その日の授業終了後、2−Dの教室にて。
―――――――誰もが予想だにしなかったまさかの事態が勃発した。
後日その場に居合わせたそこの住人達は、口を揃えて語る。
その時の惨事を。
あんなテロは見たことがない、と。
◆◆◆◆◆◆
「―――――――というわけで、あんたの彼女を今日と明日レンタルさせてもらうから」
今日も苦痛な授業を終えた学生たちが、開放感満ち足りた気分と共に楽しい下校タイムへ身を乗り出そうとした時だった。
偶然にもまだ誰一人教室を出ていなかった。
故に聞いてしまった。
信じられないその―――――――核爆弾にも匹敵するであろう発言を。
一瞬誰もが思考を停止し、動きを止めてしまった。
そして、強制終了した肉体を再起動させてガチガチと鈍く固い動きでその発言源を見遣った。
見ないでそのまま立ち去った方が利口であるのはわかっていたが、危険な匂いがぷんぷんしていてもこれはデカい祭りの起こる気配だった。逃げ出すなんて愚行もいい
ところである。
そんな常人外れな志向を持ち合わせるあたりが彼らの2−Dたる由縁だった。
故に野次馬どもは見た。
その起爆地を。
「―――――――あぁ? 何だって……?」
ひぃ、と周りが思わず一歩足を引くほどの低い声が教室に響く。
音量は大声には至らない並程度なのに。
周囲が緊張感を各自で張り巡らす合間にも、授業中とは比べ物にならない息苦しさが、教室内を満たしていく。
「幸せ気分浸りすぎて、耳腐ったかこの有頂天ヤロウ。あんたの女、ちょっと借りるっつってんのよ」
「てめぇこそ何ヌかしてんのかわかってんのか。空気読めてねぇにも程があるだろお邪魔虫」
これ見よがしにその男―――――――玖珂蒼助の恋人となった少女の腕に己の腕を絡ます久留美。
見せびらかすようなその姿勢に、完全に目を据わらせて額に青筋を浮かせている蒼助。
双方、背中に暗雲をモクモクと立ちこませているバックを背負っている。
―――――――なんだ、アレ。
一組のカップルとその間に入り込む悪女―――――――と呼ぶには、些か立ち位置と構図がおかしい光景だった。
周りが状況を読み切れずにいるにも拘らず、騒動の中心では話が進んで行く。
「大体、私が一人で勝手にこの話を進めたみたいな見方してない? ちゃんと本人の了承もらったから、あんたからにも断っておこう思ったのよ。一応」
「一応は余計だ! つか待てっ、お前……そりゃ、どういうつもりだよっ」
蒼助の怒りの矛先が、どちらかというと当事者というより二人の揉め事に巻き込まれた感を匂わせていた千夜に向いた。
ゴクリ、と周りが思わず息をを呑むのも露知らず、千夜は一人だけ平常な様子を保ちながら、
「どういうつもりも何も………今回の礼に何か出来ることがあれば何でもすると言ったら……なぁ?」
「ええ、そうよ。今回の私の働きに対する報酬に―――――――この終夜千夜丸ごとレンタル一泊二日を請求するわ」
「俺の女をそこらのレンタルDVDと一緒にするんじゃねぇぇっ!! そもそも泊まりなんて出来るか、明日も学校ある―――――――」
「―――――――ばぁか。明日は学園創立記念日で私ら休みよ」
「なっっ」
衝撃を受けたように言葉を詰まらせた蒼助は、咄嗟とは思えない俊敏な動きで周囲に確認の視線を飛ばす。
視線を受け取った人間全てが「うん」と頷く動作で応え、更に衝撃。
しかし、それでヘコたれるような柔な精神ではなかったのか、蒼助はすぐさま立ち直り、
「っ、だったら尚更GOサイン出せるか!」
「あんた………今、自分が私にそんな口答えが出来る立場だと思ってんの?」
「うぐっ!」
「私、恩人。あんた、奴隷。―――――――この現状においてなんか違うとこあったら言ってみな」
