鼻をすする音。



 しゃくり上がる音。



 そして、飲み下す喉の音。




 

 これら三つは、見事に重なり合い、三重奏となって耳に届く。

 実に器用なことに。

 

「…………………あのさぁ、朱里ちゃん。……苦しい?」

 

 目の前の傷ついた少女に、三途は己が出せる精一杯の優しさを詰め込んだ声色で声をかけた。



 問いに対し、少女の答えは頷きによる『YES』だった。

 だろうね、と呼吸困難寸前の高潮した顔を見ながら納得し、

 

「じゃぁ、どれか止めようか。

 ―――――――鼻をすするの、泣くの、ミルク飲むの………どれが出来そう?」

「……む゛り゛ぃ」

「いや出来るよっ! ……えっと、じゃぁ強制的にミルクを取ります」

「あっ」

 

 両手で持っていたまだ中身の残るガラスコップを取り上げる。

 何故苦しみの原因たる一つを取り去られて不満の声をあげるのかは、この際無視することした三途は、

 

「あー、ティッシュティッシュ……。上弦さん、ティッシュ箱はそっちに………」

「うむ。ほれ、これで鼻をかむといいぞ朱里。…………ぐずっ」

「………ついでに貴方もお願いします」

 

 朱里の後ろからその巨体をぬっと現した上弦は、涙と鼻水で顔をグショグショにした彼女にティッシュを箱ごと渡すが、そういう上弦の方も似たり寄ったりな惨状を

顔の上で晒している最中だった。それもいい大人と分類される外見なだけに一層目に当てられないくらいの酷さで。

 

「ああ、朱里ちゃんったらそんな風にしたら顔に塗ってるだけだって。ほら、貸しごらん」

 

 ヤケクソじみた手つきで、顔中に鼻水と涙が混ざった粘液を塗ったくらんばかりの朱里の手からクシャクシャになったティッシュを取り上げ、三途は口の周りにまで

及んだそれを拭き取ってやる。

 

「……学校はどうするの?」

「行かない………今日は図書室で本を読む気分にもなれないもん」

「で、どーせ篭るならウチで篭るつもり?」

「………ダメ?」

 

 普通の良識ある保護者なら、例えここでどれだけ縋るような上目遣いを向けられても、それを振り払って行かせるべきなのだろう。

 自分はダメな方の保護者だなぁ、と己に実感と呆れを感じながら、三途は考えるよりも前に既に決定していた答えを返す。

 

「いいよ。千夜には内緒にしておくから」

 

 あとで小学校に電話しなくちゃ、と行動事項を一つ記憶に書き込みながら、

 

「でも、そんな泣くほど悔しいなら意地でも同席して二人っきりの空気を邪魔でも割り込むでもしちゃえば、少しは気が晴れたんじゃ……」

「っ、朱里はっっ! そんな女の腐ったのがするようなことしないもん!!」

「えっ…………………そ、そう」

「あえ、どうしたの?」

「いや…………ちょっと昔の古傷が、ね」

 

 私って腐ってたの……?、と過ぎ去ったかつてにあった己の行いを振り返り、三途は軽くヘコんだ。

 それに比べれば、目の前の小学生は何と雄雄しいことか。寧ろ、漢と呼ばせてもらいたいものだ。

 

「そりゃぁ、ちょっとはそういうことも考えたけど。……でも、そんなことしたってこっちの負けがひっくり返るわけでもないし、逆に負け犬の身の程を思い知るって

ゆーか」

「……うっ」

「しかも、それでお邪魔虫扱いとかされたりなんかしたら………もう再起不能になっちゃうよ」

「ううっ」

「ほらほら。今まさに再起不能が一人出来上がりそうだから、それくらいにしてあげなさい朱里」

 

 朱里の悪意のない古い傷を抉る攻撃から三途を救ったのは意外なことに黒蘭だった。

 珍しくまっとうな気の利かせ方に出た黒蘭までもがカウンターに座ってきて、場の収拾に買って出る。

 

「朱里は正しいことをしたわよ。自分を抑えることは大事なことよ。大人でもなかなか出来ないことをやってみせた朱里はすごいわ」

「ランラン……」

「偉いわね、朱里。とても立派よ」

 

 さして背丈の変わらない白と黒の対照的な色をまとう二人が並ぶと、まるで画に描いたような姉妹に見える図となる。

 にも関わらず、黒蘭は年の離れた姉がするような大人びた仕草で朱里の頭を撫でる。

 ごく自然な振る舞いだが、見る者には違和感を感じさせる絶妙さだ。

 撫で繰り回されているうちに、ぶり返すように朱里の赤い目に涙が溜まりだす。

 

「………ちょっと我慢したら、また姉さんに………甘えても、いいんだよ、ね?」

「当たり前よ。……これからも貴方達は家族であることに変わりないのだから。………上弦、一人でダバダバ垂れ流しているくらいなら、朱里とそっちで二人一緒に

悔しさイロイロを分かち合いなさい」

 

