―――――――あれは、まだ小学生だった頃の出来事だ。
乱暴で手加減なし。
その上、子供であろうと容赦しない。
母親がそういった大人げないを恥じることもなく堂々と地でいく人間であると、その頃から蒼助は十分理解していた。
だが、それは驕りだった。
あの時の子供は、自分の目で見てきたものが全てであると信じていた。
それを覆されたのは、皮肉にも同じように己の目で見たモノによってだった。
親子関係に十年目を迎えようとしていたあの時―――――――自分は初めて”己の母親という存在”を本当の意味で知った。
蒼助は、今もそう思っている。
◆◆◆◆◆◆
夏。
その日は特に暑かった。
いつもは真っ直ぐ家に帰るはずの帰路は、その日は少し違っていた。
帰れば、鍛錬とその指導者である母親が待っている。
夏だろうが冬だろうが、それは変わりない。
嫌だというわけではなかった。
寧ろ、学校でのかったるい勉強よりもずっと充実感を感じていたし、自分の目標に向けて走るのは辛く苦しくも、楽しかった。
だが、今に比べれば自分は当然のこととはいえ、幼かった。
身体だけではなく、心も子供であった。
遊び、という誘惑を完全に振り切れるような理性はなかったし、それほど周囲の人間に対して冷めてもいなかった。友達と遊びたいという年相応の欲求だってあった。
同級生が今日は何処で何をするかという相談の声を耳に入れて、羨ましいと思う気持ちは常々感じていた。
あの日は暑くて、何をするにも少しかったるく感じていて。
だからだ。
クラスメイトの誘いに乗っかってしまったのは。
あの頃はの自分は、普通の子供のいう「遊び」というものをあまり知らなかった。
ゲームセンターというものは知っていても、実際に経験したことはなかった。
怠惰と誘惑に負けて、そこにどんなリスクが待ち構えているかも知らずに行った。
初めて間近で見て触るゲーム機にすぐに夢中となった。
娯楽というものに縁遠い自分はあっさりと魅了されて、周囲が見えなくなった。
そして、その時は既に忘れていた。
『子供だけでゲームセンターに行ってはいけない』という学校の教師の警告を。
そして、その意味もその時は知らなかった。
今思えば、子供の頃の自分は本当に無知だった。
学校の登下校をを除いて過ごすのは玖珂の屋敷で、接するのは屋敷の中の人間だけ。
他人の悪意というものを既にその頃は知っていたが、それは悪魔で自分にそれを引き寄せる非や落ち度あるからのものであって。
知らなかった。
何の縁もない人間が、その瞬間に何の躊躇もなく向けてくる悪意なんてものも。
あっさりと保身の為に他人を切り捨てることが出来るなんてことも。
気づけば蒼助は数人の男子高校生に囲まれていた。
同時に、一緒に来たクラスメイトもいないことにもそこでようやく気づいた。
自分が大きな失敗をしたことにも。
無論、抵抗はした。
日頃散々母親に鍛え扱かれているのだ。多少の心得はあった。
しかし、多勢に無勢。
体格も力も違う相手に適うわけがなかった。
その日、卑怯な手段というものを皮肉にも身をもって知った。
高校生たちの目的は金だったが、自分から巻き上げたそれは既に半分以上使われた後に残った微々たるものだった。
そこで、彼らは蒼助が持っていた携帯電話で自宅に電話をかけた。
おそらく身代金めいたものを要求し、持ってこさせようとしたのだろう。
電話してから数分。
来たのは、自分の姿を確認するなり呆れた顔になる母親だった。
稽古をサボった上、こんなところで不良に捕まっているのだから無理もなかった。
情けなさと惨めさで、助けを乞う気力すら失われていた。
やってきた母親の予想外の若さと顔の良さに気が緩んだのか、余計なよからぬ考えを抱いたのか、一人がだらしなく顔を緩めて母親に近寄り要求した金をせびった。
瞬間的にその男が路地裏の壁に顔をめり込ませたところで戦闘開始となった。
決着は早かった。
多勢に無勢なんて言葉は常識縛られない母親には通じなかった。
寧ろ大勢相手に立ち回ることの方が経験豊富だったのか、実に慣れた手捌きであっという間に全員をのしてしまった。
呆然とする蒼助に母親は、
「どーだ、すげぇだろう」
胸を張って威張る様に脱力しかかると同時に空気も和んだような気がした―――――――その時だった。
気絶していたと思っていた一人が、立ち上がった。
