コトリ、と置かれたカップ。

 湯気を立ち昇らせる中身はコーヒーだった。








 置いた蒼助は目の前の相手に、







「はい、どうぞって………インスタントだけど、いいのか?」

「そんなに気を配らなくても結構よ。大丈夫、もう飲み慣れたから」

 

 と、一緒に置かれたスティックシュガーの封を切り、半分くらいまで入れてスプーンで掻き混ぜる。

 そして、一口。

 

「うん、最初は不味くてとても飲めたもんじゃないと思ったけど………慣れればこの安っぽい味も一興よね」

 

 悪びれてない笑顔と正直なその感想に、蒼助は軽く殺意を覚えた。

 溜息で怒りを発散させ、自分のには砂糖とミルクを好みの量を加える。

 

「あら、意外。顔からしてストレートかと思ってたんだけど………まだ素材そのものの大人の苦味は好きになれない?」

「ガキのくせにナニ言いやがる」

「……ふふっ……本当にそう思う?」

「………なワケねーだろ」

 

 わかっている。見た目通りの年齢ではないことくらい。

 ましてや、人間ではないことくらい本能がうるさいくらい告げている。

 冗談と笑って済ませるような半端な存在ではないことも。

 

「で………アンタ程の奴が俺んち上がりこんでナニが目的だ」

 

 場所は代々木公園から蒼助の自宅マンションの一室に移っていた。

 ただし、あの場所から歩いて帰ってきたのではない。






 黒衣装の少女の指先(・・)()鳴らす(・・・)()いう(・・)ワンアクション(・・・・・・・)()この(・・)部屋(・・)()直接(・・)帰って(・・・)きた(・・)のだ。

 所謂、【瞬間移動】という手段で。






 そんな大それた所業が出来る者など、退魔師でも魔性でも聞いた事が無い。

 というより、いくらなんでも有り得ない。

 それだけではなく、散りかけた桜を再び満開に咲かせるなど。

 ココまで来れば、もうスゴイとかの問題ではない。



 ありとあらゆる意味で、目の前の少女の姿をした存在は"次元違い"だった。

 

「目的って言われてもねぇ………」

 

 警戒する蒼助とは打って変わって、カップを口元に近づけて和む少女。

 そのままごくり、と一口飲み、

 

「見ての通り。こうして貴方と話したいと思っただけ」

「真面目に答えろ」

「いたって私は本気よ? 本当はあの時、そうしたかったけど……あのコとのデートを邪魔しちゃ悪いと思って、自粛して顔だけ見に行ったの」

 

 台詞の途中で出てきた言葉に腹の底がひやりと冷える。

 まさか、と思ったが、思い至るのは一人しかいなかった。

 

「アンタ………アイツを知って……」

「ええ。貴方のことも千夜から聞いたから、それで興味を持って」

 

 言葉に混入された親しみの色。

 こちらの名前を千夜から聞いたというのなら、この女が一方的に知っているというワケではなさそうだった。

 

「お前……一体、アイツの何だ」

「まるで恋敵に言う台詞ね。女遊びしてそうな顔の割には意外と青いのね、貴方」

「……っ」

 

 顔の熱が一気に上がる。

 完全に場の主導権を握られていた。



 少女は微笑ましげにクスリ、と笑って、

 

「可愛いところに免じて、その質問答えてあげるわ」

 

 コトリ、と少女は中身が半分まで減ったカップをテーブルの上に置いて床から立ち上がり、ふわり、と漆黒のドレスの裾を浮かせてベッドの上に座った。

 

「私と千夜の関係……。それは言い表すなら、姉と妹……もしくは母と……或いは古くからの友人………他にも探せばいろいろ当て嵌まる言葉があるかもしれないわね」

 

 はっきりしない口ぶりに蒼助の神経は逆立つ。

 じれったさに耐えかねて、

 

「勿体ぶらないで、ハッキリしろっ」

「あ、そ。じゃあ、思いつく限りの関係性全てが当て嵌まるくらい親しい仲」

 

 さっきまでの思わせぶりさの欠片もなく、あっさりと答えを返した。

 ピキーン、と蒼助の琴線が張り詰め始める。

 

「てめぇ……俺のことおちょくってんのか?」

「まさか。それはまた今度の機会にするわ」

「………」

 

