――――――なぁ。お前、初めて男を好きになった時ってどんな感じだった?」











 行為の後の気怠げな気分に浸っていた時、相手は突然そんなことを聞いてきた。

 女の思考をとろんとさせる靄が一気に吹き飛んだ。

 

「なぁに? 突然」

「いいから答えろよ。どんな気持ちになった?」

 

 いつになく真剣に聞いてくる相手の様子に何かおかしいと思いつつも、そんな様子がとても珍しくてこーゆー時は本人の気持ちに応えてあげなくてはと思い、背を向けていた体勢からごろんと質問者――――――蒼助へ向き合った。

 

「そーねー……とにかく舞い上がったわ。恋に恋して、ようやく待ちわびた運命の人って思いこんじゃった。女の子ってこーゆー時、結婚して子供何人まで夢走らせちゃうのよねぇ〜」

「……俺の童貞奪った女にもそういう純情な時代があったとはな」

「なんか言った?」

 

 にっこり笑って訊ねると相手はナンデモナイデスと発言を無かったことにした。

 少しムカついたから、先程の質問の真意を探ってやろうと思い、

 

「一体、急にどーしたの〜? お姉さん、まさか若の口から恋に関する質問が聞けるとは思わなかったわ〜。も・し・か・し・て………やっと好きなコでも出来たの?」

 

 もちろん、そんなわけがない。

 何しろ、この男の女嫌いを発動させた母親に次いで心が動かない状態で性欲だけを発情させて恋愛不感症にさせたのは自分だった。

 おかげで彼は発展途上の異性に対する気持ちを置いて、身体だけ大人になってしまった。
 時の流れと出逢いに任せて無責任に見守っているのが現状。 

 

「…………」 

 

 返事が無い。

 
 その反応に違和感を覚えた。


 おかしい。
 いつもならここで「ああ? くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ」とか何とかはぐらかすはずなのに何も返ってこない。



 ちょっとした動揺の後、女の勘が閃く。 

 

「え………まさか、ホント?」

「……………だったら、何だよ。文句あるか」

 

 バツが悪そうに顔を顰めて、開き直った。




 確信する。これはマジだ。


 情事の余韻に対するこだわりなど吹っ飛んでしまうような衝撃を、身を震わすほどに感じた瞬間だった。










 ◆◆◆◆◆◆










 人選を見誤ったことに蒼助が気づいたのは、手遅れになった直後だった。



「ええっ、誰々!? どんなコ? 詳細教えなさい、まずは顔! 何はともわれまずは顔よ!上中下、どれ?」

 

 自分が面食いになった原因は、親父の血だけではなく間違いなくこの女に一因があると蒼助は改めて思った。

 

「……特上」

「う〜ん……惚れた分の欲目を差し引いても若がそこまで評価するならそこは合格ライン軽く越えてるわね」

「………お前、絶対面白がってるだろ」

「他人の恋愛沙汰なんてそういうものだもの」

 

 けろりと言ってのける女に蒼助は、もういっぺん昇天させたろかと思いながら身体を起こした。

   

「で、どんな経緯で知り合ったの? そこが一番気になるー」

「別に、四月の頭に転校してきたクラスメイト」

「捻りが無いわねー。……何か、こう……特別なイベントとか話すキッカケってなかったの?」

「イベントって………まぁ、あえて言うなら同級生の悪ぶれた連中に目ぇ付けられて、放課後輪姦されそうになってたのを俺が割り込んだっていうのが」

 

 最も、半殺しにしたのは襲われた当本人だったが。

 本当の出会いも、その時の自分の立場などを考えると話したくはないので伏せておく。

 

「きゃーっ、青春漫画の王道って感じね! 悪ぶってるけど根は良い不良と美少女転校生って組み合わせはまさにだわっ!」  

 

 一人で興奮して騒いでいる女を傍目に、やっぱり言うんじゃなかったと溜息の蒼助。

 勝手に盛り上がっている女は、その様子に不満げに唇を尖らせた。 

 

「もう、人がテンション上げてるのに何溜息ついてんのよ」

「相談相手間違えたと後悔のど真ん中にいんだ、ほっとけ」

「なんですって〜。……いきなり人を夜の九時にラブホテルに呼び出して六ラウンドも相手させておいて、
その言い様はないんじゃないのぉ?」

 