再び起き上がったその男の手には、折りたたみ式ナイフが握られていた。
「このクソ女ぁ………ぶっ殺してやるっっ」
そう喚く男の目はギラギラとしていて、子供であった自分を怯ませるには十分だった。
だが、その次の瞬間。
比べ物にならない寒気を感じた。
それは向かう男からではなく、
―――――――背を向けた母親からだった。
思わず振り向こうとした時、母親は入れ違い前へ出た。
顔は見ることもないまま、背中を向けられてしまった蒼助はその後の母親がどんな顔をしていたのかはわからなかった。
だが、
「……殺す、ねぇ」
からかうような、笑いを含んだ声だった。
しかし、それは笑い声とは程遠い―――――――冷たさを感じた。
聞いたこともない母親のその声に、その時思わず凍りついてしまったのは今も覚えている。
不良は一瞬何を見たのか、怯えたように萎縮した。
しかし、半ばヤケになった男は絶叫で虚勢を張りながら、ナイフを振り上げて襲い掛かってきた。
迫ってくる追い詰められた人間の狂気じみた迫力に、あの時自分は思わず声を上げて悲鳴をあげた。
あの時は気づく余裕はなかったが、時が過ぎて振り返っている今ならわかる。
手にはナイフという鋭利な殺傷力を持った凶器。
母と自分は素手だ。
追い詰められているのは、自分たちであったはず。
なのに、あの男のあの時の行動は―――――――追い詰められた末の捨て身の攻撃だった。
いつの間にか逆転していた立場。
しかし、あの時はそんなことに気づくわけもなくただ脅威に怯え、母親の後ろでパニックになっていた。
それも次の瞬間には治まった。
母親は己に目がけて袈裟がけに振り下ろされるその瞬間に相手の手にあったナイフに突き上げるように足を振り上げたのだ。
迷いのない真っ直ぐで的確な蹴りは見事にナイフを捉え、蹴飛ばした。
蹴り飛ばされたナイフはヒュンヒュンと旋回しながら、真上に高く上がった。
男が呆気に取られている間も、母親はまだ動いていた。
すかさず片腕が横に広げられて男の首にぶつけられた。
男がハッとした時には既に手遅れで、あっという間に身体を反転させられて首を片腕だけで締め上げられた。
それらはナイフが重力に服従して再び地上に降りてくるまでに行われ―――――――最後は、落下してきたナイフまでもが母親の手に収まって行動は終了した。
終わった。
―――――――そう、思っていた矢先のことだった。
「……っぐ!? ……ぇ、ぁっ……」
男は突然、大きく呻くと吐息のような声を途切れ途切れに発し出した。
ホッとしかけていたところに再び起こった不穏の気配に、思わずつられて息を詰まらせそうになった。
母親の様子がおかしい、とそこでようやく気づいた。
自分の知る母親なら、勝負がついたとわかれば相手がどれだけ吠えようがそ知らぬ顔で立ち去るだろう。
しかし、この時の母親は何かが違った。
だが、思えばこの時が始まりではなかったのだ。
不良が発したあの言葉。
母親から感じた寒気。
冷たい笑い声。
数分前から、もうおかしくなっていたのだ。
そのことに気づいた時、母親はあの瞬間から初めて言葉を発した。
「………なぁ、お前さっき何て言ったっけ? アレ、すっげぇウケたからもう一回きかせてくんない?」
「……はなっ………か、は、……」
「殺す、だっけ。…………アタシさぁ―――――――その言葉、大っきらいなんだよねぇ」
「ひ、ぐぅっ」
「特にお前みたいなのが言うのは、さ」
男がどれだけ呻こうと、あくまで母親の声は静かで平坦なままだった。
背中を向けられている為、やはり顔は見えない。
一人取り残された気分でも尚、母親の言葉は続いた。
「殺したこともないくせに、よく言えるよなぁ? こんな、人を殺さなくてもすむような世界でのうのうと生かされ生きてて……人をどうやったら確実に殺せるかもしら
ねぇようなケツの青いクソガキが………軽々しく口にしてんじゃねぇよ、タコ」
「っ、……ご、め…………っさぁ……っ」
「なぁ、お前は知らないだけで……ちゃぁんといるんだぜ? 飯食うのと同じ要領で人殺さねぇと生きていくことすら出来ねぇのとか、殺したくないなんて言ったら自分が
死ぬしかないとかいうデッドオアアライブなふざけた選択肢とか。いけねぇなぁ。いけねぇよ。お前みたいにどーせこの先一度も本当の意味で手を汚すことねぇだろう世俗