 やはりおちょくられている、と蒼助は確かな確信を得た。

 同時に耐性のない我慢の糸が切れた。

 

「だぁーっ!! てめぇ、いい加減に……」

 

 ぺらり。

 血気盛んな雄叫びと共に、テーブルを引っくり返さん勢い立ち上がった蒼助の前に一枚の写 真が突きつけられる。

 写っているのは、

 

「こ、これはっ………」

「クールダウンしなさい、少年。駆け引きっていうのはキレた方が負けなのよ、知ってた?」

 

 にこり、と花のように笑う少女の指先が摘む写真には、千夜のセミヌード姿。無論、女の。

 この瞬間、蒼助の中で少女の位が仏よりも上に、グンっと上げられた。

 

「このブツは………」

「名付けて千夜の初ブラ記念写真。まだ女に成り立ての頃に隠し取った一枚よ。ふふっ……あのコったら、自分じゃ付けられないくせに人前じゃ着替えたくないって部屋

に閉じこもって必死にホック付けようとして………そんな初々しい光景を写した貴重な一枚」

「………どうやら、今の話は本当らしいな」

「ふふふっ……ちゃっかりしてるわねぇ」

 

 家宝となった一枚をポケットにしまいつつ、蒼助は元の場所に座り直した。

 そして、目の前の存在と面と向き合う。

 

「男だったアイツのことも知っているんだな」 

「それどころか、もっと前のことも知ってるわよ」

「………どこまで」

「全部」

 

 全部ときた。

 

「俺の知らないこともか」

「もちろん………とゆーか、貴方知らないことばかりでしょう?」

 

 痛いところを突いてくれる。

 無言を肯定ととった少女は更に続けた。

 

「これはさっきの質問の答えになるわね。………千夜という存在が辿ってきた過去を知っている、それが私よ。玖珂蒼助」

「………こりゃ、思わぬキーマンの登場だな」 

 

 口から出たそれは今の蒼助の心情そのものを表した言葉だった。

 顔に出てはいないはずだが、少女はそんなもの取っ払って蒼助を見透かしているように、 

 

「聞きたい? 私が知ってるあのコのこと」

 

 と、こちらの心を弄ぶかの如く尋ねた。

 しかし、蒼助は、

 

「聞きたくねぇ」

 

 その返答に、少女の表情が初めて、十歳程度の幼い見かけに似つかわしくない微笑ではない、驚きのものへと変わる。

 予想外、と。

 

「あら……どうして?」

「他人から聞いちまったら面白くねぇだろ。惚れた女の過去とかは、自分で探っていく楽しみの一つだ。自分で聞いて知らなきゃ意味ねぇじゃねーか」

 

 本音を言えば、この場で聞きたいという気持ちもなくはない。

 だが、それは押し留める。

 そんな蒼助の心の内を知ってか知らずか、少女は艶っぽい笑みを深くした。

 まるで、目をつけていたオモチャが、予想していたよりも楽しいとわかった子供が喜ぶかのように。

 

「………面白いわね、貴方。気に入ったわ」

「それって褒めてんのか?」

「ええ。おかげで気が変わったわ。………この程度のエサに簡単に食いついてくるようなら、からかい倒して帰ってやろうと思ってたんだけど………貴方が今、最も知り

たい質問に答えてあげる。もちろん、気が変わったということであのコのことを聞いてもいいわ」

「そうか。だが、他に聞きたいことがもう一つあるんで、それはねぇな」

「あら、何かしらそれ」

「お前が何者なのか、だ」

「それは……私がどういった存在なのか、と聞いているととっていいのかしら」 

 

 無言の肯定で返すと、少女は少し考え込むように滑らかなラインを描く顎に人指し指を当て、

 

「人間じゃないってことは、承知してるでしょ?」

 

 無論。
 むしろ、こんなデタラメな人間がいるなら、一度お目にかかりたいものだ。 

  

「そーねぇ。………まぁ、とりあえず言葉でいうより実証しましょうか」

 

 そう言うなり、少女が天井の電灯で黒光りする黒髪を、手で梳くように掻き上げた。

 さらりと細やかに揺れ動いて、指の間に引っ掛けられ上がる髪から覗いたものに、蒼助は目を見開いた。







 髪が除けられたことによって露になった生え際から生えていた先端に鋭利な尖りを持った奇妙な突起物。 

 それはあの夜見た、怪物と化した神崎の額から聳えていた、大きさに差はあれど少女が生やすモノは間違いなく【角】だった。







 驚愕に放心状態となった蒼助に少女はクスリ、と笑う。 




「こーゆー者です………って言ってもその様子じゃ、貴方何か勘違いしてるわね」

「勘違いなワケあるかよ……ってめぇ」

 

