凝視。
直視。
遠のいて。
近づいて。
更には、視一視もした。
けれども、いかなる形の『視る』を行おうと、
「視えねぇ……」
見つめる先の対象―――――――ガラスのコップ。
確かにそこにある。その存在を認識及び意識もしている。
『視る』為の条件は全て揃っているはずだった。
それだというのに―――――――己の目に写るはずの概念たる『炎』が見えない。
何故、と蒼助の脳内を疑問符が本能に促されて増産されていく。
処理しきれない大量のそれによって、思考はパンク寸前となった。
「………視えない……って、今言ってたやつが?」
「あ、ああ……」
応えながら、落ち着け、と軽度の錯乱寸前の己を静める。
疑問を放ったところで何の解決にも進展にもならない。
それよりも今は考えることが大事である、と蒼助は思い当たる節を記憶の中から探すことにした。
が、その前に一足先に答えを見つけたのは―――――――目の前の魔女だった。
「ひょっとして、体質が変わったのが原因なんじゃ」
「えっ」
「君の身体はここ最近に変異した。最後に見たのは、いつ?」
「………あの騒動のちょっと前で………一週間前くらいだと思う」
苦い記憶が蘇る。
顔に出そうになるが、蒼助は勘繰られない為になんとか押さえ込んだ。
「……で、騒動の後である今は視えないんだね?」
「ああ」
念を押すような確認に蒼助が頷くと、三途は一つの答えを明確として捉えた。
「……と、なると………これは"異常"ではなくて、寧ろ"正常"なんじゃないのかな」
「どういうことだよ?」
「特異的な方法で、君は混血種という……この世界でいう歪な存在になった。どうしてそうなったかわからないけど、それまで君の中の人外的部分たる存在意識を抑える
べく、身体の中の霊力は抑圧の作用に一貫していた。そして、君はこの前の騒動で晴れて本来なら正しいはずの【身体】になったわけで………霊力も体内の霊脈を巡るよ
うになった」
「……なにが言いたいんすか」
「いやね、君の魔眼はそれまでの霊力の抑圧作用によって生まれた副産物なんじゃないかと思うんだ、私は。魔眼そのものは凡例から逸脱した……基準から外れた存在だけ
に発生するものだ………言い方はおかしいかもしれないけど……君は歪に更に歪を重ねた状態だった。それが、歪に変わりはないけれど、その存在として本来あるべき状態
へとなったのだから………」
此処まで来て、ようやく話の本筋が蒼助にも見えてきた。
「……つまり、俺の中の霊力の働きが元に元に戻ったから………誤作動みたいなもんから発生していたアレがなくなったっていうことか?」
「そう。……私の推測では、そういうことになるんだけど」
「…………なくなった、のか」
なくなった。
あの異能がなくなった。
繰り返し頭の中で反響させても、自分の事ながら不思議なことに他人事のように思えて、蒼助は現実味を感じることが出来なかった。
今さっきまでその話題で盛り上がっていたところだというのに、突然そんな急な展開を迎えてもそれを受理しろというのは些か無理がある。
「……蒼助くん。今まで使ってきた異能がなくなった残念だけど………その方が良かったと思うんだ。持っていると、いろいろとこれから先もっと周囲に知られたら……
かなり厄介だったかもしれないよ」
「厄介………?」
「……昔に比べて、最近ではこの国も魔術師の出入りが容易くなった。魔術師という人種は、研究者でもある。彼らは、未知があると知ればその解明をせずにはいられず、
知識に対してはさっきも言ったとおり凄まじく貪欲な人間が大多数を占める。特に、日本は今まで他国を隔絶してきたこともあるせいか、未開の地である傾向が見て取れ
る。自他共に八百万の国と呼ばれるほど、幾多の神々の住まう土地だ……そんな情報に惹かれて己の研究対象を探索しに来る輩も少ないとは言い難い。……退魔師が魔術師
を嫌う理由の一つが、こういう遠慮なしで首を突っ込んでくる無粋なところなんだけど…………君のソレは、まさしく狙うには恰好の獲物だ」
「………目ぇつけられたら実験台にでもされるんすか?」
「最悪の場合はね。よくて眼球を奪われるだけで済むか………いずれにせよ、厄介な騒動や不幸を呼び込むもとになったのは確かだよ」
