「ここが私の部屋。さ、どうぞどうぞー入ってー」
階段を上った先、先導していた久留美がドアを開けて手招く。
初めて訪れた『友達の家』を落ち着き無くキョロキョロしていた千夜は引き寄せられるように扉の向こうの空間へ踏み込んだ。
一歩進んだそこは見たことのない世界。
あまりゴロゴロと目立つようなモノは置いていないが、セッティングなどから感じる柔らかい印象。
いわゆる―――――――『女の子の部屋』と呼べる背景がそこにあった。
それを築く部品は壁に本が敷き詰められた本棚が二つとその横の窓の前に置かれた机。もう一つの窓際にはベッドが居座っている。
そして、建築の際に作られたであろうクローゼット。
最低限のものしか置かれていないが、やはり千夜の部屋とは何処か違うのは先天的に女である久留美の部屋だからか。あまり過剰な女らしさがないあたりが久留美ら
しい、と千夜はそうも思えた。
千夜が食い入るように内装を見つめていると、久留美は照れ臭さと気まずさが入り混じった表情で苦く笑う。
「あはは……何も無い部屋だけど、まぁ寛いでてよ。私、飲み物とお菓子持ってくるから」
千夜を部屋に残して閉じるドア。
遠のく足音を聞きながら、千夜は部屋を見回した。
寛げ、と言われたがどうすればいいのだろうと悩む。
物心付いた頃から安らげる場所が限られたせいもあって、他人の家では落ち着けない。
何か一人であることを忘れられるいい退屈しのぎはないか、と部屋を詮索し始める。
そこで目に付くのはやはりこの空間にその巨体を収めている二つの本棚だった。
両方にぎっしりと隙間無く敷き詰められた本。
種類もジャンルも様々のそれらを目で追っていく。
上段には参考書がずらりと並び、中段からその下にかけては参考書以上の巻数の漫画や小説がこれまたずらりと。
漫画は少年、少女、青年向けの漫画まで様々だった。
小説は、どれも表紙が可愛らしいキャラクターやイラストが描かれた、いわゆるライトノベルだった。
「これは………退屈はしなくて済みそうだな」
しかし現実主義者の割には意外なジャンルだな、と呟きながら気の向くままに目に留まりそうな本を探し始めた。
◆◆◆◆◆◆
ついにやってしまった、と久留美は台所で作業片手間に大きく息を吐いた。
同時にこれ以上に無い達成感に悦していた。
何に、と問われれば当然、
「初めて友達を家に呼んじゃった………」
それがどうした、とこの場に第三者がいればなんてことないと呆れただろうが、久留美にとってそんな安易で軽いことではないのだ。
『秘密殺し』とのあだ名を持つ久留美に当然、仲の良い友達などいなかった。
いたかもしれないが、それも二三歩退いた距離を保つ程度の存在だ。
家に呼びたい、と考えたことなどなかった。
しかし彼女の中だけでの話、そういった行為に憧れていなかったわけでもなかったりする。
クラスの女子の会話や漫画の中でしか見聞きしたことのない『お泊り』。
一緒の御飯食べて、寝る前のトーク、一緒の朝を迎えて。
一度はしてみたいと思っていた。
蒼助あたりの久留美を知る人間が聞いたらあまりの意外さに化物を見て慄くような反応を返すだろうが。
「ど、どうしよう……めちゃくちゃ緊張してきた」
あの場での訳のわからない衝動的な行動で、まさかの夢が実現がした。
念願の望みが叶ったはいいが、問題はこれから先に山ほど待ち受けている。
「お母さん今日のおかずどうするつもりなのかな………今日に限っては昨日の残り物出すのは止めてよね。あと手抜きも」
頼むからそれだけは、とおそらく買い物に行っているであろうこの場にいない母に切に願う。
我が家の中身が他人に知られるのだから、と。
「あと、風呂も念入りに洗わなきゃ……それと客用の敷布団ってどこにしまってあるんだっけ……」
実際やるとなると、しなければならないことはたくさんある。
皆、面倒な手間をかけているようだ。
その手間を惜しまない価値がこの『お泊り』にあるのだから仕方が無いが。
用意と下準備を一つ一つ思い返していると、
「あら、おかえり。ねぇ、玄関に知らない靴があったけど誰か……って、ちょっと久留美なにしてんのっ」
「え? ……ぁあっ!」
最後尾の言葉が咎めるようだったのを怪訝に思い手元を見たら、傾け続けていたせいで紙パックの中身であるオレンジジュースが絶え間なく注がれ続けていた。
その落下先のコップから溢れかえって周辺のテーブル一部とその下の床をオレンジ色に濡らしてしまっている。
「わ、わ、布巾布巾っ」
「全く何やってるのこのコったら……しっかり拭いときなさいよ?」