 ティッシュ箱を空にする勢いで鼻をかみつづけていた上弦は、バッと顔を上げると同じようにした朱里と視線をかち合わせた。

 

「……朱里ぃぃっっ!!」

「……おいちゃぁぁんっっ!!」

 

 テレビでよく見る熱血ドラマな空気を爆発させながら、二人は抱き合い号泣した。

 店内で発生したドラマな暑苦しい空気の中心を生暖かく見守っていた三途は、これに関しては『放置』を選択した。触らぬ神になんとやら、だ。

 

 その傍らで、注意を引くための意図を感じさせる呟きが三途の耳に入り込んでくる。

 

「………つまらないわねぇ」

「何ですか、藪から棒に」

 

 黒蘭は先程まで朱里を慰めていた優しげな声色は一転し、悪戯に失敗して拗ねた悪童のような子供じみたことを言い出す始末だ。

 コロコロとサイコロのように転がっては表になる目を気まぐれに変える。

 黒蘭とは、そういう不確かで不安定な存在だと、三途は今も昔も思っている。

 

「だぁって、反応薄いんだものあんた。もうちょっと何かリアクションとってくれると期待して馬鹿丁寧に現場の状況を解説してやったっていうのにぃ」

「あの生々しさと肉っぽさ満載の官能小説みたいな語りは、そんなことを期待した上でのことだったんですか………。捏造しまくってんの見え見えですよ。妨害したって

言ったくせに、何できっちり最後まで完遂しちゃってんですか、アレは」

「情報と記憶の境界線を見失ってパニくるあんたが見たかったから。……思ったよりも冷静だったから失敗に終わったけどね」

 

 チッと舌打つ黒蘭。

 とりあえず、自分が珍しく白星を手にしたということを理解すると、三途の気分は少し向上した。

 

「あなた、私を何だと思っているんですか。………錯乱なんかしません。嫉妬とか悔しさとか、そういうのは少し前にクリア済みです。今は……ただ、嬉しいし、

良かったねって思ってます……本当に」

「あーら、ちょっと昔は勝ち目がないの見え見えなのにズカズカ割って入ってくわ、恋敵に陰湿かつ見苦しさ満々の嫌がらせするわ、ズルズルあとに引きずるわで、

腐乱臭を全身から焚きつけていた奴が言っていることとは思えない、あっさり仕立てな言葉じゃないの」

「ちょっとどころじゃない昔でしょうが! しつこいですね……子供の頃をネチネチと………。そのネタの賞味期限はいつまで……」

―――――――で、実際本当のところはどうなのよ。……あんたの中で鉛みたく重たくなって沈んでるものは、ちょっとは軽くなったりした?」

 

 半ば自分の台詞を強引に脇に除けるような斬り込みで、黒蘭が迫ってきた。



 一瞬、息を詰まらせそうになりながらも、三途はそれに耐えた。



 目の前の相手が核心以外を喋らせる気がないことを、言葉の遠慮のなさで察し、

 

「……それに関しては、ちっとも。というより………それは無いでしょう。これって結構今となっては大事なものなんですよ。……生きていくのに、安定感を得るには」

「あのコの傍にいるためにも、でしょ? あんたって何てマゾ?」

 

 適度にSっ気もありますよ、と答えながら、三途は己の中に出来て久しい"重み"の存在に意識を向けた。

 

 胸の奥底の、深い場所に打ち込まれた楔のような異物。

 千夜といると、一層その重量を増してその存在を三途自身に知らしめる。

 苦しみを与えるだけだったはずのそれ。

 

 しかし、気がつけばその感覚に安穏とした思いすら感じるようになっていた。

 それが無いと不安さえ覚えるようになってしまっていた。

 

 まるで、

 

「もう、麻薬みたいなものですかね………無いと、逆に落ち着かない」

「さしずめあんたは新手のヤクチューってこと?」

「ですねー。………だから、こればっかはもうどうしようもないんで……いい加減放って置いてくれませんか」

 

 触れるな。



 そう真意を含ませて三途は放ったが、黒蘭は相変わらず冷めた表情で三途を見もしない。

 黒蘭はそうやって興味など一切無いような風体を装うくせに、こうして他人の心を見透かしているような口ぶりと言葉で、無情にも傷を抉るように触れてくる。

 そこにはどんな目的や意図があるのかは、三途にはわからない。

 ひょっとしたら、そんなものはありすらしないのかもしれないが、考えたところで三途には曖昧な解答を見出すことも出来ないことだけはなんとなくわかっていた。

 

「………そう。まぁ、いいわ………じゃぁ、この話題に関してはこれっきりしてあげる。あんたの好きにしてちょーだい」

「えっ」

 

 意外な返しだった。

 思わず聞いた己の耳を疑いながら、

 

「………どういう風の吹き回しですか。他人の嫌がる顔こそが三度のご飯よりも好物のあなたが……」

「………飽きた」

「…………あ、き」

 

