深夜二時。
それは終夜千夜が己の体質を思い出して四時間が経過してのことだった。
「……………失敗したな」
そうして一人心地で静かに呟いたのは、引っ張り出してもらった客用の布団一式を久留美の部屋に敷いて、共に就寝についたのは約四時間ほど前の十時頃のことだ。
布団に入って最初は、普段とは少し違うシチュエーションにおいての就寝状態に落ち着かないのか、久留美からの持ちかけで他愛ない談話に耽った。
何人かのクラスメイトや教員の秘密、一年の頃に2−Dで起こした騒動や、催しでの活躍などの千夜自身が知らないことを久留美は話してくれた。
それも続いたのは最初の三十分くらいで、眠気が訪れたのか久留美の口調に気だるさが混じり始めたところで話を打ち切り、互いに本格的に寝付こうとした。
しかしその一時間後、千夜は一人だけ目を覚ました。
そして、そこで今更ながら思い出したのだ。
ヨソでは眠れない、己の厄介な体質に。
「……ダメだ」
途切れ途切れのごく浅い睡眠を繰り返すこともう何度目にかになるが、身体はそれなりに疲れているにも関わらず、一向に眠りに落ち着いてくれない。
このままではホテルで繰り返したあの不眠の再来だ。
「………仕方ない」
もはや落ち着かない体勢となった就寝体勢を一度解き、千夜は久留美を起こさないように物音を潜めることに心がけながら、部屋を出た。
廊下は室内と同じく動きを不自由とさせる暗さだったが、寧ろその方が慣れている環境であるため足を取られるような不安や杞憂は千夜にはない。
向かう先は一階のキッチンだった。
水でも飲んで乾いた喉を潤せば、少しは気が休まるだろうという考えでの行動だ。
あまり音を立てないようにと、階段の軋みを最低限に抑える動きに徹しながら降りる。
しかし降り終わったと同時に、その配慮を無碍にするかのように勢いよく流れる水音が響いた。
「………あら、終夜さん」
音の発生源は、明かりがついて使用されていると思しきトイレ。流れる音に次いで開くドアの軋みが鳴る。
開いたドアの向こうから現れたのは、寝(パ)衣(ジャマ)姿の久留美の母―――――――久美子だった。
夜中に出歩く千夜を不審がる様子もなく、ごく自然に声を掛けてくる。
「どうしたの。あなたもトイレ?」
「いえ………あの、喉が渇いたので水をもらおうと思って……」
「………寝付けなかった?」
言うまでも無く千夜の心中を見抜いた久美子は、ただ確かめるように聞いてくる、
千夜は懐に入り込まれるような感覚に少しうろたえながらも、
「……え、あ……はい。他人の家で寝るのは……あまり経験なくて……」
「いいのよ、そんな申し訳なさそうな顔しなくても。誰だって、ヨソで自分の家で寝るようにはいかないわよ。………そうだ」
ふと何かを思いついたように久美子は、両手を軽く叩くように胸の前で合わせる動作をした。
そして、
「ねぇ、終夜さん。どーせなら、水よりもずっといいもの飲ませてあげる。それで、眠れないのなら―――――――」
―――――――おばさんとちょっとお話しましょうよ。
◆◆◆◆◆◆
一度は消灯されながらも、一時的に電気のついた居間。
そこでゆらりと漂うのは香り立ち昇るうっすらとした湯気。
それは二つのティーカップから立ちあがっていた。
一つは千夜の手に。もう一つは久美子の両手にある。
「んー、おいし。どう? 私が贔屓にしているブランドのなんだけど、なかなかでしょ?」
と、先程トイレにいったにもかかわらずグビグビと紅茶を麦茶のように飲み干し、もう一杯と次を自分のカップに注いでいく。
二十分もすればまたトイレに行くのだろうな、となんとなく予想し、自身も熱めのその液体を口に含み、喉に下す。
「はい。おいしいですね……好きですよ、この味」
「よかった。おかわりしたかったら言ってね。……あ、ミルク大丈夫? ミルク大目のミルクティーにすると、おなかも膨れてぐっすり眠れるのよ……どう?」
「そうですか……じゃぁ、いただきます」
薦められた言葉に従い、テーブルの上に置かれていた牛乳パックを手にとり、透き通った赤みがかるブラウンに白いミルクと投入する。
引き換えに温度が低くなったが、それを想定して熱めにしてあったのか口に含むのに丁度よくなった。
腹の辺りが紅茶でほんのりと温かみを持った頃、久美子が不意に口を開いた。
「夕飯の時はごめんなさいねぇ。食卓の場にそぐわないものを危うくうちの人がお披露目しちゃうところだったわ。あの人もちょっと興奮しちゃったのよ。なにしろ久留美
