事の発端となったのは、数日前のことだった。
その日、とある喫茶店に呼び出され、【いつもの依頼人】から仕事を寄越された。
依頼人の名は氷室雅明。
氷室は偽名であり、本来の性は土御門。
陰陽系統の名門【土御門】の子息であり、かつての所属組織【降魔庁】での同僚であった男。
ありとあらゆる意味で蒼助とは正反対で、出会いから全く反りが合わず犬猿の仲であるのだが、どういう因果関係が作用しているのか入学した高校は一緒で、辞職した後
も何故か依頼人と請負人という妙な関係が続いている。
どういうつもりなのか、生まれ持った前評判のおかげでフリーになってから拝み屋まがいの仕事を始めても全く仕事が舞い込んで来ない蒼助に都内で少々目立ち始めた
魔性の討伐などを氷室自身の個人名義で依頼として持ってくる。
家が名門なだけに【その手】の情報は動かなくても自然に隙間風の如くポンポン入り込むらしい。
そこから適当に見つけて持ってきているだけだったらしいが―――――今回は違った。
『おい、これヤバくねぇか? 都内じゃねぇか』
『いつもことだが』
『っ、そーじゃねぇっての。……いつもは曰く付きな物品とか家に付いてるヤツだが、こーゆー徘徊型はお前ら降魔庁の管轄内だろうが。情報漏洩で、規則違反になん
じゃねぇかぁ?』
『その心配は無用だ。そいつが降魔庁の殲滅対象になるのは今日から……五日ほどか。ちょうど、新学期の始業式の日になるな。それまでに貴様が依頼を遂行してしま
えばいいだけのことだ。………何か問題があるか?』
『………………』
反論の余地を無くされたところで、対象の資料を渡されこの件に身を投じる羽目になった。
今思えば、いつもと違うという点で引っかかりを感じた時に止めておくべきだったのだと、切に後悔が募るばかりだ。
そんなこんなで、まずは資料に書いてある事前情報を元に調査を始めた。
対象は人間であった頃は渋谷でも有名な不良で、ドロップアウトした高校生の中でも一際目立ち、不良達のリーダー格であったらしい。
やらかした犯罪経歴は、喧嘩、覚せい剤、ホームレス狩り、カツアゲ、レイプ、と殺し以外の一通りの悪行を済ませていた。
『奴ら』の恰好の【器】と見なされた対象は、いつぞやの夜に寄生されてめでたく人外の仲間入りを果たした。生まれ変わってもやる事や考える事に大して進歩はない
らしく、夜に徘徊しては以前と似たようなことを繰り広げているという。
尚、最近では昔の仲間を再び仲間にして勢力を拡げ始めているらしく、それが降魔庁の目に止まる要因となったようだ。
昔から刑事ドラマの主人公が愛用する『足を使う』という方法は苦手であった―――――舐めた態度で食って掛かってくるので短気起こして情報提供者になりえる不良を
ボコにしてしまうことが多発した―――――為、調査は当初はなかなか進まなかったが、コツを掴めば簡単なものであった。
元より名がそれなりに知れている。
対象は周囲に変化を気付かせず、昼の出歩きが出来なくなった以外は以前と同じように生活を送っており、知人とも接しているらしく目撃情報は多く足跡を辿るのに苦労
はしなかった。
そして、目標に辿り着いたのは期日の前日の夜。
最後に聞いた少々生意気さが際立つ鼻ピアスの不良に『交渉』の果て、対象とその仲間が集まる場所を聞き出すことに成功。
意気込んでそこに向かえば、対象はその他集団で女一人と強引にお楽しみの最中に入るところだった。
「あん? 何だ、てめ―――――」
