夜。



 そう、確かに夜の中に自分はいるのだと、久留美は理解していた。




 

 だが、あたりは確かにそれを理解させる暗さがあるのに、何故か異様に明るい。

 そうさせる光が、夜空にあった。

 

―――――――月?」

 

 ふと見上げれば、そこには歪みのない円い満月。

 それは自分が住む世界の外にあるものでいつもはもっと遠くに感じるのに、何故か近く、そして大きく見えた。

 

「白い、月………」

 

 何故。

 あの月は、紅くないのか。

 

 己の『常識』から外れた、目の前に掲げられた白い月は、久留美に言葉には到底できない感動と神秘性を感じさせる。

 正直、いつも見るあの『紅い月』は見かけるたびに気味が悪いと思っていた。

 好きではなかった。

 まるで血の色のように思えるからというのもある。

 だが、それとは別にもう一つあった。自分でも説明できるほど明確な理由ではないが、何故かこっちが多くを占める気がしていた。

 

 それを見るたびに感じていた。

 いつも夜の空を我が物顔で掌握するあの月は、本物ではないのではないか、と。

 

「……綺麗」

 

 無意識のうちにそんな賛辞が言葉となって漏れた。

 白い。

 だが、それは不健康な青白さとは全くの別物である。

 

 何処までも研ぎ澄まされていて、いっそ銀色にすら見えた。

 言葉にするなら―――――――

 

「白銀(しろがね)……って、いうのかな」

 

 降り積もった雪に当てはめる言葉は、すんなりと嵌る気がした。己の心にも。

 久留美は、何故かこの月を知っているような気がしていた。

 目にするのは初めてだ。

 だが、知っている。

 正確には、この月を彷彿させる―――――――誰かを。

 

 しかしそこへ、思考が答えを導き出すよりも早くかかる声が、久留美の背中に当たった。

 

 

 

 

―――――――よぉ、久留美」

 

 

 

 

 聞き覚えのある声に、久留美が考えるよりも早く身体が動いた。

 振り向いた先には、

 

―――――――かず、や?」

 

 それまで何もなかったはずの背後には、いつのまにか―――――――鉄塔。

 周囲はそれ以外に何もない。

 その鉄塔に登る、ただ一人を除いては。

 

「月が満ちる夜だな。しかも今夜の月は……紅くない。


 ―――――――知ってるか? 月は昔はいつもこんな風に白かったんだ」

「え、そうなの……って、じゃなくてあんた!」

 

 あんまりにも自然な様子で話しかけてくるものだからあっさり流されそうになったが、そうはいかなかった。

 

「何してんのよ、そんなところで!」

「月見だよ。地上で見るよりもずっと、ここの眺めはいい。お前も来るか?」

「行けるか、馬鹿! 落ちたらどうすんのよ、早く降りて……」

「落ちないよ」

 

 だって、俺はずっと前からこの上にいるんだから。

 

 さも当然のように告げられた言葉に、久留美は硬直した。

 

「何言って……」

「久留美には………無理、だよなぁ。ごめんな、言ってみただけだから気にしないでくれ」

「……い、いいから降りてきなさいってば! そんなところまで登れたんだから、降りる事だって……」

「無理だよ」

 

 遮られた。

 何で、と切り返すことができない。

 告げられた『不可能』を模す言葉の意味を、誰よりも告げた本人がわかりきって口にしたように聞こえたからだ。

 

「できないんだよ、久留美」

 

 そう繰り返して、千夜は笑った。

 寂しそうに、困ったように。

 まるで木に登ったはいいが、いざ降りるとなったらそれが出来ないでいるかのようだった。

 

「何、言ってんのよ………出来るで、しょ………?」

「…………」

 

 今度は、無言が返答だった。

 それが久留美の心の波を大きく荒立てた。

 

「わ、わかった。行くわ、登ればいいんでしょ? 私もそっち行くから……ちょっと、待―――――――

―――――――ダメだ」

 

 鉄塔に近づこうと駆け出しかけた久留美は、その一言で行動を制された。

 怒鳴られたわけでもない。

 泣かれたわけでもない。

 響いた声に、これといった突出した感情は込もっていなかったはずなのに。

 

 久留美はそこから一歩も動けなくなった。

 