 後ろから抱き付いて首を絞められた蒼助は相手が半分本気なのだと悟る。


 この女――――――見かけはおっとりしているがかなり強い。


 名は玖珂(くが)()(おる)
 蒼助の従姉であり、玖珂の次期当主として最も近いと噂されている強者だった。


 その彼女が本気になれば、体格では上回る男の蒼助も首を圧し折られかねない。 

 

「さぁ、元手として洗いざらいその事に関してゲロしてもらうわよ。若ー?」

「わ、わかったから……放せ、マジで」

 

 目の前が白くなり始めたところで、ようやく締め付けから開放された。

 全く、洒落にならない。

 

「で、何処まで行ってるの? 最初の質問からすると……まぁだ手は出してないと思うけど」

「いや……昨日はちょっと危なかった」

「え……」

 

 しまった、と思った時には既に滑った後だった。

 

「もう、お泊り!? 寝込み!? ナニ先走っちゃってるの、ダメじゃない。本当の恋愛は焦らず急かさずが大事なのにっ」

「危なかったっつってんだろっ! ……ちゃんと踏みとどまった」

 

 寧ろ、あのまま続けていたら、別の意味で一線を越えてしまっていただろう。

 

「どんな経緯でそうなったかは聞かないでおくけど………ダメよ、勢いづいちゃ。そーゆーのはお互いの気持ちが噛み合わないうちにがっついちゃうと拗れる一方なんだから。で、自覚したのはいつ?」

「………今日、家に帰った直後」

 

 その返答に迦織は一瞬言葉を失う。

 そして呆れたように、

 

「若………自覚もしてないのに夜這いしちゃダメよ、本当。男以前に人間として」

「真顔で言うな。情けなくなるだろがっ」

「でも、恋の自覚直後にどーして私としようなんて思ったの?」

「そ、それは……………」 

 

 己の妄想に欲情して我慢できなくなったからなどとは言えない。言いたくない。

 

「……我慢できなくなっちゃったから、とか?」

 

 口に出さなくても空気から察する辺りさすがだった。

 

「ダメねぇ、若ったら………そんな調子じゃ先が思いやらちゃうじゃない」

「………わかんねぇよ、これ以上先なんてあるかどうかわかんねぇし」

「あれ、珍しく弱気ね………どうかしたの?」 

 

 すっかり女の扱いはうまくなったと思っていた蒼助の頼りない発言に、迦織は首を傾げた。

 

「……いろいろ面倒なこと抱え込んでいる女でな。………あと、男とかには興味ねぇみたいだし」

 

 中身は男なのだから当然のことだが、そんなこと言うわけにも行かずかなり控えめに表現した。

 そう、見かけと身体は女になっても千夜はまだ男としての意識が強い。

 元の性別への未練もまだある中、男に好意を持たれるなど正直気色悪いだろう。 

 今日の江ノ島でのことだって相手を意識していたのは蒼助だけだ。千夜自身は友人と遊びに来ただけなのだから何とも感じなかっただろう。そう思うと、気落ちせずにはいられなかった。

 深く考えれば考えるほど、障害となる壁は高く感じる一方だ。

 そして、望みは比例するかのように薄れていく。

 

「それって全然男として見られてないってこと?ちょっと前までの若みたいにまだオコサマなのかしら」

 

 だったらまだマシだったたろう。

 現実の問題に比べたら寧ろ容易いくらいだ。

 恋を知らないゼロの状態なら、一から教えればいいだけのことだから。


 しかし、と昼間の千夜の何気ない言葉を蒼助は思い出した。


 江ノ島はかつても誰かと来たことがあったらしい。
 あの時それを聞いて最初に考えたのはやはり男だった時にいたかもしれない恋人だ。
 もしくはそれに近い感情を抱いていた存在。

 それが事実だとすれば、既に千夜は男として恋愛感情を自覚している。

 つまり恋愛対象は女に絞られる。そこが最も厄介な点だった。

 

「………アイツは、ただ……俺をダチとして信頼してくれてだけなんだ。それに対して俺は一方的に女として好きになった、それだけなんだよ」

 

 今、千夜と蒼助は非常に微妙な関係だった。

 蒼助が本心を表に出さず、表面上友人と装っていればこの関係は壊れない。

 だが、

 