「こえー話っすね…………って、まさか思うけどあんたは」
「……あー、うん。さっきも言ったけど―――――――残念だね」
笑顔だ。
「…………」
「そんな飼い主に裏切られた犬みたいな目してちょっとずつ後退しなくても。冗談だってば……私はそんな研究に人生かける気もそんな意気込みもないよ。非常に興味深く
は思ったけどね」
安心させたいのか煽りたいのか微妙な弁解だと、蒼助は思いながら、
「まぁ、無くなったっていうなら別にそれで構わないんすけど。コンプレックスとも晴れてお別れして、念願のまともな霊力持てたし」
三途の言葉を訂正するなら、残念という部分だ。
気遣ってもらったところ悪いとは思うが、蒼助はその異能の喪失そのものを驚きはしたものの、残念だなんて思っていない。これっぽっちもだ。
視えないのが正しいのなら、それでいい。
成るべくして成ったというのなら、万々歳。
宿り主にすら無いものへの妥協たる代用品としてしか扱われなかった、哀れで恐ろしい己の異能。
さよならを挟むこともできなかった唐突な別れだったが、それもまた有りだと思う。
胸にひっかかる僅かなしこりは、そこに母親との思い出が詰まっていたからだろう。
だが、思い出は残った。
問題は無い。
「え、そうなの?」
「特別なものを持って嬉しがるのは、人それぞれでしょ。俺は、みんながごく当たり前みたいな顔して持ってる霊力(モノ)の方が羨ましくて欲しかったんで。自分が持って
なくて他人が持ってるもんが欲しくなるのは、大概みんな一緒っすよ」
無論、他人が羨ましがるものを自分は何とも思っていなくてその思いが理解出来ないことも然りだ。
自身が、三途の己の異能に対して宝物に目をキラキラ輝かせるような反応を見せたのが理解できなかったように、だ。
「ははっ、確かにそうかもね。………そう考えると、人間っていうのはどうしようもなく我侭な存在だよね」
「そっすね。人類みな平等なんて言葉、誰が考えたんだが」
「まぁ、人類なのは確かだよ。………で、そんな矛盾を孕んだ言葉を皮肉るってわけじゃないけど、一つ行為を平等にしようか」
「は?」
「君がこの店に来て探りに来た時と一緒だよ。せっかく練習してたところをジャマしたわけだし………何か聞きたいことがあったら遠慮なくどーぞ」
時間を無駄に消費させた侘びの代わりのつもりらしい、と蒼助は言葉に対してそう察した。
店において時刻を提示する壁にかかった頭上の時計見た。
随分長いこと話していたのか、時間は最後に時計を見たのを境から結界構成にかけた一時間を省いても三十分も経過していた。
現時刻は夜中の二時。
ゆるゆると来ている睡魔も相まって、もはやもう一度結界に手がけるほどの精神力は残っていない。
ここで会話を打ち切って寝る、という選択肢もあった。
だが、
「いいんすか? ちなみにいくつまで」
「上限五回までは可。回数の指定は夜も遅いのでお互いの為にと考えて、大体こんなこれくらいかな、と」
「……りょーかい。つか、いいんすか? 言われたからにはプライバシーとか関係なしで遠慮なくいくぜ?」
「覚悟してますとも」
笑顔で承知と来た。
ならいいか、と蒼助は一方の選択肢を切り捨てる。
聞きたいことならある。それこそ、腐るほど。
知り合って間もないこの人物は、実は千夜に引けを取らぬほど謎が多い。
自分も随分変わった、とふと我に返り蒼助は思った。
他人には関わらず、関わらせないことを信条としていた人間が今は他人を知ろうとしている。
人はそうは簡単に変われず、変わるものではないと思っていたが、今の己を客観的に本の少し前の己と見比べてみてそれも覆さずにはいられない。
変化に関わるのは一人の少女だった。
そして、目の前の女のことに立ち入ろうとするのも、少女が間違いなく関わっているから。
他人に対して貪欲になったわけではない。
他人を通した先に少女が見えるのなら、という条件付きの好奇心。
呆れるくらいの視野の狭さに、思わず笑いたくなる。
たかが一人の女にここまで今までの自分を崩して堕とせるものか、と。
それに何の抵抗も嫌悪も感じないというのだから、もうおしまいだ。
「……さ、何が聞きたい?」
気になることは多い。
それを向こうから良いというのだから、これは逃がすには大きい魚だ。
