昼時、屋上にいたのは一組のカップルだけではなかった。





 一つ遅れてやってきていた『観察者』が、彼らを死角から見守っていた。

 



「……なんちゅーか、ここって壁薄くて音が響くから見なくてもなにしとんのかよぉわかるなぁ」

「階段上がって壁に耳を当てる必要もないな。というよりも、これ以上近づこうとしたら絶対バレる」

「せやなぁ」

 

 呑気な会話がごく最小限に抑えられた小音量で交わされる。

 会話の紡ぎ手は昶と七海だ。

 階段の一段目に腰を据えて、外から筒抜けの会話を肴に各々の昼食が進む。

 

「……なぁ、今更なんけども」

「何だ」

「今日って四月馬鹿ちゃうん?」

「だいぶ前に終わった。もうすぐ五月だ」

「……そうなんやけども」

 

 なんか信じられへんやん、と七海はカニクリームパンに噛み付きながら告げる。

 

「ついこの間までフラフラしとったあいつが……やで?」

「人間なんてもんは、いつ何処でどんな風に気が変わるかわからない生き物だ。あいつも例外じゃなかったって話さ」

「そんなもんかなぁ……」

 

 七海は納得できないとばかりに眉を顰め、モグモグと咀嚼する。

 彼女の中の観察対象たる友人の印象は、とにかく女にだらしないというもの。

 実際に、何度か『現場』に遭遇してしまい、非常に嫌なものを見せられたこともある。しかも、毎度違う女だった。

 

 この男が本気になるとしたら一体どんな女だろう、と七海が考えていたのも随分前のことだ。

 そして、今―――――――その疑問の答えがある。

 

「なぁ、妙なこと言おうとしとるのはわかっとるけど……ウチ、最近ほんまおかしいんや」

「何だ突然……どうおかしいって?」

「どうっちゅーかなぁ………自分でもよぉわからんのやけども……そのぉ、なんちゅーか」

 

 うーん、と頭を捻るように傾ける。

 七海は、まだはっきりと把握しきれていない様子で、歯切れ悪くも心中に渦巻くモノの旨を口にした。

 

「なんか、胸焼けみたいなんがずっと続いとんねん。あ、微妙にちゃうかも。……チクチクこの辺りが……痛い、いや、疼く? ……なんやろなぁ、すっきりせんって

言えばええんやろかなぁ」

「はっきりしないな。……ストレスでもたまってるのか?」

「あ、近い……あれ、でも何にや……?」

「こっちが聞きたいんだが」

 

 ボケをかます七海に、昶は脱力づきながらも、

 

「……心当たりはないのか? そういうのが、一層強まる時に特定の何かを意識しているとか」

「特定の……………」

 

 問いを聞くと、七海は突然考え込むように黙り込んだ。

 何か思い至ったように一瞬目が見開いたが、その後更にのめりこむように沈黙を深くした。

 

「おい、どうした」

「……わからん。何でや?」

「都築?」

 

 自問自答を繰り返す七海。

 埒が明かないと判断した昶は、一度我に返させるべく肩を叩こうと手を上げた。

 

「つづ」

「……蒼助」

「なに?」

「あんなぁ………蒼助が、ちーちゃんとおる時なんや、ここんとこがいっちゃん痛くなんの。何でやろかぁ」

 

 不思議そうにやり場のない視線を上方へ漂わす七海に対し、昶は何故かビシリと表情を強張らせた。

 その様子の変化に、七海は気づくことも無く腕を組んで唸った。

 

「わからん……わかんのや」

「……まさか、ここまで鈍かったとは。しかも今になって……」

「ん?」

「いや、何でもない……気にするな。あと、それに関しては……多分、あまり大したことじゃないと思うぞ。大方、今まで否が応にも腐れ縁づいて絡んできた奴が、急に

離れていったもんだから今の状態に違和感を感じているだけだ」

「……寂しい、とか?」

「そうだろ」

 

 そうやろか、と七海は完全に振り切れたまでとはいかないが、納得した様子を見せた。

 昶はそれを見ると、肩を力が抜けるような一息をついた。



 そして、心の中で一人心地にぼやいた。

 本当に何で今更になって気づくんだ、と。

 