 バッと立ち上がり、万が一の為に近くに寄せておいた太刀を引っ掴み、後ろへ滑るように下がり己の安全領域を取る。

 いつでも鞘から抜けるように抜刀の体制をとった。

 完全な警戒態勢に少女は、仕方ないとでも言うように肩を竦めた。

 

「露骨ねぇ」

「うるせぇっ! てめぇやっぱり」

「あの下等生物と同じとでも言いたいの? ………あんな、身の程知らずな塵と、私が……同等の存在だと……本気で言っているの、貴方」

 

 声色の音が一気に低く、威圧的に変わる。



 瞬間、―――――――――室温が一気に下がった。

 否、そんな気がしただけ。


 蒼助があまりの悪寒にそう思い込んだだけだった。

 漆黒の瞳から放たれる圧力に手がカタカタと震え始める。

 怖い、という恐怖を蒼助はこれほどまでに実感にしたことはかつてなかった。

 弾む会話の中ですっかり忘れていた。

 

 相手が常識外れの"人外"であることを。

 

 まるで百キロの鉄板で圧されいるかのような感覚の中で、蒼助は気が狂わないように正気を留め続けた。

 

 ………こ、の……化け物っ……。 

 

 激しい圧迫の中では悪態すら喉から出せず、心の中で吐き出すしかない。

 しかし、いつまで続くかと思われたその意思同士の闘いも、蒼助がふと身体にかかる圧力がゆるりと和らいだのに気付いたことであっさり終わった。

 凍えるような冷たさで見据えていた眼は閉じられており、

 

「なんて、ね。冗談よ冗談、本気で震え上がっちゃった?」

 

 先ほどとは打って変わって、少女はあっけらかんと笑う。

 気が抜けると同時に蒼助の身体がガクンと崩れ落ちた。  

 膝が折れ、床に勢い良くぶつかったが鈍い痛みは遠く感じた。



 信じられないが、足に感覚がない。

 立ち上がることはおろか力を入れることすらも出来ない。腕も同じくダランと下がり、指先すら動かせない。



 まるでそれは全機能を停止して、緊張からの開放感に浸っているかのよう。



 

「でもまぁ、ちょっと腹立ったのは事実かしら。でも、物知らずな坊やには言葉で説明しても伝わるかどうか怪しいし………そうね、こうしましょうか」

 

 外見上は小娘同然の存在に坊や呼ばわりされたことに腹を立てることすら忘れていた。

 蒼助は、ベッドから腰を上げた少女がこちらに歩み寄って来ることに気付き身を硬くする。

 その反応に少女は面白そうに笑んだ。



 しかし、その行動を止める気配はなく、蒼助の目の前までやって来た。

 白魚のような手が伸びるが、蒼助は眼を閉じることすら出来ずただそれを受ける覚悟をし歯を噛み締めた。

 

「……………………?」

 

 少女の両腕が蒼助の首に回る。

 そして、華奢で未成熟な身体が蒼助の身体に擦り付けられるように密着する。

 窓から風が吹き、長くスッと僅かな癖もなく伸びた黒髪が靡いて蒼助の鼻をくすぐる。 

 鼻孔に入る奇妙な香り。

 

 ………花の香り?

 

 シャンプーや香水などという人工的な匂いではなく、正真正銘の本物の花の香りが黒蘭の髪、だけではなく身体から香っている。

 まるで、ココに来る前まで花畑の中にいたかのような移り香が漂っていた。 

 しかしその香りは何故か気が安らぎ、蒼助は尖っていた警戒心すら忘れてその香りに身を委ねた。

 

「……どう?」

「なに、が」

「血の臭い、するかしら」

「……血の……臭い?」

 

 突然の問いに蒼助は意味をわかりかねた。

 だが、しかし改めて嗅いでみてもそんな生臭いものは一切しない。

 あるのはこの神経を溶かすような花の香りだけ。

 