「全部俺次第なんだよな。………俺が一言でも好きだとか言えばこの関係はぶっ壊れる。二度と戻れねぇ。………そこからアイツとの距離が開き始めて、さっきまで手を伸ばせば届くところにいたのが二度と触れなくなる。情けねぇ話だけど………俺はそうなるのが、怖い」

 

 今、最も恐れていること。

 それは千夜との関係が崩れることだ。

 

「そんなことになるくらいなら………この歯痒い状態が続くとしても、俺は今みたいにアイツの側に居れるなら……何も言わずこのまま素知らぬ顔でずっとダチとしてやっていこうと……」

 

 言いかけたところで、ベシっと頬を弾くような衝撃が蒼助を襲った。

 夢から覚めたように目を丸くして、子供を叱る母親みたいな顔をしている迦織をまじまじと見た。  

 

「わーか。らしくないわね、そんな女々しいこと言って。あーあ、せっかく若が恋に目覚めたと思ったのにてんで期待外れ……簡単に割り切れちゃうような程度だったなんて……」

「あのな……真剣だからこんなに悩んでいるんだろが」

「甘い。真剣だからこそ、困難な道に進むのよ。ホントの恋ってものは」

 

 ズビシ!と擬音が付きそうなくらい勢い良く、迦織は蒼助の鼻先に指先を突きつける。

 

「さっき面倒ごとがどうとか言っていたけど、男なら好きなコの全部をひっくるめて抱きとめちゃいなさい。それが出来ないヤツは、恋なんかする資格ないのよ」

「…………」

 

 返す言葉を失くす蒼助に更なる言葉が降りかかる。

 

「手強いなら相手に不足なしじゃない。恋っていうのは一種の戦いなのよ、挑んで、気を引いて、振り向かせて。セフレつくるのとはワケが違うんだからね」

「う………」

 

 痛いところを突かれた。

 しかし、不意に今まで叱るようにキリリと眉を上げていた迦織の表情が柔らかくなる。

 

「ねぇ、若……焦る必要ないのよ。今は距離が遠くても、いっぱいいっぱい時間をかけて近づけばいいのよ。だって、若とそのコにはまだまだ時間なんて腐るほどあるじゃない」

「迦織………」

 

 身を乗り出し、蒼助の頭を胸に埋めるように抱き込んだ。

 

「がんばれ、若。お姉さん、応援するから。………好きなんでしょ、そのコのこと」

「………おう」

 

 人肌の温もりの中、ほんの少しだけ人選を間違えたという考えを撤回しようかと蒼助は思った。

 その矢先、

 

「よしっ。ウマくいったら、この迦織さんに紹介してね」

「断る」

「な、何で〜?」

 

 簡単な理由だ。

 それは危険だと本能が警告するから。











 ◆◆◆◆◆◆












 翌日、ばったりという表現がこれ以上なく当てハマる顔の合わせ方で本日最初の千夜との鉢合わせをした。

 廊下の曲がり角でのことだった。

 

「………玖珂か、おは」

 

 本日最初に聞く第一声を全て聞き終えることもなく、蒼助は朝から全力で来た道を逆走した。

 一人残された千夜は、その唐突な行動に目を瞬かせるばかりだった。

 












 ◆◆◆◆◆◆












 昼休みになると、蒼助は昼飯のことすら二の次にして真っ先に屋上へ向かった。

 ばっ、ばっ、と左右前後を見回し無人であることを確認すると、蒼助は学ランの胸の裏ポケットに入れてある携帯電話を取り出した。

 ある人物に繋がる番号を押した。

 トルルル、と少しの間を置いて、かけた相手へと繋がった。

 

 『はい、もしもし玖珂迦織です』              

 「迦織!エラいことになったっ」 

             

 普段誘い以外じゃ滅多に自分からかけて来ない蒼助からの突然の電話に、迦織は少なからず驚いた。
 しかも昨日の今日でこれだ。

 只ならない様子に、迦織は電話の向こうで真剣に耳を傾ける。

 

『一体どうしたの?』   

「アイツの顔がまともにみれなくなっちまった! ………って、どうした?」

   

  繋がった先で聞こえた、何かがひっくり返る騒音が蒼助の耳に届いた。

 しかし、すぐに返事は返ってきた。

 

『あー……なんでもないのよ………これだから初恋少年って何処までもお決まりだけど楽しいのよね、ホント』

「何一人で納得してやがんだよ。ちくしょー………今日、五回鉢合わせして五回とも逃げちまった。こんなん毎日続くんじゃヤベェよ、くそ……」

 

