陽が暮れ始めていた。

 オレンジ色の日射しが窓から射し込み緋色に染まった廊下を、鞄を肩にかけた久留美は駆けていた。



 急いでいた。

 放課後になった途端、サボる気満々でいた清掃を化学室担当の教師に掴まった。
 サボろうとした罰に先程まで一人でメダカの水槽洗いをさせられていたのだ。


 頑固な汚れに大分時間を取られてしまった。

 先に行かせて待たせている千夜はまだいるだろうか。

 待ちくたびれて帰られてしまっただろうか。


 これを逃すと、もうインタビューのチャンスはなくなるかもしれない、と久留美は焦燥に駆られていた。


 故に気付かなかった。


 階段の曲がり角で待ち伏せしていた存在に。

 鳩尾を狙って叩き込む為に握られていた拳に。







 ◆◆◆◆◆◆







 

「あー、すまない。急用が入ってしまってな……今日の夕飯には間に合いそうにはない」



 電話を通して聞こえる『彼女』の不満げな声を耳に感じた。

 夕食は必ず二人で食べる。
 それが『彼女』と交わした―――――――約束。


 毎日絶対として通してきた決まり事は、今回で記録打ち切りとなってしまう。



『…………何時に帰って来るの?』

「終わり次第すぐに。あんまり遅くなるようだったら、先に寝てなさい。くれぐれも、私のベッドに潜り込んで待たないこと。潰しそうになってヒヤッとしたぞ』

『…………けちんぼ』



 むくれた呟きを無視して、電話を切ろうとするとそれを引き止めるように『彼女』が発声した。



『姉さん……』

「……っと、なんだ?」



 回線を切ろうとした指を慌てて押し止める千夜の耳に、か細く真摯な声が届いた。



『………怪我、しないでね』 



 やはり見抜かれている。
 張り詰めていた何かが緩む感覚に、千夜は思った。


 『決まり事』を破ってまで優先すべき"急用"が何なのか。

 何故、優先しなければならないのか。


 千夜自身、嘘が付くのが下手なワケではない。
 むしろ、人格を偽って生きているのだから得意だという自覚はある。

 ただ『彼女』が嘘を見抜くことに秀でている、それだけのこと。

 "あの人"に似て。



「………埋め合わせとして今週の日曜に、好きなところに連れて行ってやる」

『え、本当? 本当に? 何処でもいいのね?』

「ああ、何処へ行きたいか考えておいてくれ。それじゃぁ切る。愛してるぞ」

『私もー。ミートゥー』



 不安は消えていないだろう。
 だがとりあえず機嫌は直ったと思い、千夜は手にしていた携帯電話をポケットに押し込んだ。

 窓側を見れば、その枠の中は緋色。
 それは、まるで一色に塗りつぶされたキャンバスの張られた画板のようだった。

 時計に眼をやると、時刻は六時を回っていた。

 黄昏時。
 それは昼と夜の境であり、同時に夜が始まる前触れ。





 逢魔ヶ刻。またの名を大禍時。

 闇が歩き出す、災いの時刻だ。







 ◆◆◆◆◆◆







 黄昏の緋に染まった部屋―――――――図書室。

 司書も帰り、閲覧者たる生徒も帰ったその一室に、たった一つの人影だけが残っていた。


 窓際の低い本棚の上に腰を下ろした少女、終夜千夜。


 彼女は、ただぼんやりと暇そうに五階の窓から外を眺めていた。

 ただそれだけの姿が異様に絵になる。

 艶やかな流れるような線を持つ長い髪が緋の光に当てられ、うっすら赤らむ。

 恐ろしく整った美麗の作りの顔に当たれば、憂いとも哀愁とも言えぬなんとも不思議な、眼を引く印象を醸し出す。

 極上の美貌が、夕暮れという背景により更に引き立てられる。
 そこに、この世のものとは思えない光景を生み出していた。


 それは見ようによっては、何かを待っているようにも見えた。



「………、」



 ふと、無表情に固定させていた千夜の見事な線を描く柳眉が、ぴくりと動いた。

 窓を向いていた首が、緩やかな動作で出入り口のドアを向く。

 千夜はその向こう、そこに何がいるのか見通したように、