「血の臭いってね……洗っても落ちないのよ? だから、臭いに過敏な犬とかはすぐにそれを嗅ぎ取る。浴びてもそうだけど、喰らうともっと酷いのよ。何しろ、内側から

身体に染み込むからね」

「………それが、一体何を」

「鈍いわね。私から臭わないってことが示すことなんて一つしかないでしょう」

 

 靄のかかったようなふわふわした気分から、我に返る。 

 言うとおり、人を喰らうことを本能とする魔性に纏わり付く血臭が、この身体からは一切嗅ぎ取れない。

 それは、ただ一つの事を証明していた。 

 

「人、食ったことないのか……お前」

「喰いたいとも思ったこと無いし、喰う必要がないからね。だって、私―――――――――

 

 

 

 ―――――――――魔性じゃないもの。

 

 

 

 ガバッと華奢な両肩を掴み、身体から引き剥がし、また引き寄せる。 

 

「何だと……じゃぁ、その角は……だって」

「退魔師の端くれともあろう者が、妖気ではなく見かけで判断するなんて……頂けない話ね。そもそも、仮に私がそうだとしても夜しか活動できない魔性がどうして昼間

外を出歩けるの?」

「……っ」

 

 少女はするりと少し汗ばんだ蒼助の頬に両手を添えた。

 

「カ・ミ・さ・ま」

 

 一句一句区切りをつけて唇から紡がれた言葉に蒼助は目を瞬かせた。

 

「私という存在が該当する欄があるとすれば、それくらいかしら」

「……よくも自分をそこまで持ち上げたもんだな」

「……ならば、貴方は何を定義においてカミと認識するの? 敬う人の数? 讃える名声? 授ける加護の強さ? 都合のいい話よ。そんなものは、人が己の利益を基準に

引いた陳腐で身勝手なデタラメな分け目。例えば、古い人が言うでしょ? 日本は八百万のカミの国だと。あれはなかなか言い得て妙な発言よね。ああいった人間には長生

きしてもらいたいものだけど、それに限ってぽっくり逝ってしまうから世の中都合よくいかないものだわ。……あ、こほん……話がズレたわね。つまり私が言いたいのは、

カミを証明する本当に正しい定義なんて一つしかないということ。もっと単純で、原則的で、いい加減で、されどこれ以上に無い明確で正しい証………それは、"ヒトでは

無い"……ただそれだけでいい」

「………何だそりゃ」

「だって、その通りなんだもの。世界には大きく分けて本来カミとヒト……永遠の存在と限りある存在……その二種類しかいないのよ」

 

 それはおかしい、と蒼助は切り返す。

 

「だったら何だ、お前は魔性もカミだって言うのかよ」

「あれはイレギュラー。本来、在る筈の無いモノ。それだからこそ、貴方たち退魔師はあれらを狩るんじゃないの?」

「うっ………じゃ、じゃあ、化生はどう説明するんだよ」

「貴方たち若い人たちは、大分誤った知識を植えつけられているようね。彼等を魔性と同意義の存在と決め付けて【妖怪】なんて扱いしているのは、貴方たち人間だけよ? 

他の神々は、誰もそんなことは口にしないし思っていない」

「じゃあ、何で……化生はカミと呼ばれない」

「そんなの退魔師の存在誇示の為のご都合に決まってるじゃない。倒す魔が昔より比較的に少なくなっている現代では、そうでもしないとお役目御免だものね。……全く、

人間って奴は本当に困った存在よね。まぁ、精霊に格下げされてたり、認識すらされてなかったりする自然界の小神達よりはマシといったらそうかもしれないけど」

 

 その困った人間の一人である蒼助は、何となく居心地が悪くなった。

 

「カミである証明なんて、その身がカミではあれば簡単なこと。人が出来ないこと、人が及べない域にいること、超えられない壁に隔たれていること。人に不可能なことを

やってのける超越の者であり、深い深い澱の世界に住む澱そのもの………それがカミ。この島国に八百万、世界に億千万と存在する者達の称」 

 

 澱。


 長い台詞の中に混じっていた言葉に、蒼助の意識が過敏に反応する。

 

「わかった……だけど、お前もあの化け物と同じなんだろ?」

「………それは、どういう意味?」

「同じ、澱の世界ってやつの住人なんだろって聞いてんだ。千夜は言ってた、あの化け物は澱から這い出てきた澱そのものだって………」

 

 少女から微笑が消える。

 

