千夜が己の思慮不足を胸に眠れない夜と戦っていた頃。
同じく渋谷の一角の別の場所で、やはり日付変更線を引かれた時刻を越えたにも深夜にも関わらず―――――――眠りに落ちれない者が一人いた。
「…………」
神経の統一。
視力も聴力も精神力も全てを一点に向ける。
かれこれ一時間をこの作業一つに告ぎこみ、指先一本すら動かせない状況が続いていた。
身体を動かさないとはいえ、疲労がないわけではない。
休めない体、磨り減る精神。
限界は目の前に来ていたが、目標はまだ遠い。
少しでも気を抜くと『コレ』は呆気なく形を崩すことになる。
瞬きもろくに出来ないまま、それでも作業に集中しようと持続に心がけていたが、
「―――――――蒼助くん?」
横から不意を打つ声に、僅かに意識をとられた。
その一瞬が作業の中断の決め手となった。
「っ……あっ!」
哀しいまで予想通りの崩壊が成った。
一時間の維持の努力は蒼助の目の前で砂城のように崩れ去る。
しばし、呆然の体のまま固まった。
「……あ、ゴメン。こんな時間まで練習してるとは思わなかったから」
「いや、いいっす………どうせそろそろ限界だったから」
と、口では言いつつも、ショックは目で確認できるほど姿勢に現れていた。
その原因となった三途はそれを汲んでか、
「………休憩しなよ。まだ起きてるつもりなら、コーヒーでも入れようか?」
「……平気。水でいいっすよ」
邪魔されたこともあって、三途の気遣いに対し蒼助はやや険のある声で対応した。
三途はそれに気を悪くした様子もなく、応えてキッチンに向かって水道の蛇口を捻った。
渇きを自覚した蒼助の喉は、唾液を飲み下すのすら滞る有様であった。
「はい」
「……どうも」
水の溜められたコップを受け取り、次に一気に喉に通した。
潤滑の良くなった喉の具合に一息つき、コップを目前のテーブルに置いた。
そこに二秒程の間隔を置いた後に、
「結界、上手くつくれるようになった?」
「……一応、このテーブルを包める程度までには。でも、どうやっても動くのを止めて全部の意識こっちに向けてねぇと、すぐに解けちまう」
チッと舌打ち、肩を落とす蒼助。
「でも、一度も結界を展開させたこともないところから四日目でここまで出来るようになるのは結構な上達の早さだよ。まぁ、その年になるまで結界のつくり方を知らなかったってところにも驚いたけど」
「へっ。クソミソな霊力しかない奴にそんなもん教えてもしょうがないって思われてたもんでね」
「コラコラ、捻くれた言い方しないの」
嫌なところに触れられて完全にヘソを曲げた蒼助を、三途は宥めながら、
「それでも、君に指導をしてくれた人は君を良く見て良い判断を下したと思うよ。元々、君は術士型ではないようだし、かなり戦士としての才能が突出している。話を聞く限り、それに合わせて幼少時代は基礎体力と身体作りに徹底したのも、それを見抜いていたのことだったんだと思うよ」
「………そういや、そんなこと言ってたかも」
蒼助は思い返した。
指導者たる母親が生きていた頃の体力づくりの毎日を。
後になって、半ば疑っていた母親の言葉の真実味を痛感したことも。
「つまり俺は、どうしようもないくらい肉弾戦特化タイプってことか」
「そんながっかりしなくても。伸ばそうと思えば何処までも伸びることができるという点を考えれば、ある程度両立しているよりもイイことだよ。それにこっちの分は、上弦さんとの鍛錬で十分すぎるくらい取り戻せてるっていう話じゃない」
「……腕一本だけどな。つか、あのオッサンずるいだろ……渾身の不意打ちで捥ぎ取ってやったってのに、十秒そこそこで元通り生やしやがって」
しかもその直後に呆気とられているところを容赦なくヤられた。
ようやく勝ち取った一杯食わせてやった感は台無しに終わった。
「そうでもないよ。あの後出てきた上弦さん、すっごい悔しそうにしてたもの」
「はっ………なら、次はカシラ狙うか」
聞いた言葉で取り戻したようにしてやったりと笑う蒼助に、三途は不意に問いを向ける。
少しだけ方向性を変えて、
「ところでさ、ずっと思ってたんだけど………」
「何をすか」
「今まで、どうやって戦ってきたの?」
素朴な疑問をさりげなく口にするように、核心をついた内容を口にした。
顔を向け、合わせた視線の先の三途の目には純粋な答えを求める追求心だけが存在していた。
それは魔術師としての性からくる探究心でもあった。
しかし、それだけでない。
