押し付けた刃が、肌の弾力に食い込む。
柔い抵抗を突き破ろうと更に力を入れれば、薄皮を破る。
そして、そのごく浅い切り口に沿い久留美は刃を滑らそうとした。
刹那。
「―――――――くぅるみいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!!!!」
絶叫か。
咆哮か。
爆発するようなその発声は、久留美の集中をブレさせた。
魂を揺さぶるような感情の叫び。
言葉どおりに、それは久留美の意識を揺さぶりたてた。
ビリビリ、と肌に感じるほどのそれに、久留美は一瞬だけ集中を途切らせてしまった。
その僅かな空白が隙を生む。
「―――――――っ、ひ」
千夜が腕を振るった気がした。
錯覚かと疑わしい動作。しかし、何かが久留美に飛来する。
それが腕を掠めた瞬間、チクリと痛みが走る。
精神状態は、恐慌へと一気に傾きかける。
持ちこたえようとしたが、既に手遅れだった。
「ぁくっ、きゃっ!!」
千夜が飛び込んできた勢いに、身体はそのまま圧されて転倒した。
さすがというべきか、すかさずナイフを持つ腕は首筋から引き離れて、一番に地面に叩きつけられた。
後に続いて打ち付けられた背中の痛みに目尻が潤んだが、そんなことにかまけている場合ではなかった。
呻きを一度噛んだ後に開いた口に、
「―――――――う゛っ!?」
指が二本。
喉奥を突く勢いで侵入してきた。
しかし、その意図は喉奥への侵略ではなく、咥内の”命綱”を押さえるべく動いた。
先手を取られたのだ、と察した久留美は、
「っぐ、ぅ……ふがっ」
「―――――――、っ!」
噛み付いてやった。
グイッと立てた歯は、皮を突き破って肉に食い込むまでそう時間はかからなかった。
血の味がする。
口の中が鉄臭いが、そんなことはどうでもいい。
指を噛み千切る覚悟で久留美は抵抗し続けた。
押さえつけられたナイフを持つ手も、諦めはしなかった。
けれども、千夜も一歩も引きはしない。
押さえつける力は恐ろしく強く、久留美の抗いはどんなに粘ろうとも一向に押し返すことはできない。
なのに、
「……くれ」
「んっ、ぐぅ、う」
「やめて、くれ………頼むから」
懇願する声色は、掻き消えそうなまでに弱弱しい。
それでも搾り出すように吐き出されるそれは、久留美の抵抗の意志を削ぐには十分の威力を持っていた。
何かが砕け、力が自然と抜けた。
押さえつける力にあれほどもがき足掻いていた腕は、自分でも驚くほどにあっさり大人しくなった。
けれど、感情だけは治まりきらない。
寧ろ、より一層荒れている。
………ああ、本当に。
………なんだってこいつは、こんなにもっ。
たまらなくなって、久留美は噛み締めていた指を開放するようにそこの圧力を取り除いた。それでも退かない指を振り払うように顔を逸らして、遅れてやってきたえづき
に咳き込む。
「げっ……えふっ……、っ……ぇっ……」
目尻に湿りを感じるのは、生理的な衝動だけが理由ではない。
今だ己の上に跨ったままの存在を感じ、久留美はまだ調子が整っていないのも構わず声をあげた。
「……あん、た……何で」
続けるには酸素が足らず、区切って一度大きく吸い込み、
「―――――――そこまでして死ぬなっていうのよっ! どうして、他人のことにそこまで必死になれるのよ。……どうしてっ………その半分でも自分のこと大事にでき
ないのよ!!」
一気に捲くし立てたため、また酸素が足らなくなった。
言い切った後、また咳き込む羽目になった。
その間を縫うように、
「……それの、何が悪い」
今までと、何かが異なる反応だった。
腰を捻ってうつ伏せてかけていた体勢から、久留美は両肘を立てておそるおそる千夜の方へと向き直る。
先刻とは逆転した形勢から、千夜の顔を覗き見たいと思う。しかし、乱れた髪が表情を覆い隠しており、様子はその下から発される声色で確認するしかない。