「あっ、ちゅーか、寂しいのは早乙女もやないんか?」

「はぁ?」

「世話女房はんは、自分の亭主が他の女のとこ行ってもうても悔しくも寂しくないんか?」

「亭主って」

 

 嫌な呼び方するなよ、と昶はあからさまに嫌そうな顔をした。

 

「……ようやく一人立ちしてくれた子供に対する親の安心感はあるがな。いいだよ、これで。厄介な奴の世話を押し付けることも出来たしな。……それに、俺は夏から忙し

くなるんだ……ちょうどいいタイミングだった」

「忙しゅうなるって……」

―――――――後継者候補による次期当主選抜の儀」

 

 その返事に、七海はハッとした反応と共に表情を変えた。

 

「そうか、辰上(たつがみ)の方じゃもうやりよるんやなぁ……」

「ああ。矢代(やしろ)はまだなのか?」

「……うん、とりえあずまだみたいや。……まぁ、やるとなったら一応報せは来ると思うけど」

「お前も候補の一人に数えられているんだよな? 来たら、どうする?」 

「やれって言われるやろうけど………ウチは、イヤやなぁ。弓引くんは好きやけど、組織背負ってとなると……今までとはちごぉなってくるやろし」

「まぁな。当然、いろいろ面倒くさいしがらみが今まで以上に強く絡んでくるのは避けられないだろう」

「……当主……叔母はんは、好きにしたらええゆうてくれはってるし………まぁだ、一人身で年もヨソと比べると若い方やから選抜の儀もまだ無いと思う。せやから、まだ

あんまり深く考えとらん。でも、どっちかっちゅーと……ウチは、弓だけ続けてたいなぁ」

「そうか……」

「もし、夏のそれに選ばれたら……どないなるん?」

「申し立てれば、卒業まで待ってもらえるだろうが………向こうは、中退を進めてくるだろうな」

「そういうんあるからやぁなんや、一族って。……まるで、こっちの都合も何も知らんって顔しよるからに……」

 

 嫌気がさした表情をあからさまに見せる七海に対し、昶の反応は涼しいものだった。

 

「仕方ないだろ、それが組織というものだ。……俺たち個人は、所詮一つを構成する為のその部品でしかないんだよ」

「ヤな言い方やなぁ……」

 

 昶の皮肉った言い様に、七海は苦笑いを零した。

 

「……ところで、朝倉は最近見ないな。今週の始めあたりから、ずっと欠席か?」

 

 心なしか重くなった空気を一新するべく、昶は些か強引に話題の切り替えに入った。

 新たな話の肴に選んだのはこのところ姿を見なくなったクラスメイトの消息についてだった。

 

「ああ、渚は……なんか、実家に帰るゆーてたで」

「実家? 青森の朝倉本家にか?」

「ちゃうって。伊勢の方やとゆっとったけど」

「伊勢神宮……確か、そこは母方の家だったか?」

「そうゆっとったかな………なんか普段ふざけとるけど、あいつもいろいろ複雑な事情抱えとんやなぁ」

 

 新たな話題も暗く沈みかけていた。

 業界がらみとなるとどうにも明るい方向には話が傾かないな、と二人が思ったかどうかは定かではない。

 

 その時、

 

 

―――――――何処触ってんだ、この馬鹿っ!!!」

 

 

 壁伝いに空間に響く怒声。

 突然の外部からの投球に、二人は揃って肩を竦ませた。

 おそるおそる屋上に続く階段の上方に顔を上げて、

 

「………胸か、尻か?」

「あいつのことだから両方かもな。……どっち触ったにしろ雰囲気ブチ壊したに変わりないがな」

「今までやったら、そのまま次に持ち込めたかもしれんけどなぁ。……ちゅーか、あの二人実際どこまで行っとるんやろ。今、蒼助ってちーちゃんちに居候しとるし……」

「……あの反応を見るあたり本懐は遂げていないだろうな。だが、蒼助のことだ……途中までいくら手は出していると思うが……」

「おー、さっすが元・世話女房やな。ちゃんと習性把握しとるやん」

「好きで理解出来るようになったわけじゃ……」

 