のガキが、【その言葉】を安くしちゃぁなぁ。それとな、こんなもん使わなくても人なんて割と簡単と簡単に殺せるんだぜ? 首の骨って、結構コツさえあればあっさり外す
事も折る事も出来るし………そうしなくたって、ここんとこの喉仏ちょっと潰しかけりゃプッツリとイっちまえるんだ。おもしれぇだろ、なぁ?」
「っ……っ……っ……」
もはやガクガクと震えるだけとなった不良に、母親は尚も無感情な言葉を連ねた。
「……まぁ、口で言ったところでお前のカスカスなおミソじゃ理解なんぞできねぇか…………じゃぁさ」
クルクルと母親の手で弄ばれいたナイフが不意に止まって、嫌な予感を感じた。
その感覚によって無意識に喉がキュッと絞まったのは、今でも憶えている。
「―――――――実践しようか。頭でわかんなくても、身体でなら嫌でもわかるだろう?」
見えなくなったナイフが何処に当てられているかはわからずとも、本能がダメだ、と叫んだ。
ビンビンと頭に鳴り響く警笛に理性が耐え切れなくなって、衝動的に叫びを放っていた。
「―――――――………かあさんっ!!!!」
止めなければ、と。
縮こまった喉が痛くなるほどに、声を無理にでも張り上げて叫んでいた。
◆◆◆◆◆◆
沈黙。
気まずい空気が、すっかり自分たちの辺りに充満してしまっている。
自分でやっておきながら、と思いながら蒼助は、
「……んまぁ、こんなことがあったわけよ」
「………それで、どうなったんだ?」
「ん、一応未遂。そいつら放って家に帰った。………そノ後は、小遣いもらえなくなったけど」
おかげで中学に上がるまでゲームセンターには行くことがなかった。
遊ぶための金がないのだから。
「しかも、それからしばらく車で送り迎えだったんだぜ? もう、いろんな意味で悪夢だったっての、アレは」
「………お前は」
茶化そうとしたが、千夜の重い声はそれを許してくれなかった。
確認の声が続く。
「お前は、自分の母親が……俺と同じだったと、本当に思っているのか?」
「……………」
蒼助はその問いに非難の意を感じた。
いや、そうなのだろう。
何故自分の母親を信じてやらない、と。
「……本人から直接聞いたりはしなかった。それっぽい要因はそれきりだったしな」
「―――――――ならっ」
「でも、最近わかっちまったんだよ」
非難を強くしようとする千夜を遮る。
わかっている。
千夜が不器用で自分を卑下するが、優しい奴だ。
自分が母親をその隣に並べようとするのを否定したいのだろう。
他ならぬ、自分を想って。
だが、皮肉なことにこの事実を肯定させてしまったのは―――――――
「初日のあの騒動で…………神崎がさ、地面に這いつくばって言っただろ。俺にぶっ殺してやるって。その時、お前があの野郎を殴り倒してキレてさ………その後、言っ
た台詞がほとんどウチの母親のと同じだったんだよ」
―――――――殺したこともないくせに、よく言えるよなぁ?
あの時、そう言った際の見えなかった母親の顔。
千夜の時もやはり見えなかったが、あの寒気は同じものだった。
そう、きっと同じだったはずだ。
言葉を口にした時の顔も。
その感情も。
「………腹が立ったんだろ?」
何も知らないくせに、知った顔で何かを殺すなんて軽く言われたこと。
それがどれだけ重い行為であるかを知っていたから。
千夜は下唇をキュッと噛むと、そのまま俯いて、
「……ああ。あの時は……たまらく、苛立ったよ。そんなことしなくても、生きることを許されていることもわかっていないくせに、と」
「……そうか。だとしたら、おふくろも同じで……頭に血が上って高校生のガキ相手にあんなことやらかしたんだろうな」
思えば、自分は千夜に母親を重ねていた節があるかもしれない。
いや、僅かながらそうだったはずだ。
不遜ともいえる立ち振る舞い。
暴力にねじ伏せられることのない屈強な強い意思。
かつて永遠に失われた蒼助にとって他に並ぶことのないあの居心地の良さを、千夜の傍にいる時に自分は確かに感じていた。
母親は強い女だった。
そう思っていた。
それに違いはないのだろうが、完璧ではなかったことをあの日知った。
あの日以降、時折翳りのようなものを表情に見るようになった。
否。正確には、見逃さなくなったのだろう。
妄信で出来たフィルターのようなものが取れて、そこにあるものを正しく見れるようなったのだ。
………今更だが、そういえば俺って……何も知らねぇんだったな。