「内側に何も持たない者が他に気にかけることが出来るモノなんて……外側にしかないじゃないか」
「なに、言ってるの……?」
「他人を気にかけてることは悪いことなのか? 俺は、俺以外を大切にするしかないというのに……どうして否定するんだ」
今までとは様子が違う。
ただし、様子がおかしいことには変わりなかった。
けれども、それは想定済みの危惧すべき事態とも違う気がした。
好転したとはとても言えないが、悪化したとも判断し難い。
一体何が起きているのか。
自分が彼女から何を引き出してしまったのか。
どう扱えばわからないこの状態を、下手に刺激することは出来ず、久留美は様子を伺うように息を潜めた。
「………なぁ、久留美。
―――――――自分のことを何一つ知らずわからずの人間が、己のを知るにはどうすればいいと思う? どんな瞬間が、己を感じる時だと思う?」
ポツリ、ポツリ、と雫のように落ちてくる問いかけに、久留美は耳を疑った。
耳にした言葉を解釈した頭では、既に答えは出ている。
しかし、それが意味する事ことは――――――
「……他人と関わりと持つ時だ。俺は、他人と触れ合って……ようやく自分の姿が保てるんだ」
驚愕から立ち直れない久留美に、千夜は言葉を紡ぎ続ける。
「記憶がなくとも、名前がなくとも……過去がなくとも。自分という存在がわかるのは、自分じゃない誰かがいるからなんだ。それでも、誰かが自分を大事にしてくれる
からなんだ。……自分がされて嬉しかったことを、誰かに同じことをして返すことは間違っているのか?」
そこまで聞いて、久留美はようやく再起の兆しとして口を開いた。
「……記憶喪失って………。嘘でしょ、だって……名前は」
「……………」
その沈黙が、肯定であると久留美は直感した。
そして、久留美が次いで何か言おうとすると、
「……俺は、自分が死ぬのは怖くない」
牽制するように千夜が呟いた。
静かだが、決して些細なことではない内容に久留美は凍りついた。
「置いていかれることに比べれば、ちっとも怖くない」
瞬間的な冷凍が解ける途中、久留美は後に続いた言葉を聞き逃がさなかった。
「……温もりを存分に与えられて満たされた後に、一人に戻される方がずっと怖い」
既視感。
他人事として切り離せない痛み。
久留美は、それを感じた。
そう、今となっては目を背けたくても出来ない、してはならない己の身にある事実は、痛いほどに共感を覚えさせる。
ひょっとしたら、あの時に得た『痛み』は自分だけのものではなく、千夜の方が自分などよりもずっと酷い苦痛を感じていたのかもしれない。
顔が見えない状態が、あの時と重なる。
同じなのか。同じ表情を、今も浮かべているのか。
痛みを叫びに変えることもなく、一人胸の内で耐える表情を。
「……かず、」
無理な体勢から片手を伸ばそうと試みた。
しかし、その手は、顔を隠す前髪に触れようとしたところで止まる。
撫でようとした。泣くのを堪える幼い子供にするように。
そんなことしたことないけれど、目の前の彼女にはそうしてあげたくなった。
でないと、これ以上刺激したら壊れてしまうと思った。
実際、彼女はもうボロボロだ。
心も身体も。
いつからこうだったのだろうか。
あの夜からか。
それとも出会うよりもずっと前からなのか。
ずっと。ずっとずっと。
気付かれないように取り繕い続けていたのか。
こうでもしないと、膿んだ傷口を見せてくれなかった。
こうでもしなかったら、膿んだそこを何もせず腐らせてしまったのだろうか。
「……っ……」
あと少しで、触れる。
指先と千夜の距離はそれほどに近く、無きに等しい。
だが、それを厭い、躊躇する自分が存在していた。
………そうするのは、正しいことなの?