「その澱というやつがお前達カミの住処なら、お前は知ってるはずだ。あの化け物が何なのか」

「……知ってどうするするつもりなの?」

「…………」

「貴方は拒絶した……なのに、何故再び近寄ろうとするの?」

 

 何もかも見透かしたような台詞。

 まるで病院での氷室たちとの会話すら聞いていたような口ぶり。

 実際聞いていたのだろう。

 相手はカミ。常識の外側に立つ奇想天外の者にそんなことを問い詰めても、労力の無駄だ。



 それよりも、喉の奥で出るのを待つ言葉と思いは別にあった。 

 搾り出すような思いで、蒼助はそれを吐き出した。

 

「拒絶したのは………そっちが先だろ」

 

 有無も言わさず、一方的に跳ね除けたのはそちらが先だった。

 知る必要は無い、と縋る暇すら与えず払いのけたのは。 

 

「教えねぇつもりなら、そっちに踏み込ませないつもりなら何で俺の前に現れたっ! ちらつかせるだけそうして、こっちが掴もうとしたらそうやって手を引っ込める。

ざけんなよ……人が諦めようとしてたのに何で……」

「何故諦めるの? たかが一度拒絶されたくらいで………」 

 

 蒼助の激しい感情の炎をぶつけられながらも、堪えた様子もなく冷静に淡々と少女は問いかける。

 

「諦めたのは貴方の意志によるもの。譲れないことなら、それでも尚強く迫れることだって出来るはず。そうしなかったのは、半端な覚悟で踏み込もうとした意思が立て札

に気圧されて折れた………そういうことではなくて?」

 

 悔しさに歯噛みする。

 その通りで、言い返せないから。


 あの時、押し切れず折れてしまったのは確かに当たっていた。

 完全なる拒絶に怖気づいたと言ってもいい。

 そこで自分は仕方ないと諦めてしまった。

 仕方ない、と理由をつけて妥協した。

 少女の言うとおり、生半可な興味本位だった。覚悟などとお世辞に呼べないような。

 正直、拒絶されて安心してすらいた。これで自分は進んで入り込む機会を失った、と心の中で喜んでいた。


 しかし、その直後襲ったのは妙な疎外感だった。

 どんなに頑張ろうと決して千夜のいるところへはいけないという自覚。

 出来ないとわかってからは、想いが募る一方だった。


 "壁"を感じるたびにそれが強くなる。

 無理だ、と何度も諦めるように言い聞かせ、挫いた。

 今日の氷室の依頼も受けようとしている自分が心の片隅居るに気付いていたが、あえて押し込んだ。

 

「……俺、は……」

 

 結局、自分はどうしたいのか。


 迷いはある。
 だが、進みたい道は一つしかない。

 

「俺は……っ」 

 

 少女のか細い肩を掴む手に自然と力が入る。

 その手の上に温かで柔らかい感触と重みが重なる。

 少女は微笑んで、顔を覗きこむに近づける。


 目と目が合わせられ、

 

「ねぇ、近づきたい相手に時間と距離を置くなんてタブーの選択肢よ。逃げ腰と弱腰は禁じ手。覚えておきなさい」

「……あ……」

「あの"壁"は、こちら側とあちら側を遮り分ける境界線。貴方一人がどれだけ叩いても皹すら入らないでしょう。………そっち側の人間がこっちに来ることなど、出来や

しないのだから」

 

 また拒絶か、と蒼助の頭に血が昇りかける。




 が、

 

 

「………【(まがつ)(かみ)】」

 

 

 突然、耳元に唇を寄せられたかと思えば少女は、呟くのようにこう言った。

 何のことだがわからないで、目を白黒させている間に少女は蒼助から離れた。

 

「"アレ"、そういうものなのよ。奴等のこの名を辿っていけば、貴方はおのずとこちら側に来る事になるわ。否が応でも…………ね」

 

 背後の窓が何の前触れも開く。

 誰が触れたわけでもなく、突然と開いたそこから外の外気が風と共に部屋に舞い込む。

 カーテンと共に髪と衣服をはためかす様子に慄く蒼助に、少女は平然と、

 

「はっきり言ってね、もう時間が無いのよ。じきに嵐が来るわ。貴方に選択の猶予を与える時間は、あまりない。 ………不順(まつろ)わざる者どもは既に動き出して、あのコに