一部ある気がしたが、そんな些細な抵抗はこの女には通じはしないだろう、と蒼助は口籠った。
癪ではあるか、蒼助は事実上久留美に救われたのは否定しようがなかった。
「だ、だからって個人のプライベート邪魔される謂れまではねぇ!」
「このプライベートキラーをつかまえて何を今更なことを」
「やかましいっ!!」
「………さっきから何でそんなに揉めているんだ?」
不毛な二人の言い争いの間に入ったのは、同じ場所に立っているにも拘らず一人だけ取り残されている千夜だった。
「何でって……大体お前も何でそんな話に頷きやがったんだよ! 今からでも断れよ!」
「何でだ。別に良いじゃないか、これぐらい」
「別にって………」
事態にはいつのまにか修羅場へと発展していた。
しかし、千夜は切羽詰った表情で迫る恋人にも一人涼しい顔で、
「どうせ、お前は明日も三途のところに入り浸らなければならないのだろう。休日となったら、丸一日籠もることになるだろうな。……そうだ、いっそ帰ったら朱里と一緒
に今日の夕飯あたりから明日俺が帰るまで三途のところに世話になればいい。三途の料理なら朱里も文句は言わないだろうし、わざわざ自宅を店をいちいち行き来する手間
も省けるじゃないか」
「ばっ……そういうことじゃねぇっっ! つか、こうなったからには丸一日なんてやってられるか! アッチの方はちゃんと進歩して成果も出てきてるし、サボるわけには
いかねぇが午前中くらいは過ごす余裕はあるっての! だから、俺に対してはそういう気遣いじゃなくてもっとこう……」
照れくさいのか興奮しすぎて舌が回らないのか、はっきりと核心的な発言までには至らないがギャラリーと化した2−Dの面々には、何がいいのかが手に取るようにわ
かった。
出来立てほやほやのカップルである男女が成立してわずか二日目で得る休日というチャンス。
ここまで必死になっているということは、正直信じ難い話ではあるが、蒼助としてはまだ到達していない"領域"まで自分たちの関係を進展させたいのだろう。
何か蒼助個人の私用が入り込んでいるようだが、そこは自分は平気だと気遣ってくれるよりは逆に寧ろ『無理を言っているのはわかるが明日は一緒に過ごしたい』と
言ってほしい。
第三者ですらところどころ会話から少々の事情の断片を聞き拾うだけで、ここまで理解し汲みとることが出来たのにも拘らず、当の恋人は―――――――
「……一緒に過ごすとしても―――――――何をするんだ?」
「は? 何って……」
「アレが終わるまで……多分、昨日の続きは出来ないんだぞ? なのに、俺と一緒にいて他に何をするんだ?」
『―――――――っっ!!??』
何の躊躇もなくこんな発言を言いのたまった。
これは、言われた本人とその周囲に若干の違いはあるものの衝撃を走らせた。
「……お、まえ………俺を何だと思、っ……て」
強烈なパンチを真正面から食らったかのように仰け反った体勢からゆっくりと俯いた蒼助は、そのダメージを隠す余裕もなくただ打ち震える。
そして、
「……っ、そうかよ……じゃぁ勝手にしろ!」
「えっ……おい、そう―――――――」
ついに耐えかねた蒼助は自分の鞄を持って身を翻した。
突然の行動に驚いて引きとめようとする千夜の声にも耳を傾けることもなく、ドスドスと荒々しい足取りで教室の出入り口前に立つと止まったが、
「………っ―――――――ちくしょぉぉっっ、千夜の馬鹿野郎ぉぉぉぉーー!!!」
一瞬だけ振り向いて叫び、廊下を走り去っていった。
残された教室の人間だけは新たな衝撃的な出来事に、それぞれの目的も忘れてただ呆然と立ち尽くした。
そうさせるのは、去り際に吐き捨てていった負け犬の台詞ではない。