母親の存在は一族内ではかなり疎まれていた。
無茶苦茶な方法で本妻の座についたという点もあるだろうが、問題としてもう一つ―――――――他所の一族の出であったということもあるらしい。
蒼助は、母親が元は何処の一族の者であったか知らない。
無論何度か生前に聞いたことはある。
だが、母親ははぐらかすだけで答えることは結局なかった。
昔、一族内の何人かの人間が何度か馬鹿の一つ覚えのように【ある一つの陰口】を叩いていた。
―――――――穢れた一族の末端が、と。
退魔の世界にも家という組織に上下は存在する。
人口、或いは一族を維持させる為の権力と経済力。
それらによって、小さい大きい弱い強いの尾ひれが一族に付く。
穢れた、という言葉はそんなものを測りにして零したものではないだろう。
恐らく―――――――
………そういうのを生業にしてる一族もいるってのは、聞いたことあるけど。
人に仇なす人外を相手に戦う異能の民であるとはいえ、人を相手にしないということはない。
無論、その対象は一般人ではない。
寧ろ同族―――――――組織内の人間に向けて、だ。
古めかしい掟が存在しているカビ臭い世界だ。
権力争いを始めとした様々な陰謀も蠢いている。
そんな闇の中で暗躍し、汚れ役を背負う暗部を内包する一族も少なくは無い。
幸い、玖珂の一族には個々の思惑はあってもそういうものはない。
………だとすると、あのクソ親父も相当な無茶しやがったな。
退魔の一族は、それぞれ差はあれど課せられた業と使命がある故に、誇りとプライドは山よりも高い。
数ある武道系統の中でも剣神と呼ばれる玖珂も長く続いているだけに、それは果てしないものだ。
外部からの血を取り入れることはそれだけで、誇りを穢す行為に値する。
それだけではなく、穢れと罵るに相応する行いをしてきた衆の中にいた人間となったら―――――――
………千夜も、そういう組織にいたのか?
否、と思うには見苦しい疑問だ。
「………すまない」
「―――――――あ?」
突然横から入って来た謝罪に声に、蒼助は物思いの世界から引き戻された。
顔を向けると、申し訳なさそうに顔を俯けた千夜がいた。
「お前に嫌なことを思い出させてしまった……」
「……はっ、いや、おふくろのことに関しては俺が勝手に……あー、そもそも俺が言いたいのはなぁ……」
気づけば、せっかく出した話題は本来の目的とは真逆の効果を発揮し、空気を悪くしてしまっていた。
蒼助は慌てて、
「……だから、俺は別にお前が過去に何していようが全然気にしないし、責めるなんてのも絶対にしない。………おふくろにも、そうだった。人間ってのが一人一人違う
ように、どう生きてきたか、それまでどんな人生だったかだって違うんだ。……それがあって、今のお前があるっていうなら俺は何だってかまわないさ」
「…………」
出来るだけ多くの言葉を探した。
言葉なんぞその場しのぎにしかならないだろうが、それでも千夜の気負いが少しで減るのなら―――――――安堵させてやれるのなら、いくらだってくれてやりたかった。
ほんの少しでも自分のこの気持ちが伝わるのなら、と。
蒼助は、紛れもない自分の本音を形にできる言葉を模索し続け、
「………結果が出ちまった以上は、事実はどう言い繕っても変わらない。でも―――――――仕方なかったんだろ?」
「……しかた、ない?」
「お前が生きてきた世界はそうだったから……そうしないと生きていくことすら許されない場所だったから。……俺は知らないから、それがどんなだけのものかは想像も
つかねぇが……でも、そうでもしないと」
「―――――――止めろ、蒼助」
強い響く制止。
それが表情をより険しく、より硬くした千夜から放たれたものであると認識するのに 数秒ほど時間を消費した。
拒絶。
千夜の態度はそれを如実と表しているものだったからだ。
そして、もう一つ含むものがそこにあった。
それは―――――――
「……仕方なかった、なんて……言うな。吐き気がする、その言葉」
まるで憎い相手に吐きかけるような低い声で、千夜は言った。
「確かに、あそこはやり方を選んでいられるような猶予や余裕のある場所ではなかった。だが、俺は……選んだんだ。自分で、手を汚して生きる道を選んだんだ。誰に強制
されたわけではない……自分の意思で、だ!」