牙を向けようとしている。くだらぬ愚か者たちにあのコを好きにはさせない為にも………貴方には悪いけど、一刻も早くこちら側に来てもらわないと困るの」

「っおい、ちょっと待て! お前、何で俺にそんなことを教える! 俺に何をさせたい!?」 



 問い詰めても、少女はクスクス笑うばかりで、

 

―――――――――おやすみなさい、坊や。コーヒーご馳走様」

 

 言葉が終わるその刹那、一陣の強い風が吹く。

 思わず目を閉じたが、その後すぐに目を開けて部屋中を見回してもそこに少女の姿はなく、動くものは蒼助と今だはためくカーテンだけだった。

 窓に近づき外を覗くが、人が今さっき立ち去った様子は見れない。

 少し考え、そもそも窓から出たのではないと気付く。ここに来る時と同じようにして帰ったのだろう。

 

「ったく、本気で何しに来たんだ…………ん?」

 

 足の裏でクシャッと紙の擦れる音とその感触を得る。 

 さっき風でゴミ箱がひっくり返りティッシュでもこぼれたかと思ったが、見遣った先には見覚えの無い小奇麗なメモ用紙のような紙切れが一枚落ちていた。

 買った覚えのないそれを訝しげに見つめ、踏んだことで少し皺が寄ってしまったそれを拾い上げる。

 書き残されている字列を読む。











『有力情報源 WITCH GARDEN  

 

 ※注意 

 

 店長は手強いから絶対に一人で立ち向かわないこと。

 

 攻略アイテム  千夜  

 

 黒蘭より       』











 読み終わった後、蒼助はどっと肩を落とした。

 こういうマメなことをするくらいなら、その口から教えてくれればいいものを。

 そうしないのは、あの少女―――――――――黒蘭にとって面白くないからなのはわかっているが。

 

「あの怪物を辿れば………おのずと、か」 

 

 あの少女が味方なのか、敵なのかを判断するのにはひどく労力を使いそうだ。

 黒蘭が何故自分に手を貸すのかわからない。

 何の目的を持って自分に近づくのかも。

 あの自称カミ様には謎が多すぎるが、唯一つ確かな自信を持っていえることがある。

 

 黒蘭の言うとおりに《禍神》を追えばあの壁の向こうへ行けるということ。

 恐らくは千夜がいるであろう、"澱"の世界に。 

 

「………上等だ、やってやろうじゃねぇか」

 

 黒蘭の言葉どおり、自分は煮えきれずにいた。

 今ある退屈だが穏やかな日常への未練と、それとは異なる完全なる非日常に対する好奇心との間で揺れ動いていた。



 だが、いざ今への未練を取った時に抱いた別の未練は、いつまでたっても消えはしなかった。それどころか、時間がたてはたつほど膨らんでいった。 

 考えて、今のこの平穏がそれほど大事なものなのだろうか、ということに気付く。

 ただなんとなく心に穴を開けたまま生きていたあの時に、何か執着すべきものなどあっただろうか、と。



 答えは否、だ。  



 少なくとも執着しているものは別にある。

 そう、あの壁の向こう側にいる彼女に。




 あのどうしようもないやるせなさにいつまで弄ばれているくらいなら、この先どんな危ない橋でも渡ってやる。 




 力の入った手の中でメモ用紙がクシャリと潰れる。

 それは蒼助の中で、一つの決意が生まれた瞬間だった。










 ◆◆◆◆◆◆











 

 病院内では消灯時間を迎えて一時間が経過し、時刻は夜の十時。



 患者たちのほとんどが寝静まる中、個室の氷室は一人起きていた。

 ここ暫くずっと一日中ベッドの上にいるのだ。

 体内時計はとっくに狂って、正しい時間帯で来るはずの睡魔には昨日辺りから見かけていない。



 しかし、無理に寝ようとする必要はない。

 この先もう暫くこの状態を強いられるなら、時間を気に掛ける心配は今の氷室にはなかった。






 ―――――――――こんばんわ。雅明君……。






 一人のはずの部屋から聞こえた声。

 ただし、肉声ではなく、耳よりも頭に直接響くような。

 

 持ち上げられたベッドに寄りかかる首だけをその方向へ向ける。

 そこには、この病院で普通の人間には見えないであろう存在となって一年ほどになる老人がいた。

 うっすら透けている彼は足音を立てることなくスゥっとベッドの傍らまで近づいた。 

  

 ―――――――――眠れないのかい?