彼らは見たのだ。
一瞬だけこちらを向いた時の蒼助の顔を。
誰もが唖然とする中、久留美が一足早く立ち直り、
「……あんた、スゴいわね。あの蒼助を………泣かせるなんて……」
「何で泣いてたんだろう、あいつ」
「…………」
久留美は再び呆然の海へと蹴り落された。
次いで、始まったのは周囲からの拍手―――――――喝采だった。
あの―――――――女を泣かしてなんぼだった玖珂蒼助を泣かした。
過去に前例のない偉業である、と。
その日の放課後。
それは、一人の女子生徒によって学園に新たな伝説が生み出された瞬間として、目撃した2−D面々の記憶に深く刻まれるのだった。
◆◆◆◆◆◆
一方、なんとも情けない捨て台詞を吐いて走り去った蒼助の逃走先は―――――――何故か保健室だった。
「ちくしょぉ……千夜の馬鹿ヤロー……」
「はい、ここに来てもう二十回目ー」
手にしたメモ用紙に棒を一つ書き込んで、四つ目の『正』を完成させるのは保険室の主、冬木喜美だ。
当初こそは来客の泣きっ面に対し面白いものが見れたと面白がっていたが、いい加減鬱陶しく思えてきていた。
そして、来客―――――――蒼助は事務用イスの上で背もたれに向かい合い抱きつくという変則的着座姿勢で負け犬の背中を晒すこと十分経過を迎えようとしている。
「信じられねぇよ……俺がそれしか考えてねぇみてぇな言い方しやがって。……そりゃ、もちろんシたいし、まだ無理なのもわかってるっての………いくら何でも今まで
そればっかだったからって恋人同士ですすることがそれしかないなんて思ってるわけねぇっての………っっ」
「ぶっっ……すっご。これぞ自業自得の画だわ」
「……笑い事じゃねぇよ」
「仕方ないでしょ〜。あんたったら、読んで字の如くの有様なんだもの。まぁ、今までの女どもが今のあんた見て事情聞いたら、彼女は嫉妬の対象からココロの英雄に
持ち上がるのは確かね。イイことじゃない」
「ちっともヨくねぇっ!」
ギッと振り返って怒鳴り散らす蒼助。
しかし、その目は涙で滲んでいるが故に迫力がないので台無しであった。
恋人となった少女の他意も悪意もない発言は、相当に蒼助を傷つけ、本気でヘコませたようだ。
「ねぇ、泣きが入ってるところ悪いんだけど。
―――――――傍目から見てると、あんた本気で馬鹿らしいわ」
「うっせえな、こっちはスタートして間もないすれ違いに深刻に悩んでんだぞ!?」
「あのねぇ……それこそ私は昨日あんたの深刻な悩みに立ち会ってるんだけどねぇ」
「…………そうだっけ?」
「そうよ、馬鹿。こんな馬鹿なことで惚気紛いな苦悩してんのが、どんだけ幸せで状況が向上したのかをいい加減自覚してちょーだいよ」
「…………」
鎮まった。
青い縦線の列の幻覚が見えそうだった背中も、少し伸びた。
「………そう、なのか?」
「わかんないなら、はっきり言ってあげるわよ。
―――――――そうよ」
喜美の言葉に返事はなかった。
しかし、相変わらず向けられる背中の向こうから不意に言葉が発された。
「………お前が、今朝証言してくれたんだってな」
「は?」
「千夜があいつらに暴行受けた被害者側だって……お前が会議で言ってくれたって、久留美のヤツから聞いた」
「ああ、そのこと。まぁ、この件に関してちょっと知ってることを報告したってだけなんだけど…………それで?」
「………そぉーすけぇ〜?」
「チッ………ア、リ、ガ、ト、な!」
舌打ち混じりの礼。
だが、プライドの高い蒼助からは滅多に聞けない言葉だ。
顔が見えないのが残念ね、と喜美はその一点が欠けていることを惜しく思いながら、
「はいはい、どういたしましてー。…………で、おまけとかないの?
