朝から食べる出来立ての煮物もオツなものかもしれない。


 肉じゃがの煮崩れかかったジャガイモを口にしながら、食卓にて久留美はそんな感想を抱いた。

 



「……でも、肉が少ない」

「しょうがないでしょ、この前の使い残しを片付けただけなんだから。イチイチうるさい子よね、本当にあんたは。ジャガイモをたくさん食べるための料理なんだから

これぐらいがちょうどいいのよ、肉じゃがってのいうのは。

 ―――――――そう思わない? 終夜さん」

 

 当事者たちにとっては、定例と化しているような気もしないわけではない難癖とそれに対する迎撃。

 そんなやり取りに引き込まれたのは、いつもはいるはずのない第三者。

 そんな千夜もまたパクパクと薄茶色に染まったイモがゴロゴロと無造作に転がる器から、箸で積まんでは口に放り込んでいた。

 品に関して気にする様子もない気の向くがままの動作を繰り返していた千夜は、最後に放り込んだそれを咀嚼した上で飲み下すと、

 

「そうですね。ジャガイモを安易にご飯のおかずにする為の料理という点では、私も同じ意見です」

「ほーら、ごらんなさい。頭に持ってきても所詮肉はオマケなのよ、オマケ! 作る側の苦労も知らない無知な小娘が口出ししようなんて十年早くてよっ!」

 

 肉じゃが一つに何をそんなに勝ち誇るのか。

 顎に手を添えて高笑う様はムカついたが、内容のくだらなさに気づいてしまうと反論するのも無駄な労働な気がしたので久留美は反抗を止めて食事を再開した。

 

 奇妙な構図だ、とその作業の合間に思う。

 母親と自分はというのは常だ。ちなみに大抵朝この場に父親と居合わせることはない。

 記者はネタという獲物に常に目を光らせなければならない。一家の団欒も犠牲にして。

 久留美はそれに不満を持ったことなければ、然程気にしたこともなかった。

 仕事に理解がある、というよりは、その必要はないと思っていたからだ。

 ちなみに、この頃は朝食をとる際に母親とまともに会話を交わしたこともなかった。

 

 単純に、話題がなかったからだ。

 正しくは、食卓の話題として持ち出せる話題が。

 

 久留美が普段していることは、人を貶める為の情報収集。

 或いは、その目的そのものを行為としている。

 それが真っ当なことなどと、どの口が言えるだろうか。

 

 けれど、母親はきっとそれを知っている。

 情報収集の際に度々会うあの口うるさいが良心のある叔父が、義姉である母親に告げ口をしないわけがない。

 だが、母親は久留美に何も言わない。

 咎めることも。

 責めることも。

 何も知らないように振舞って、久留美を野放しにする。

 いかなる時間帯に出かける際にも、一言添えるだけだ。

 

 朝も。

 休日も。

 夜遅くであっても。

 

 ただ一言―――――――『気をつけてね』、と。

 

 いつからこうなったかすら、今の今まで考えることはなかった。

 久留美にとって、この崩壊しかけた家庭環境は苦でも何でもなかっただからだろう。

 何より、そう追い込んだのは他ならぬ久留美本人だった。

 心は家庭を求めてはいなかった。

 この心が求めていたのは―――――

 

「久留美」

「ふぇ?」

「肘、当たるぞ」

「え―――――――

 

 思わず動かした。

 案の定当たった―――――――その傍にあった味噌汁に。

 

「きゃぁぁぁっ!」

「あー、何してんのこの子は……」

「おばさん、布巾は」

「そうね。ああ、大変。急がないと―――――――床が汚れるわ」

「そうですね。急がないと汚れてしまいます―――――――床が」

「既に引っかぶった私はぁぁぁぁ!?」

 

 まるで久留美など見えていないかのように後始末に取り掛かっていた二人は、くるりと揃って振り向き、

 

『自業自得』

「何でいつの間にそんなにシンクロ率高くなってるのよ!?」

 

 

 

 突っ込まずにはいられない理不尽さに噛み付く久留美は、まだ気づかない。

 

