歯には歯って原理が通じるわけだな」

「そうだ。………貴様、ここにて急に脳細胞の分裂を起こすか」

「うるせぇな。……まぁ、何だ……結局、あんたらは他人に否定され自分ではどうにも言い返せなくて、途方にくれていたところを他人に言い返してもらって救われた

ってところか?」

「簡素にまとめればそういうことになる」

 

 上弦のその締めの言葉を区切りに、話は本筋に戻り、

 

「……カミへと昇華した私が、そのカミに心酔するのに時間はそうかからなかった。一度死んだ身は、彼の為に死ぬことを恐れず、当然の如くそれを望んだ。今度こそは

不要として切り捨てられるのではなく、必要として死を求められることを。それが本望であった。そして、何より恐れた。死を恐れるあまりに望まぬ死を主が迎え、

再び絶望に落とされることを」

 

 彼女らと同じだ。

 必要とされるなら喜んで死の中に身を投じる、といった彼女らと。

 だが、上弦は今は違うと言った。

 

 おそらくここからなのだろう、と蒼助は身構えた。

 彼がその破滅的な自己犠牲陶酔の考えから抜け出せた理由を聞き逃さないように。

 

「しかし、彼が与えたのは己に尽くすことを命じる命令ではなかった。彼が私に与えたのは……己の最も大切なものを守る役目だった。それが主の望みだというのなら、

私は断る理由などないとその役目に徹した。ならば、その役目を果たす為に命を惜しまなければいい事と………だが」

 

 それが、蒼助が待っていた転機だった。

 

「いつしか、私は死ぬのが惜しいと想いを心の何処かで芽生えさせていた。あれほど必要とされる死を望んでいたのにも拘らず、気が付けばそれを拒む想いを抱いていた

のだ。考えた。その理由を。………そして、気づいた。己が腕に抱えているものを見て。

 ―――――――それを、役割の為に死を投じることを惜しむほど大事に思うようになっていることに。死ぬ為に生きるのではなく、生きてそれの行き先を見守るために

生きたいと」

 

 大事な存在に捧げる意味ある死の為に生きるのではなく、大事な存在の傍で生きたいから生きる。

 それが、

 

「……今のあんたがそうだって?」

「………己を生かすことを前提で他人を生かすことを目的に戦う。それは酷く困難で、身の程知らずの願望だったかもしれぬ。だが、カミとなろうとも、心は願望を生む

のだということを認めてからは、迷いはなくなった。そうなれば、選ぶような他の望みなどないのだから、それを取ることに躊躇はなかった。幸い、よく考えてみれば

それほど難しいわけでもないことに気づいた。なにせ、私は不老不死となった身であった………生き残らず死ぬ方が難しいことに何故最初に気づかなかったのか」

 

 はは、と笑う顔は厳つさ満面だというのに、子供のように屈託のない無邪気さが存在していた。

 全てを投げ打つほどの絶望を味わった後でも、こんな風に笑うことができる。

 目の前の上弦の笑みはそれを証明していた。

 

「あの娘たちは、おそらく気づくところまでは来ている。だが、まだそれを認めることが出来ないのだろう。喪うかもしれないという、恐れに阻まれて」

 

 笑みを消し、気持ちがわかるとばかりに上弦は同情を滲ませた言葉を漏らす。

 眼は己がまだその地点にいた頃を思い出しているのか、遠くを見ていた。

 

「……わかんねぇな。ゴチャゴチャ小難しく悩んでないでヤリてぇことをヤりゃぁいいのによ………」

「わからぬ、か。まぁ、それも当然といえば当然なのかもしれん………おそらく、逆立ちしようとお前には一生理解の出来ない想いだろうな」

「はぁ? そこまで言うんなら根拠を……」

「根拠も何も貴様はそういう性質であろうが」

 

 馬鹿馬鹿しい、とでも言うかのように、溜息を付きながら、

 

 

―――――――貴様という男は、他人の為に死のうなど決して想わないだろう」

 

 

 まるで決め付けるかのような口ぶりだった。

 だが、その言葉に対し拒絶感はない。

 寧ろ、

 

「……そうかもな」

「そうなのだ。それが貴様だ」

 

 曖昧すらも許さない後押し。

 なるほど、と蒼助は納得を得る。

 

 この男もまた気づいているのか。

 朱里や三途が言った意味だけではなくもう一つの―――――――或いは、それこそ真の意味でその感情を理解不能と言い切る理由に。

 

 あの女しか気づいていないと思っていた部分に。

 

「ヒトの枠を外れて長き時を生きていると、人間の本質が視ているだけ見えてくるようになる。出会ってまもないところは同じでも私は彼女らと違い……貴様のそれが

見えた」

「……千夜は」

「見えていないだろう。あの方は己に好意を向ける人間には口では何と言おうと甘いところがある。それだけで相手のあらゆる部分に寛容になってしまう。だが、それで

いい。汚い部分を探り出すのは私や黒蘭さまが引き受けるのだから」

「まんま過保護の発言だな」

「なんとでも言え。甘やかしたくても甘えてもらえない私が出来ることといえば、この程度のことしかないのだ」

 