千夜は抑えきれない憤りに突き動かされるように、立ち上がると行動を歩みに変えて、蒼助の傍から離れていく。
「お前に悪気が無いのはわかっている。だが、その言葉だけは使わないでくれ。………俺が今まで歩んできた人生を、その言葉がたった一言で片付けて、それだけの価値
しかなかったみたいにする。その先の終わりも往く意味も何もかも覚悟して、俺が決めて、俺が歩んできた人生だ………どんなものであっても、それに変わりはない。誰に
どう言われようと、これは俺の一部だ。絶対に手放さないし、その存在を否定も拒否もしない。……一生向き合い、伴っていく……俺そのものだから」
行き止まった金網に手を掛け、握り締める。
風が吹いた。
千夜の降ろされた髪がされるがままに靡く。
意図されているわけがあるはずもないが、その背姿は全て計算されたように優美で、言葉を失うほどの凛々しさに満ち溢れていた。
綺麗だ、と飾り気ない単純な感想が蒼助の胸に落ちた。
同時に、その背中は美しさと共に孤高を描き、共存させていた。
それが、あの夜蒼助を救った背中だった。
「吐き気が、する……か」
白昼夢を見ているような気分でそれを見つめながら、蒼助は先程突っ撥ねられた己の言葉を脳裏に反響させた。
確かに、己の身一つで全ての責任と決断を背負ってきた千夜にとって、この言葉はあまりにも酷で醜悪なモノだっただろう。
これは、逃避と諦観の象徴だ。
まるで千夜に当てはまるところのない、使いどころを間違えた言葉だった。
だが―――――――蒼助は、母親を失ってからずっとそんなものに縋り続けていた。
逃げていた。
拒否していた。
否定していた。
前へ進むことを。
それに伴う痛みと苦しみを。
負うべき責任も覚悟も、他人に押し付けて何もかも放り捨てていた。
心の何処かで、そんな状態からどうにか脱したいとは思っていた。
けれど、堕落の中の安楽が終わるのが怖かった。
微かな前進への望みは、そんな恐怖に怖気づいていつも止まっていた。
………そうか、だからか。
あの夜見た千夜を、明けた後もどうしても忘れることが出来なかった理由。
それは、千夜が自分の求めていたものを持っていたから。
憧れというべきか。それとも理想というべきか。
なんにせよ、千夜はずっと求めていたものをその身を以て蒼助に知らしめた。
………あー、なんかわかったかも。
何で千夜にあんなに惹かれたのか。
何で千夜を好きになったのか。
こんなにも違うのに、と思っていた。
だが、寧ろ―――――――だからこそ、なのだろう。
あまりに違い過ぎて、自分がどう足掻いてもとって代わることなど不可能に等しい。
対極的な位置に存在する者。
「……だから、だろ」
そうだ、と己にわからせるように繰り返し念を押す。
自分とはあまりにも違いすぎるから、惹かれた。
この忌まわしくて仕方なかった己という存在とはかけ離れていたからこそ、その存在に焦がれた。
誰かに言って欲しかった。
自分では言うことが出来ても、どうにもならないから。
誰かにこの在り方を否定してほしかった
自分では認めたところで、どう変えることも出来なかったから。
誰かにこの腕を引っ張って欲しかった。
自分では抜け出すことはおろかそんな勇気も無かったから。
だから、千夜に求めていた。
かつて母親がそうしてくれたように、引っ張って前に連れていってくれることを―――――――
「―――――――…………蒼助?」
「……っ」
ハッと我に返ると、無心で見上げていた空を遮るように千夜の顔があった。
一度は離れた千夜は、いつの間にかこちらに戻ってきて目の前に立って蒼助を見下ろしていた。
「……どうした、突然黙ったかと思ったら……ボーっとして」
「あ、いや……」
「……気を、悪くしたか?」
気遣いを全否定された、と言ってもいい先程の千夜の言葉のことを言っているのだろう。
「そんなわけねぇだろ。お前が気に病んでねぇなら、それでいいさ。さっきみたいな調子でいけよ」
「………出来たら苦労しない。これに難しいんだ、いろいろ」
「……そうか」
安易にどうにかなるような問題ではない、ということだけは蒼助にもわかった。
蒼助がどう言葉を並べたところで解決しないということも。
………ちと、身の程知らずだったか。
自分のこともきちんと面倒見きれず、他人任せにしようとしていた人間が言うことなど『余計な口出し』の域を出ていないものだっただろう。