―――――――例の彼女との決着の経緯とか、ね」
「………やっぱ、そう来るかよ」
「行くわよトーゼン。昨日あれだけ言ってやったのに、何がどーなってそうなるんだか、呑気な悩みに浸ってて幸せそうにしてやがるしー?」
「……………わーったよ」
ねぇ、と促す声に、蒼助は喜美が予想していたほど嫌がるような様子は見せなかった。
既に言われるのをわかっていたのか、それとも―――――――、と喜美の脳内の想定が終わるよりも早く蒼助は口を開いた。
「………まぁ、自分なりの答えが出たんだよ」
「答え? ……ああ、昨日のらしくないあの青臭い質問のね。何だ、自問自答してみたの?」
「……いや、なんつーか……無茶やった結果に乗じた経験からコロリと……」
「はぁー?」
「………いろいろ禁じ手を玉砕覚悟でやったんだよ、昨日。いやホント……どう転ぶかヒヤヒヤしたぜ、マジで」
「ナニしたのよ」
「それは黙秘だけど…………泣かせたり、怒らせたり、放心させたり、泣かせたり、告白させたり、泣かせたり、押し倒されたり、押し倒し返したり、泣かせたり………
息も付けねぇ勢いと展開を」
はぁー、と喜美は一息吐き
「………とりあえず、泣かせたのね結局。………私の忠告は総無視して」
「まあな。……でも、おかげでわかったんだよ。実感……したんだ」
「実感?」
「………傷つかずに前に進むなんて、そんなもんは甘っちょろくて都合のいい考えだって」
喜美に見えないところで、蒼助は達観した眼差しを何処ともなく向けながら、
「……俺はずっと止まってたからな。だから、楽な方法ばっか考えてたんだ。前に進む痛みっていうもんを忘れて……」
「わかっててあんたは………何で"それ"を選んだの?」
「うん、まぁ………あー、笑うなよ?」
「笑わせてくれるようなことなわけ? ……まぁ、いいわ。言ってみなさいよ、このゆとり教育の副産物め」
僅かな沈黙が一息として互いの間に落とされた。
それが消え去ると同時に、蒼助は覚悟を決め、
「……それでもいいって思ったんだ。あいつとぶつかって得る痛みなら、寧ろ喜んで引き受けようと………って、オイ引くな引くなっっ」
背中に受ける視線の温度の急激な低下を感じて、蒼助は思わず上半身を捻って振り返り叫んだ。
距離が離れたわけでもないのに、何故か距離感が増した錯覚を覚えた。
「……どうやら、あんたが本命に出会うとマゾに覚醒するって噂は本当のようだったみたいね。残念な事実だわ」
「なんかデジャヴが! そのガセ情報の源流は昶か、昶の馬鹿野郎だな!?」
ざけんな、俺はドSだ!、とそこで言う必要はなかったと思われるカミングアウトを適当に聞き流しながら喜美は、ようやく己に向き直った蒼助に、
「まぁ、それは置いとくとして………本当にゾッコンなのねぇ」
「ゾッコンって、それ死語……」
「やかましいわよ、青春小僧に成り下がった分際で。………まぁ、こんなところで愚痴りに来るようじゃ、前途はまだまだ明るいばかりじゃないようだけどね」
「ぐぅっ……!」
かなり痛いところを突かれたのか、蒼助は呻きと共に苦い顔になった。
それを見て少し喜美は微笑ましげに笑った―――――――のように見えたのは、一瞬だった。
椅子から立ち上がり、ふと蒼助を見下ろしたかと思えば、椅子の上に座る蒼助の膝の上に片足を乗り上げ、
「……鬱憤晴らしついでに―――――――こっちもスッキリさせてあげましょうか?」
自然と背もたれに体重をかけることとなった蒼助は仰ぐように頭上の喜美を見た。
先程まで他人からしてみれば実にくだらない話に耽っていた顔とは、まるで別人ように冷めた表情を貼り付けて。
そして、それは喜美も同様だった。
生徒の愚痴の捌け口となっていた教員とは結びつかない―――――――『女』の顔となっていた。