「さっきは軽率なことを言った。お前はここに上がってくることは出来ない。いや、上がってきてはダメだ。―――――――絶対に」

 

 絶対。

 その完全なる拒絶が、一度は停止した久留美の思考に火をつけた。

 

「ダメって……勝手に決めないでよ、私だって本気出せばそれくらい………」

―――――――上がったら、もう二度と降りれなくなるとしても?」

 

 釘を刺すような言葉。

 酷く落ち着きを払った口調と安定した音程の声。

 

 それが、ただの虚仮(こけ)(おど)ではないことを久留美に直感させた。

 

「自分の意思で降りることは二度と出来ない。地上に戻ることが出来るとすれば………あとは落ちるしかない。この足を踏み外して、な」

 

 それが、何を意味しているか。

 悟った時の背筋の寒さに、久留美は思わず咽(のど)を鳴らした。

「………じゃ、ぁ………あんた、は?」

「俺は大丈夫だよ。……とりあえず、当面は」

「とりあえずって………」

 

 言葉を濁す千夜に不安が一層煽られ、声が掠れる。

 だが、

 

「まぁ、大丈夫さ。今までやってきたことを、今までどおりにこれから先もやっていくだけ………それだけのことだ」

「………一人で?」

 

 無意識に出てきた言葉だった。

 しかし、千夜の表情が僅か一瞬ながらも、変化した。

 

 笑みが消え、無表情。閉ざされた唇はまるで耐えるかのように噛み締めている風に見えた。

 

 それが、久留美が僅かな隙の合間で見て捉えた光景だった。

 

 そして、返答はその一瞬の過ぎ去りと共に訪れた。

 

「ああ―――――――独りでいくよ」

 

 まるで塗り固められたような笑顔と共に。

 その下で、本当は泣いているのではないかと思わせる程、不自然なほどに完璧という矛盾を孕んだ満面の笑みだった。

 

 呆然とする久留美。

 それをこの場が待つことはなく、次の展開は待つことを知らぬが如く―――――――起こる。

 

「……えっ」

 

 急だった。

 目の前の鉄塔が消えた。

 そこにいたはずの千夜と共に。

 空から眩いほどに昼間のような光を与えていた月さえも。

 

 そして、世界は夜ではなくなった。



 次に現れたのも―――――――やはり『白銀』だった。

 



―――――――っ、雪!?」



 

 久留美はいつの間にか銀世界の中にいた。

 あたりには降り積もった雪。その上を止む気配もなく散らり散らりと雪が降り続ける。

 

 衝撃もまた、止まない。

 

 

―――――――久留美ちゃん』

 

 

 また新たな声が響く。

 それは、前の千夜とは比べ物にならない揺らぎを久留美に与えた。

 

 久留美の記憶を大きく揺さぶるほどの。

 

 

「っっ!?」

 

 息を呑んで、瞬きすら忘れるほどの停止。

 それは、久留美の理解の時間となった。

 

「……どう、して」

 

 疑問は止まない。

 理由は見えない。

 

 ただ、事実として声は再び久留美の名前を呼ぶ。

 それに対して、たまらず久留美もまた、

 

―――――――先生っ!!」

 

 声の主を呼び、辺りを見回す。

 しかし、声はすれど姿は見えずと言わんばかりに、周囲の光景の中に求める人の姿は全く見ることが出来ない。

 

「先生! 先生ぇっ!! どこ、どこにいるの!?」

 

 己を呼ぶ名だけが響き、求めに応える姿はおろか言葉すらない。

 まるでこことは別の世界から声をかけられているようだった。

 

「……別の、世界」

 

 心で感じたことを口にして、久留美は嫌な気分を覚えた。

 それは思い出したくない記憶。

 生きてきた中で、一番の幸福な記憶を汚す汚点。

 

 周囲の雪。その降る様。

 それは久留美にとって、かつて一つの出会いと別れを彩った―――――――最高にして最悪の演出だった。

 

「あ、ぁ……っ」

 

 それを思い出した久留美は、その光景から逃げるかのように目を閉ざし、

 

 

 

―――――――――――――――――――――っっっ!!!」

 

 

 