断る理由など、毛頭ない。
「………俺たちが泊まってるあの部屋って、前は千夜のもんだったのか?」
「ん。そうだよ。最初の頃の……三ヶ月くらいはウチで暮らしてた」
「わりと短いな」
「いやぁ、こんなお金ケチって魔術で八割を改造構築した建物だからさぁ……慣れればなんてことないんだけど、千夜は使いにくいことこの上ないと気に入らなかったみた
いで。三ヶ月目にもう我慢ならーん!って、自分はここ出て一人で暮らせるどっか適当なアパートでも見つけるっていうし、朱里ちゃんは置いてっちゃやだーって泣くし、
住所は教えないっていうし………それならせめて私が買ったマンションにって話が収まったわけさ」
「あー……」
わかる気はした。
ここにずっと住めと言われたらさすがに自分だって嫌だ、と当時の千夜の気持ちにシンクロしたくなる蒼助だった。
それぐらい慣れなければ悪環境な建物なのだ。
「こんなので一つ……でいいの?」
「いいよ」
貴重な質問有効タイムに使うにはやや粗末な代物で勿体無いかもしれない。
だが、これでいい。
最初の一発目は―――――――次の本命の衝撃を緩和する為のものなのだから。
「じゃ、次の二つ目」
「うん、どうぞ」
何が来るかも知らないで、三途は微笑で第二弾を迎えようとしている。
少し悪い気もしたが、自分で言ったのだから責任はとってもらおう、と蒼助は胸に秘めた『本命』を口にする。
「じゃぁ、質問その二。―――――――あんたの負い目って何さ」
この際だ。
ずっと気になっていたことを聞かせてもらうことにしよう、と。
◆◆◆◆◆◆
想像以上だった。
明かされた真相も。
そこに込められた―――――――考えと想いも。
「馬鹿げてやがるっ……!」
胸溜まった鬱憤を吐きながら、荒々しくドアを開ける。
夜中だろうが、知ったことではなかった。
だが、その騒音は先に眠っていたベッドの住人を起こした。
「そうすけ……?」
「……悪い、起こしたか」
「…………へーき、途中から起きてたから」
「そうか。……じゃぁ、もう一回寝とけ。俺は明日休みだが、お前は学校だろ」
ベッドまで歩み寄り、出来るだけ横なっている朱里に衝撃を与えないようにゆっくりと腰かけた。
ポンポン、とツーテールを解いて広がる純白の髪の集い先である頭部を撫でてやる。
目を細めた朱里は、
「……あのこと、サンちゃんから聞いたんでしょ?」
「っ!」
どうしてそのことを、と蒼助は思わず身を捻って横たわる朱里を見た。
合わさった視線の先を辿った紅い眼は、半分閉じていたが、それでもまっすぐとぶれることなく蒼助を見つめていた。
ここは三途の魔術によって織り上げられた擬似空間の中。そこと一枚の壁で隔てられた外の店の方での会話は、どれだけ向こうで怒鳴りたてようと聞き取れることはおろ
か騒ぎすら感じることできないはずだ。
疑問を視線から感じたのか、朱里は言葉にされる前に答えを与えた。
「ゴメン。見てた………覗くつもりはなかったんだけど」
それが言葉どおりの意味であると、この時点では蒼助はそう受け取って処理した。
それよりも意識が向いたのは、
「……お前、知ってんのか? 下崎さんが………」
「うん。サンちゃんから直接聞いたわけじゃないけど―――――――知ってるよ」
それは冷静で、とても静かな告白だった。
内容に対してあまりにも似つかわしくない落ち着きを含んだ、それ。
付け足すように補足が続く。
「……私が見えるのは、【映像】だけだから……どんな経緯であんなことになったのかはわからないけど。………多分、本当のことだよ」
「何言ってんだ……?」
「……ごめん、説明……明日かまた今度で、いい……? ……眠い」
酷い省きようだ。
だが、ここで文句を言ってもその間に寝てしまう気がした。
それでは困るので、蒼助は先に他に聞いておきたいことを優先することにした。
「千夜は、知ってんのか?」
「……知らないよ」
「お前………何とも思ってないのか?」
「…………」
赤い眼は伏せられた。
それが答えとなるには、やや役不足であった。
しかし、明確な答えはちゃんとした言葉で返される。
「……驚いた。あと、納得はできた」
「納得?」
「サンちゃんが、姉さんにあれだけ尽くす理由。蒼助だって、そうでしょ?」
答えは「是」だ。