「宅配便。お届け物でース」
そう言って突っ掛かってきた雑魚の汚い顔が乗っかった首を竹刀袋から引き抜いた真剣の太刀で薙ぐ。
五月蝿い口が黙ったところで開口を切る。
「おいそこの呑気に野外でアソコおっ立たせた茶ロンゲ………お前だよお前。散々手間かけさせてくれたな。ったく、お前の友達揃いも揃って顔も中身もレベル低い馬鹿
ばっかだな。……おかげで無駄に労力かけちまったじゃねぇか、ただでさえここ最近渋谷歩き回って疲れてんのによ。いつもは穏便な郵便屋さんもキレるときゃキレんだ
ぞ、ああ? はーすっきり………さて本題だ。ちょっぴり股間のムスコが不出来で哀れなキミに、優しい郵便屋さんからのステキな贈り物だぞぅ。
――――――――地獄への片道切符だ、嬉しさのあまりに咽び泣きやがれこのクソ」
ここ数日の間に溜まりに溜まった鬱憤と不満をほとんど息継ぎ無しで言い切ってやった。
すると、怒りに駆られた対象は性欲から暴力へと単純な思考は切り替えたのか、蒼助から見ればそれなりに整った顔を歪ませて立ち上がる。
しかし、行動を起こさせるつもりは蒼助にはなかった。
「てめぇのターンはねぇよ」
体勢を低く屈め、集団を掻い潜るように突進。
スタートダッシュを切った蒼助は速かった。
少なくとも、対象が仲間に司令を送るよりは早く。
そして、仲間が突っ込んでくる蒼助に対処を為すよりは早く。
その時点で、蒼助は誰よりも早く動き、先手を獲得していた。
一対多数。
接近戦のみでこれらを相手にするのは、圧倒的な力の差を有していなければ制することは難しい。
しかし、敵として存在するなら全て相手にするほかない。
遠距離戦術である術式を使用出来れば、たやすいことであったが、霊力が極弱といって良いほど弱い蒼助は行使できる術が一つも無く、習得もしていなかった。
蒼助の頼りになる味方であり唯一の攻撃手段はその手に持つ太刀一振りであった。
だが、難易度を下げる方法は蒼助にもあった。
それは蒼助でも出来ることだった。
集団。
一人がこれらを相手にする点で難点なのは、まず一に数の多さ。
そして、第二に集団というものを成すには大抵居るはずの中枢である指令塔という存在だ。
だが、こちらに関しては逆手に取れる可能性が秘められている。集団の行動がこの一体で統一されているというのなら――――――この一体を潰してしまえば集団は烏合
の衆と化す。
「――――――もらったぁっ!」
邪魔な障害物を容易く潜り抜け、標的に到着した蒼助は目的を果たそうと決定打となる太刀を一閃せんと振りかぶる――――――が。
対象は蒼助の想定外の行動に出た。
足元で脅え震えていた衣服の乱れた女の腕を引っ掴んだと思えば、
「っ――――――!」
突っ込む蒼助に投げつけるように放った。
一つの目的に思考が統一されていた蒼助の意識は分散し、飛び込んでくる女に対処が出来ず受け取るしかなかった。
突進を止めた蒼助の腰に顔から突っ込んできた女は、自分をこの状況から救ってくれる希望がこの場で唯一あるであろう蒼助に縋りつく。
「ひ、いぁ……た、助けてぇっ!」
混乱が生じた生存本能が促していることなのか、女は物凄い力で蒼助に掴みかかってくる。
まずい、と思考がひやりと水をかけられたように熱を失う。
これでは身動きが取れない。
しかも、当初の計画が潰れた。
敵のど真ん中に現在の位置を置いている。
一寸先は闇とはこの事だ、と妙に冷静な思考が蒼助に呟いた。
このままではまずい、ととりあえず女を引っぺはがすという次の行動を考えたが、