「……遠慮しておくって言ったら?」
「本当にヤキが回ったみたいね……今まで誰と寝た云々で責められようがまるでそ知らしぬ顔してたあんたが、彼女に操立てするの?」
「…………冗談だったら、笑えるか?」
「本気でもね。別に心配しなくても、あのイカレお嬢様みたいな考えは毛頭ないから。………単に、今の状態において利害の一致が適ってるんじゃないかって思っただけ
だから」
「利害の一致?」
怪訝な表情と言葉で問う蒼助に喜美は告げる。
「……私、今月一杯でこの学園辞めるのよ。ヨソに転勤とかじゃなくて、辞職でね」
「………そりゃ初耳だ」
「今朝申し出たからね…………言っとくけど、別に昨日の件は関係ないから。前々から実家の両親と話し合ってたことで……ようやくケリがついたってだけよ」
「それで……こりゃ、どういう状況だ」
喜美の事情にも初めて聞かされる話にも、蒼助は眉一つ動かない。
それも全て承知の上であったかのように喜美は構わず続けた。
「まぁ、私にしてみればあんたはそれなりに長く続いた相手だし、何も言わずやらずでこのままサヨナラするのもなんかって思ってね……そんであんたはあんたで最近
ご無沙汰名様子だから。………ほら、一致した」
「…………」
「そんなイヤそうな顔しなくてもいいでしょ。別にあとで彼女に告げ口しようとか考えてないから。そんなつまらない女になり下がる気もない。……どーせ、去る女となら
後腐れもなんもないんだから………いいでしょ? 最後に一回だけ」
「………―――――――なぁ、喜美」
何もする気が無いようにダラリと下がっていた腕が、片方だけ不意に持ち上がる。
その手は喜美の首筋にあてられた。
「やる気になった……………って、わけじゃなさそうね」
「……俺の手は、どんな感じだ」
「………?」
曖昧過ぎる問いかけに、喜美は答えかねた。
それをすぐに察したのか、付け足す言葉が続く。
「……触った時の温度って、どんな感じ?」
「ああ、そういう…………前から思ってたけど、あんた男のくせに冷え性よね。時々、ひやっと鳥肌立つくらい。首筋とか触られたりすると……」
「手の冷たいのココロが温かいなんて、ありゃ嘘だよなぁ。
―――――――だって、俺はこの手の温度のまんま人間だし」
遮るように唐突に告げられ、喜美は目を瞬かせる。
それがわかっていてもなお意図の読めない言葉を蒼助は続けた。
「ヤッた女全員に言われりゃ、ほぼ確定だと思うぜ。……俺は、こういう人間だ。俺自身の好き嫌い関係なくな……」
「そうね……私は嫌いじゃないけど。あんたのその容赦なく情を入れ込ませないところ」
「ああ、俺も自分のこういうところは嫌いじゃねぇよ。それを寛容してくれるお前もな」
蒼助は目の前の女に対し、思う。
そういえば、この女は数少ない自分との割り切った関係を受け入れた存在だった、と。
馴れ合いもなく、ただたゆたゆとぬるま湯のような時間を共有してきた共犯者。
嫌いではなかった。
だが、気づいてもいた。
この女も根本的なところでは―――――――他の女たちと同じものを抱えていると。
だから、この唐突な行動も蒼助には理解できていた。
大人であるからか、辛辣な経験を重ねた上で得てしまった達観した理性故か、喜美は自分のその根底にあるものを上手く隠してきていた。情事を除けば。
そして、今も。
妙な悪足掻きではないのだろう。
彼女が自身につける彼女なりのケジメ―――――――だと蒼助は推測した。
きっと、最後だけは曝け出そうしているのだ。
今まで隠してきたものを。
『―――――――蒼助』
情事の際に垣間見えていたものが、今の喜美の眼の中にも見える。
気づいていた。
だが、無視し続けてきた。