この疑問は、三途が出会った時から蒼助に対して抱えるもう一つの疑問に繋がっていた。
「結界はおろか霊装も使ったことないんだよね? ということは、霊力を全く使ったことがないということになる。……なら、君は一体どうやって調伏を行ってきたの?」
霊力を全く用いず魔を伏させることなど、可能なのか。
謎を解明することが出来る当人を前に、今まで抑えてきた欲求を縛り付けていた三途の中の束縛は既に解かれていた。
問いに対し、蒼助はそれほど驚いた様子や拒絶を態度に表してはいなかった。
そもそも、そんなものは抱いていないとも取らせる反応であった。
蒼助は少し考えるように三途の追求の眼差しから目を逸らして、
「割と遠慮がないっすね、下崎さんって」
「これでも我慢してたんだけど。………ごめんね、魔術師ってこんなふうに無粋な生き物なもんでして」
「別にいいっすよ。他人には聞かれても話すなって、死んだおふくろには言われたからなんとなく秘密にしてましたけど。………こんなことになった今じゃ、話した方がいいかもしれねぇ」
「……それは、君と君のお母さんだけが知っている秘密なの?」
「まーな」
三途の目の追求の色が強くなる。
これでもう話さざるえなくなった、と蒼助はこれが約束を破るという行為であることを思い返し、若干の抵抗を今になって抱いたが、死人に了承を得ることは出来ないのだから構うことはないだろうと踏み切った。
「……六歳くらいの頃、霊なんてものは全く見えなかった俺に、突然妙なものが見え出したんだよ」
「妙なもの?」
「最初は生きてる人間にだった。気のせいかと思うくらい些細な見間違いだと思う程度にしか見えなかった。ただ、見かけるたびにどんどんはっきり見えるようになっていった」
「……何が、見えていたの?」
はっきりと口にされない部分に指摘を打つと、蒼助はそれを待っていたかのように前ぶりから本題へと移行する。
「……炎」
「ほのお?」
「ほら、ガスバーナーとかで出るあの青い炎あるだろ。あんな感じの青白い炎が、この腕とか腹とか身体のアチコチで燃えるように見えてたんだよ」
「人間の身体に、青白い炎が……ねぇ」
「で、そこから更にエスカレートして………霊体にも見えるようになったんですよ」
「霊体にも…………あれ、どうしたの?」
突然、蒼助の顔が青くなった。
目は何処か遠くを見て、何かを思い出しているようだったが、
「……言いましたよね。俺、それまでいっぺんも霊が視えなかったんですよ。霊力ショボいもんだから、霊視の才能も底辺いってたもんで」
「ああうん。……でも、視えたんだよね?」
「あー、見えたよ………そいつ全身火ダルマだったけど」
「………それは、また」
どういう仕組みかはまだ不明だが、どうやら霊は全体が青白い炎に包まれて燃え盛っていたらしく、年端もいかない子供の精神にはかなりきつい代物だったようだ。
退魔の血族に生まれたとはいえ、それまで一度も霊的存在との接触が適わなかった時点の精神では免疫も慣れも何もあったではない。
さながら、一般人の心霊体験の恐怖そのものだっただろう。
三途は客観的に察しながら、気の毒に、と目の前の男に同情を抱いた。
「半泣きになりながら、母親のところの寝室に駆け込んでからが最悪だった。あのババア、事情聞く前に人の泣きっ面見てひとしきりただ笑いやがって……」
「……そこの方が君にはショックだったのかな」
寧ろ、ここが重要だとばかりに歯軋りする蒼助に『嫌な思い出』の本当の意味が三図には垣間見えた気がした。
きっとそうなのだろう、と本気で思い出に悔しそうにしている蒼助を見て、そんな確信を得た。
とりあえず落ち着いたのか蒼助は表情を若干緩めると、
「………まぁ、その後はちゃんと話聞いてくれたんですけどね。で、母親が言うには別に霊視に目覚めたとかいうんじゃなくて、先天的に目にだけ宿った異能の類いだっていうんですよ………確か、何とかの目って言ってたよーな……」
「……魔眼」
「あ、そうそう、それ………って、アレ、確か……」
最近どこかで聞いた単語だ、と蒼助はその覚えの先を見た。
三途はその考えを言わずともわかったかのように頷き、
「そうか。やっぱり、君も魔眼憑きだったんだね」
「やっぱりって……」
「この店にやってきて、私と初めて会った時のこと覚えてる? 目が熱くなったり、とか」
言われて蒼助はハッとした。
忘却の坩堝に落とされようとしていたあの痛むような一瞬の熱に見舞われた不可解な現象の記憶を、慌てて拾い上げ、
