五十三分。ほぼ一時間。

 それが、千夜が着せ替え人形と化して過ごした総時間だった。

 

 着替えにここまで時間を注ぎ込んだのは、初めて買ってきたブラジャーを全種つけた時だけだろう。五種類。一つつけるのに、五分はかかった。

 

 そして、

 

「よっし、完成だわっ!」

 

 こんな状況下に千夜を置いて、一人あくせくと動いていた久留美の母―――――――久美子は一時間の経過まであと七分弱となったところでようやく満足げに作業終了

の声をあげた。

 千夜はホッと肩の力を抜いた。

 心底に。

 

「でーきた、出来た! さ、鏡見てみて」

 

 余程完成図が気に入ったのか、久美子は上機嫌で千夜を全身鏡の前に立たせる。

 正面向いてそこに立つことになった千夜はその完成と直面することになった。



 シンプルなデザインの黒のテラードジャケット。その下はコントラストをつくるような白いハイネック。

 そして、下半身には赤のチェック柄ボックスプリーツミニスカート。

 これといって派手というわけでもなく、地味というよりは落ち着いたという表現が当てはまるコーディネイトであった。

 

「終夜さんはこういうシンプルな感じでもちっとも地味にならないわね。素材が良いとどんな服も似合うからオバさん迷ったわぁ〜」

「あの、良いんですか……服なんてお借りしてしまって」

「いいのよぉ。せっかくの休日のお出かけに制服なんて勿体無いわよ。高校生ってものはね、平日は慎ましく学業に励んで、休日には溜め込んだものを一気に開放しちゃ

わないと。だからオシャレしなきゃ。普段とは違うってことを意識するために」

「はぁ……」

 

 なんとなく説得力を感じる内容だった。

 尚も続く演説を聴きながら、千夜はチラリと目を別の方向へ移した。

 辺りそこら中の床。その上には満遍なくとはいかなくてもポツポツと積もるように今まで着ては脱いでと放置されたそれまでの衣服がだらしなく落ちていた。

 そして、その服の数と己の疲労感を頭の中で並べてみた。

 着替えとはこんなに疲れるような作業だっただろうか、と。

 


 ………女というものは、これが普通なのか。


 

 その気が知れないな、と千夜はその心中を理解りかねた。

 疲れを伴ってまで着替えに手間をかけて、一体何の得があるというのだろうか。

 女。自分の中のそういった半分は彼女らと同じように思うことがあるのか。

 

 脳内で疑問を増やしていた千夜は、ふとある一点に視線を留めた。

 それは床の上に散らばる衣服の中にある―――――――1枚のワンピースだった。

 女性が着ることを一際アピールしている作りのそれに、千夜は何故か視線に釘を打たれてしまったように動かせなかった。

 

「……ん? 終夜さん?」

 

 千夜の意識がこちらから逸れていることに気づいたのか、久美子は千夜の顔を覗き込みその視線の行き先を追った。

 我に返った時には手遅れで、

 

「あらあら、やっぱりオンナノコはこういうポイのが好きなのかしら。言ってくれればいいのにー」

「いえ、そういうわけじゃ………その」

「んー? なになに?」

 

 追求を匂わす口調ではないが、言い逃れさせてくれる様子もない。

 あからさまに突っ撥ねることもできないから、こういう相手は苦手だった。

 仕方なく、千夜は穏やかな尋問に屈し、

 

「………男っていうのは………そういう方が、好きなんでしょうか」

「どゆイミ?」

「女は女らしく……ああいう服を着ていた方が、男は喜ぶんですかね」

「………………彼氏?」

 

 察しの良さは娘以上だった。

 

「か、れし……………まぁ、そうですよね。はい、そんな感じです」

 

 久留美に言われた時もそうだったが、それはまだ慣れることが出来ない響きだった。

 拒否反応ではない。

 ただ、しっくり来ないだけだ。

 急に女としての立場が強くなったからかもしれない。

 

 だからこそ、こんなことが気になるようになったのだ。

 女としての服装に。

 それに対する『あの男』の意識に。

 