大切なものは大事にしなきゃダメだ、と言った人がいた。
それを聞いた時は素直にそうすることも、言われた言葉に含まれた事実を認めることもできなかった。
けれど、今は違う。
千夜が大事で、自分のかけがえの無い存在であることは、もう間違いない。
けれど。
けれども。
………それは、ダメ。
歯を食いしばるように、優しい言葉を紡ごうとする唇を噤む。
それを咀嚼して作り変え、新たな形として口にしたのは、
「……だから、あんたは……置いていかれる前に置いていこうっていうの?」
冷えた声色のそれに、千夜の肩が震えた。
ビクッと、まるで子供が悪さをして隠していたそれを暴かれた時のように。
「自分がやられて辛くて恨めしくて………今度は、自分が同じ事をしてやろうって?」
「………違う」
本当にそうだと言いたいなら間を作るな、と毒づきつつ、
「何が違うっていうのよ。現に、やられたことを、他人にもやりかえしてやろうとしているじゃない」
「俺はっ……」
何かを言い募ろうとする千夜を見て、嗜虐心のような過激な波が出来始める。
最低だわ、と思いながらも、それは自身では止められないそうにない。
何故なら、それは久留美の心が放つ衝動で、
「違うって、なに? ―――――――結局はそういうことでしょ! あんたが死んだら、置いていかれる人間っていうのはどうやったって出るわ。あんたは……今まで散々
そういうことされたから、また同じことになる前に他の奴らよりも先に手を打とうとしている……何が違うっていうのよ!」
「違う……っ!!」
引き絞るような、掠れた否定が張り上げられた。
それは怒鳴ると呼べるほど強い響きではなかったが、込められた感情は実際の声量以上に激しいものと感じた。
それに圧された久留美が退くと、千夜は変わらず俯き加減のまま、独白めいた言葉を漏らし始めた。
「だって………俺には、もうわかっているんだ」
「……なにを、よ」
「そこにいるだけで、誰かに関わっただけで……良からぬことを招く。俺が本来受けるべきだった災厄は、俺以外の誰かに降りかかるようになっている。……あいつらは、
俺を助けようとしたら死んだんじゃない。……俺が、俺という存在が……そう仕向けたんだ。俺が殺したも……同然だ」
何だ、それは。この期に及んでふざけているのか。
はっきりしない理由が、久留美の怒りにガソリンとなって降り注ぐ。
というか、あいつらって誰だこの野郎。
「そんなのっ……こじつけよ! あんたが原因でそんな結果になったとしても……あんたが、それを望んだわけじゃないんでしょ!?」
「はっ………俺の意志で左右できるのなら、まだいい方だ。……それすら、関係なく俺は俺以外の人間を殺して生き延びているんだ」
千夜は虚しげに笑い、
「……現に俺は、お前のことだって危うく殺すところだった。そもそも……俺が、おまえの前に現れさえしなければ……お前は何も失うこともなかった。そうだろう?」
その指摘に対して、否定は喉から飛び出さなかった。
それは、事実だ。
事実だけれども、
「……でも、生きているわ」
「このままじゃ、殺される」
「死なないわよ」
「―――――――止めろっ!」
もうそんな言葉は聞きたくない、と千夜はごねるように言うと、両耳を手で塞いだ。
自閉に入ったと思しきその体勢に、久留美は半目を向けた。子供かお前は、と。
「……根拠じゃないけど、理由はあるんだから聞きなさいよ」
「嫌だ」
「……聞けよ」
「嫌だ」
「……………別に、良いけど。でも、言うから」
嫌だ、と返る言葉を「はいそーですか」と受けながら、久留美は千夜の下から這い出た。
肘が、腰が、痛い。
顔を顰め、まとわり付いた埃や砂を慰め程度に払う。
「……その前に、ちょっといい?」
「い―――――――」
了承代わりの拒絶を全て聞くこともなく、久留美は千夜の胸倉を掴んだ。