がこんな美人を友達だなんて言って連れて来ちゃうもんだから。今日はああだったけど普段はもっと……………とにかくごめんなさいねぇ」
夫に対するフォローが中断されたが、深く入らず流すことにした。
「こちらこそ……今日は急にお邪魔してしまって」
「いいのよぉ、むしろ大歓迎だったんだから。感動したわよ、あの子にもようやく友達が出来たかって。ほら、話に聞くとあの馬鹿娘ったら学校でやんちゃしてるらしい
じゃない。もーそんなとこばっか父親に似ちゃって、こんな子誰がもらってくれるのかとか、将来は孤独死なんじゃないかとか親に気苦労ばっかさせて………おまけに誰に
似たのか意地っ張りで素直じゃなくて天邪鬼だから人付き合いも下手だしね。それがとうとうやったか、て」
つらつらと娘の欠点をあげてはいるが、嬉しそうに笑う久美子に千夜は苦笑で返す。
「初めての友達があなたみたいな良い子でよかったわ。あんなので申し訳ないけど、これからもよろしくしてあげてね」
「………あの」
「んー?」
一拍の間を置いて、
「……せっかくのお言葉は光栄なんですが、私は最近転校してきて彼女との親交もまだ始めて間もないです。おばさんは、そんな人間に気に許しすぎて……」
「こーら」
言葉を遮ったのは、一つの動作だった。
久美子の人差し指が、嗜めるように千夜の額を軽く突く。
目を瞬かせる千夜に、
「おばさんは、これでも狙ったネタは逃さない凄腕記者の妻で、陰謀渦巻く組織内で真っ直ぐに自分を貫く刑事の姉なのよ。人を見る目も洞察力も平民のそれより洗練され
てるわよー。あ、一応、これ自慢ね」
ニコニコと愛想のいい笑みを浮かべているが、目は真っ直ぐに千夜を見つめていた。
「うちの娘も、そう。まだまだ未熟者だけど……こうして親の前に連れてきたってことはそういうことだと思うの。ちゃんと見て、ちゃんと判断して、あなただったのよ」
だから自信持って、とポンポンと前髪あたりを撫でるように叩かれる。
母親が子供にする優しい手付きは、千夜にふと懐かしい誰かの手を思い起こさせた。
「親がこんなことを言うのもなんだけど………久留美は結構アレで聡い子なのよ。人間の悪くて汚い部分に対しては特にね………だから、他人を見限ってるというか、
興味が持てないというか」
「そんなことは……」
「そう思う? あのコ、今まで一度もウチに友達とか言って誰かを連れてきたことないのに?」
聞かされて詰まる千夜に、久美子はテーブルの上に一度置いた紅茶を再度手にし、
「……昔は、普通の子供だったのよ。……友達は相変わらずいなかったけどね。親がこんなんでいいのかって育て方に迷いを抱くくらいそこらの子供と大差さない普通ぶり
を発揮してたわ。親って贅沢なのね。何も特出したところなくても、すくすく元気に育ってくれればそれだけで産んだ甲斐があるってものなのに。………付け加えて、いざ
突然何かに興味を示すと不安になるの」
言葉は一度そこで句点を打たれて、止まる。
呼吸を整えるように久美子は紅茶を含んで口内を潤した。
こくり、と喉が下す動きをすると、
「小学校の時……短い間だったけど、ちょっとおかしな時期があったのよあのコ」
「おかしな時期、ですか?」
「微妙な言い方だけど…………それまでと打って変わる転機といったら、あの頃なのよね」
聞いてくれる?と一度確認するように視線を向けられる。
千夜は何も言わずに返事に代わりにその視線と向き合った。
それを了承と受け取った久美子は話を再開させる。
「……クリスマスが近かったから十二月だったかしらねぇ。今まで言いつけも守って、学校の帰りも寄り道しないでまっすぐに帰ってきてたのに、突然人が変わったみたい
になったの」
「……言いつけも守らなくなって、帰りも遅くなったんですか?」
「そう。それも段々エスカレートするようになって………。夜中私たちが寝静まった頃に抜け出したりまでしてたみたいなのねぇ。その一時期叱ってばっかだったわ。
もう、うちの子じゃありませんって言うと、あのこったらこっちから願い下げだーっなんて言うのよ?」
「………夜中に抜け出してまで、久留美は何をしに行っていたんですか?」
その問いの答えは少しの思考の後に返って来た。
「……【先生】に会いに行ってたんですって」
「先生?」
ここにきて学校の先生を指しているというわけではなさそうだった。