「私はあまり服にこだわりとか執着がないもので………でも、こういう服は自分で着るとあまり好きじゃないので。……でも、今更な感じなんですが………最近気になる

んです。着ている服に対して、あいつに何と思われているのかどうかが」

 

 最近というのは嘘だが、あとは本当だ。

 他人にどういわれても気になることはなかった。

 服なんてこだわる理由もなければ、興味も無かった。

 身体が女に偏るようになってからも、それは変わらない。

 

 けれど、ふと今になって―――――――

 

「……彼氏さんは何て言ってるの?」

「え」

「あなたにどんな風にして欲しいって」

 

 どうしてほしい。

 あの男は何と言っていただろう。

 

 千夜が思考した瞬間に、過ったのは記憶からの反響によって響く言葉だった。

 

 

 ―――――――お前はお前らしくあればいい。

 

 

「私は私らしく……」

「彼はそういったの?」

「……はい」

 

 嬉しかったのだと、千夜は改めてその言葉に対して己がどう思ったのかを確認した。

 だが、反面ではそれでいいのだろうかと、腑に落ちずにも思っていた。

 気遣われただけで、本当のところでは蒼助の心は別の望みを抱いていたのではないか、と。

  

―――――――じゃぁ、それでいいんじゃないかしら」 

「は……?」

「だって、彼氏さんはそういってくれたんでしょ? 終夜さんは終夜さんのままがいいって。そういうこと言ってくれる人ってなかなかいないわよ? 人間って何処か

夢見がちなところとか理想みたいなものがあるから、他人にそれを押しつけずにはいられないものなの。よくあるでしょ? 付き合ってみたら思っていたよりも違って

いたとか言って拗れて別れちゃうって話。もちろん、彼氏さんにも実際の終夜さんとは違う終夜さん像があったと思うのよ。でも、それに食い違いがあると理解った上

でそう言ったのなら………そのとおりにすればいいんじゃないかしら」 

 

 床に散らかした服を拾い畳みながらの久美子の言葉を聞きながら、千夜は一昨日の夜の状景を浮かべ、どんな状況だったかを思い起こした。

 

 みっともなく泣いて、弱音を吐き散らした自分。

 蒼助の理想を崩したかもしれないあの一時。

 あの時、蒼助はどんな顔をしていただろう。

 失望していただろうか。

 思い描いていたものとは違ったであろう己の姿に、拒絶を示しただろうか。

 

 否。

 彼はただ、何処までも己の弱音を受け止めて抱きしめて。

 

 言ったのだ。

 お前はお前らしく、と。

 それを自分は望むのだと。

 

「………私は、それでいいんでしょうか」

「いいんじゃない? 誰だって、自然のままの方が素敵だと思うの。個性ってそういうものなんじゃないかしら」

「………」

「……まぁ、終夜さんにその気があるというのなら」

 

 久美子は千夜の伏すような沈黙に対し、何を思ったのか化粧台の前に立って、

 

「えっと……確かここに…………あ、あったあった」

 

 引き出しの中を探り終えると、何かを取り出す。

 

 すると、千夜を向いて、

 

「こっちおいで」

 

 その手招きに対し、怪訝な様子を湛え言われるがままに歩み寄ると、椅子の上に座らせられる。

 化粧台の鏡の前。

 向かう合うのは、鏡の中の己の上半身だ。

 その後ろで、腰を屈めた久美子も映り、

 

「じゃーん」

「……それは?」

 

 久美子は、先程はなかったものを手にしていた。

 それは髪留めだった。

 銀色のバレッタ。一枚の羽根を象ったそれには、小さなターコイズが三粒ばかり埋め込まれていた。

 両手で挟むように持ったそれが、引き出しから探り取ったものなのだろう。

 

「これはね、オバさんが若い頃に使っていたやつのよ。会社に入って初めてもらったお給料で買ったの。出来るだけ長持ちして、ちょっとお値段が張って、それでいて

少しオシャレな感じなのを選んで―――――――コレ」

 