 嘆息のような吐息が上弦から漏れる。

 しかし、次の瞬間、キリッと表情が引き締まり、

 

「玖珂蒼助。……私は、貴様が嫌いだ。かつて私が受けた絶望の放ち手たる人間の本質を表すかのようなその身勝手で利己的な有り様…………正直虫唾が走ってたまらん」

 

 それは心底から言っていることが、蒼助には嫌というほどわかった。

 けれど言葉は、だが、と続き、

 

「……黒蘭さまは貴様を選んだ。それがどういう意味なのかも理解している。姫さまを救えるのは、私が嫌う人間の本質を宿した者である、と。だからこそ、貴様を選んだ

のである、と。私の望みは………皮肉にも憎い貴様が叶えるのであろうことも」



 すう、と息を吸う動作と共に上弦は地から腰を浮かせ、

 

「……だから、私は貴様を強くしよう。貴様を、私が居座りたかった役割にふさわしいだけの存在にする為に。私は私の望みの為に」

 

 千夜の為に、といわないあたりが蒼助の心に好感を沸かす。

 ここが三途や朱里との違いなのだろう。

 あの時感じた不快感を、今は感じなかった。

 

「………すっかり興が削がれたな。もういい、午前は………貴様の好きにするといい。私の鍛錬は午後から始めさせてもらう」

 

 上弦はそう言うなり、背を向けて蒼助の傍を離れた。

 歩みの先には、空間を出る意思と共に出現する空間の歪みがあった。

 本当に鍛錬は午後に移すつもりでいるらしい。

 願ってもないことだが、蒼助を遠くなりつつあるその背中に言いたいことがあった。

 問いという形を成す言葉を。

 

 

「なぁ、―――――――あんた、ロリコン?」

 

 

 出口まで二、三歩というところだった巨体は豪快にズッコケた。

 目撃し、ああこれは楽しいかもしれない、と思っていると、

 

「何を言うか貴様!! 雰囲気ぶち壊しではないかこの馬鹿者がっ!!」

「なにムキになってんだよ。……ひょっとしてマジなわけ?」

「いきなり幼女趣味呼ばわりされてスルー出来る輩が何処にいるか!!」

 

 心外だとばかりに声を荒げる上弦は、一度静まり、

 

「………貴様は、愛情そのものをその身に知ったことすら最近だったか。何だ、この既視感は。大昔にこんな質問を受けてこんなリアクションをやった気が……」

「どうでもいいよ。つか、実際のところはどーなんよ?」

 

 ニヤニヤと答えを待つ蒼助に、上弦は再び溜め息づいた。

 今日の中で一番深く、重く。

 

「…………よく聞け、この無知が。情が男女のそれのみと思うな。家族の情、或いは友人の情……細かく分ければ様々な形があるのだ。私の男としての情は、かつての

妻唯一人に捧げている」

「じゃぁ………」

「……………私は、ただ―――――――幸せになっていただきたいのだ」

 

 蒼助の次ぐ言葉よりも速く、先手として出された言葉。

 単純かつ捻りの無い台詞は、故に大きく歪み無く蒼助の耳に響いた。

 

「幸せ。それを得る権利と資格は、誰にも平等にある。たとえ如何なる罪を犯そうと、たとえどれだけ道を踏み外そうと………全てにその主張を認められることさえ望ま

ねば、如何なるものにもそれを手にすることを望む権利と資格はあるのだ。故に……故に私は思い、望む。……あの方に、幸せになっていただきたいと。出会った時より、

今も……この先も。それを阻むものがあるのなら、あの方が過去に行ってきたこと故にそれを否定するものがあるのなら………手段は考慮せぬ」

 

 長く連ねられるが、そこには偽りも誤魔化しもないことは蒼助にも理解できた。

 それが切望と呼ぶに相応しい想いであることも。

 

「小僧、一つ言っておこう。貴様には、私がかつて味わい………そして、朱里や三途が抱える想いを理解することは出来ない。だがな……そもそも、その必要が無いのだ。

理解などしなくていい。その醜悪な人間の本質たる有り様を保て。己の思うがままに生きろ。いいか、忘れるな。たとえ世界に否定されようと………貴様の在るがままを

肯定し、受け入れ………その胸で泣いた
(ひと)がいることを。―――――――忘れるな、玖珂蒼助」

 

 

 ―――――――在るがままに生きろ。

 

 

 蒼助の胸に打ち込むかのように言葉を放ち、上弦は再び背を向けた。

 今度こそ、振り向くことなく空間の歪みの中に消える。

 

 残された蒼助に、『忘れるな』という言いつけだけを置いて。

 

 

 

 

 

 

 


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