―――――――思考回路の邪魔をするかのように、腹部に抉るような痛みが生じた。
痛みに目を細めた瞬間、喉奥から急激に込み上げ咥内に粘度と臭いの強い液体が充満する。
こふ、と口端から零れ、地面に落ちる。
確認するとそれは紛うことなき――――――――――血であった。
認識を終えて、更に呆然と確認に移る。
先程の痛みの発生源に視線をやった。
そこは―――――――左の脇腹は地面に落ちたそれと同じく赤で滲み、尚もその赤を噴いていた。
赤を噴くそこには食い込む【モノ】があった。
それは先程まで恐怖に錯乱し腰に縋りついていた、
―――――――巻き込まれた女の、白い五指。
「うふ、助けて?」
女の指が更に深く浸透したかと思えば、次の瞬間―――――抉り出すように引き抜かれた。
「――――――――――――、っ、っ、!!」
痛みを耐え難く叫ぶ声は言葉にならなかった。
蒼助の腹部から大量の鮮血が噴き出し、地面を赤く濡らす。
咥内が新たな鉄臭い苦味に満ちると、同時に両膝が微妙なズレを生じながら折れて地面についた。
「――――――んー……おいし。やっぱりイケメンの血の味はそこらのとは格が違うわぁ」
先程までの震えは何処へ行ったのか、しっかりとした足取りで立ち上がる女。
指先に付着した蒼助の血をうっとりと赤い舌で一本一本嘗め尽くしていく。
快楽に溺れたかのように悦を宿したその目は―――――――舐め取る血のような赤。
周囲と同じ、赤。
――――――……マジかよ。
蒼助の中で己の状況に対する認識が改まった。
一つの可能性が蒼助の思考に影を落とす。
「――――――お前、最近俺の事を嗅ぎ回ってるって奴だな?」
ニヤニヤと蒼助を見下ろす対象の科白で可能性は確信に変わる。
思わず口を突いて出る言葉は、
「――――――……最悪」
追い詰めたつもりが気付かれていて、逆に罠に仕掛けられていた。
後悔が泉のように湧き出す。
何処から失敗したかなど今更考えたくもない。
ただ、一つだけ考えなくともわかることがあった。
―――――――慣れないことなんてするものじゃない。
◆◆◆◆◆◆
朦朧とする意識の中で思う。
四肢の骨は踏み潰され、蹴り砕かれた。
体中のあらゆる部位が打撲による熱で熱い。
腹部から相変わらず出血続行中。
最悪だ、と。
現在の状況も、これから先のことについても。
こんな状態では仮に助かってもこれでは商売上がったりで、生涯寝たきり決定だ。
実家に連れ戻されて、一生介護生活なんて厭過ぎる。
―――――――そして、なにより自分の身に置かれたこの現状が。
「おーい、大丈夫でちゅかぁ?」
「まだ死ぬなよ。しっかりしろぉ」
「さっきまでの威勢はどうしたんですかー、郵便屋さーん?」
ここまで自分を嬲った連中の声が蒼助の鼓膜に煩わしく響く。
動ければ残らず同じ状態にしてやれるのに、と歯痒さが身の内で募った。
しかし、今は明日の陽を拝めるかどうかすら怪し過ぎる。
「ねぇ、もうそれぐらいにして食べましょうよ。死んだら鮮度が落ちちゃうわ」
女の進言が本格的に蒼助の状況を危うい方向に持っていく。
全くもって洒落にならない。
腕一本足一本も動かせない現状で、蒼助に抗う術は一切なかった。
己の中での迫る危機感による混乱と理性の戦いの最中、不意にうつ伏せに倒れていた体勢から仰向けに転がされた。
今度は一体なんだ、と思ったら女が傍らに膝を着いて―――――――ズボン越しに股間を撫で出した。
――――――――――は?