 何もかもを拒みたい衝動に襲われ、悲鳴をあげた。

 そして、名を呼ぶ声は叫びとなり―――――――銀世界を内側から壊していった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 身体の痙攣と共に、久留美の意識が跳ね上がった。

 

「……は、ぁっ!」

 

 堰込むように大きく息を吐き出し、目を見開いたまま暫しの間呼吸が続く。

 その間に状況の把握が行われる。

 

 ベッドの上。

 天井。

 窓から差し込む朝日。

 

 ―――――――自分の部屋。

 

 そこまで理解し、久留美は己がどんな状況であるのかを知った。

 そして、今までが何であったのかを。

 

「……夢……………って、ベタベタ過ぎるでしょーこの台詞」

 

 自分で思わず口にした台詞にお約束を感じて、脱力。

 己のボキャブラリーにはもう少し自信があったのだが、咄嗟ではそうはいかないということを思い知るのだった。

 

「………やだ、汗かいてる」

 

 ぺとり、とした前髪の張り付く感触が気持ち悪く、ぐしゃりと掻き上げた。

 今は何時だろう。

 疑問に突き動かされるままに、久留美は机の上の棚に常備設置している目覚まし時計を見た。

 

 時刻は、

 

「……八時、ってぇぇぇぇぇ!?」

 

 通常、久留美の起床時間は朝の七時。

 というのも、寝起きの悪さは最悪である上、その直後からしばらくの行動が最悪(久美子談)であるので、本格的な活動にエンジンがかかるまでに十五分は要る。

 結局、それからドタバタと忙しい動きが要求されることになるのだが、それ以上の早起きは久留美の限界を越えているので無理な話だった。

 夢のせいとはいえ、妙に寝起きがいいはずだ。

 いつもより一時間も長く寝こけてしまっていたのだから。

 

「……っちょっとお母さんたら、何で起こ、し…………て……………ぇ」

 

 目覚まし時計だけでは起きないことを重々承知している母親は、いつも時計のやかましい音を合図にして久留美を起こしに来る。

 今日に限って何で起こさなかった、という文句を胸に、責任転嫁もいいところの怒りをここにはいない一階にいるであろう母親の元へ行こう、と意気込んでベッドから

降りた。

 だが、その時―――――――気づく。

 

「………って、私って奴はぁぁぁ………もーっ!」

 

 状況を再認識し、再び脱力した。

 母親が起こしに来ない理由も―――――――自分の部屋の床の上に敷かれた布団がある理由も。

 

 今日は木曜。

 そして―――――――学園はその創立記念日により休みだった。

 

「最悪だわ………昨日の蒼助と同等だなんて……なんて、屈辱っっ」

 

 休日だというのに朝から何故自分はこんなにも一喜一憂しなければならないのか、と自問するが、行き着くのは自己嫌悪というわかりきっていた答えだった。

 今ので大分精神が疲れた久留美は、いっそここで昨日からの記憶を振り返ってこれ以上の自爆に防止をかけることにした。

 

「……えっと、昨日は………確か千夜がうちで泊まって……それで―――――――

 

 振り返ったことは正解だった。

 今の自分の足元にある布団が蛻の殻であることに気づくことが出来たのだから。

 

「あれ……千夜は?」

 

 膝をつき、手を置いた。

 布団から使用者の残した温もりは既に消えて、冷たい。大分前にここからいなくなったようだと久留美は推測した。

 

「まさか、学校に行った………わけないか」

 

 先に起きて下に下りた、と当然といえる考えに行き着く。

 だが、それとは久留美の中では捉えようのない不安が膨れ上がっていった。

 

 千夜は本当にこの下にいるのだろうか、と。

 疑問の直後、過ぎるのは今さっきまで見ていた夢だ。

 

―――――――独りでいくよ』

 

 夢であるにも関わらず、その光景は実際に見た現実を思い出すように、脳裏にて鮮明に再現された。

 その瞬間、膨張し続けていた不安は限界を超えて弾けとんだ。

 

―――――――っ!」

 

 暴走する不安に突き動かされるがままに、久留美は部屋を飛び出した。

 自分でも考えすぎだと自覚していた。

 だが、そんなものはこの抑制から逃れた胸の中で荒れ狂うモノを前にしては何にもならなかった。

 