 この瞬間、己の心に絶えず存在していた日常への疎みが僅かの間でも立ち退いていることに。

 あれほど避けていた家庭の中に、自分が今いることに。

 こんなにも賑やかな朝は久し振りであることに。

 今日というこの日が生涯忘れざる記憶となることに。

 

 今は、まだ―――――――気づくはずがなかった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 久留美は今朝の夢を思った。

 あの所詮は夢である、と済ますには意味深すぎる夢を。

 

 夢を構成するパートは二つ。

 前半の一つは意味不明。

 後半は―――――――身に覚えがあるどころの話ではない。

 

 ………何で、今更思い出したんだろう。

 

 もう六年も前のことだ。

 六年前に、遭遇した出会い。

 

 偶然に偶然を重ねた―――――――『出遭い』だった。

 

 ………【思い出した】……は、違うかな。

 

 思い出す程度の思い出だったら、自分は今こんな風に生きてはいなかっただろう。

 思い出すわけがじゃない。

 

 

 ―――――――今までずっと、忘れたことなんてただ一度すらもなかったのだから。

 

 

 ………そうよ、だから。

 

 だからこそ今の己がある。

 日常を疎む己がある。

 非日常を求め、焦がれる己がある。

 全てはあの日々があったから、それらが存在する現在(いま)があるのだ。

 

「………【先生】」

 

 口から漏れたのは、教員相手に呼ぶのとは思い入れの度合いが違う呼称だ。

 本当に尊敬の念を込めて呼んでいた、ただ一人に対しての。

 

 魔法使い。

 あの日出会った非日常のそのもので、その欠片たる人。

 

 ………六年、か。

 

 改めて認識した年月は決して短くはない。

 同時に、それは未練を引きずり続けてきた時間を示す数であった。

 捨てきれず、抱えて―――――――追いかけ続けてきた。

 

 ………客観的に視ると……『転げ落ちてる』っていうのかな。

 

 あの日まで、自分は普通の子供だった。

 年の割には冷めていて、何にも興味を示すことなかったという点を除けば。

 今思えば、あの頃は毎日を退屈に思っていた。

 ただ過ぎていく日々。

 そこには感動も何もない。

 その中で周りが楽しそうに振舞う理由が理解できなかった。

 このまま何にも執着することもなく、年をとって大人になっていくのか、と子供らしからぬ諦めと達観を抱いていた。

 可愛くない子供だな、と己の事ながら思い、久留美は苦笑する。

 

 そんな子供が今は―――――――

 

 ………裏の世界踏み込んで、他人の裏の顔やらプライベート引っ掻き回して情報収集なんて趣味を持ってる嫌われ者。

 

 人間ってこうも変わるものなんだ、と比較してその落差に笑った。

 出会い一つに振り回されて、こんな風に人間は簡単に落ちて変われる。変わってしまう。

 

 あの日、約束を破られて置いていかれた子供は。

 泣いて恨んで悔やんで悲しんで―――――――諦めきれず、追うことにした。

 忘れることを拒んで、思い続けること選んだ。

 目の前からいなくなっても、対象がこの世界に存在していることは確かであることに気づいた。

 再び出会うには、この日常の中から抜け出さなければならないと理解した。

 

 だから、考えた。

 自分なりに日常からの脱出を思考した上で、手に取った手段。

 他人の秘密は最も手っ取り早く危険へと近づける方法だった。それは父親の仕事からわかることだった。

 そうして、六年。

 その間にいろいろなものが己の手に収まった。

 情報源。収集手段。人間の中身の薄っぺらさ。人間を破滅させる方法。その醜悪さ。他人からの疎遠。恨み。警戒。恐れ。

 

 そういった不必要なものを手に入れることで、大分日常との距離は開いた。

 けれど―――――――目指すものへは近づけなかった。

 それなりの危険と遭遇してきたと思う。

 それでも、出会えない。

 

 あの人に―――――――非日常に、まだ出会えない。

 

 夢の中で、何処にいるのと叫んだ。

 夢だけではない。きっと、現実でも常に叫んでいる。心の何処かで。

 あの日、何処かへ去ってしまったあの人に向けて。

 

 ………そういや、最近なんかはもうマンネリ感があったんだっけ。

 