 意図せずしてようやく話に盛り上がりが出始めたところに、彼らの隣で不穏な音が水を差すように鈍く響いた。

 

 ―――――――グシャ。

 

 何が潰れる音の直後、ビチャビチャっと液体が床の上を打つ音が続いた。

 



「……え、久留美?」



 

 始まりから一言も発さないものだから今の今まで存在を忘れかけていた人物は、何故か口していたであろうイチゴミルクを握りつぶしていた。手加減も何もなしに圧力を

受けた紙パックは見る影も無く拉げてしまい、中身は全て零れて床の上のぶちまけられていた。

 久留美はというと、恐ろしいまでに無表情で自身の手がベタベタに汚れているにも関わらず何の反応も示さない。

 いっそ不気味なまでに静かだった。

 七海はおろか昶までもが、声をかけるのに躊躇を抱いた。

 

「……おい、どうしたんだ新條」

「………………何でもない」

「何でもないって、いくらなんでも無理が……」

「ごめん、誘っといて悪いけど………先戻るわ。手も洗いたいし」

「あ、オイ……」

 

 久留美は素っ気なくそれだけ言うと、そのままその場を去っていった。

 残された昶と七海は、わけもわからずその背中を言葉も無く見送り、

 

「……なんや、突然」

「わからん」

 

 ただ呆然と呟くだけだった。

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 屋上手前の踊り場から去った久留美が向かったのは、そのすぐ下の五階のトイレの流しだった。

 手にベタベタと感触と共にまとわりつく甘ったるくくどい匂いをどうにかする為に。

 

「……ったく、味はいいけど零すと匂いが厄介なのね」

 

 ぼやきながら蛇口を捻る。

 溢れ出る水の中に手を差し入れて洗い流すが、匂いはなかなか取れない。

 消臭スプレーでも持ち歩いていればよかった、と根気良く水を浴びせ続ける。

 

「…………はぁ、何やってんだろ……私」

 

 自嘲じみた呟きと共に、溜息を漏らす。

 俯いた後に上げて見た自分の顔を見て、目の下に隈が濃く出ていることに気づく。

 睡眠不足によるものだ。昨日はほとんど寝ていない。

 

「あーあ、ニキビも出来ちゃってる………帰ったらたっぷり寝ないと」

 

 情報と交渉材料の収集。

 交渉という危険な駆け引き。

 加えて夜明けまで回収したカメラのデータの修正。

 

 今回一番働いたのは間違いなく自分だろう、と久留美は自分を讃えた。

 

「………本当、よく働いたわよ私。……こんな、何の利益もないことにね」

 

 いつになく自分が必死だった事実が、今になって自覚として久留美に訪れる。

 

 己の手の平をふと見る。

 昨日、この手は人を殴ったのだ。

 理由は何だっただろう。

 喚き散らしているのがあまりにも耳障りで我慢ならなかったからか。

 


 ………違う。


 

 我慢ならなかったのは、別の理由がある。

 あくまで己を正当化しようとするあの女に腹が煮え繰り返った。

 怒りの矛先を見当違いな方向に向けて、理不尽に傷つけた―――――――『彼女』を。

 


 ………殴ったんだから、殴り返して当然よね。


 

 今朝会った時に、千夜の口元についていた絆創膏が目に付いた。

 何故か額にまで大きなそれがついていたのはわからないが。

 

「私、頑張ったのに………なのによ、あの二人ったら」

 

 きっかけさえあればくっつくだろう、と思ってはいた。

 蒼助は最初の頃から何かと千夜を意識していたようだし、千夜の方だってまんざらでもないようであった。

 彼らが惹かれあっているのは、第三者視点から見れば明らかな事実だった。

 今回の件は、良くも悪くも微妙な距離に変化を与え決定的なきっかけとなっただろう。

 

 今日見た光景は、なるようなった結果そのものだ。

 あれだけフルで動いた苦労は報われた。

 

 ―――――――なのに、

 

「なんか、釈然としない……」

 