 短くするようにしてからは使ってないけどね、と付け加えると、久美子は前を向いてほしいと言った。

 

「少しずっとしててね」

 

 言葉の後に、千夜は髪の合間に滑り込む指の感触を感じた。

 丁寧な、女性の手付き。

 

「昨日はポニーテールにしてたわね。いつもそうなの?」

「………邪魔にならないように」

「そう。じゃぁ、邪魔にならないことを考慮して、今日は少し変えてみましょ」

 

 顔を横に流れる髪を丁寧な手付きでスイスイと掻き上げては、後ろに持っていく。

 他人の髪を弄り慣れている。

 千夜にそう思わせるゆったりと着実に、作業が進む。

 

「……ひょっとして、久留美のあの三つ編みも……いつも久美子さんが?」

「んー、まあね。あのコぶきっちょだから。朝ギリギリに起きてきてご飯せかせか食べている間にやれっていうのよ。全く……言うだけなら簡単よねぇ?」

 

 ブツブツと紡がれる言葉そのものは文句だが、まんざらでもないのだと千夜は察する。

 距離の開いた娘との数少ない交流。

 こんな風に言うのは、甘えられる嬉しさを他人に話す際の照れ隠しであるが故なのか。

 

 不器用なのだな、と千夜は心中で思い、

 

「いいんですか。これは本当なら久留美に……」

「でしょうね。でも駄目よ」

 

 どうして、と問うと、

 

「だって、買って来た服も全部オシャレなんて興味ないってってつっぱねられちゃうし。今更、髪飾りなんて……ねぇ?」

 

 軽い口調。

 それでも千夜をハッとさせるには十分だった。

 自分が着ている服も、床の上の無数の服も。

 それらが本来は誰に贈られるはずだったものなのか。

 それが何故、久美子のクローゼットにしまわれていたのか。

 

 そして、このバレットも―――――――

 

「あの馬鹿娘も好きな人が出来れば、ちょっとは変わるかしらねぇ」

 

 独り言のような問いかけに、千夜は応えなかった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 着替えはようやく終わり、久留美がいるであろうリビングへ久美子と足を運ぶと、

 

「あーもう、わかったっ! わかったわよ………午前中だけだからね? ……それじゃぁ、今からそっち向かうから」

 

 当の待たせていた相手は、携帯を片手に何か話し込んでいた。

 それはちょうど良く、千夜と久美子の合流と共に切られ、

 

「あ、千夜。悪いんだけ、ど…………」

「ん? どうした?」

 

 振られかけた話は途切れた。

 出迎える体勢で向き直った久留美の顔は、何故か千夜の姿を確認するなり強張った。

 

「……その服……って」

「あ、これは……」

―――――――どう? 似合う? お母さん、センスあるでしょー」

 

 気まずい空気の中を、強引に混ぜ返すように久美子は間に入ってきた。

 千夜の両肩に手を置き、後ろから寄り添うように立つと、

 

「だ〜れも着てくれなかった服がこんなにフル活用。服も幸せよね、こんな風に着こなしてもらえて。……ねぇ〜?」

 

 明らかな含みのある言葉。

 どう取っても完全な挑発だった。

 間に挟まれた千夜は、気まずさを一層高めながら久留美を見た。

 

「………っ、そうね。似合ってるじゃん、千夜。良ければ、それあげるわよ? ……どっかのお節介なオバさんが、頼んでもないのに勝手に買って来ては着ろ着ろ

うるさく押し付けてくるだけだったし」

「オイ、くる……」

「ですって、終夜さん。久留美もああ言ってることだし、帰りはあの中から好きなの持って言ったら?」

「く、久美子さ……」

 

 気が付けば、二人の言い合いに挟まれていた。

 千夜は、己をネットとして球の打ち合いのようなやりとりを始めてしまった元凶たる久美子を振り向いた。

 その際に、その後頭部が久留美に向けて露になり、

 

―――――――っ、そのバレッタ……」

 