だが、ここにおける問題はそうではない。
「そういう意味じゃねぇ。……お前、これはお前らにとっちゃ……」
「恨みとか? ………そーゆーのを抱くのに、必要なものが朱里にはないから」
「必要なもの?」
「恨みを抱くには、奪われた物に対する執着や思い入れがいるよ。……朱里は、姉さんに迎えに来てもらうまでに、いろいろ忘れちゃってるから」
「―――――――お前、まさか」
まさか、と嫌な予感を感じた。
しかし、朱里の返事は、
「違うよ。物心つく頃には、朱里の傍にはもうお父さんはいなかったの。お母さんや姉さんのこととは違って、元から無いっていう意味」
「そうなのか?」
「言っとくけど、朱里はちゃんと覚えてるからね。いろいろ忘れてたのは、姉さんに会うまでの話。それからだんだん思い出して来たもん」
「………あ、そ」
素っ気なく答える一方で内心では安心していた。
さすがに姉妹揃ってときたら、どう対処すればいいのやらと危惧していたのだ。
「蒼助だったらどーする? 全く覚えてない親と……仮にそれを殺した姉さんがいるとするよ。蒼助は、どっちをとる? 恨んで仇を取る? それとも、割り切って姉さん
をとる?」
「…………ああ、そうか」
数秒経て、蒼助は理解した。
それは問いという形をとった返事であった。
「恨むには良くして貰い過ぎたし、一緒にいる時間も楽しかった思い出も………ありすぎる、から」
「別にそれが悪いわけじゃねぇから、申し訳なさそうな顔していうことねぇだろ。………ただ、そうじゃなくてよ……あの人のあの考えは」
「ソレに関しては、朱里は何も言えない」
「何でだよ」
「同じ事を、思ってるから」
「―――――――っ!」
一度はおさまった憤りが蒼助の中で再燃する。
それを感じ取ったのか、
「何で、怒るの? 蒼助には関係ないのに………サンちゃんにもそれで怒ってたみたいだけど」
蒼助の様子に対して不可解と返す朱里。
しかし、それすら蒼助の怒りを煽る油となった。
「……何で、じゃねぇだろ……お前らの考えが気に喰わないからに決まってる」
「そんなの知らないよ。……朱里達の勝手じゃん」
「おまっ……」
「蒼助にはわからないよ。きっと、わからない………手を差し伸べられる側のことなんて」
否定を良しとしない拒絶の言葉が、朱里の小さな口の動きから紡がれた。
同時に、それは問いかけの始まりを担っていた。
「何もないってどんな感じだと思う? 生きる理由。生かされる理由。そこにいる理由。そこに置かされる理由。それは全部周りの都合で、自分の意思じゃない。
そんなものはなくて、必要ともされていない。朱里たちは………"私"たちは、そんな風に生きてきた。そんな風にしか生きていくことが出来なかった。もういない、
【あの人たち】も……そうだった」
そこから―――――――朱里という少女がまとう空気が一変した。
乱れた髪が被さった顔が、彼女を別人のように見せる。
眠そうに閉じかけている眼は、そこから全てを冷めたように見ていることを教える。
仮面、と思わず内心で零した言葉に、蒼助は既視感,を覚えた。
そんな言葉が浮かんだ相手が―――――――目の前の少女の姉であることを思い出す。
こんなところに肉親を思わせる共通点を見つけることになるとは、と『繋がり』というものに対しての見方を蒼助は若干変えなければならないと知った。
そして、目の前の存在はそんな蒼助の思考など気にもかけず口を開く。
そこには先程までの―――――――今まで蒼助が見て知った『子供』はいない。
ただ一人。
小さくも、紛うことなき『澱の住人』が、少女がいた位置に入れ替わり横たわっていた。
「蒼助は、もう知ってるよね。あそこで眠っている人たちのこと」
「……昨日、会わせてもらった」
「………あの人たちもね、私たちと同じことを望んでいたんだよ。……誰かの為に生きていられるのは、すごく気持ちのいい事であると思っていて、それが出来ることを望
んでいた。それは逆でも同じことが通ることなんだよ」
「逆………って、それは」
「サンちゃんが言ってたでしょ。―――――――誰かの為に、死にたい。あの人たちは結果としては実現させてしまったけど、それを心底願っていたわけじゃない……。