 

「ええ、今日来たあの煩い連中のおかげで………少し胸焼けがして、落ち着けないんです」

 

 ―――――――――ご両親か。君が本家から東京へ移り住んでもう二年経つのか……早いものだ。

 

 懐かしげに自分を見て過去を振り返る老人の霊に、氷室は薄く笑って返した。 



 三年前、降魔庁への所属をきっかけに東京へ一人暮らしをすることになった。 

 東京本部への所属と移住はあの男が勝手に決めてしまったことだったが、敬愛する祖父の勧めもあり素直に従った。



 関西支部でもなんら支障がなかったはずだが、あえて離れた東京本部に入れた父の思惑はわかっていた。

 降魔庁の本拠地が何故東京なのかを考えれば、簡単なことだった。

 国の中心であるだけではなく、この発展都市は日本最大の魔性出没区域だから。夜になれば、数え切れないほどの魔性が外へ溢れ、毎夜救われぬ魂をつくる。

 無論、そんな領域での任務は危険である他ならない。

 例え退魔師であっても、一歩間違えば死ぬ事だってあるほどに。

 そんなところへ十三の訓練ばかりで実践経験の浅い少年を追いやったことへ含まれた思いなど、氷室には一つしか思いつかなかった。





 あの男は自分の死を願っている。

 懇願と言っていいほどの。

 自身から次期当主への未来を奪ったプライドから来る憎しみしか抱かない男の考えることなど、それしかない。





 京都の本家に帰省するたびに、あの男は自分を見てこう思っている。

 まだ生きていたのか、と目で語り。

 

 今ではもう慣れっこだった。

 そうでなくてはやってはいけない。 

 これからも、あの男か自分が死ぬまで、その憎悪が尽きることはないのだから。

 

 ―――――――――雅明くん、一つ聞いてもいいかな?

 

 氷室を追憶から引き戻した老人はそう尋ねた。

 

「何ですか」 

 

 ―――――――――東京(ここ)は、君に"善い時"を与えてくれたかね。

 

 その問いに、氷室はすぐには答えられなかった。


 初めて訪れた時から今日までことの思い返す。

 自分の上京の話を遠く離れた青森から聞きつけ、追って来た幼馴染の親友。

 高い人口と発展力を誇る喧騒に満ちたこの都市での生活は、比較的に静かだった京都の古都に対して、最初は煩わしくて馴染めなかった。

 実際の魔性と交戦も、思っていたようには行かず、手が及ばずして救えなかったこともあった。自分の求める理想と夢があまりにも遠く、高いことを知って挫けそうに

なったこともあった。

 それでも、今も自分はこうして立っている。  

 

 

 かつて、一つの出会いがあった。 

 お互い最悪の第一印象。

 相性も悪い。

 されど、きっとこの先どれだけ苦難が待っており、苦痛のあまりに記憶が擦り切れようともその男のことは、何度も確かな形を留めて思い出せるだろう。

 古きしがらみに縛られる者たちを多く見てきた中で、ただ一人だけ錆びきっても尚強固な鎖に捕らわれていなかった姿が、眩しく鮮明に映ったその男のことは。

 

 

 沈黙に幾らかの時間を注ぎ、氷室は答えを気長に待つ老人に顔を向け、

 

「……はい、とても」

 

 氷室を見て老人は目を軽く見開き、そしてその優しげな目を細め満足げに笑みを浮かべた。

 

 ―――――――――変わったのぉ。………あの泣き虫だった君が、そんな顔が出来るようになるとは……。

 

「いつの話ですか。俺はもう子供じゃありませんよ、(ただし)さん」

 ―――――――――君の名付け親の役目を道明から任された私にとっては、君はいつまでも子供のようなものだよ。

 

「………確かに、死んでも貴方に敵わないのは……まだ未熟だという証拠かもしれませんね」

 

 そうだとも、と老人は愉快そうに笑い声をあげる。

 氷室がバツが悪そうに眉を顰めた時、ベッドの傍らの椅子に置かれていた携帯電話がバイブモードで振動を起こした。

 腕を伸ばし、着信表示を見る。

 

「……玖珂?」

 