「私も最初は変質者かなんかに懐いちゃったのかと思ってたんだけど………家を飛び出した時、すぐに戻ってきたのよ。なんかヘコんでるから理由聞いたら、その【先生】
に親に心配かけるんなら悪い子とはもう会わないって怒られたんですって。まぁ、それから夜中に抜け出すようなことはなくなって、日が暮れる前には帰るようになった
んだけど……やっぱり、心配だから学校が終わる頃を見計らって下校する久留美の後を尾行してみたのよ。それで、行き着いたのはうちの近所の幡ヶ谷第三公園だったわ。
予想外なことにその【先生】っていうのが随分若い人でね……結構飾り気のない服装してて髪も短かったからわかりにくかったけど、まだちょうど今の久留美とほとんど
変わりないくらいの年頃の女の子だったわ」
「それで、おばさんはどうしたんですか」
「帰ったわ」
「…………帰った、んですか?」
あまりにもあっさりと答えられて思わず聞き直す千夜の含みを悟ってか、
「まぁ、悪い人には見えなかったし。……ようやく憧れる対象を見つけて子供らしくはしゃいでるあのコ見てたら……無理に引き離すのも気が引けてね。かわいいもんよ、
手品師を魔法使いだって本気で信じたりしてたんだから」
「手品師?」
「ええ、どうやらそれを習いに行ってたみたいなのよ」
「………久留美が、ですか」
口にするが千夜はあまり実感がわかなかった。
今の久留美を僅かながらも知る身としては、聞かされた話の中のかつての久留美はあまりにも遠い存在に思えた。
「意外?」
察した久美子の言葉に千夜は濁しつつも答えた。
「……意外というか………久留美にもそんな頃があったんだな……と」
「そうでもないわよ。ずっと、あの頃のまんまだもの」
「あの頃のまま?」
「久留美は、今もずっとあの魔法使いから離れられてないのよ。あの頃からずっと、ね」
含むような口ぶりに千夜は何かを感じた。
久美子はそれを隠す気はなかったようで、すぐにそれを明かす口を開いた。
「……クリスマスイブの日、久留美は日が暮れても帰って来なかったの。まさかって思って例の場所に行ったら、顔を真っ赤にして久留美がベンチで何かを待ってるみたい
に座ってるのよ………冬の真っ只中でいつまでもいたもんだからその後すぐに風邪引いたわ。私がいくら叱り付けても反省するどころかまるで聞こえてないみたいだった
けど………何をしていたのか理由を聞いたら突然泣き出したの。ずっとうわごとみたいに、先生に置いてかれた、約束したのに連れてってくれなかったって」
「約束……って」
「魔法使いの弟子にしてくれるって。その日、一緒に行くって約束してたんですって」
「でも、その【先生】は……」
「連れて行かないでくれたわ。今ならわかる、いい人だったのね………ひょっとしたら、本当に魔法使いだったのかもしれない」
茶化すように明るい口調の真意ははっきりと見えなかった。
だが、それはすぐに露見した。
「だって、あのコを私たちに返してくれたけど………その心までは置いていってくれなかったんだから」
「…………」
「あのコは心を連れて行かれて、あの頃いた場所に今も立ち止まってるの。おかしなこと言ってると思うけど、親の私にはわかるわ。それに私見ちゃったから」
何を見たのか、という疑問に答えは直後に付いた。
何処か寂しそうな笑みと共に。
「魔法使いといた時の久留美の顔………親の私たちだって見たことも無いような、楽しそうな顔してたの」
泣き出しそうな顔は、一瞬だけだった。
誤魔化すように紅茶を口にする際に伏せられた後、そこには元通りの表情で上塗りされていた。
「それからよ、久留美の【やんちゃ】が始まったのは。最初は、波留雄さんの真似ごとにでも目覚めたのかと思ったけど……違うわよね、アレは」
「違うんですか?」
「記者の真似事はあくまで手段でしかないのよ。あのコが追い求めるものに近い感覚を得るためのね。あのコにとって、魔法使いという非現実的な存在に出会った僅かな
【非日常】は一時の夢の時間にはならなかったのね。きっと、過ごしてどの他の時間よりも………”現実”そのものだったのだと思うの」
「―――――――」
無意識のうちに脳裏にフラッシュバックが起きた。
それは神崎の一件がひとまず落ち着いた後、さりげなく避け続けていた久留美と鉢合わせた際に受けた激情の場面だった。
それに伴って、あの時の台詞も鮮明に蘇る。
―――――――忘れてなんてやるもんですか、あの時起こった全部のこと欠片一つまで忘れないんだからっ!