 呟いてから、七海の言葉が脳裏に蘇った。

 七海自身は自覚していないが、彼女は蒼助に好意を持っている。

 それに気づいているのは、自分と昶だけだろう。

 当然、相手である蒼助も本人と同様に好意に気づいていない。友人となったら対象外になるのなら、まず間違いない。

 失恋してようやくその秘めたる想いが彼女の中で存在を主張し始めたのだろうが、既に手遅れだ。だから、昶もあんなに焦っていた。大方、彼も千夜が現れなければ

七海とくっつけばいいと思っていたのだろう。



 しかし、それはならなかった。こうなったら、ことこん気づかせてはならない。

 寝てる赤子が起きてしまうと面倒なことにしかならないのは目に見えている。

 


 ………だからって、何で私まで。


 

 ここがわからないのだ。

 何故、自分まであの二人が一緒にいるところを見てこんな気分になっているのだろうか。

 


 ………まさか私まで………って、それは無いわね。


 

 蒼助は―――――――無い。

 ここまではっきりと断言出来ることは他に自分の中ではないとまで言える。

 あの男は出会いから何故か気に食わない。それもずっとだ。

 怨恨の類ではない。ただ、本当に気に食わないのだ。

 

 理由を挙げると、性格から言動、素行までいろいろケチをつけることができる。

 だが、それらはどれも漠然とした決定的とは言い難いもので、これといった原因は見つからない。

 あの男に対する嫌悪感は、はっきりとしたものがわからない苛立ちも込みなのだろう。

 

 だが、対象が蒼助でないとなると―――――――

 

「えっ、ちょっと……それって」

 

 嘘でしょ、と久留美は思わず頭を振った。

 

「な、無い! ナイナイ、絶対に無い!!」

―――――――何が無いんだ?」

「ぎゃっっ!?」

 

 突然、予期せぬ掛け声が出入り口の方から来て、思わず叫んでしまう。

 思い切り動揺しながら振り向くと、

 

「か、千夜っ? な、何で……」

「もうすぐ昼休みも終わるから教室に戻る前にトイレを済ませようと思って。………そしたら、ヤケにデカい独り言をしている奴がいるなと思えばお前だったから声を掛け

たんだが」

「え……」

 

 外に聞こえるほどだったのか。

 恥ずかしさと冷や汗を同時に感じる。

 

「なぁ、何が無いんだ?」

「へっ?」

「探し物なら手伝うぞ」

 

 からかう様子はなく、真面目にそう聞いているらしい。

 だが、勘違いしている久留美には好都合だった。

 

「何でもないわよ。別に何か失くしたわけじゃないから」

「……そうか。……だが、何か困ったことがあったら言ってくれ。俺に出来ることなら何でもするから」

「何よ、急に……」

 

 千夜は何か含んだ様子もなく率直に答えた。

 

「お前には今回助けられたからな。礼には足らないだろうが……出来ることがあれば報いとして返させてほしい」

「へ、へぇ……あんたは……彼氏と違ってちゃんと感謝してくれるのね」

「カレシ……?」

「ちょっ、アンタ……それはないでしょ」

 

 そこはボケるとこじゃないだろう。それとも本気なのだろうか。

 この反応を当人が見たら泣くかもしれないな、とここにはいない男を少しだけ気の毒に思う。

 

「……蒼助は?」

「先に教室に帰ってもらった」

「そ。……まぁ、女子トイレの傍で待っていられても困るもんね」

 

 これといって理由は無いが、なんかイヤなものだ。

 男にはわからない感覚だろうが。

 

「んと、まぁ……良かったじゃん」

―――――――え」

「上手くいったんでしょ?」

 

 途切れようとした話題を繋ごうと思っていたら、そんなことを口にしていた。

 その瞬間、何故か胸が痛んだ。

 七海が言っていたチクチクとは違う。ズキン、という擬音が嵌るはっきりと痛みだ。

 

 無理やり無視しながら、千夜の反応を待つ。

 

「ああ、まぁな」

 

 千夜の反応は意外と薄かった。

 さっきといい今といい、こちらのからかう気が失せてしまうほどに素っ気無い。

 惚気られたらそれはそれで腹が立つものだろうが、これだけ淡白だとまたしっくりしないものである。

 


 ………ひょっとして、私らが思ってるほど進展していないとか?