「はーい……」
中身が吐き出されてすっかり軽くなった紙パックを置いて、己に不覚を覚えつつ布巾でまずテーブルを拭う。
母親はそのままスルーの姿勢である。
己の不始末は己で片付ける。新條家の家訓だ。
「あ、そーだお母さん。今日の晩御飯はなに?」
「んー? 今日は鶏肉が安かったから油淋鶏にしようかなって」
「……おかずとしてはまずまずね」
油淋鶏。日本語に直すと鶏の唐揚げのネギダレがけ。
我が家のおかずの中でも人気の一品であり、客に出しても恥ずかしくないものだとは、思う。
「あとは、昨日の煮物いっぱい残ってるから」
「だ、ダメっ! 残り物だけは絶対止めてっ!!」
恐れていた事態を招こうとする母を久留美はやや裏返った必死の声で制止をかける。
「あら何で? アンタ煮物は一晩置いた方がオイシイって言っていつも食べてるじゃない」
「今日は別!! 今晩のオカズはウチの名誉がかかってるんだから、ダメ!」
「名誉って………アンタ、誰か呼んだの?」
「………友達が今日ウチに泊まるの。明日、ウチの学校は創立記念日で休みだからいいでしょ?」
「さっきの靴は……そういうことだったの。てゆーか、アンタ友達いたの?」
「真顔でそーゆー痛いトコ聞くなー!」
こーゆー無遠慮なところが自分に遺伝したから友達が出来ないのではないだろうか違うのだろうか。
やや責任転嫁であったり無かったりな事を考えつつそれを振り払い、
「とにかく残り物はダメだからね! ちゃんと別のオカズ作ってよ!」
念を押すだけ押して久留美は盆に乗せたジュースとポテトチップスを手にして台所を飛び出した。
階段を慌しく上っていく娘の後ろ姿を見送りながら母親は、
「あのコのあんなにはしゃいでる姿を見るなんて……何年ぶりかしら」
少し驚いた顔をして、口元に母親の笑みを乗せた。
◆◆◆◆◆◆
「お待たせー………っておぎゃーっ!!」
意気揚々と部屋に戻った瞬間、女子高生らしからぬ悲鳴が久留美の口から勢い良く飛び出た。
リアクションの際に危うく手元のお盆をひっくり返し、オレンジ色の惨劇を再来させるところだった。
「ん、おかえり」
劈くような久留美の叫びも然程耳に入っていなかったのか、顔と目線は手に持っている『モノ』に向けたまま適当な返事を返す千夜。
プルプルと震えながら久留美はその手にしているモノを指差した。
「な……に、読んでんの?」
「暇だったから本棚漁らせてもらった。五冊目だ」
と、平然とのたまう千夜の手から久留美は慌てて漫画をひったくる。
「っなななななな、何してんのよ馬鹿ッ」
「は?」
「人んちで部屋漁るなんて……」
「他人のプライバシー漁ってるお前にだけは文句言われたくないぞ」
う、と痛いところを突かれ一瞬怯んだ隙に千夜は本棚から新たに一冊抜き取る。
「それにしても意外だな。ジャーナリスト志望と言うからには記事の切り抜きとか学園内で握った各人間の弱みなどをプロファイリングしているかと思ったんだが……資料
よりも漫画と小説の方が多いとはどういうことだ?」
ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべている千夜から再びひったくる。
「うっさいわね! いーじゃない、高校生なんだから趣味優先したって!!」
「それでこの数か。さすが文系。読書が趣味とは期待を外さない」
と言ってまた新たに出す。
きりがない。久留美はもうどうでもよくなり隣に座り込む。
「何よ、そんなに珍しいもんじゃないでしょ」
「漫画とかあまり買う方じゃないんだ。たまに妹に強請られて買ってやるくらいしか家にはないんだ」
「ふーん………なんか自分で読まないの?」
「最近の漫画はあまり好きじゃないんだ。絵は上手いが、話に味がない」
「味がないなんてまた通な言い方ね………じゃぁ、昔のは好きなわけ?」
「ああ」
たとえば?と問いかけると千夜が返した言葉は、
「北○の拳」
また極端なジャンルで来たな、と思いつつも何故か妙に千夜にマッチしていると久留美は感じた。
「知らないか? 胸に北斗七星の並びの七つの傷を持つ男の……」
「知ってるわよ! 誰もが知る名作なんだから! 決め台詞は"お前はもう死んでいる……"でしょ!?」
「おお、モノマネ上手いな。格好いいよなぁ、その台詞。一度言ってみたいんだが、俺がやると言う前にバラバラだからなぁ……」
何が、とは聞かない久留美。
ほのぼの(しているかどうかは置いておき)フレンドトークが血生臭くなってしまうのは御免だ。