 好意を自覚すると相手を妙に意識してしまい、それ以前までの折り合いが出来なくなる良くあるパターンである。

 しかし、蒼助がそんなこと知るわけが無い。 

 理性よりも本能で動く気質のせいで、逃げたのも意識した行動の本能的な表れだったのだろう、と迦織は蒼助の心理状態を分析した。 

 

『よくあることだけど……目の前にして即逃げ出すなんてことするのは、現実じゃ若ぐらいよね。全く……本能で生きて動く人は違うわ』 

「喧嘩売ってんのかてめぇは。んなこたぁ、どうだっていいんだ………何かいいアドバイスくれよ……頼むぜ」

『うーん………これは本人の慣れ次第だからどうにもならないんだけど………そうね、じゃぁ暫く自分の心に整理を付けて落ち着くまでは顔を一切合わせないっていうのはどう?』

「どうって……解決になるのかよ、それ」

『少なくとも敵前逃亡続けるよりはマシだと思うけど……』

 

 う、と説得力のある返事に蒼助は言葉を詰まらせた。

 セックスはともかく恋愛に関しては、初心者の蒼助より遙かに上手である人間の言う事なのだから一理あるだろう。

  

『まぁ、年長者の助言は素直に聞き入れなさい。迦織お姉さんのワンポイントアドバイスは以上、じゃね』

 

 あっさり切られた携帯電話を元の場所にしまい、その場に一人立ち尽くし一つ溜息。

 

「こんなんでこれから先上手く行くのかよ………」

「何が上手く行くって?」

――――――うぉっ!?」

 

 背後から脈絡無しに現れた声に、蒼助は仰け反って奇声をあげた。

 慌てて振り返ると、半分くらい開けたドアの間からニョキッと顔を出す渚の姿があった。

 

「んだよ、お前か。………脅かすなよ、渚」

「いやゴメンゴメン。あのさ、今日って放課後なんか用事ある?」

 

 現れるなりの突然の問いに、蒼助は何だと思ったが、特に予定はないので素直な返答を返した。

 

「別に。至って暇だが何だ」

「良かった。じゃ、俺に付き合ってくれない?」

 

 にっこり、と何処となく嫌な予感を覚えさせる満開の笑顔を渚は蒼助に向けた。 














 ◆◆◆◆◆◆














 放課後、校内でネタを一つ収穫して部室に戻る途中、廊下で千夜が前から歩いてくるのを見つけた。



 視界には行った瞬間、久留美の心臓はビクンと思い切り跳ね上がり、足が止まる。



 あの一件から休日を入れて三日間の間、千夜とは話すどころか会うことすらなかった。

 まさかあのまま行方をくらませてしまうのでは、というあまり根拠の無い予測をして心配していたが、
朝登校してきたのをちらりを見て内心ホッとしていた。もう、会えないなんて結末は嫌だったから。  

 今日一日中、ずっと気になって仕方なかった。
 しかし、話すタイミングが掴めず、あの後でどう話題を吹っかけて機会をつくればいいかわからず、
歯痒い気持ちでずっと過ごしていた。




 そして、今日の学校生活の終わりにそのチャンスはようやく巡ってきた。 

 幸い今、周囲には千夜と自分しかいない。

 素の彼女と話すにはこれ以上に無い最良の環境だった。

 目の前まで来て、こちらを見た千夜が足を止めたを見測り、

 

「ど、どうも……」

 

 何がどうもなのよ、と思わず飛び出た自分の第一声を嘆きつつも次で挽回を狙う。

 

「あのさ……この間のことなんだけど」

「新條さん」

 

 彼女の口から出た言葉に久留美は目を見開いた。

 感じ取った違和感に顔を上げてみれば、千夜は静かに微笑んでいた。



 それはこの学校で取り繕う"仮面"が浮かべる微笑。



 淑女の仮面が言う。

 

「部活、がんばってくださいね。また明日」

 

 そう言って凝固する久留美の横をスッと通り過ぎる。

 何もかも拒絶するように。

 久留美は暫し呆然とし、そして活動を再開した思考回路が答えを探し出す。

 

 ………何、今の。

 

 何故、だ。

 何故彼女はあんなものを付けている。

 本性を既に知っている自分の前で、何故。



 ――――――あの仮面を外さない?