自分たちは気づいてやる義理も何も無い関係で、それで終わらせるような煩わしい真似をする気は毛頭なかったから。
蒼助は喜美の眼を見ながら考えた。
馬鹿げた遊びに付き合わせてきた女に、最初で最後にしてやれることを。
最初で最後の―――――――彼女を想って何をするかを。
考えた。
考えて―――――――決めた選択だった。
「……あいつは俺が触れると熱いって言った」
そう切り出した瞬間、喜美の眼の奥の熱が凍り付くのを見た。
しかし、それは意図した通りのことに過ぎず、蒼助は構わず続けた。
「昨日は、邪魔が入って最後までいけなかったがあいつに触ってる間………イカレそうなくらい頭も身体も熱くなるのが自分でもわかった。あんな風には童貞喪失した時
ですらならなかった。あんな感覚、他じゃ味わえねぇ―――――――絶対な」
音の一つ一つに念を―――――――拒絶の念を込めながら、紡ぐ。
それは蒼助にとって、初めての己の我を通すためのものではない『拒絶』だった。
おそらく、同時に最後にもなる―――――――他人の為にと思ってする『拒絶』だ。
「―――――――あの感覚をお前で味わえるのか? お前で、俺は熱くなれると思うか?」
「―――――――」
自分にも良心というものが存在するのだな、と蒼助は再確認していた。
本当に気まぐれに出てくる僅かなそれは、これからは唯一人の為に使われ、或いは唯一人の為に押し殺すことになるだろう。
その前に、それ以外の人間に一度だけ使うことにした。
こんな風に思ったのは、千夜の影響なのかもしれない。
目の前の強がる姿に、一瞬だけ恋人の姿が重なって見えてしまったのだ。
もうこれ以上傷つかせはしないと己に思わせた彼女が、また傷つこうとしていているように見えてしまった。
気づいて欲しかった。
こんな男にこれ以上望みの無い想いを抱く必要は無い。
本当に後腐れのない関係とするならば―――――――彼女はここで抱かれてはダメだ。
「…………押しが、足りないわよ。そこははっきり断言しなさい」
「そうか?」
「そうよ。もっと、容赦ない切り捨てぶりで散々恨み買ってきたくせに………」
くすり、と笑う喜美は、蒼助のまわりくどい言葉の意図を全て理解した。
それがキツイ一言で叩ききられるよりも、ずっと胸に来る痛みとして突き刺さった。
「……最後の最後で優しくしないでよ……って言うところなんだろうけど、あんた歪み過ぎ。私が相手じゃなかった散々ヒス起こされて、下手すりゃ殺されるわよ? 本命
の彼女さん相手にもそんな感じでいくわけ?」
「お前相手と一緒にすんな。もっとストレートに口説くに決まってるだろ」
「……………………想像してみたけど、気持ち悪いだけだわ」
「てめぇ……」
睨んでくる蒼助に怯む様子もなくゴメンと苦笑すると、喜美は静かに蒼助の膝の上から退いた。
背を向けて立ち、一息ついて、
「……拒まれて、こんなこというのはおかしいかもしれないけど…………ありがとう」
まさか礼を言われるとは思わなかった、蒼助は眼を少し見張った。
「自分でもこれ以上馬鹿なことするなって思いはしたんだけど………まだまだ、ね。ガキっぽいところが抜けてなかったみたい………案外被虐癖でもあるかしら」
「………お前は」
何か言いかけて一度止まる蒼助に、喜美は「ん?」と視線でその先を強請る。
それを受けて、気恥ずかしげに蒼助は続きを紡いだ。
「……イイ女なんだから、おとなしくしてりゃこの先もっと優しくてマトモな男が食いついてくるって。だから……」
「自分を大事にして、自分みたいな酷い男は忘れろ………なんて、王道な台詞まで聞かせてくれるわけ?」
「……先に言っちまったじゃねぇか」