 

 昶と七海がいろいろ勘繰っていたが、実際はどうなのだろう。

 壁伝いに反響して聞こえてきた会話からはそれなりに甘いものを感じた。

 過剰なスキンシップは千夜に通じていない初心な反応を考慮すると、身体の関係までは一晩で行きつけなかったともとれる。

 


 ………まさか、キスすらしてないってことは。


 

 いくら本命相手だからといって、そこまで遠慮はしないだろう。

 こういうのを下種の勘繰りというのだろうが、気になるものはなるのだから仕方ない。

 人間の一種の性というものだ。

 

「……久留美?」

「え、なに」

「急に黙ってどうした」

 

 どうやら考えに入りすぎて、随分長く沈黙していたらしい。

 何でもない、と返そうかと思ったが、千夜相手ではさすがに二度目は通じないだろう。

 どうしようかと対策を迷ったところに―――――――昼休み終了のチャイムの放送が流れた。

 

「……あ、行かなきゃ」

「そうだな」

 

 出来るだけ自然を装って何とか話を逸らすことに成功した。

 千夜が流されてくれたことにホッとした矢先、

 

―――――――っ」

 

 それは千夜がクルリと向きを変える際のことだった。

 いつもと違って何故か降ろされていた長い髪が動きに合わせて、ふわりと浮いた。

 その僅かな瞬間に見えたものを久留美は見逃さなかった。

 

「……ちょっと、失礼」

「久留美……?」

 

 項にかかる髪を指先で退ける。

 髪の隙間から見えたそこには―――――――赤黒い小さな斑点があった。

 

「……ここ、虫にでも刺されたの?」

「っっ!!」

 

 問いかけて一秒にも満たずして、千夜は驚いたように久留美を振り向いた。

 

 

 その顔は―――――――久留美が見たことも無い『女』の(かお)だった。

 

 

 

「な、なっ」

 

 千夜は沸騰しそうなくらい顔を紅潮させ、首の後ろを押さえて金魚のように口をパクパクさせている。

 こんなに動揺している千夜は、やはり見たことが無かった。

 

「……こ、これはっ………くそっ、あいつこんなところにまで」

 

 ここにいない男に向けて怒りを向ける千夜。

 その姿に、胸の疼きが増した。

 

 ………なんだ、やることしてんじゃん。

 

 納得という感覚が胸に落ちてくる。

 同時に奥底からボコリと何かが沸き立った。

 

 ボコリ。

 ボコリ。

 ボコリ。

 ボコリ。

 

 気泡はどんどん発生して、沸騰を促していく。

 


 ………ずるい。


 

 そう呟いたのは、内側で沸き立っては弾けていく気泡だ。

 ドロリとした黒い泡が、久留美の抑圧していた不満を少しずつ解放していく。

 


 ………私、だって。


 

 自分だって頑張った。

 千夜の為にかなりの無茶をしたと思う。

 蒼助は次に暴力沙汰を起こせば、退学というデメリットを振り切って身体を張った。

 だが、それは自分だってそうだ。

 犯罪めいたギリギリの行為に手を染めて、イチがバチかの賭け同然の行動に出たのだ。

 怖くなかったわけがない。怖かったに決まってる。

 けれど。けれど、怖気づいてしまうわけにはいかなかったから。

 


 ………何で、蒼助だけ?


 

 ずるい、と口をついて出てきそうなくらい内側の不満が膨れ上がる。

 そして気が付けば、その臨界点は既に越えて口を開いていた。

 

「………ねぇ、千夜」

「ん?」

 

 千夜はきょとんとした顔で受け答えた。

 

 ちゃんと自分を見ている、という理解すると、それが最後の箍となっていた理性で出来た留め具をパチンと音を立てて外した。

 

 

 

―――――――さっき、出来ることなら何でもしてくれるって言ったよね?」

 

 

 



 ◆◆◆◆◆◆



 

 

 

 思えば、ここが己の運命の分かれ目だったのかもしれない。

 

 それを彼女自身が知るのは―――――――悔やみ切れない後悔と未来の決断の狭間に立つ、もう少し先の話である。

 

 

 

 

 

 

 

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