 黒蘭が気だるげに放ったのは、脱力感を覚えてしまうほどのさっぱりした返答だった。

 今度こそ、絶句した。



「これ以上私が引っ掻き回しても、それ以上の変化の見込みはないでしょうからね。つまんないじゃない。だから、もうこれっきりにしてあげる」

 

 心底そう思っているかのように、黒蘭は非常につまらそうに言い捨てた。

 その態度は、遊び飽きた玩具に対する子供のそれそのものだ。

 この女にとって、三途の「事情」は弄る価値を失った玩具同然であるということだ。

 そう受け取るしか無い。

 

「………はぁぁ」

 

 そりゃどーも、と長くついた溜息の後にそれだけ付け加えることが、今の三途に精一杯の気力で出来たことだった。

 これも元よりわかっていたことだ。

 黒蘭という存在にとって、三途だけに限らず人間なんて生き物は、それこそ手の中で暇つぶしに転がす以外の使いようの無いビー玉のようなものだ。等しく無力である。

 或いは、道端の石ころ。

 気にかけられることもない存在。あっても無いも同然。

 あり大抵の人間は、黒蘭には皆その程度の認識しか持たれない。

 

 稀に拾われる石がある。不幸にも、という前置きが付くごく稀な異例。

 拾われてしまった石に対して、言える事は―――――――同じく該当者である三途には一言しかない。

 

「そんなに新しい玩具に首っ丈ですか?」

「わかるぅ?」

 

 態度がまた一転する。

 

「今、わかりました。気持ち悪いくらいニヤニヤしてますよ………で?」

「楽しいわよぉ〜。彼、手応えもビンビンだし、反応も新鮮〜」

 

 これだけ聞くとなんだか卑猥な内容に聞こえるのは気のせいだろうか。

 否、気のせいではないだろう。

 何せ黒蘭なのだから。

 会話の片手間に己の内なる思考でそう巡らせていると、

 

「それに……」

「それに?」

「彼とは共感を感じることが多くて………こういうのを意気投合とか、相性がいいっていうのでしょうね……。この感覚は、三人目だわ」

「貴方と意気投合できるのが他に二人もいたという時点で驚きなんですが………彼が、貴方と共感っていうのは……気のせいでしょう」

「わからないやつには、一生わからないわよん」

 

 ふふん、と強かに笑う黒蘭に少しムカつきながら、三途は蒼助と黒蘭を頭の中に並べてみた。

 三途には、どの角度から見ても二人の間に接点や共通する箇所は見出せない。

 それとも黒蘭にしか見えないものでもあるのだろうか。

 

 しかし、この様子から聞くまでも無く、黒蘭が蒼助をいたく気に入っているのが十分理解できる。

 

 そのことに関して、三途が思うことはやはり一つだった。

 

「………気の毒に」

「それじゃぁ、その気の毒な若者に……あんたが思う今の気持ちは?」

「………彼に、ですか」

「あの男に何を思い、何を望むのか……あんたの気持ちは?」

―――――――………」

 

 刹那、三途の思考は追憶へと走り出す。

 走り着いた先。そこにいたのは、一つの少女だった。

 

 幼い少女。何処にでもいる子供。ありふれた幸せに包まれていた。

 

 彼女に抱いた最初の感情は、何であったかはもうはっきりと思い出せない。

 劣等感だったかもしれない。

 或いは嫉妬か。

 

 いずれにせよ、自分には手には手に入らなかったものを当然のように思って持っている少女に、良い感情を向けていなかったのは確かだった。

 

 しかし、彼女に触れられた時に、それは一転した。

 彼女に向けていた羨望は、希望へとその形を変えた。

 己には叶わなかった幸福を与えられた少女に、己が果たしえないであろう夢を見た。

 

 ごく普通の人生の中で。

 変わり映えの無い平穏な日々の中で。

 誰にでも与えられるべき幸福を手にして欲しい。

 

 そんな祈りにも似た夢を少女に託そうと思った。

 

 幸せになって欲しい。

 ただそれだけを、捨てたはずの祈りという行為にのせた。

 そうなるように、自分は少女を守るという誓いと共に。

 



 いつか。

 そう遠く無いいつの日か、現れるであろう運命の相手のところに行くまで―――――――。

 



 そう思っていた、かつて。

 ならば、今は―――――――



 

「……………同じです」

「同じ?」 

「……ええ、同じです。今も昔も………私は、ずっと同じ事を思っています」

「………それは?」

「至ってシンプルな一言ですよ」

 

 告げるべき対象が聞いたら、薄情者と言われかねないだろう、あっさりとした簡素な言葉だ。

 

 いろいろ考えたが、結局は『これ』に落ち着いたのだったな、と懐かしく思いながら、

 

 





―――――――頑張れ、って」

 

 

 

 

 

 この祈るような気持ちすら、あの頃と少しも変わっていないことを、三途は再確認した。

 

 

 








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