 

 恐ろしい勢いで、脳内で弾き出されるヒントと無数の仮定。

 そして、

 

「…………そう、そういうことなわけ……千夜」  

 

 久留美の投げた言葉に千夜が応えることはなく、離れて行く。

 唇を強く噛み、 

 

――――――ふざけんじゃないわよっ!!」

 

 バッと振り返り、千夜の肩を掴む。

 振り向く隙すら与えず壁に叩きつけ、押し付ける。

 微かに目を痛みに歪ませる表情を無視し、両手で胸倉を掴み上げた。

 

「アンタ……そうやって何もかも"かった"ことにしようってわけ!? 校舎で起こったことも、私を巻き込んだことも、アンタは全部何もかも私に忘れろっていうの!? 勝手過ぎるわよ、そんなのっ!!」

 

 そこにはもう先ほどまでの仮面の微笑は無かった。

 だが、無表情のまま何も応えない。

 手応えの無さに虚しさを感じても、久留美は叫ぶのを止めはしない。

 

「冗談じゃないわ、あんなことで……アンタとの関係もゼロに戻さなきゃならないなんて………私は絶対認めないわよ、こんなこと絶対に! 忘れてなんてやるもんですか、あの時起こった全部のこと欠片一つまで忘れないんだからっ」

「…………」

 

 そう訴え叫ぶ久留美を見据えたまま千夜に、閉じた口を開けようとする気配は見れない。

 言葉は届いていないのか、と挫けそうになるがそんな弱気を久留美は強引に捻じ伏せた。

 

「私は現実主義なの! 現実(リア)主義者(リスト)なの! 例え、それがどんなに妄想みじて有り得ないことでも、現実なら受け止めるわ。嘘偽りの仮想に逃げるなんて真っ平ゴメンよ! 皆が皆で楽な道選ぶなんて思わないで、私までそんなになるなんて吐き気がするわ! ずっと嫌だったのよ……ずっと、こんなぬるま湯みたいな……気持ち悪い世界を平気で平和だなんて思い込んでいる連中ばっかの世界が嫌でしょうがなかった」

 

 いつのまにか彼女に対する叱責が、自分の気持ちの吐露へと変わっていた。

 しかし、それも留めることは敵わない。

 

「だから、友達なんてつくろうとは思わなかった。そんなふやけた連中なんか必要()らないって。………だけど、私、アンタは違うって思ったの。あの時、神崎たちをボコボコにのしてるアンタを見てて思った………コイツは違うって。………諦めとか、妥協とか……超えられない現実に、そんなことに屈するような周りとは違うって。……初めて、私……人間って言うヤツに惹かれたの。……アンタは現実を見据える人だわ、目でわかるもの、そういう人間だって………だから、私は、アンタが見据えてる世界が見たいの。アンタが、終夜千夜が見て知る現実を見たいの。……退魔とかなんてどうだっていい。アンタの視点で、アンタの世界を……私は………だから……私は忘れない。アンタが私を身体はって助けてくれたことも、都合よく忘れられてるかもしれないのに命かけてくれたこともっ!」

 

 積み重ねられた御託の一番下にある根底の想いを、久留美は血を吐くような思いで告げた。

 

「ゼロになんかしないでよ……なかったことになんかしないでよ。………私は、もっと、近づきたいの。こんなことで離れるなんて……イヤ。他じゃダメ、アンタじゃなきゃ……ダメなのよ」

 

 心に溜めていた言葉を全て出しきった後、久留美は俯いた。

 しかし、襟元を掴む手だけは絶対に離さない。

 離れてしまうかもしれないのに、どうして離せるのだろうか。

 

 沈黙が流れる。

 言いたいことを全て言い切った久留美は、この静寂を破る言葉は持ち合わせていなかった。

 どうすることも出来ないこの時間を押し殺すような声が破った。

 

「……?」

 

 顔を上げてみれば、

 

「………何で、笑ってるのよ」

 

 見上げた先では、おかしくてしょうがないと言わんばかりに千夜が肩を震わせて笑っていた。

 それは嘲っているようなものではなく、ただ単純に面白いことで笑っているという、そんな笑い。

 

「ははっ………告白みたいだな」

「………?」

「すごい口説き文句だったぞ。……今みたいなのは、男に言ってやると1ラウンドでノックアウトに出来るんじゃないか?」

「ちょっ………ふざけないでよ、私はねぇっ」

「悪かったな」

 