仮面で突き放した自分に掴みかかってきた久留美。
誤魔化されたくない、と訴えながら彼女が何処か縋るような目をしていたのを思い出した。
思えばあそこまで過剰に拒否を示したのは、過去に『先生』と呼んで慕った魔法使いに置いて行かれたからであると納得がつく。
そして、何より自分という存在は彼女にとって―――――――
「どんどんエスカレートして、一般で裏ルートとか呼ばれるような領域まで踏み込んで関わっていく久留美を見て、止めようか、と何度も思ったのよ。でも………私はしな
かったわ」
「どうしてですか」
「止められない、とわかっていたから。あのコにとっては、ひょっとしたら私たちの方が夢みたいな存在なのかもしれない。………ううん、本当はただ怖かったのだけなの
よ。止めたとして、その時恐れていた考えを肯定されたりなんかしたら………耐えられないわ」
久美子の笑顔が歪むのを見て、千夜はそれ以上何も言えなくなった。
傍観していたことを無責任と責めることは出来ない。
親として子に否定されることは、身を裂かれるよりも辛いことであるのは本人たちと同等までいかなくてもある程度わかる。
家族とは不思議なものだ。
外見ではこれ以上に無く睦まじく団結しているように見えても、蓋を開ければ内情は酷く冷え切っていて正反対の悲惨な状態であることもある。
新條家は一概にそうは言い切れないものの、そのしこりを内包していた。
久美子の笑顔が歪むのを見て、千夜はそれ以上何も言えなくなった。
傍観していたことを無責任と責めることは出来ない。
親として子に否定されることは、身を裂かれるよりも辛いことであるのは本人たちと同等までいかなくてもある程度わかる。
家族とは難しいなものだ。
外見ではこれ以上に無く睦まじく団結しているように見えても、蓋を開ければ内情は酷く冷え切っていて正反対の悲惨な状態であることもある。
新條家は一概にそうは言い切れないものの、そういったしこりを内包していた。
この家の人たちは、血の繋がりも過ごした時間も長いのに、それでも家族として在るには何処か欠落している。
そう考えていた千夜の脳裏に浮かんだのは、自分とは容姿があまりにもかけ離れてしまっている妹と呼んで暮らす少女だった。
過ごした時間は二年という僅かなもの。
お互いそれまでの過程の間に記憶もあやふやのものとなっており、己にかけては完全な喪失状態に今も陥ったままだ。
過去における関わりと繋がりを確認し証明できるものは、自室の引き出しの置くにて眠るものたった一つだけ。
不確かな要素があまりにも多く、繋がりがあまりにも少ない自分が持っている家族という存在を改めて見直し、思わず笑みが零れた。自嘲をという名がつく微笑だ。
自分とて人のことが言える立場では無いな、と。
「情けない親よね。このままじゃいずれどうしようもないことになるってわかってるのに、現状から一歩踏み出すことすら出来ないの。踏み出してしまったら、今度こそ
あのコは私たちの前からいなくなってしまうんじゃないかって……」
「おばさん……」
「でも、今日……動いた気がしたの」
「え?」
久美子の表情にかかっていた翳りが薄くなる。
何を思ったのか千夜に向けて新たに笑みを浮かべ、
「あなたが現れたから」
「………買いかぶりですよ」
「そんなはずないわ。だって、今日見ちゃったもの」
「……何を、見たんですか?」
ことり、と久美子は半分ほど減った紅茶のカップをテーブルの上に置きながら、
「あなたといる時、久留美は同じ顔をしていたわ。―――――――あの魔法使いさんと一緒にいた時に見た、何をしている時よりも楽しそうな顔を」
「―――――――」
向けられるのは笑顔だった。飛びきり、と付くような。
それでいて、縋るようにも見えるような。
「きっと、あなたなら……いえ、あなたにしか出来ないのね。あのコにあんな顔をさせることが出来るあなたが、教えてあげてくれないかしら。自分を置いて何処かへ