「随分遅かったじゃないか―――――――デートに遅刻は厳禁だぞ?」



 皮肉げに、されど美しく笑って出迎える千夜の前に―――――――『それ』は現れた。


 きぃ、と静かな軋む音を立てて、僅かに開いた扉の間から顔の一部が見られた。

 扉の向こうの暗い空間で見える片目は、背筋が凍るほど見開き、血走っていた。

 『それ』は、そこから酷く濁った声を発して、嗤った。



「くくくっ…………待っていてくれたのか? 嬉しいじゃねぇか……」

「ここで無視して家に押し掛けられると、この上なく迷惑なのでな」

「そう、つれなくするなよ…………迎えにきたぜ、千夜」



 すると、千夜はもの凄く不快な表情を浮かべて、服の上から二の腕を摩った。

 言葉とは不思議なものだ。
 嫌悪する相手に名を口にされるとこうまで寒気がするものなのか、と感慨しながら、



「………貴様のお陰で全身鳥肌総立ちだ、どうしてくれる」

「暖めてやろうか」

「全力で拒否を宣言する」



 千夜は、そう吐き捨てる裏で訝しげ思っていた。

 『それ』が今の挑発に乗って来なかった事に、だ。

 "以前"であれば、即答の早さでキレたであろうに。



「それにしても、何やら変わったな。念願の“力”が手に入ったことで余裕が出来たか?」

「そうだ、俺はもう以前までの俺じゃねぇ。……もう誰に頼る事もない、俺自身の手で全てを平伏せる力を手に入れたからなぁ。……生まれ変わったんだよ、俺は」

「何に? アオガエルからトノサマガエルに? まさか、一人前の人間になれたなんて傲慢なこと考えていないだろうな」



 『それ』に微笑と共に苛烈な言葉がぶつけられる。

 扉の向こうで、『それ』はさすがに気分を害したようだった。
 だが、激昂するようなことはせず、頬を引き攣らせるだけだった。

 或いは、既に暴れ狂いそうな感情を、後の目論みの為に抑えているのか。



「……もう一度、言う。―――――――俺と来い」



 幾分押し殺したような声。

 恐らくは、怒りだろうが。


 しかし、千夜にはそんなことは知った事ではない。

 返す答えは、とうに決まっていた。



「欲しけりゃ、取りに来い。尤も、蛙の嫁などゴメンだかな。そこら原っぱのメス蛙でもひっかけているがいい」


 表情は笑み。されど、言葉には罵倒と嘲りをたっぷり込めて。

 千夜の手酷い足蹴に、反応は返って来ない。


 もしくは、扉の向こうの暗闇で、声にならないほどの怒りで身震いしているのかもしれない。

 さてどう出る、と千夜は『それ』の次の行動を見計らう。



「………そうか、それなら仕方ねぇ」



 声が若干上擦っていた。

 やはり、先程の千夜の罵倒は効いているらしい。


 十センチ前後程の隙間を作っていた扉が開いた。

 正確な姿が見えなかった『それ』―――――――神崎の姿が現れる。



「紳士的な態度は、止めだ」



 その面で紳士とは笑わせる、と千夜は鼻で笑ってやろうとした。

 しかし、それは神崎の右手に握られていた『モノ』を見て急遽、中止を余儀なくされた。


 ごつごつした節くれ立った手には一本の黒い三つ編みが握られていた。

 それをぐいっと引っ張って、ずるりと扉の影から引きずり出されたのは、千夜が見知った少女だった。

 ぐったりと力を感じない体、後ろ髪の三つ編みを引っ張られているせいでいつもは勝気な表情をする顔ががくりと項垂れ見えない。



「………生きている、な」



 僅かに揺れている少女の前髪を見て千夜はそう判断した。



「殺しちゃぁ、意味ねぇだろぉ……人質ってのは」



 にたにた笑いながら、神崎は己が掴むものを更に引っ張り上げ見せ付けるように持ち上げた。

 無理矢理顔を上げさせられたその顔は、気を失っているのか瞼を閉じていた。

 口端が何故か濡れている。



「新條に何をした」

「いいねぇ、その目……ぞくぞくする。……大した事はしてねぇ、一発鳩尾を殴ってやっただけだ。たったそれだけでこの女、胃液吐いて動かなくなっちまったんだよ。ったく、人間ってのは脆いモノだよなぁ……"やめて"正解だったぜ」