「あ、それ……」
「かくいう私も実はあの時そうなったよ。あれはね、魔眼憑き同士が接触した際に起こる共鳴なんだ。発動していない状態の魔眼憑きを見分ける唯一の方法でもある。………ただ、君の瞳にはこれといって特徴的な色彩が見れなかったから、今まで確信は持ててなかったんだけど……とりあえず、これで確定したよ」
「え、でも、何で……」
「あんな状況で話したものだから覚えてないか。魔眼はね、一部の上位のカミと異種との混血種……俗称・半妖にしか宿らない特別な異能なんだ。君は………かなりの特例らしいけど、一応該当するでしょ?」
あ、と蒼助は胸に納得を落とした。
「でも、君は更に特例みたいだね。一般……なんていうのも妙な感じだけど、魔眼の効能は精神に作用させる暗示めいたものが主流なんだ。中には、物理的な現象を起こす稀少な貴種も過去の前例として記録が残っているけど……蒼助くんのは」
「………そういう記録には無いんすか?」
「少なくとも私が目に通してきた文献、聞いてきた情報には無かったかな。………ごめん、話途中で遮っちゃって。続き、聞かせてくれる?」
「ああ、わかった………で、話聞いた母親が考え至ったあたりの推測だと…………俺が見ていた青白い炎っていうのは、”概念”なんじゃねぇかって」
「概念?」
「試しに無機質な物体も見てみろって言われて見たら、やっぱり同じもんが所々に帯状に巻きつくみたいにあって。………母親が言うには、一見関係がないみたいだが一つだけ共通している点があるんだとさ」
「共通点……?」
「どれも全く別モノだけど………この世に存在している、ってところは同じだって言ってた。俺の目はそれを炎という形で模して視ているんだとかなんとか……言ってたよーな」
この奇妙な異能には何やら理屈があるようだが完全に理解するには難しくて、微妙に曖昧な覚え方をしていたものだから、記憶が若干怪しくなってきていた。
だが、三途にはそれで十分だったようだ。
「なるほど………その線で行くと確かに理屈が通るかも」
「よくわかるよな……俺なんか最初何言ってんのかさっぱりで、わかるまでおふくろに何度も馬鹿にされて、やっとわかっても馬鹿にされてあーくそまた腹立って」
「まぁ落ち着いて。また脱線しちゃうよ。………ねぇ、理論上の推測だけでその能力を応用しようってことになったわけじゃないでしょ? 何か実証みたいなことしなかった?」
「……………目ぇキラキラしてますよ、下崎さん」
「やー、魔術師なんてかこつけても実態はただの貪欲な探求者なんで」
どうやら知識欲という欲望に突き進むことにしたらしい三途の新たな顔を見た気がしながらも、蒼助は問いに、もとい三途の欲求に応えるべく、
「結局、俺がいくら聞かされてもイマイチ呑み込めてないないのがバレて、湯のみとナイフ手渡されたんだよ。……それで、試しにコレ刺してみろって」
「ナイフで湯のみを?」
「正確には、まとわついてる炎の帯をな。……そしたら―――――――燃えてなくなった」
「燃えたって……湯のみが?」
三途が驚くのも無理はなかった。
湯のみがそう簡単に燃え尽きるはずがない。
「ナイフがズブズブって入って、それを引き抜いたら炎が、こう……ブワーっ、と炎が水みてぇに噴出したかと思ったら……あっというまに湯のみが火ダルマになった」
「……それで、何か痕跡は」
「灰どころか焦げ痕一つ残らなかったぜ。おふくろの言うところに乗っとると―――――――”湯のみという存在”だけが綺麗さっぱりなくなったって始末になったわけだ」
思えばこの拾い物は蒼助にとって好機そのものとなったが、母親にとってもそうだっただろう。
誰にも話すな、と母親は言ったが、それから何年かして母親はこの世を去り、行き場のなくなって荒れていた蒼助の元へ蔵間が現れた。
あれは、偶然ではなかったのだと今となっては思う。
霊力がからきしと嘲られる蒼助の元へ、どうして国家組織の総帥がわざわざスカウトし訪れるというのか。
いくら両親とプライベートでの交流があるとはいえ、悪評に塗れた落ちこぼれを自分の組織に入れたがるだろうか。
蒼助の中での解答は『否』だった。
そんなわけがない。
蔵間から直接聞いたことも聞かされたこともないが、おそらく彼は知っていたのだと蒼助は推測していた。
興味を惹き付けるだけの特異点を蒼助が持ち合わせている、という情報を”何処”からか聞かされて。
きっと、あの時から考えてくれたのだと蒼助は思う。