堕ちかけていた意識はその奇抜な行動にはっきりと我を取り戻した。
「おいおい、またかよ」
「このスキもの。そんなもんによくがっつけるよな」
「んふふ……大人の味ならぬ女にしかわからない美味なのよ」
そう言って、女は股間を見つめたままうっとり溜息を漏らす。
「ああ、この手応え……ステキ。まずはその雄雄しい姿を拝見させてもらうわ……」
冗談じゃねェ、と叫びたかったが、血が喉に張り付いて声がうまく出ない。
女の手がジッパーにかかり、ゆっくりと下ろしていく。
これ以上にない絶望感が蒼助を襲う。
なんてことだ。
自分の人生はロクでもない出発だったが、終着までロクでもないものになるのか。
しかも股間から食い殺される?
まだ足先から喰われた方が、大して変わらないがマシだ。精神的に。
ダメだ。死んでも死に切れない。
でも、死ぬ。
死にたくない。
死ぬ。
ヤダ。
死ぬ。
……………。
死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。
―――――――………なんか、もういいや。
抵抗できない虚しさと、結局死ぬしかないという辿る結果が生み出す絶望が蒼助の抵抗を蝕んでいった。
いっそ気絶してしまおう。
そうすれば幾分か楽だ。
羞恥など意識しなければ大したことはない。
どうせロクでもない欠陥だらけの人生だ。
いっそ最後までロクでもないまま終わった方が潔いかもしれない。
閉じていく視界がその中で、満天の夜空に【奇妙なモノ】を捉えた。
それは月だった。
おかしなことに、蒼助の目に映るそれは濁りのない白さをもって自身を輝かせていた。
…………なんだ、ありゃ………。
普通、月は赤いはずだ。
生まれてこの方、見上げる空に浮かぶ月はいつだってそうであった。
なのに、今見る月は確かに白い。銀色にすら見える。
…………死にそうで目と頭がおかしくなっちまったのか?
ぼんやりと、今まさに自分の身に降りかかる災厄すらも他人事にように感じながら、思う。
そして、
「――――――止めろ、変態。目が腐って落ちたらどうしてくれる」
知らない声が響いた。
靄に呑まれかかっていた意識が引っ張り出される。
直後、
バカンッ――――――!
何かの強く打ち付けたような音が下半身あたりで鳴ったかと思えば、ついさっきまで股間を執拗なまでに弄っていた手の動きも感じなくなった。
天上に釘付けていた目を動かし、視線を下げてみる。
女は口を押さえて転げまわっていた。
あてる手の隙間から溢れ出る黒い――――――魔性に堕ちた者の証たる血が動きたびに噴き散らされる。
今さっき響いた打撃音に関係しているのはわかるが、
…………誰がやったんだ?
この場にそれを望める人間――――――もしくは存在はいないはず、と思ったところで蒼助の思考に割って入り込むものがあった。
それは、打撃音の前にあった声だった。
無論、聞き覚えなどあるはずもない。
蒼助にわかるのは、曖昧な判断で下せる声の主が『女』であることぐらいであった。
不幸か幸いか、たった今起きた事象により意識は一時的ながらも明確さを取り戻していた。
視線でそれらしき存在の姿を探す。
右へ、左へ、下へと両目を忙しなく動かすが、映るのは今しがたまで自分を取り囲んでいた連中が何故か若干距離をおく姿だけであった。
ならば上は、と最後の一方に目玉を動かそうとした時、蒼助の顔に影が被さる。
一瞬、と呼べる僅かな時間しかなかった暗い覆いはすぐに蒼助の上から退いた。
代わりに現れたのは影の主と思われる人物の背姿だった。
後ろからでもわかる身体の線の細さと丸みからして、やはり女で間違いないと思った。
決定打として後頭部の上位置で一つに束ねられ、長く伸びる黒髪が流されていた。
歳は、さすがに後ろ姿だけでは判断できない。
「不用意に舌なんか出してるからだ………そんな死にそうな暴れ方しなくても、もうそれぐらいじゃ死なないだろ、お前らは」
手元に霊装は見当たらないが、どうやら退魔師であるらしい、と新たな追加項目が蒼助に把握される。
同時に助かった、と僅かに希望が沸いた。
これで少なくとも今蹴った女に自慢のムスコを喰われることはなくなった。
蒼助にとっては、大きな前進であった。
心に僅かなゆとりが出来ると、ふと疑点に気付く。
――――――いったい、何処から現れたんだ?