でも、私とサンちゃんはそう思ってる。心の底から、それこそ……死ぬほどそれを願っている」
馬鹿じゃないのか、と怒鳴りつけてやりたい衝動を理性で抑える。
話はまだ続く。
そうするのは、それからだ、と腹の中で荒れ狂うモノに言い宥めすかしていると、
「私たちは、一度全てを失って―――――――何もなくなった自分という存在に【無価値】の烙印を捺された。……わかる? 本当にも何もないんだよ。自分を大事にする
気持ちも。その必要さえも。自分自身にすら見捨てられた存在………本当に、ただ生きているだけの死人とそう変わらない存在なんだよ。それに当てはまるのが……私。
そして、下崎三途………彼女もまた、私とは多少の違いはあれど同じ途を辿った………だからこそ、あんな言葉が本心から本気で言える」
紅い瞳に深い空虚を宿していた澱たる存在としての朱里に、不意に光が戻る。
語る内容にも、『光』が現れる。
「……姉さんは、そんな私に手を差し伸べてくれた。使うから持ち出しに来たわけでもなく、来いと引っ張って連れて行くわけでもなく………ただ、私の意思で取らせる為
に待つ手だった。誰もが切り捨てろと言い捨てた無価値の『朱里』という存在を、必要としてくれた。人形には余計だって、捨てさせられた名前を……要ると呼んでくれた
のも。人形には邪魔だって叩き割られた感情を要ると思い出せてくれたのも。そういった全部切り落としてきたものをまとった、必要らないものだらけの必要らない私を必
要としてくれたのは……姉さんただ一人だった」
つらつらと詩を綴るように連ねられ、紡がれていく言葉を聞いていた蒼助の鼓膜では、少し前に聞いた三途の声とその台詞が同時に流れていた。
『罰を与えてくれればよかった。裁きでもよかった。咎め。非難。叱責。……何でも良かった、私の罪に対して何か与えてくれるのなら。けれど、私はそれすらも全て奪わ
れた。それまで生きてきた理由。その果ての目的。それらを失って、代わりに背負わされた新たな生きる意味さえも………何もかも伐採されたあとには、意味も理由も目的
もない…………ただ生きているだけの屍になった空っぽな私だった。そんな私に、一度失くした全てをもう再び取り戻させてくれたのは……千夜だった』
積年の想いを語り紡ぐように言っていた三途。
それまでを語っていた目は明らかに虚ろだったのに、千夜が出てくると一気に光を取り戻していた。
光。
そういうことなのだろう、と蒼助は納得づいた。
千夜は彼女の紛うことなき『光』そのものであるということ。
暗闇の中の一条の光、などと表現が出来上がるような完全に一方的な依存関係が彼女たちと千夜の間に出来上がっている。
そう思っているのも無論”一方的”なのだろうが、と蒼助が内心にて結論に付け足しを加えていると、
「朱里という存在は姉さんなしでは成り立たない。だって、姉さんがそう言ってくれたから朱里には価値があるのだから。必要としてくれた姉さんがいなければ、朱里を
誰が必要としてくれるの? ………姉さんがいなくなったら、私は、朱里は……また無価値に戻る。誰にも必要とされなくなる。意味もなく……理由もなく、ただ一緒に
居ようと言って必要としてくれることもなくなって………そんな、の、嫌、いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ
嫌いやイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイイヤイヤイヤ、いやああああああああァァァァァァァ―――――――っっ!!!!」
理性の光が恐怖に呑み込まれるのを蒼助が見届けた次の瞬間に、朱里は狂わんばかりの拒絶の悲鳴と上げた。
無価値への出戻りへの恐怖と嫌悪。
それは朱里自身にとって、三途にとって己のうちの中の忌むべき部分なのだろう。
「っ、落ち着けっ」
「っぁ、はぁ……はぁ、はぁ、はぁ……」
頭を両手で掻くように抱えて、顔をベッドに押し付けて暴れる朱里を抱き込んだ蒼助は、荒れ狂っているであろう朱里の内側を鎮めるように、背中を上下に手を動かし
ながら摩る。
暫くもがくように腕の中で暴れていたものの、徐々に治まって行く。
不安定に陥る様は、普段の朱里という存在から想像もつかない。