 言いかけた言葉を遮るような突然の謝罪に久留美は目を瞬いた。

 目の前の、本性を露にした千夜が言う。

 

「確かに勝手だったな。………お前の気持ちを考えず、自分の考えだけで判断し押し付けていた。だが、その方がお前にとって幸せなのは確かだ」

「何でよ……」

「お前はさっき言ったな。自分のいる場所はぬるま湯のようなだと。ここがぬるま湯なら、私がいる世界と見ている現実は水温マイナス零度の氷水の中だ。熱帯魚など、到底生きれない想像を絶する場所だ。お前も見ただろう……あんな化け物がいつ出てきてもおかしくない常識が存在する。一般人が一歩でも踏み込めば、生きていられる保証など限りなくゼロに近い」

 

 脳裏に蘇るあの夜に目の当たりにした異形の者の姿に一瞬、久留美の頭が冷える。 

 確かに、あれは恐ろしかった。

 千夜がいなければ、今ココに自分は居なかっただろう。

 それが冗談で済ませることなどできないくらい、久留美は生々しく実感した。

 

「アンタの言うとおりね。……それは否定できないわ。私は、アンタの言うその世界じゃ生きていくには、不適切な存在でしょうね。…………でも、それも一人でならの話だわ」

 

 強気な切り返しに、千夜の目が見開く。

 

「私には、アンタって言う強い味方がいるわ。こっちはバッチリ見てるのよ、アンタの闘いっぷりを。冷たい水の中も、アンタがいれば平気よ怖くなんかない。……それに比較的にあったかい私がアンタの傍にいれば、そこだけはちょっとは水温マシになるんじゃない? あと私も言った筈よ……ぬるま湯なんてもうウンザリなの。冷たいか温かいかはっきりしてる方が、いっそすっきりするわ」

 

 深い信頼。
 出会ってまだ間もないはずなのに、不思議とそんな気持ちが久留美の中にあり、千夜に向けられていた。


 つくづく変な女だ。


 衝撃的な瞬間を偶然目撃したことをあるかもしれないが、その前に記事にしようと思ったのは転校生だったというだけではなかった。


 やはりこの目に答えがあるのだと久留美は思う。

 まっすぐ相手を見据えるその澄んだ凛とした眼差しは本人も無意識だろうが、人を惹きつける力がある。

 カリスマ、昔辞書を引いた時に意味は天与の非日常的な力と記述されていたが、まさに千夜はその通りの力を持っていただった。 


 日常の人間を非日常の世界へと引き込む存在。


 そして、久留美は引き込まれる人間だった。

 

「よくもまあ、そんな前向きな考えできるな………」

「それだけはアンタに言われたく無いわよ。絶望って壁に囲まれても力技で叩き壊しそうなヤツのくせに」

「よく観察してるな、見直したぞ。大した観察眼だ、記者としては将来有望なんじゃないか」

「止してよ、照れるじゃない………って話逸れてるし」

 

 やっぱり油断できないな、と思っていると千夜が笑みを消して真剣な面で、  

 

「だが、新條……私は」

「大丈夫よ」

 

 これ以上何も言わないようにと、トドメを刺す。

 

「危なくなっても、アンタなら助けてくれるでしょ」

 

 呆気に取られたようにポカンとする千夜。

 そして、呆れ返ったように笑い、両手を挙げて「降参」のポーズを取った。

 

「参ったよ………賢いと思っていたが、見当違いだったな。お前は大馬鹿者だよ、そして命知らずだ」

「馬鹿でケッコー。賢い人間はドキドキな冒険なんて出来ないツマンナイ人生送って終わるのよ。それなら馬鹿で悔いの無い人生で終えてやるわ」

 

 互いに笑い合う。

 退屈しのぎに何か悪巧みをする悪友のように。

 

「あと、長生きできない人間だな、新條は」

「百も承知。危険を省みない記者希望してんだから、それくらい覚悟してるわよ。それと、新條は止めて」

 

 ずっと、言いたかった言葉。

 襟から手を離し、胸を張って、

 

「く・る・み。私が千夜って呼ぶのに、それはおかしいでしょ。名前で呼び合うもんでしょ、友達ってのは」

 

 時間はかかりそうだ。

 だが、この相手には手間をかけるだけの価値はある。



 清々しい気分で、久留美は心から微笑った。
























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