 当初こそは、危険の中の非日常の実感にゾクゾクするような満ち足りるものを感じていたが、慣れというものは恐ろしい。

 重ねるごとに満足感は薄れていき、逆に満ち足りなさだけが募っていった。

 そして、海に来て浅瀬で遊んでいた子供が、飽きて奥へと歩を進めたくなるような欲求の増長。

 しかし、それとは裏腹に欲求が晴らされることもなさければ、満たされることもなかった。

 限界という壁にぶち当たった。

 いくら藻掻けど、それ以上深くへ潜ることはできなかった。

 

 そういえば、ちょうどそんな諦めと停滞に妥協しかけていた時期だった。

 彼女―――――――終夜千夜が目の前に現れたのは。

 

 それはまるで、あの時の再来のように。

 脳を揺さぶるような衝撃と、心臓を鷲掴みにされたような息詰まりを覚えたあの放課後の一瞬と共に。

 

 まもなくして遭遇した、念願の非日常。

 極限の死を前に覚えた恐怖の中に確かに存在していた満足感と興奮。

 そこには、かつて経験した優しさも夢も希望に何もなかったが、紛いもなく日常と分断された別世界だった。

 

 最後のチャンスだと思った。

 だから、与えた本人に奪われかけた時、必死で食らいついた。

 あれだけむきになったのも、かつてのトラウマがあってのことだった。

 もう、置いていかれたくない。

 

 ………今思い返すと、みっともないにも程があるけどね。

 

 無我夢中とは恐ろしい精神状態だ。

 我に返った後に募るやってしまった感はかなりクる。

 だが、そういった結果として今があるわけで、

 

 ………結果オーライっていうのかしら。

 

 今のところ、あれ以降は何のアクションもない。

 猟奇事件は既に人々の記憶からも、久留美の記憶からも過去となって薄情なことに薄れようとしている。

 例えそれが上辺だけだとしても、再び訪れた平和な日常。

 非日常には及ばないものの、騒動にあふれる日々。

 あの一件の後でわかった、千夜の他にも非日常の住人が溶け込んでいたという事実。

 

 喜ばしくないはずの日常は、非日常に及ばないものの久留美自身に充実した日々を与えていた。

 何故、とここで疑問を得る。

 しかし、ソレに対する解答は思いのほか早く出た。

 

 ………私、前より日常(ここ)が嫌いじゃなくなってる……?

 

 気づいたのはそれだけではなかった。

 最近は先日のあの一件の特例を除いて、他人のプライベートの情報収集をしていない。

 そもそもあの特例は何の為に動いたのだっただろうか。

 

 ………守る為。

 

 己の利益や保身の為ではなく、他人を守る為に。

 初めて―――――――日常を守る為に動いたのだ。

 いつの間にか、ただ一人がいることを当然として受け入れていた日常を。

 

 こてり、と久留美はテーブルの上に頭を置いた。

 首の向きは横。

 向く先は―――――――キッチンの傍らの出入り口から見える廊下。

 久留美は見えない場所にいる千夜を視た。

 着替えを持たずに来た彼女は今、母親の手によって出かける服のコーディネート中だ。

 久留美は既に自分でそれなりの服を選んで済ませており、今は待つだけの身となっていた。

 

 暇を持て余す久留美は、ただ思考の海を漂う。

 

 ………そういえば、何でだっただろ。

 

 まだ解明しきれていないにも拘らず、新たな疑問の浮上。

 それは、やはり己のした行為に対してだった。

 

 ………何で、千夜だったの?

 

 事実として確認した非日常を抱える人間は、何も彼女一人だけではなかった。

 もっと楽に付け入る人間はいたはずだ。

 例えば、都築七海などは最も安易に近づくことが出来るガードの緩いタイプだった。

 寧ろ出会って間もない面識も大してない相手を選ぶところに何の利点があったのだろうか。

 そうした疑念を経て、まずは理由探しが始まる。

 

 ………助けてくれたから?