「―――――――いい加減、【私】を見なさいよっ!! ……いつまで過去の人間をフィルターにして私と相対する気なのよ、あんたは!」
溜め込んでいた怒りを一気にぶちまける勢いで、一気に発声した。
千夜の首がかくん、と揺れて、ずっと俯いていた顔が上がる。
黒髪の隙間から見える双眸は何処かキョトンとしている。
酷く無防備な表情に向けて、
「よく知らないけど、あんたの大事だった人たちは死んだ。そりゃ、確かに間違いないだろうけど………何で、私まで死ぬことになってるのよ! そりゃ死にそうな目には
何度もあったけど、生きてるわよ! 生きてるでしょ!?」
ガクガク、と揺さぶる。
乱暴な扱いを受ける中で、我へと返ったのか千夜が何かを言おうとする気配を見せた。
しかし、久留美のターンはまだ終わっていなかった。
「言っとくけどっ! 私をそいつら死人の列に並べんのは即刻止めなさいよね。……この先、絶対にありえないんだからっ」
宣言めいた台詞に、千夜の表情が強張る。
不快感を表す際のそれと思わせる顔で、低く押し殺した声を落とす。
「どうして、そんなことが言える」
はっきりとした声色と音調。そこには、吹けばゆらゆらと揺れるような不安定さはなく、確かな意志の存在を感じる。暫くぶりに聞くような錯覚さえ覚えた。
久留美は、僅かに緊張を孕んだ。
本能が感じたのだ。ここが正念場である、と。
久留美は、一呼吸を挟み、過剰な熱は追い出した。
けれど、完全に冷まない。思考を打算に逃げさせないため、最低限の熱は温存した。
ここから先の、この重要な箇所において必要なのは、理論よりも感情論なのだと判断したから。
そして、もう一度呼吸する。
肺に溜め込むように多めに吸い込んだそれで、
「そいつらと私は、違う。多分、肝心なところを決定的に」
啖呵を切った。
然程大きな声を出したわけではないが、それでもはっきりと一つ一つの音を潰さないように念入りに音量を分配することに気をつけた。
「たった今聞いた話の中の人間のことに知ったような口を聞いてるって思ってもいいわよ。でも、確かだと思うわ。私とそいつらは違う。だって、私は………」
新條久留美という人間は、
「………そんなふうに、優しくないもの」
物憂げな告白。
千夜の瞳が小さく見開き、揺れたが、久留美はあいにくなことに一瞬のそれを見逃した。
「さっきあんたを助けようとしてそいつらは死んだって言ったわよね……? そういう状況下で、自分か他人かの二択を迫られて……あんたを選んで、自分を切り捨てた
ってことよね」
推測を確認するように口にしていく久留美は、千夜の顔が苦しげに歪むのを見た。
それを肯定と受け取って、言葉を更に重ねた。
「そいつらは、多分…………あんたが何によりも大事だったのよ。一番だったの。絶対になくしちゃいけないものだった……そう、自分の命以上に」
見たことも会ったこともない亡き者たちを、少ない情報で思い描いた。
顔も知らない。
声も聞いて事がない。
死んでしまったのなら、どんな人たちだったのかも知る術はない。
彼らが実際に千夜にどんな感情を持っていたのかなんて、わかるはずもない。
けれど、少ない情報の中のたった一つの事実が、久留美を確信めいたものへと導く。
「……友達、だったのよね?」
「少なくとも、俺はそう思っていた」
じゃぁ、あっちはそれ以上だったかもね、と妙なところで鈍い目の前の相対者を見て内心にて零す。
「ねぇ。………そいつらは、優しかったのよ。優しくて……この先現れるかもしれない誰かに、自分の大切な物を譲れるくらい……強くて心の広い人間だったのよ」
見ず知らずの人間に随分聞いて知ったような口を聞いているのはわかっている。
けれど、結果として残った事実、そして今ある全てがそうであると肯定している気がしたのだ。
もういない彼らは、きっとそうであった、と。