 いつもなら決して自分からこちらにかけて来ないはずの相手が、この時間に何の用なのかと訝しげに思う。

 しかも、今日見舞いの際に蒼助は依頼を断った。

 目的が読めない中、それでも氷室は回線を繋げた。

 

「なんだ、負け犬」

『お前次があったら今度こそ三途の川渡りきれよ。…………あー、昼間の依頼のことで話しがある』

「………いくら金を積まれようと断るのではなかったのか?」

『気が変わった。その依頼受けるぜ』 

 

 昼間とは打って変わった強気な言葉。

 あれほど振り払おうとしていた様子からは想像出来ないほどの。

 

『ただし、報酬は危険度に相応した分払えよ。それが条件だ』

 

 心に広がっていく歓喜。 

 それを口にしないように、押さえ込みながら、

 

「ふん、いいだろう。だが、貴様こそそれ相応の働きを見せるのを忘れるな」

 

 この都市(まち)で己に"善い時"を与えた男に、氷室は皮肉じみた言葉で応答をした。










 ◆◆◆◆◆◆










 生き生きした表情で電話の相手と話す氷室を見ながら、老人はずっと胸の中にあったものが氷解していくを感じていた。 



 やはり、この東京で過ごした時は彼に良い影響を与えたようだと確信する。



 孤独に泣いていた幼い少年の面影がとても朧げで、今の姿とは結びつかないほどにその青年は逞しく成長を遂げていた。

 家族に恵まれなかった自分が友人に孫の名付け親になって欲しいと言われた時から、氷室を自分の本当の孫のように錯覚し始めていた。

 特殊な事情ゆえに親から愛されない。ならば、友人と共に代わりに自分が埋める分だけ愛そうと。



 末期ガンに侵され、死ぬ間際まで考えていたことは自分が死んだ後の彼の行く末だった。

 友人を除けばあの一族は土御門の繁栄の持続しか頭にない。

 そんな薄汚いカビの生えた思惑に、青年の未来が押し潰されやしないだろうかと、気が気でなかった。 

 彼の味方は少ない。自分が死に、友人とて先が長いとは言えない年だ。

 一族内では、唯一の変わり者で正常な思考を出来る味方である友人がいなくれば、彼の助けとなれるのは朝倉の青年だけ。

 それが気懸かりで仕方なかった。 

 

 しかし、もうその心配はもう無用だと悟る。

 

 あの俗物の父親の勝手を許したのは、この近い未来を友人も見据えてのことだったのだろうと、今ならわかる。

 あの窮屈な世界の外へ出し、そこでこそ得られるものを得させる為に。

 友を。

 現実を。

 より強い折れない志を。

 

 その結果は出たと、既に昼間のことで確信していた。

 渚が伴ってやって来た、あの青年のことで。

 家の知名度に対し、その霊力の低さからおちこぼれ、などと世間では蔑まれているようだったが、連中の眼は余程の節穴なのだろう。

 あの男は近い将来に大物に化けるだろうと、断言できる良い眼をしていた。

 何か迷っているような翳りが見えたが、あの青年ならどうにかしてしまうだろうと心配はしていなかった。

 

 嬉しくて仕方なかった。

 長年見守ってきたこの青年は、自分の力で心強い味方を見つけることが出来たのだから。

 同時に親離れされたという若干の寂しさもあったが、それでもいい。

 

 もう満足だった。

 別れの前に、青年の口から確かな安堵を貰えた。

 この()を繋ぎ止める未練という楔も、もはや意味を成さない。 

 

 煙のように高いところへ昇るような感覚の中、電話の相手に夢中の青年の顔を"最後"にもう一度、刻み付けるように見た。

 最後に見る顔がこんなに楽しそうな顔でよかった、と肩から荷が下りるような開放感を覚える。

 

 ―――――――――……達者でな。

 

 肉体を失った身で、声にならない思いを精一杯届くように残す。

 己の名をその名に継いだ孫同然の青年に、別れの言葉を。









 ◆◆◆◆◆◆









 電話を切り、そこにいるはずの老人の霊を相手にしようと視線をやる。

 が。

 

「………雅さん?」  

 

 そこには、誰もいない。

 何の存在を感じなかった。

 まるで、そこからいなくなってしまったように。

 

 

 

 そして。

 その夜を境に、氷室は二度と慣れ親しんだもう一人の祖父の姿を眼にすることはなかった。 


















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