 千夜の髪留めを役を担うそれを見つけると、久留美の顔は険しさを増した。

 げ、と千夜が己の踏んだ地雷の威力に内心舌打つ傍で、

 

「ん? どーかした? 久留美も似合ってるわよ。あんたが買って来たそのボーダー柄のカットソーとデニムパンツ」

 

 そ知らぬ顔で微笑うのは、この状況を作り出した策士だった。

 久留美は母親のポーカーフェイスから忌々しそうに顔を歪めると、目を逸らし、

 

「……別にっ! 千夜、行く前にちょっとトイレ行って来る」

 

 憤慨を滲ませる足取りで千夜と久美子の横を通り過ぎて、出て行った。

 妙な緊張感はなくなったが、後味の悪さだけはしっかりとその場に残して。

 

「………久美子さん」

「あはは、ごめんねぇ」

 

 ジトリと半目で怨みごもった視線を向けると、久美子は両の掌を合わせて謝った。

 

「何で、あんなこと………」

「んー……そんなつもりはなかったのよ的な気持ちとは裏腹に口がつらつら〜っと……普段の溜まってたものを」

「…………鬱憤溜まりかねて、ですか」

「終夜さんったら、話がわかる〜」

 

 自分がわかったところでどうしようもなかろうに、と千夜は肩の力を抜くと共に溜息を吐き出した。

 その様子に、

 

「……怒った? あなたをダシに使ったこと……」

「別に怒ってはいません。ただ、少し呆れています」

「素直じゃない人間は子供の時も大人になっても変わらないってことじゃないかしらねぇ」

「……それでも、ダメですよ。ちゃんと言わないと」

 

 本当に言いたいことは、あんなことではなかっただろうに。

 そう無音でぼやきながら、千夜は久留美の表情を思い出す。

 自分の身につけるものを目にするのは、初めてではなかった様子だった。

 それもそうだ。

 元々、これらは娘である久留美に贈られたものだったのだから。

 

 ショックだったのだと思う。

 いらない、と突っ撥ねておきながらも、それをあっさりと自分以外の人間に着させてしまうとは思いもしなかったのではないだろうか。

 第三者視点でしか見えないものはあるのだと、千夜はここにきて実感した。

 当人たちには見えていないものは、千夜には見えていた。

 

 久美子が思っているよりも、久留美は離れていない。

 久留美が思っているよりも、久美子は蔑ろにしていない。

 寧ろ、互いが互いに相手を思い、求めてすらいる。

 

 それであるにも拘らず―――――――彼女らは平行線を行く。

 すれ違い、相手の思いに対し見当違いの認識を受信している。

 

 両者の状態を見えている者としては、それがなんとも歯がゆい。

 千夜はそこにかつての己の姿を見た。

 

 そして―――――――

 

「いつでも言えることです。―――――――だから、早く言わないと駄目ですよ」

 

 その気にさえなれば、いつでも口に出来る。

 そう思っていた頃が自分にもあった。

 いつか、いつか、とそうやって先延ばしにして、

 

「……でないと、いつでも言えなくなります。言えなくなって、後悔します―――――――私と母のように」

「終夜さん……」

 

 母親を出すと、久美子の表情に変化が表れた。

 そういえば、昨日の食卓で両親の喪失を話していた。

 嘘はついていない。少なくとも、『母親』のことに関しては。

 

「私も貴方がたと同じことを思っていました。そして、手遅れという結果を迎えて、今の私がいます。余計なお世話かもしれませんが、貴方たちはそうはならないで

ください。お互いがまだ、傍にいるうちは大丈夫です。だから、今のうちに出来るだけ早く言ってくださいね」

 

 かつての自分たちに似た親子を目の前にして、千夜は己の奥で根付く悔恨による痛みに苦笑という顰めを表情に出しながら、

 

「……まだ、間に合ううちに」

 

 

 願った。

 もう二度と叶わない、自分たちのようにはならないで欲しい、と。

 まだ手遅れではない親子にもう一つの親子に対して。

 













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