「けど、私は違う」
ほぼ捏造かもしれない想像をもとに、美化も何もないけれど。
それでも、彼らと自分は似ても似つけない存在であると思う。
何故なら、
「私はそんな立派な人間じゃない。そんな風に無欲に、潔くなんてなれない」
自分よりも大切な他人が出来るとは、幸せなことなのだ。
そして、そのための死んだ彼らは、きっと幸せだったのだろう。
だが、久留美はそこに幸せを見出せなかった。
「私、強欲なのよ。あれも欲しいし、これも欲しいって何でもかんでも欲しくなる。たとえば、あんたと自分の命のどっちか助けてやるって選択が目の前にあっても……
どっちもってそいつに殴りかかるわね。……だって、どっちかじゃ満足できないもの」
どっちか一つを選ぶ方が利口だと思うし、欲を張るのは身の破滅だと思う。
しかし、彼らは破滅を選んだ。選ぶことは利口であったのではないのか。
利口ではなかった。
何故なら、彼らは自分を選ばなかった。
自らの保身に走るべきその瞬間に、彼らが優先したのは自分ではない存在。
愚かだ。
多くの意味で、彼らは愚かだと思う。
何故、自分を選ばなかったのか。
何故、千夜だけが助かればそれでいいと満足したのか。
何故、千夜を置いていったのか。
何故、置いていかれる千夜の気持ちを考えなかったのか。
何故。何故。何故。何故。何故―――――――
「そう……違うのよ。自分の命を引き換えにして、あんたの命の保障をとろうとなんて思わない。あんたを危険な目に合わせてでも、最後はどっちも手に入れることを
選ぶわ。……ひどい奴でしょ。臆病者で、ずるくて……他人を傷つけても自分の望みが一番なの。私は………そんな、ちっぽけでしょうもない人間……なのよ」
口にしているうちに、気分が自虐的になっていく。
だが、本当のことだ。受け入れなければならない。逃げてはいけない。
薄汚い人間として、これから彼女に酷い行為を強いるのだから。
そう決めたのだから。
「あんたが生きていることが苦しくて、傷つくしかなくて………そんな辛い目にあったって聞いても、そんなの知ったことじゃないの。……だって、私には関係ないもの。
私は、あんたのために死ぬなんて……まっぴらごめんなんだから。私は……そんなこと絶対にしたくないんだから」
他人を想う気持ちとは綺麗なのだと思う。
そして、それを感じて孕む心もまた綺麗なのだと。
彼らにはそんな綺麗な部分があった。
けれど、自分はどうだ。
灰色どころか真っ黒だ。こんなにも。こんなにも、自分のことばかり考えている。自分のことしか考えられない煤けた心なのだ。
「苦しい辛いなんて言われたって、知らないわよ……。疲れたっていわれても知らないんだから! それでも……私は、自分の望みが大事なの。私は死にたくない。
あんたを生かしたい。……あんたと、生きていたい」
相手が助かればそれでいいなんて、その薄皮を一枚剥がせばエゴに満ちた戯言だ。
どうしたって、相手へ向ける思いなんてエゴに変わりはない。ならば、いっそ抜き身のままぶつけてしまえばいい。
取り繕って誤魔化しても、中身は変わりないのだから。
「……あんたが人殺しでも、記憶喪失でも…………私は、あんたがいいのっ………終夜千夜がいいのよ! 私はっ………―――――――私の人生はっ、もうあんたがいなきゃ
一つも成り立たないのよっっ!!」
叫びきった後、己が言い放った言葉の実感が遅れてやってきた。
ああ、もう完全にプロポーズの域だな、と。しかもセンスは皆無だ。
でも、構うことは無い。
それでもいいと思っている。
この人に、自分の人生をくれてやってもいい、と。
だが、口に出してはいけない。
それに傾いてはいけない。
人生を他人に放り投げてしまうなんて行為は、この人が最も望まないことだから。
それでも。
自分の人生をこの人のために使いたい。