周りの連中の目から見て取れる驚愕の色も、この疑点に着眼していることからだと思われる。
突然現れたこの乱入者にこの場にいる誰もが驚いているのだ。
無論、蒼助自身も例外ではない。
恐らくこの中の誰一人とこの女が現れる瞬間を目にしていないのだと蒼助は理解した。
「な、何だてめぇは」
周囲の一人が勇敢にもその場にいる全ての者達の想いを代弁した。
女はそれに答えた。
「何だって良いだろう。どうせ一夜のこの一瞬の逢瀬だ………俺が何処の誰かなんぞ知ったところで夜が明ければ何の意味もなくなる。いちいち下っ端臭い科白を律儀に
言うなよ、下っ端」
そして、挑発めいた科白を口にし、鼻で哂う。
怒りに我に返ったのか、臆病風に吹かれていた魔性たちは各々で殺気立ち始める。
その中でも、
「こ、このアマぁっ! よくも……」
未だ自らの歯で舌を噛み切る羽目になった女が、口元を吐き出した血で真っ黒にして髪を振り乱していた。美しい表情を憤怒の色で険しく醜悪にさえ見えるように変貌
させて吠える。
「復活して早々よく廻る舌だな、元気で結構なことだ。………男は遠のきそうだが」
「―――――――っ、っ」
気が立っていたところに、女が油を注ぐ。
女魔性は理性をぶった切り、解読不可能な喚き声をあげながら女に飛びかかった。
もはや人の姿を模るだけとなった獣が己の命を狩り獲らんと向かうのにも、女は怯むどころか動じもしない。
振り上げた凶爪を備える腕が女の首を薙ぎにかかる。
「―――――――阿呆が」
女が呆れたように呟いた時だった。
その瞬間、一体の狩人は十数の肉塊となって空中分解した。
自分の身に起こったことに気付かなかったのか、獣の如き形相のまま肉塊の一つとなった首がボトリと地面に落ちて、転がる。
息を呑む音が一帯の空間に異様に響いた気がした。
それは己のものだったか、周囲の多くのものだったか、蒼助にはそんなことどうでもよかった。
注目し着眼すべきは別に目の前にあったのだから。
…………今、何が……。
観察の目を女に向ける。
今さっきまで手持ち無沙汰だったはずの女の手には、一刀の刃がいつの間にか握られていた。
蒼助のそれよりも遙かに長い反りのない刀。
白い月光に照らされての幻視か、刀全体が白く彩られているように見える。
その刀身の上を這い滴る黒い液体が、驚愕の事象を引き起こしたモノだという理解を蒼助に促させた。
「短気は損気と言うだろうに。―――――――さて」
女は刀を肩に担ぎ、
「お前らに一分間だけ暇をやるよ。
―――――――辞世の句を考えるには充分だろ?」
この時、女がどんな表情を添えてそう言い放ったのか。
それがわからなかったことを蒼助は悔しく思った。
◆◆◆◆◆◆
―――――――ドシャ。
また、一体が倒れた。
一つであった身体を"二つ"に分かたれて、【者】から【物】へ変わった。
一足先に同じようにされた前例となった多くのモノの中に混じる。
手足、首、腰から下がない、などとそれぞれ壊れた人形の成れの果てのように横たわっていた。
その中で、唯一残った最後の一体が、戦意を喪失して身体を震わせていた。
蒼助が討伐するはずであった標的である魔性だった。
「な、何なんだよ………一体、何なんだよお前ぇ……」
そこに蒼助を陥れた時に見せていた憎たらしい余裕に満ちた表情はない。
あるのは、子供のように泣きじゃくる見苦しい、なんとも滑稽な有様だけだ。
「―――――――何度も言わせるな。ただの通りすがりだ」