もしもの時も、その先のことも―――――――
「蒼助くん?」
「あ、すんません……で、まぁその後は実践でいろいろわかることもいろいろあったんすよ。たとえば、『水』とかには見えないとか、なのに術で発生する超現象は滅せるとか…………ここんとこの違いがよくわからないんすけどね」
「うーん、それは確かにわからないね…………………―――――――あ」
閃いた、と言わんばかりの顔で、三途は己の考えを述べる。
「ひょっとしたら、視える視えないに関しては蒼助くん自身の認識力と想像の許容範囲が影響してるんじゃないかな。後者について来るのは………自己暗示じみた意識の強まりってところか………」
「俺自身の意識が関わってるっていうのかよ?」
「前者については割とこれで簡単に片付くよ。水が燃えるとか……想像しにくいし、君も実際に試した時そういった固定観念を抱いていなかったとは言える?」
思い当たる節はないことはなく、はっきりと否定できるものではなかった。
少しずつ見え始める真相の形を更に明確にすべく、三途の推論は続く。
「とりあえず、前者に関しては使用者の常識としてとらえている観念の影響が出るんだね。燃える……というよりは、最初の湯のみのことを考慮すると、君の想像力では水そのものを”破壊”や”崩壊”の現象へ結びつけることが出来なかったから炎が視えなかったということじゃないかと思うんだ」
「……そうか、そう言われてみるとそんな気が」
「それで、後者のことだけど………まず実際にどんな術を滅せたのか教えてくれない?」
「……視覚に捉えられるぐらい具現化した霊力の塊とかだな。やっぱり、目に見えないとどうしようもないから、結界とかは無理だと思うよ」
「霊力の塊………これも前者に入ると思ったんだけど、可能なのか。となると、これも自己意識の問題かな。或いは、戦闘という状況も関っているのかもしれない。君は下手な小細工は無しで最前線で戦うタイプだ。急な攻撃に思考する暇もない危機的状況に陥ることもあるだろうし………その時はひたすらやるしかないってがむしゃらになっていない?」
「……とりあえず、出来ないなんて考える暇はないってのは当たってると思う」
「あとは、水よりは破壊を想像させる要素あるということかな………」
ブツブツと呟きながら考察に浸る三途は、完全に『考える人』の顔だ。
こういう時、下手に触れるとうっかり逆鱗に触りかねないので放っておくにこしたことないと蒼助は三途が落ち着くを待つことにした。
呑気なものだ、と三途の考察する様を見て所詮は他人事であるのだからそんな風に感心などできるのだろう、と蒼助は踏んだ。
実に嬉々として未知の異能を前に様々な推論などを並べてくれたが、正直どうでもよかった。
散々使いまわし、唯一の一芸としてきたこの異能を、実のところ蒼助はあまりあってよかったと思ったことはない。
本能的にわかっていたからだ。
自分が視ているもの、視てしまっているものは―――――――本来なら決して視えてはならないモノであるということを。
視えてしまっているヤバさは霊とは比べものにならない危険度であることを。
それを視る時は、いつだってまるで剥き出しの心臓を見せられているような気分だった。
そこは突いて、切って、裂いてしまえば、それは簡単に滅えてなくなるのだということを教える『それ』は、一種の誘惑をしかけてくるのだ。
『それ』が視えるということは、滅せるということの証明。
視えさえすれば、それが可能であるということの暗喩。
滅せば滅すほど、何かを失っていくのを感じていた。
一つの、気づいてはならない真実へと徐々に近づいていく気がしていた。
だから、己に霊力が確かに存在すると知ったあの時は、正直心底ホッとした。
あの誘惑を視る必要はなくなる、と。
ふと蒼助の視界が何というわけでもなく、テーブルの上の空となったガラスのコップを捉える。
意図も何も無い、単なる何気ない無意識の動作だった。
それが―――――――蒼助を驚愕の淵に落とす。
「……っ、!」
ガタン、と音を荒立てて立ち上がる蒼助の突発とした行動によって、三途はようやく己の思考世界から引き戻された。
「蒼助くん、どうしたの?」
「………ねぇ」
「え?」
三途の見据えた蒼助はテーブルに両手を付き、腰を折って見下ろすようにコップを凝視していた。
その両眼は途方も無い驚愕の色に揺れ、大きく見開いている。
その理由は、緊張に掠れた声で明かされた。
「―――――――視え、ない」