否。これこそが、本来の彼女の姿なのかもしれない。平常を保たせる人物の不在が続いているせいでもあるだろう。
まるでドラッグ中毒者だな、と腕の中の存在の疲弊ぶりにそんな感想を抱く。
これは本当に、千夜がいないと生きれないという有様だった。
「……何で、ダメなの?」
まだ完全には整わない荒い息の中で、朱里は理解らないと呟く。
「どうして、そう思っちゃいけないの……? 私は姉さんがいなきゃ、生きていけないのに…………私がいなくても、姉さんは生きていけるのに……。他に、何も我が侭は
言わない。……ただ、これだけは望みたい………生も死も……僅か一瞬で定まってしまう、こんな世界で生きているんだから……せめて意味のある死をしたい………誰かの
為に死にたい……その相手が、自分の一番大切な人なら………本望なのに」
うわ言のように、己の願望を垂れ流す。
そんな朱里に、思わず言葉が漏れた。
「………わかってねぇな、お前」
「……わかってないのは……蒼助でしょ」
その反論を最後に、会話が途切れ沈黙が生まれる。
それがどれほど続いてか、腕の中の朱里から力というものを感じなくなったことを感じて、様子を覗いてみる。
精神的に疲弊したのか、眠っていた。
「……ったく、結局人の言う事聞きやしねぇかよ」
さっきまで発狂したように拒絶と拒否を繰り返していた口は、今は静かに寝息をたてている。
そこには澱の住人としても面影も先程の狂乱ぶりも、すっかり鳴りを潜めて見る影も無くなって―――――――ただの子供のような幼い寝顔だけが残された。
「こうして眠っておとなしくしてりゃ、それなりに可愛げがあるってのに……」
くたりと力のなくなった身体を放し、そのまま横になろうともせず。蒼助はベッドの上で胡座をかいた。
―――――――蒼助にはわからないよ。
『この気持ちは、蒼助くんにはわからないだろうね』
お前にはわからない、と彼女達は二人して同じ事を口にした。
彼女らは己の存在に『無価値』の烙印を押された者。
そして、一人の少女の差し伸べた手に失ったはずの『価値』を与えられたという。
誰かの為に、死ぬことを望む。
己の身を捧ぐという、人身御供じみた行為を。
「………わからねぇよ」
わからないと突き放した、今は眠る少女に同じ言葉を降らす。
わからないのは自分も同じだ、と。
その不可解の向かう先は彼女達の抱える想いではない。
その矛先は、
「わかってねぇくせに、そんな風に言いきれるお前らが……わからねぇよ」
価値を見出した当の相手が、その存在を失っても平気だと思っているその心が。
ただ自分たちだけが一方的に想っているだけだという考えが。
「俺よりずっと長くあいつといるくせに………何で、わからねぇんだ」
まさかこんな時に答えがわかるとは思わなかった疑問が、蒼助の中にあった。
それは二つ。
千夜が朱里を一人立ちさせようとしている事への理由に対して。
千夜が三途のところを出ようと一人暮らしを希望した理由に対して。
今、見えた。
千夜の行動の奥にある、その真意が。
「だから、なのか……千夜」
ここにはいない女に、蒼助は同意を求めた。
だから。
だから、彼女は―――――――
「これも、ひでぇ話だな」
どれだけ大事に思おうと、いっそ哀しいまでに届いていない。
届く先を遮る隔ては、皮肉にも送り先にある相手を思う想いだ。
愛が、愛によって拒まれている。
確かに思い合っているのに、通じていない。
何て―――――――矛盾だろうか。
故に、千夜は二人から離れようとしたのだろう。
自分が拾った命は、与えた全てを己に対して削り、消費しようとしている事に気付いたから。
一緒にいては、いずれ彼女らは一つの道を下る。
千夜が最も忌避する、最悪の結末へ続く一本道に。
「こんなことって、本当にあるんだな……」
相手の幸せを願って、相手を置いていくという展開をテレビや漫画で見ては、馬鹿か、と理解できないでいたかつてが今となっては懐かしく思える蒼助だった。
今はわかる気がした。
「そりゃ、やってられねぇわ………本当に」
昨夜の千夜の叫びが、一日過ぎたにも拘らず記憶の向こうから今も尚はっきりと蒼助には聞こえた。
或いは、より鮮明に。
それは知ってしまった、あの時の彼女の胸の奥の悲痛な想いが加わったからかもしれなかった。