乱れた前髪を掻き上げていると思われる後ろ姿が、蒼助から一歩遠ざかる。
対象は自分に近づいた女を見て、ひぃ、と情けない声をあげた。
「く、来るなぁっ化物……!」
「お前…………バケモンが言っちゃお終いだろ」
そりゃそーだ、と内心で蒼助は女の言葉に同意した。
最も、十を超える数の魔性をたった一人で。
それも二分足らずで残る一体までに減らした女に関しては、対象の台詞を完全否定しきれるとは言えなかった。
暴殺。
繰り広げられた殺戮劇を一言で言い表すとしたらそれしかない。
「さて、お前の前の連中は一分を特攻で潰したが、お前はどうだ? 最後まで後ろの方で隠れていたんだ。当然出来ているんだろうな?」
「……た、たすけ……」
「………せめて五七五ぐらいしろよ」
女が振るった腕の動きと同時に首が宙を舞った。
多くの異形の屍が散らばる中、ただ一人立つのは黒を浴びるほど被った女。
新たに噴きかかった黒い飛沫が顔に跳ぶのを、蒼助は見た。
「、………げ、口に入った」
渋い顔をしているであろう女は顔を手で拭うが、それも既に濡れており意味はなかった。
それに気付き、もう諦めたのか雫は伝うがままにして、倒れる蒼助の元へ歩みを進めてくる。
「――――――立てるか?」
「――――――――――――」
差し伸べてくれた手すらそっちそけで蒼助は食いいるように見つめた。
それは、ようやく拝めた女の顔。
歪みのない顔の輪郭。すっと通った鼻。小さく形のいい唇。
何より目を奪われたのは女の眼差しを辿った先にある長めの前髪から覗く凛とした光を宿す眼。きりり、と目尻が吊り上がった目つきが意志の強さを主張していた。
それらが女の背後から射す月光に照らされる。
伝う流れる無粋な黒い雫ですら、その下の美貌を妖しく彩る装飾となる。
頭の後ろで一つに結われた腰先まで伸びる艶やかな黒髪が夜風に吹かれて靡いた。
そのゆったりとした動きを追う。
女の歳は蒼助と同じか、もしくはさほど差はないくらいだと思われた。
装いはタンクトップにパーカーと酷くシンプルである上にその大部分が黒く染め上がってしまっていたが、それでも女の美しさは損なわれない。
…………地獄に仏、ってやつか?
最悪の夜はこの美少女の登場で思いもよらない路線変更をした。
へへ、と思わず零れた笑みに女は訝しげに眉を顰める。
「……何がおかしい」
「いやまさか………最後の最期でようやくツキが廻って来たからさ………嬉しいんだ」
「縁起でもない事を言うなよ……せっかく助けてやったのに。ほら、早く手をとれ」
急かすように近づく手が、蒼助に酷く申し訳ない気分で胸を一杯にさせた。
「わりぃ……無理。――――――両手両脚の骨やられちまってんだ」
「………………」
「どのみち、この傷じゃなぁ………血も流しすぎたし。あ、やべ今眼霞んだ」
可能な限り明るく無駄口を叩いてみるが、女の哀しげな顔は変わらない。
傍目で見てもわかるのだろう、と蒼助は他人事のように自分の状態を認識した。
「………ま、気ぃ落とすなよ。さっきよりマシだって、本当」
「……………野垂れ死にじゃ大して変わらないだろう」
「そんなことねぇーよ………ムスコ喰われて死ぬに比べたら………ゲホッ」
渇いた喉に酸素が詰まった。
堰をするたび疼く腹部の傷の痛みに眉を歪めつつ、
「げふっ………なぁ、なんか飲み物持ってねぇ?」
「突然言われてもあるわけないだろ」
「じゃ、そこの自販機で買ってきてくれよ。俺の財布、ポケットに入ってるから…………あ、俺死んだら残りはやるよ」