「あんたの口から聞きたくなかったからよ。言ったでしょ、押しが足りないって。………私のためとか……少しでもらしくないこと通すなら、酷い男らしくしなさいよ」
「…………」
何も言えなくなった蒼助に、喜美は背中越しに問いを一つ投げる。
「……初めて会った時のこと、まだ覚えてる?」
「お前が前の学校でちょっかい出したけどうっかり本気させちまって、こっちに来てからも散々つきまとわれた挙句邪険に扱ったらキレた男子生徒に襲われてた時の
ことか?」
「………意外。きちんと憶えてるのね」
「お前、俺よりえげつねぇことやってたからなぁ」
「まーねぇ……あの頃はトラウマ全開入ってて、男子高生憎くさで食っては弄んでたから」
何処か追憶を目の前の光景に透かしてみるような眼差しを、喜美は首を捻って蒼助に移し、一瞥しながら呟く。
「……まさか、その憎い男子高生に助けられるとは思わなかった」
「…………」
初めて会った時の喜美は、男に殴られ服を破られボロボロだった。
優しくしてやる義理はないがだからといって女を殴る趣味もない蒼助には、己の行為は当然とばかりに好き勝手に喚き散らして暴虐ぶりを振るう男が偶然通りかかり見て
しまったとはいえあまりにも見苦しくて、ついボコボコしてしまったのだ。
「……まぁ、いろいろ勝手が違ったみたいだけど。まさか、ボコボコにするだけして教われてた私をほったらかしにしてそのまま去っていっちゃうとはねぇ……」
「………若気の至りで、すんませんでした」
二度と会うことはない、と踏んでの行動だったが、まさか数日後にこの学園に保険医として赴任してくるとは、あの時は思ってもみなかった。
「今だから言えることだけど…………実のところ、別に怒ってなかったのよね」
「は? だってお前あの後こっちで再会して散々嫌味とか脅しとか……」
「大人になると、素直になれなくなるのよ。………不器用なやつはより一層不器用になったりしてね……。あと、手段も選んでられなかった」
「手段って………何の為のだ?」
「………あんたって、そういうところで抜けてるわよね」
さっぱりわからんとばかりの顔をする蒼助に、喜美は溜息をついて呆れ返った。
そして、不意に薄く笑みを浮かべて蒼助を見た。
「……あんたがガキで年下でどれだけ酷い男だってわかってても、私にはあの時から素敵な白馬に乗った王子様だった。……あんまり、自分を嫌ってやるもんじゃない
わよ。少なくとも、あの時……私はあんたにいろんな意味で救われてんだから………」
じゃぁね王子様、と再び背中を向けて、喜美は後ろ手を振って保健室を出て行く。
蒼助は引き止めなかった。
背中が声をかけるなと語って見えたから。
ぴしゃり、と静かに閉まるドアの音が―――――――ひとつの終わりを告げた。
それを聞いて、蒼助はこれで二つのことが確定したのを悟る。
五月まで保健室に立ち入れない。
そして、これでもう二度と彼女に会うことはないだろう、と。
そして二つ目。
この保健室に漂う何処か停滞感のある雰囲気が、実は気に入っていた。
喜美と知り合って以来、落ち着きたいと思うと赴くようになっていた。
だが、今になって蒼助は気づいた。
この独特の空気は、喜美が醸し出していた彼女の雰囲気そのもの。
きっと自分は彼女に会いに来ていたのだ。
心地よい停滞の時間と空間を生む女に。
結局、自分たちはなんだったのだろう、と蒼助は今更なことを考え耽った。
悪友か。
共犯者か。
考えて、考えて。
そうしてわかるのは、やはり一つの感情の存在が確かにあったことだった。
『嫌いではなかった』
先程の喜美の言葉を脳裏に蘇らせながら、
「……俺もだ」
それが、この冷たい情の欠いた人間をそう評した女に対して抱いた想い。
きっと、それだけのだろう。
たったそれだけのことなのだ。