 

 これに対し、出る答えは『否』だ。

 あれはその場の展開によるものである。

 はっきり言って拘るたびに久留美自身はロクな目にあっていない。

そもそも神崎に目をつけられたという点で、拘るのを止めるべきだった。

 情報の力が通じないほどの脅威を奮う暴力という例も一概に存在するのは、久留美も承知していたし、認めていた。

 いらぬ火の粉を被る前に、他の獲物を狙うべきだった。

 結果、少々とは言い難い火傷を負うこととなったが、

 

 ………それでも、私はこうして千夜にこだわってる。

 

 まだ彼女が非日常の人であると知る前だ。

 危険だとわかっていたはずのなのに、自分は二度目の接触を千夜に図ろうとした。

 

 ………二度目?

 

 違う、と違和感が修正を訴える。

 そうだ、とすぐに記憶がソレに応え、

 

「……そっか、三度目よね」

 

 出会った時を入れれば三度目だった。

 千夜が転入してきた朝。

 教室でクラスの人間の前で紹介される前に、久留美は千夜に会っていた。

 

 二年生最初に蔵間のびっくりしている顔でも見てとってやろうと、廊下で階段の死角に隠れていたのだ。

 意表をつく為に飛び出した時―――――――そこに千夜はいた。

 

 蔵間の隣で、彼に連れられていくところだった。

 飛び出した瞬間は彼女の存在に気を取られて、シャッターを押すのを忘れた。

 当初の目的をその瞬間は忘れてしまうほど、思わず見入った。

 

 この世にはこんなに綺麗なものがあるのか、と。

 

 顔立ちとか容姿という単純なものではなく。

 まっすぐに自分を捉える眼の奥の光が、とてもとても―――――――綺麗だったのだ。

 

 あの時、自分がどんな気分だったか。

 久留美は考え、曖昧さが抜けない答えを出した。

 

 ………トレジャーハンター。

 

 あるかどうかもわからない秘宝を探して、試行錯誤した上でようやく宝を見つけ出した。

 

「……なんだそりゃ」

 

 意味がわからない。

 もっとわかりやすい例えはないものか。

 

 また、考えた。

 

「………一目惚れ、とか……」

 

 今度の応えは、ポッと泡のように水面に浮かび、弾けた。

 パァン、と耐え切れないかのように。

 

「ってぇっ!? ちょっ……タンマ!!」

 

 ガバッとテーブルの上から頭部を起こし、久留美は何かを振り払うように頭を振った。

 ふとした思い付きは、冷静になって客観視するととんでもない内容だったのだ。

 

「ありえないっ……ていうか……ヤバイ、でしょソレは」

 

 だって相手は今となっては彼氏持ち。

 そもそも同姓。

 うっそ、そのケあったんかい自分。

 

 グルグルと久留美の脳内を混乱が渦巻く。

 軽い恐慌状態に陥った久留美は、気持ちを落ち着けるべく冷蔵庫の前に立ち、麦茶を引っ張り出した。

 コップに注いだ冷たい麦茶を一気に煽り、一息。

 

「……もう、駄目。考えすぎて、気持ち悪い」

 

 物思いに耽るのはどちらかといえば好きだが、限度を超えるとすぐにこうなってしまう。

 これから出かけるというのに、自分は何をしているのだろうか。

 こんなことを一人で悶々と考えて。

 脳みそが酸欠になるまで考えて。

 

 ―――――――千夜のことを、思っていた。

 

「…………ギブ」

 

 これ以上は本当にヤバいくらい、限界だった。

 閉じた冷蔵庫の扉に、額を押し当てて突っ伏す。

 思考活動の許容量の限界を超えた脳は、それでも一つの答えを最後に出した。

 

 

 

 ―――――――千夜が現れて、再び自分に変化が訪れている。

 

 

 

 以前のあの時とも違う変化。

 ひょっとしたら、それよりもずっと大きな変化。

 

 自分が跡形もなく変わってしまうような―――――――

 

 

―――――――ん?」

 

 

 そこで、久留美の思考を中断させる事象が起きた。

 携帯の着信メロディ。

 ズボンのポケットの中で軽快に世にも奇妙な物語のテーマ曲を流すそれを取り出す。

 

 誰だ、と確認するまでもなく咄嗟に出た久留美は、やはりその時点では気づいていなかった。

 

 

 ―――――――それが、今日の予定を大いに狂わす尖兵であることに。

 

 

 

 

 

 

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