「いるか。死人の遺したものなんぞもらっても、得した気分になんぞなれるか」
「ひ、でぇ………」
「ちゃんと買ってやるから、それまで持ちこたえ……」
女はパーカーのポケットに手を入れながら、自販機に向かおうと歩み始めかけて――――――止まった。
そして、唐突に、
「やっぱ、止めた」
「……はぁ?」
「持ち合わせの飲み物があった。それで我慢しろ、勿体無いから」
「あー……もう、何でもいいよ」
喉が潤せなかったばかりに未練残して成仏できず浮遊霊になるなど御免であった。
無駄な注文はなく、ただ単純に何か飲めればいい心境で蒼助は了解した。
女は蒼助の傍らで片膝を付き、ポケットから何かを取り出した。
「何だそれ………」
ポケットの中から取り出されたモノは香水瓶のようなガラス瓶。
中には、水に限りなく近い透明な液体がチャプチャプと揺れ動いていた。
「水みたいなもんだ。いいから、飲め」
「いや……ちょっとタンマ」
「何だ、早くしないと死ぬぞ」
「今それシャレになんないからヤメテ……………それじゃついでに、死に逝く人間の最期の願い聞いてくんね?」
「………何だ」
「……………口移しがいい、っぉお!?」
発言の直後、顔の横に拳が振ってきて、その地面にクレーターが出来る。
「じょ、冗談だって………だからまだ殺すなよ、な――――――」
静止の言葉は不意に被さった唇に遮られた。
流れ込む無味無臭と思われる咥内で生暖かくなった液体が自分の口の中の血で鉄の味と臭いが付き、血を流し込まれているように思えた。
渇いた喉を通る液体が、その後に潤いを残していく。
「――――――」
全て飲み干した後、意識は溶けるような感覚の中で、するり、と落ちていった。
◆◆◆◆◆◆
はふ、と吐息と共に女は唇を離した。
確認する男の顔が眠るように瞼を閉じており、なんとなく厭な予感を感じ念の為に脈を確かめる。
未だ不安定ではあるが、これ以上弱る気配はない。
意識がなくなったのは飲ませた『薬』の副作用なのか。
「ま、あとはコイツの生命力次第だな………」
よっこらせ、と男の身体を起こし、肩に腕をまわして背負う。
少し離れた場所に設置されたベンチまで引き摺っていく。
「くそ、重いな」
悪態をつけど、男はこちらの苦労など知らず夢の中。
それを見ていて芽生えた、多少の頭から地面に落としてトドメをさしてしまいたいという気持ちを抑えつつ、ベンチにその体躯を下ろす。
「あー、疲れた………」
思ったよりも労働作業となったな、とこれまでを振り返りながら隣に腰を下ろす。
すると、男の身体が傾き、女の肩に寄りかかる形になった。
「…………春だし、放置しておいても風邪はひかないよな」
抜け出すと、そのまま倒れる男を見ながら一人呟く。
ゴン、と頭あたりから聞こえた音は聴かなかったことにした。
意識のない男をしばし眺めた後、女はようやくこの場を離れることを決意。
「――――――おやすみ」
素性も名も知らない、偶然が齎した一夜限りの逢瀬を交わした男に別れを告げて、女は背を向けて去っていく。
眠る男。
去る女。
この時点で双方とも気付く由もなかった。
再逢が明日に待っているなど。
これがやがて己の人生を変える存在との出会いとなることを。
明日を知る術など持たない二人は今は一時の別れ路を行く。
再び交差することなど知らずに。
真実の白い月は再び偽りの紅い月に成り代わられ、男の記憶に己が姿を幻想としてを焼きつけ姿を消す。
――――――いつか、再び己の夜空に還る夜を夢見て。