「あ、これは何だ? ……表紙が普通に現代風で、恋愛もの……にしては、女の方の服が妙にボーイッシュで……髪も短いし胸が平たすぎるような」
「ダメ」
抜き出しかけたそれを己の手で押さえつけながら久留美は制止した。
しかも、物凄い力で。
「それだけはダメ。アンタ人生踏み外すわよ、それでもいいの?」
真顔で妙なことを問い詰められ、その迫力に思わず千夜は怯んだ。
よほど見られたくないものなのか、と何となく察してこれからのことを考えあまり無理強いして機嫌を損ねるのもまずいだろうと思い手を引いた。
久留美は内心ホッと一息だった。
読まれるわけにはいかない。
目覚めてしまうかもしれないから。
その問題の本を奥へ奥へ押し込みながら、近々処分しようと一つの決意を固めていた。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――つーわけで、明日の暮れまでお世話になります」
「なっっ」
下校の帰路をそのまま喫茶店『W・G』に直結させ、入店早々に事情を打ち明けて要求を口した蒼助に異議を唱えたのは、会話の対象である店の主ではなかった。
「馬鹿っ! 何でそんな横暴指くわえて野放しにしちゃったのよぉー!」
「してねぇぇっ! 決定的に悪いのは、お前の姉貴じゃー! つか、お前なんでこんなとこにいるんだよ」
「そんなことどーだっていいでしょ、ってゆーかこれこそあんたのせいだぁぁー!」
朱里と蒼助によって話が混雑に方向で弾んでいく。
これはいかん、と間に入ったのはいつの間にか会話から弾かれていた三途だ。
「落ち着きなよ、二人とも。……えっと、蒼助くん。千夜は友達の家に泊まりにいったんだっけ?」
「……ひっじょうに不本意だけどな」
「それは君のでしょ。……そういうことなら、私は構わないよ。朱里ちゃん、今日は私がご飯つくってあげるから」
三途は釈然としない様子のもう一人の人物に夕食を天秤にかけて交渉を持ちかける。
コンビニ弁当生活に対する不満は、朝から続く愚痴の中で既に聞いていた。
「むぅ………ビーフストロガノフで手を打ったげる」
「はいはい。手間のかかった料理が好きだよねぇサラダは何がいいかなぁ〜」
「エビマヨサラダがいいっ! エビたっぷりねっ」
「君そんなに細いのにどーして野菜嫌いで肉好きなのかな……。それじゃぁ、買い物行く前にちょっと冷蔵庫の中身を見てきてくれる? タマネギと赤ピーマン残ってる
かどうか」
ラジャー!とそんなにコンビニ弁当が嫌だったのか、現金なまでに機嫌数値を上昇させた朱里は素直に三途の言葉に従った。
奥の扉の向こうに消えた朱里を見送ると、今度は蒼助が相手だった。
「……嬉しそうだな」
「え、顔に出てる?」
思ったこと口にした蒼助に振り返った三途は、確かに笑っていた。
常時として微笑を貼り付けているが、今浮かべている笑みは一層濃度が高いように蒼助には見えたのだ。
「嬉しい、か。……うん、嬉しいなぁ」
「うわ、デレデレだぞあんた」
「えー、だってぇ……」
眉が困ったようにハの字に歪むが、やはりどうしようにも笑みは止められないらしい。
蒼助は何がそんなに嬉しいのかと訝しみ、
「……なんで、そんなに嬉しいんだよ」
「いや、なんてゆーか………在りし日を知っている者の身としては、千夜が友達ちゃんと作ってしかもお泊りできるほどの仲を築けるようになるなんて……あ、ヤバっ
泣けてきた」
「あんたの中でどれだけさびしんぼなんすか、あいつは」
蒼助の冷ややかな言葉にもめげず、三途は本気で滲ませた涙を袖で拭いながら、
「あのコは何でか周囲から一定の距離を置いて孤立したがるからなぁ……これをきっかけに学校にどんどん馴染んでくれれば………って、アレ」
ほややんと子供の将来を案じる母親のような心境で、明るい未来予想図を脳裏に描いていた三途はその思考作業を中断して、目の前の青年の様子が店に入ってきてから
何かおかしいことに気づく。
先程の朱里との口喧嘩で渦巻かせた不機嫌を装う何処かで、覇気がイマイチ感じられない。
「何か……あったの?」
下手に刺激をしないように心がけて慎重にかけた言葉に、蒼助は何故か俯いた。
そして、頭をそのままに三途の両肩をがしぃっと掴む。
「うえっ?」
「………―――――――聞いてくれるかっっ!?」
バッと勢いよく顔を上げた悔しさ満面でマジ泣きをする蒼助の凄まじい迫力に、成す術なく圧された三途はしきりにコクコクと頷くしかなかった。
三分後、戻ってきた朱里が見たのは、ドロドロとした空気を身体から分泌しながら、カウンターに座って三途に延々と愚痴る蒼助の姿だった。