言わなきゃ良かった、と己を恥じていたところに、
「……ありがとう」
「えっ」
「あの言葉の前に言ってくれた台詞は、嬉しかった……」
そう言いながら、千夜は微かに笑った。
落ちかけていた気分が現金なほどに上昇するのを感じた。
太陽を背にして逆光を受ける千夜の笑み。
満開には程遠い、咲きかけの花ような。
ここにきて、初めて千夜の笑顔を見た気がした。
見つめながら、蒼助は思う。
強く、強く、生きてきたのだろう。
自分の中のたくさんの何かを削りながら。
もう、こんな風に微かにしか笑えなくなるほどに。
そんな千夜に、自分は何を望む。
それでも彼女に手を引いて導いてほしいと望むのか。
自問と共に脳裏に現れたのは、幼き日の自分。
母親の手なしでは、歩めなかった子供。
その姿は、少しして中学生の姿に変わる。
母親の手を失い、不貞腐れたようにイジけた目をした少年。
………ガキが。
脳裏の自分にそう吐き捨て、蒼助は手を伸ばした。
己を見下ろしながら立つ千夜に。
「えっ、ちょっ……」
腕を掴み、そのまま力任せに引いた。
強引な力に体勢と重心を崩された千夜は、そのまま蒼助のいる前へ倒れ込む。
膝を崩したところを蒼助は遠慮なく抱き込んだ。
「………何だ、一体」
「いいから」
「おい」
「……頼む」
少しだけ、と付け足すと、千夜は言葉で返してこなくなった。
代わりに浮いていた膝が地に付いて、体勢の安定を図った。
少し増した重みが、身を任せているのだと教える。
「少しだけ……だな」
「ああ」
腕を回すまではしてくれなくても、蒼助にはこれで十分だった。
千夜の髪からほんのりと香る匂いに、安堵すると同時に再び物思いに落ちる。
子供の頃の夢―――――――己の志にしようとしたモノ。
それは母親という存在へと己を近づけることだった。
振り返ってみて、それが少し違うことに気づいた。
越えるとも、同じようになりたいとも違う。
なりたかったのだ―――――――彼女という存在そのものに。
―――――――若は、美紗緒さんにそっくりね。
―――――――本当によく似ていらっしゃる。
昔から周りに言われてきた。
彼女の持っているモノから受けるオコボレの賛辞。
どれだけ言われようと少しも嬉しくなかった。
見かけだけであるのは、自分がよくわかっていたから。
彼らが本当に好きなのはいつだって母親の方だったから。
強かった人。
好き勝手に生きているようで、本当はいつも周囲に気を遣っていた人。
誰かを大事に思える人間だったからこそ、彼女は思われていた。
自分とは少しも似ていない。
似ても似つかない人。
蒼助は、そんな彼女になりたいとあの屋敷の中で望んでいた。
自分が欲しいものを全て持っていた彼女という存在に、焦がれていたのだ。
………ばぁか。
愚かしい願いを本気で叶えばいいと思っていた自分を蒼助は冷めた気分で罵った。
それが無いモノ強請りというやつで、そんなものは幻想に過ぎないと知ったのは母親が死んで少ししてのことだった。
結局、自分は自分でしかない。
玖珂蒼助は、どれだけその存在を嫌おうと玖珂蒼助である。それは、変えようない事実だ。
それを思い知った時、自分が選んだのは己からの逃避と己への拒絶だった。
無茶な望みは叶わないのだと、全てをあきらめた。
失くした何かを探しているふりをして、歩みを止めてそこに留まり、動くのを止めた。
他人に望むばかりで、自分では何もしなかった男―――――――玖珂蒼助。
利己的で非人情で、与えてもらうことばかり考えている、この世の何よりも憎い存在。
どれだけ拒絶し、否定しようと変わるはずの無い存在。
けれど、それでも―――――――そんな存在にもたった一つ出来ることがあると、蒼助は知った。
過去を否定せず背負い、それでも前を往く女に出会って。
「…………いい加減、頃合いってことだよな」
「ん……何か言ったか?」
「何も」
訝しむ千夜を抱く力を強めることで誤魔化す。
そして、思う。
誰かに何かを望むのはもう止めだ。
突き放して続けてきた前進という行為を再開しよう、と。
過去の自分が、嫌だ無駄だと叫ぼうが知ったことか。
足掻こうが喚こうが引きずって進んでやる。
誰かになることは出来なくても、前へ進むことはできる。
ここまでに随分時間がかかったが、それでも―――――――ようやく、わかったのだから。