行ってしまった魔法使いを追いかけ続けるよりも、目の前の友達といることの方が大事なんだってことを。少しずつでいいから……気づかせてあげて。あの、日常に生ま
れたくせにそれを嫌って拒む偏屈娘に」
大事なものを、大事にしてきた宝物を託すかのように頼みかけてくる久美子の言葉に、千夜が覚えた感情は―――――――罪悪感だった。
言えばいい。
違う、と。
あなたは間違えている。勘違いしている、と。
あなたの娘は日常の中でようやくあなたが望んでいた平凡でごく当たり前のもの”に興味を見出せたのではない。
嘗てと同じように、日常に紛れていた”非日常”に再び遭遇してしまっただけだ。
そして、自分は【非日常】そのものであり、あなた見たいつかの再来なのだ。
あなたが何よりも忌避していたものそのものであるのだ、と。
言えばいい。
言わなければならない。
言わなければならないのに。
「……………」
口から漏れるのは言わなければならない言葉ではなく、沈黙という無音だった。
迷い、だった。
胸の内に置かれているものを絡めとって、出て行くことを阻む『迷い』が存在していた。
理性の警告を無視しようとする何かが己の中にある。
その何かは見てしまった。
向き合い、正面から目の前の女の信じきった目を。
その目が何かの背中を押す。
抑えなければならない―――――――願望を。
「……あー、なんか重くなっちゃったわね。ごめんなさいね、今日会ったばっかのあなたにこんな親の気苦労聞かせて重苦しい頼みごとしちゃって」
「いえ……そんな」
「………でも、一個だけいいかしら。これだけ、本当に頼みたいの」
「何ですか?」
雁字搦めにされたような息苦しさから開放された千夜は、久美子の誤魔化しに感謝しながら先を促した。
「……あの馬鹿娘が危ないことしそうなったら、止めてあげてね。……お願い」
「…………はい」
「ありがと。あ、あとついでといってはなんだけど……」
ちょっと待ってね、と唐突に久美子はソファから腰を上げた。
急に立ち上がった久美子は千夜をそのままにし、部屋の端に設置された本棚へと向かい、何かを引き出すとすぐに戻ってきた。
「お待たせ。―――――――はい」
と、差し出された一冊のノート。
少し端が黄ばみ折れていることからそれなりの年期が積まれていることが明察できた。
「………新條家…の、食卓? 何ですか、これは」
何処かの裏ワザ番組のような題名が黒ペンが書き刻まれていた。
「お料理ノート。我が家の門外不出の秘伝の書よー……と言っても、書いたの私だけど。これにはね、私が結婚してから書き続けたうちの家庭の味がきっちり記されている
のよ。いつか久留美が何処かにお嫁に行く時にあげようかと思ってたんだけど………予定変更。あなたに貰って欲しいのよ」
「どうして………それは、久留美に」
「ああ、だーめよあのコは。ぶきっちょだもの。つくらせたら我が家の面汚しになるわ」
実の娘を容赦なく切り捨て、久美子はやや押し付けるように千夜に渡す。
「ちょっとした保険みたいなものよ。この先、あの子を任せられるような人に渡そうって。………なんだか私が、直接あの子に教えてあげられる気がしないから」
「………え」
「まぁ、年取るとね。もしもって、言葉に弱くなるのよ。まぁ。長生きする気でいるからいらない心配だけど………おばさんを安心させるためと思って、お願い」
にこにこと微笑んでいるのに、その様は何故か必死なように見えた。
久美子の手は千夜のノートを持つ手に重なる。
きゅ、と握ぎる力は思いのほか強い。
胸の奥にひっかかるものがあったが、千夜は無視するように笑みで答えた。
「それじゃぁ……ありがたくいただきます」
ありがとう、と安心したと告げる笑みを千夜は後になって、何度も思い出すことになる。
取り返しの付かない後になって、何度も。
彼女―――――――久美子がこの僅か先で己の身に何が起こるか、その末路を知っていたのか。
それは今もこれから先も、千夜にわかる術はないことになるのだった。