 寝癖も格好にも一切気をやらず、久留美は階段を駆け下りようと、その一歩を踏む。

 

 が。

 

「っ、あ、き、やぁぁぁぁぁっ!!?」

 

 

 

 今日の己はとことん調子っぱずれしていることに対する自覚は、必要だった。

 踏み外した階段を落ちながら、手遅れながらもそれに気づく久留美であった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 割れた、としこたまぶつけた上に地上との着地部分であった己の臀部があげる悲鳴からそんな感想が出た。

 元から割れているだろうに、と一人ノリ突っ込みを内心で繰り出しながら、

 

「っつぁ〜っっっっ! こ、これが産む痛み……っ」

―――――――ちょっと違うだろう。そこは産む瞬間だけで、本気で痛いのは腹の方らしいぞ」

 

 訂正を為すその声の介入が、一人漫才に幕を下げた。

 痛みすらもその瞬間は忘れて、久留美は顔を上げ、

 

「……千夜」

「凄い音がしたぞ。自分の家で何をしているんだお前は」

 

 呆れ顔を貼り付けて見下ろして立っていた。

 服は母親が久留美のところ箪笥から勝手に抜き取って貸したのか、見覚えのある柄のTシャツとズボンと着衣していた。

 私服姿は初めてみるので、少し違和感があった。



 だが、千夜は目の前にいる。

 確かに―――――――いた。

 

「あんた………いたの?」

「随分な言い方だな。俺は借りられた身で、好き勝手は出来ないというのに」

 

 皮肉混じりの返し。

 そこに其処に込められた「何処にも行かない」という暗喩を感じ、今までの不安が嘘のように久留美の中から消えてなくなった。

 

「……って、一人で先に起きてたくせに」

「人様の家でいつまでもぐーたら寝てる方がどうかしてるだろ。一応、宿の主はお前の両親の方だからな。一晩の恩義を返す為に、何かするのは当然の礼儀というもの

ではないかな?」

「………かたっくるしいわね、この二面性。もうウチに親たらしこんだわけ?」

 

 思わず嫌味を返しながら、久留美は千夜を観察する目で視た。

 

 現実の千夜は、とても夢でみたあの姿とは結び付きようのない不遜さを湛えていた。

 だが、それが久留美の知る千夜なのだ。

 いつもの千夜。

 

 その存在の確認を終えても尚、何処か坐りの悪さが胸の内に残った。

 

「人聞きの悪い。視る目のあるお前の両親に失礼じゃないか」

「あんたよ、あんた! ………それより、何してたのよ」

「朝食の準備を手伝っていた。今は、ポストの新聞を取りに行ってきたところだ」

「…………また客を使いパシらせて、あのババァは」

 

 使えるものは何であろうと使う。

 そういう母親であることは、娘である久留美自身がわかっていた。

 

「まぁ、いいさ。手伝いの暁には、また煮物を煮てくれるというし」

「は!? 昨日私があんなに言っても作んなかったくせに……!」

「残ってたからだろ」

「いや、そうだけど……」

「よその家に予約も何もなくやってきて食卓に割り込んだんだ。別に普通だろ、それくらい」

 

 平然と述べるその様に、次に口にする言葉が見えなくなる。

 残り物を出された、と憤慨することも。

 使い走りさせられたことに不満を抱く様子もなく。

 

「……あんたって、妙に物分かりいいわよね」

「そうか?」

 

 そうよ、と強調は内心のみで響いた。

 大人びるには理由がある。

 そうなるに至るまでの経緯が。

 

 言葉にしなかったのは、認めたくなかったかもしれない。

 或いは、意識したくなかったのか。

 

 目の前の少女と自分の存在の違いを―――――――

 

「それより……大丈夫か?」

「……へいき」

「ほら」

「…………」

 

 目の前に差し出される、手。

 久留美はそれに暫しの間見入った。

 

「久留美、どうした」

「え……いや、何でもない。ありがと」

 

 動きを見せないことを怪訝に思った千夜の声によって、ようやく久留美はその手をとった。

 その手を握る己の手が、握り返される。

 

 ただそれだけのことに、久留美は途方もない安堵を感じた。

 

 ここに彼女がいる。

 ただそれだけの事実に。

 

 

 

 

 

 

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