この人の傍で生きるために使いたい。
そう思うくらいならいいだろう。だって、それは―――――――自分のためなのだから。
奥で溜め込んでいたものを全て吐き出した後の気分は、様々な開放感に満たされていた。
叫び、怒鳴り続けたことと引き換えに得た呼吸の乱れに、肩を軽く上下させながら沈黙に浸る。
これでも何の反応も変化もなかったら、と久留美が抱くよりも先に、
「お前……そういう口説き文句は男に言えって言っただろ」
呆れたような口調。
けれど、
「……どうしろっていうんだよ」
零れた言葉には、明らかに困惑が混じっていた。
「俺は、もう一人じゃ立てないんだよ……」
顔が見えていなければ、泣いているのではないか、と思うほどにその声には悲痛な響きが宿っていた。
しかし、そこに光る水滴はない。
どれだけ顔が歪められていても、だ。
「もう、立っていられない。……力が、ない。あと何か一つでもなくしたら……俺は……二度と立ち上がれなくなる」
まるで死に体のような弱弱しい声だった。
それは、切実なまでに限界という事実を確証させる。
こんなになるまで誰にも手を借りず、一人で立ち続けていたのか。
馬鹿なヤツ。
本当に、馬鹿なやつだ。
久留美は大きく嘆息を吐く。
そして、両手を―――――――
「だったら、私が立たせる」
千夜の両肩へ置いた。
心なしか小さく見える彼女の肩をしっかり掴み、逃がさないように。
「私が、力になるわ」
「…………」
反応はない。
だが、構わず久留美は続ける。
「一人で何でもかんでもこなそうとするから、たまったもんが後にキてそうなるのよ。一人でできることなんて、たかが知れてるんだから………」
抱きしめようか、と当初は思った。
けれど、それは無意味だ。千夜はきっと自分には縋らない。
その想定は、案の定だった。
目の前の人は自分の言葉に戸惑いを見せている。
「無茶言うなよ……死ぬ気か」
無茶。死ぬ。
全くもってその通りだと思う。
しかし、
「うっさい。一人じゃ無理だなんて言ってるやつが何言ってんのよ。確かにあんたの言うとおり、私は戦力としちゃゼロどころかマイナス。仮に、あいつに特攻した
ところで犬死以外の何物でもないわ。……でもね」
千夜を見つめる。
言葉が信用させるまでに足らずとも、せめてこの意志だけは伝えられるように。
「……いい? ここに脳味噌が二つあるってことは、可能性が広がるのよ。私は諦めないわよ。あんたが相打ちする以外であいつを倒せる方法。二人で帰る方法。
……絶対考え出してみせるんだから」
一見すれば、酷く前向きで希望に満ちた言葉だった。
しかし、口にする当人である久留美自身はこれに込められた真意を自覚していた。
自分が考えるのは、窮地から脱する術ではない。
むしろ、彼女を更なる地獄へと叩き落すものなのだ、と。
生きることへ疲れている千夜に安楽を許さず、次の苦しみへの一歩を歩ませると言っているのだ。もう走りたくないという相手を無理矢理立ち上がらせる。そういった
自分本位な考えが基づいているのだ。自分一人で走るだけならともかく、その隣を相手が一緒に走っていなくては嫌だという、エゴイズムそのもの。
だが、もうエゴイストでも構わなかった。
優しい人間にはなれない。なりたくない。
そんな人間が彼女をここまで追い詰めてしまうのなら、自分は酷い人間でいい。
優しさをもって彼女に嘆きを運ぶくらい人間になるくらいなら、生に縛り付ける酷い人間であろう、と。
「イヤとかダメとか聞かないからね。言ったでしょ、私は自分の望みが叶うことが一番なのよ。……何をしてでも、あんたを連れて帰るわ」
何か言おうと唇を振るわせた彼女を遮るように、久留美は力強く断言を放った。
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