 その言葉を綺麗に聞き流して、千夜は静かに言い放つ。



「……こちらに渡してもらおうか」

「そりゃ、お前の態度次第だなぁ、おい」



 そう答える神崎は水を得た魚のようだった。

 何回と繰り返してきた、相手に選択権のない交渉。



「まずは服を脱いでもらおうか。上から一枚一枚、じっくり時間をかけてな」



 神崎がそう命じた意図は、千夜の冷静さが崩れる様を見たいというところだ。

 最後の下着一枚に追い込まれたところで躊躇するのを、手元の人質の命を掲げて早くしろと急かす。

 そうされた千夜はどんな風に羞恥と屈辱に顔をゆがめるのか、と神崎は悪趣味な想像を思考回路にめぐらせていた。



「頭がいいお前ならわかんだろー? お前に出来ることは一つしかないってことぐらいよぉ……」



 無視すれば、この女を殺す。

 暗にそう言っているのだ。


 千夜は暫しの間、じっと神崎を見ていた。

 そうする瞳の奥に怯えや焦り、動揺はない。

 悪魔で冷静かつ、冷徹な光だけがそこに宿っていた。

 とても劣勢に立たされた者がするそれではなかった。


 いつまでも自分の命令に従う素振りも反応も示さない千夜に神崎が痺れを切らし、人質の久留美の顔に傷の一つでも付けてやろうかと思った時、



「…………わかった」



 静かに了解の言葉を呟き、千夜は上着のボタンに手をかけた。

 ゆっくり、丁寧に、上から一つ一つ外していく。

 その光景に舌舐めずりをしながら神崎は酔い痴れるように見つめた。

 全てのボタンを外し終え、右腕から引き抜いて脱ぎ、



「まずは一枚目」



 平然とそう言い捨て宙に脱いだそれを放り投げた。 

 バッと広がった深い紺色が空中で夕焼けに染まる様のに、神崎は一瞬気を取られた。



 それが、己の形勢をいとも簡単に逆転させてしまう最大のミスであることにも気付かず。



「間抜け。まさか、本当にひっかかるとは」  



 我に返った神崎の耳に届いた声は、ひどく近い場所から聞こえた。

 "目の前にいた"千夜が笑う。

 悪魔のように美しい、凄惨な笑みを湛えて、嗤う。



「この前言い忘れたことがあった。人質が効果を示さないパターンはもう一つあるんだ………」



 先ほどまで数メートル離れた場所にいた少女。
 宙に舞った上着に気を取られた僅か一秒の間に、目と鼻の先に間を詰めて現れた



 唖然としたままの神崎に告げる。

 右手を拳にして。



「自信と確信を持っている人間だよ。人質を傷つけられる前に―――――――



 言葉の間にその腕を引き、



―――――――調子付いた馬鹿を叩き伏せることが出来る、なっ!!」



 神崎が行動の意図に気付いた時には既に手遅れ。
 ど真ん中に叩き込まれた拳は鼻をへし折り、その顔をこの世のものは思えぬ悲惨な形状にした。

 それだけで終わりではなかった。
 神崎が後ろのめりに倒れる前に、すかさず横に滑らすように膝蹴りを叩き込んだ。



「ふん、たかが女の蹴りで随分と勢い良く吹っ飛んでくれるじゃないか」



 本棚に激突する神崎を尻目に開放された久留美を肩に背負い込み、千夜は足早に廊下に駆け出した。

 図書室から出たところで、一旦久留美を床の上に置いた。
 冷たいコンクリートに頬をつけた久留美が身じろぎし、呻いた。



「っぅ、う……んっ」

「新條、しっかりしろ。私の声が聞こえるか」



 殴られた時に外れたのか眼鏡のかかっていない双眸が、瞼の痙攣の後本人の意思で抉じ開けられた。

 数回の瞬きを終え、うっすらだったそれが通常通り開く。



「……あ、れ………私、確か………あ、終夜さ、……うっっ」



 千夜の姿を確認すると同時に、体が痛みを思い出したのか殴られた場所と思しき腹部を押さえて久留美が呻く。

 その時、図書室の中から地響きのような絶叫が聞こえた。



「っな、なに!?」



 目覚めた直後の唐突な出来事に、久留美は怯えの様子を露にした。

 対して千夜は、図書室から聞こえてきたそれに目を細め、



「ちっ、もうキレたか。外れても、単細胞は単細胞のままか」



 軽く舌打ち、勢い良く扉を閉めたと思えば、スカートのポケットから何かを取り出す。

 取り出されたそれは、メモ用紙のようにノリの付いた上の縁でまとめられていた。
 枚数はほんのニ、三枚のようだが、一枚一枚に地蔵菩薩の絵が筆描きで描かれていた。



「なに、それ」

「御札だよ。仏が許す三度の慈悲さ」



 そう答え、丁度二枚扉の中心の合わせ目に押し付ける。

 千夜はその札に向かって一言命じる。



「"この扉を決して開けるな"」



 言葉の後、千夜が手を離すとその命令に従ったようにノリもつけていないのに札はぴったりと扉にくっついた。


 久留美はただただ唖然としていた。

 否、混乱していた。

 この状況、先程の絶叫と千夜の行為に。


 千夜はそんな久留美の腕を掴み、



「行くぞ」

「へ?」

「あれは時間稼ぎにしかならん。札の効力を上回る攻撃をぶつけてくる前にお前を逃がす」

「は?」

「走れ。昇降口まで止まるなよ」

「い、一体何がどうなって」



 今しがた起きたばかりで状況をまるで呑み込めていない久留美の思考回路は、毛糸のようにこんがらがっていた。

 説明している暇はない、と千夜はその手首を掴み有無も言わさず走り出す。



「え、あっ…………何なのヨォ―――――――っっ!!」



 叫びも虚しく久留美は引き摺られるように千夜の後を走り出すのだった。





















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